(7/18-1)199『正義の言葉「仏説・降魔経」について考える ⑯降魔成道から伝道へ3―同時代の人には「本当のエル・カンターレ像」は見えにくい

正義の言葉『仏説・降魔教』

46 「学歴即霊格」ということはない。欲の強い人ほど、この世では強いこともある。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

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さて、ここからは、主の御教えを世界へと広げるために、教典『信仰の法』から第5章の「地球神への信仰とは何か」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、二〇一〇年十一月二日に、原題「エル・カンターレ信仰とは何か」として説かれた御法話です。エル・カンターレとは、「地球神」を認める信仰であることを明らかにしたうえで、新しい地球創世記の時代を生きる人間に対する信仰のあり方が説かれています。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■地球神への信仰とは何か―新しい地球創世記の時代を生きる
○同時代の人には「本当のエル・カンターレ像」は見えにくい

この世においては、いろいろな迷わし、目の錯覚、三次元的な束縛が数多く、それに引っ張られることがあります。そのため、同じ時代を生きている人間に対しては、自分の眼を通して見た者を信じることが多いと思います。

キリスト教においても、「存命中のイエスを見た弟子たちが信じていたイエス」と、「二千年後のキリスト教徒が信じているイエス」とでは、おそらく違うであろうと思われます。

イエス在世中の弟子たちが見ていたイエス像は、自分たちと同じように、迫害を受け、その日の糧や、その日の宿を探すことにも苦しみ、最後には裏切られた、民衆に石つぶてを投げられ、ローマ兵に引きずられて、十字架にかかり、強盗殺人犯と一緒に処刑されたイエスです。

それが人間としてのイエス像であったでしょう。そのため、それを見ていた人のなかには、それでつまずいた人も数多くいたであろうと思います。

しかし、後世の人が見たイエス像は、そういうイエスとは違ったイエスです。彼らは、この世では見たこともない「復活のイエス」を信じ、「神の一人子であるイエス」を信じ、イエスそのものを神と同一視するような信仰を持つに至ったのです。

当会の信仰も、時代が下るにつれて、おそらく、そのような変貌を遂げてくるでしょう。

仏典を読み、釈迦在世時の細々とした戒律などから推定すると、釈迦像としては、「相当細かいところについてまで指示を出している人間の姿」が浮かんでくるわけですが、実際の信仰における釈尊は、やはり「大仏に象徴されるようなものが本当の姿」なのではないかと思われます。

キリスト教で言うならば、キリスト教は、異教徒の人々から、「みずからを救えなかった人間が救世主であることは、ありえない」という批判を受けることがあります。

当時、十字架にかかったイエスは人々から嘲笑(あざわら)われました。「ユダヤ人の王」と札に書かれ、王冠の代わりに荊の冠を被せられて、「本当にユダヤ人の王で救世主なら、自分を救ってみよ」という、挑発的で侮辱的な言葉を数多く投げかけられました。

しかし、イエスは、現実には、釘で打ち付けられた十字架から逃れ、何かを起こしたわけではありません。実は、そのあとの霊的な復活を通して、人々に魂の永遠性を信じさせたのであり、また、霊的な目覚めを得た弟子たちの前に、その姿を現すことによって、真実の世界のあり方と、自分が永遠不滅の存在であることを説いたのです。

私の場合も、残念ながら、同時代に生きている人たちには、やはり、”百分の一ぐらいの姿”にしか見えないことが多いであろうと思われます。

したがって、「意外に、日本にいる人々よりも、地球の裏側であるブラジルで信仰している人々や、インド、アフリカの地で信仰している人々のエル・カンターレ像のほうが正しいかもしれない」ということは、知っておいたほうがよいでしょう。

なぜかというと、人間には、どうしても、自分に引き比べて物事を考える傾向があるからです。私が説いている教えのなかにある普遍的なるものを、同時代において、同時期において、つかみ取ることができるならば、その人はそうとう優れた人だろうと思います。

しかし、現実には、なかなかそうはいかないものなのです。

【大川隆法『信仰の法』第5章「地球神への信仰とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第七番目、最後の経文である『仏説・降魔経』についてです。

『正義の言葉「仏説・降魔経」』は、『仏説・正心法語』の最後を飾るお経であり、今までにない経文だと言われています。悪魔との対決についても、「幸福の科学」の基本教義として、明確に根本経典の中に入っています。それでは、引き続き経典『仏陀の証明』より主の御解説をご紹介いたします。
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〇降魔成道から伝道へ
そして、仏陀がそのように伝道を決意したあとで、悪魔がこう言っているのです。

「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとっていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙を見つけることができなかった。

からすが脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔らかいものが見つかるだろうか? 味の良いものがあるだろうか?』といって飛び回ったようなものである。

そこに美味が見つからなかったので、からすはそこから飛び去った。岩石に近づいたそのからすのように、我らは飽いてゴーダマ(ブッダ)を捨て去る。

悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がバタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた」(前掲書)

足かけ七年ぐらい、悪魔がつきまとっていたというのです。「尊師(ブッダ)に一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかし、よく気をつけている正覚者、正しい覚者には、つけこむ隙を見つけることができなかった」とあります。どこか隙がないかと思って、七年間も、悪魔は仏陀につきまとっていたのですが、ずっと狙っていたのに、一歩一歩ごと、することなすこと、すべての思いに隙がなく、ついにつけこむ隙を見つけることができなかったのです。

「からすが、脂肪の色をした岩石の周りを、柔らかい食べ物でもあるかと思って、飛び廻っていたが、何もなかったので飛び去った」とあります。要するに、取りつく島が何もないわけです。「爪で岩をひっかくようなものだった。そこで捨て去った」ということです。

そして、「悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がバタッと落ちた」とあります。この場合、琵琶というのは、悪魔の波長を意味しています。「琵琶が堕ちた」とは、波長が合わないことを言っています。覚者には、悪魔の妨害電波が全然通じない。ということです。
いろいろな欲望や嫌悪、飢渇、妄執、ものうさ、その他をいくら発射しても、全然それに波長が合わないので、仏陀に対して攪乱ができなかったのです。それを、「悪魔の脇から琵琶がパタッと落ちた」という言い方をしているのです。

そして、「意気消沈して消え失せた」ということです。
これは降魔成道のところの話です。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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悪魔が自らが持つ10の軍団を用いて、さまざまな形で仏陀を誘惑しますが、仏陀の心にまったく隙がなかったため、悪魔が自分の商売道具であり、人を魔道に導く琵琶を脇から落としてしまった。という表現がとても面白いと思いました。波長同通の法則をより視覚的に説明しているものであると考えられます。悪魔の奏でる琵琶の音色に反応して、踊り出すと、悪魔の虜になってしまうということです。お釈迦様は悟りの力で、悪魔の奏でる琵琶の音色を引き寄せませんでした。その悪魔が奏でる音色が何であるかというと、「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」にみられる六大煩悩です。悪魔は人間の煩悩をくすぐり、嫉妬を引き出し、悪魔の道に引きずりこもうとします。心の修行により悟りを得た仏陀には全く効かなかったということです
。それで思わず手元にあった琵琶を悪魔は落としてしまったという話でした。

しかし、降魔成道の時に、七年間ピッタリ尾行して仏陀の心の隙を狙っていたというのもすごいです。悪魔はそれくらいしつこいのですね。その後、悪魔は、一切仏陀のまわりに現れなかったかと言えば、そうではなく、弟子や重要な役割を持つ人を惑わしては、仏陀教団の邪魔をずっとしていたというのですから、本当に厄介な存在です。

今世、現代においてもH氏が教団に対してさまざまな形で嘘をまき散らし、誹謗中傷していますが、これも悪魔の力が背景に働いています。時代を超えて悪魔との対決は続いていることがよく分かります。


そういう意味では、修行者である私たちも常に魔から心の隙を狙われていると考えてよいでしょう。悪魔は眠ることがありません。だから、二十四時間三百六十五日、悪魔に対する警戒と対処が必要です。そのために必要なのが、天使や菩薩の力です。私たちには睡眠が必要ですが、天使や菩薩たちも眠ることがありません。だから、こころの波長を常に整えて、魔の攻撃を防ぐために、いつも私たちの身の回りの天使や菩薩を引き寄せていなければならないということです。正しき心の探求を常に忘れないことが大切な心がけです。この点において「正義の言葉『仏説・降魔経』」は信仰心を常に護持するための聖なる経文であることが理解できます。

私たちも、悪魔の奏でる琵琶の音に惑わされることなく、それぞれの心の修行「愛・知・反省・発展」の四正道によって、悪魔が琵琶を投げ捨てるまで、降魔成道を成し遂げなければなりません。降魔即伝道―ともに精進を重ねてまいりましょう。悪魔が奏でる琵琶の音色を引き寄せないように、「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」にみられる煩悩を遠ざける心の修行を今日も心がけましよう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福として、1 
口 10 万円からお受けいたします。

・本植福に参加された方には、「『天御祖神 
感謝報恩の誓い』奉納書」を拝殿の基壇部分に御奉納させていただき、大きな貢献をされた方につきましては、記念碑建立時に銘板をもうけ、そのお名前を記名し、顕彰させていただきます。

・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

日々のご支援に心より感謝申し上げます。

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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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