(11/9-1)【基礎教学通信】313『太陽の法』を読む46「黄金の時代」ラ・ムーの時代―「悟りの挑戦(下巻)」空の大乗への展開―『永遠の法』永遠の愛

『太陽の法』を読む
  • 53 夫婦げんかでもすぐにキレるな。ゴムマリのような弾力を持て。

    【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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    さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

    ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】

    ―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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    ■『悟りの挑戦(下巻)』第4章「空と救済」
    4 空の大乗への展開

    さて、「空」は大乗仏教の中心思想と言われますが、それはなぜかということについても、お答えしておきたいと思います。

    一つは、この「空」を取り扱った経典は『般若経典』という非常に膨大なものなのですが、これを要約した『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は二百六十二文字しかない非常に短いお経で、簡単に読めるため、大乗の各宗派はどこも『般若心経』を読んでいるということです。このような経典使用の観点からの説明があります。

    もう一つは、この「空」という考え方が、決して個人の悟りのみを求める小乗的な考え方ではなく、大乗仏教的な救済的観点からして、きわめて大事な考え方であるということです。このような思想的な面があります。

    そこで、「空」という思想が、なぜ、大乗的な観点、救済的な観点につながっていくかについて説明をしましょう。

    「空」というものは、「何もない」というような考え方にも聞こえます。そうすると、「人生は虚しいものだ」「この世は虚しいものだ」「要するに、この世から離れて、もうあの世に還っていくのみだ」と考えたり、「いや、あの世もないのだ」「魂なんか空なのだ。すべて消えていくのだ」というように考えたら、結局、一切の消滅がすなわち「空」であり、一切の消滅が人生の目標ということになって、まったくのニヒリズムになっていきます。しかし、実際はそういうことではないのです。

    前にも説明をしましたが、「空」とは何もないという意味ではありません。「空」とは「無」ではないのです。「無」とは「存在しないこと」でしょうけれども、「空」とは「無い」ということではないのです。

    「空」というのは「アル」のです。アルのですが、そのアルと思うものは、私たちの三次元的な見方で見るような、固定的なものとしてあるのではないのです。固定的なものではなく、変化していくものであるというのが真相なのです。そしいて、「変化していくもの」という考え方は、三次元的に、この世的に変化していくということのみならず、この世とあの世を含めた意味での流転、変化があるということをいっているのです。

    ですから、「人間の死後、生命は続くか続かないか」というような疑問を持つ方もいるのですが、釈迦はこれに対して、「無記」(むき・答えない)という立場をとったと仏教学では述べられています。

    結局、人間の本質というのは、肉体という肉の塊でもないし、また、がっちりと固定化した人体の形をした魂が、ずっと生活しているわけでもないのです。人間の形をした魂が、実体としてそのままずっとあると思ったら、それも間違いなのです。ゆえに「そうでもない」と言っているわけです。それも認めなかったのです。要するに、変化していくものなのです。

    「変化していく」とは何でしょうか。まず、肉体にオーバーラップするかたちで、幽体という非常に物質界に近い体があります。そして、その奥に霊体、光子体・・・と、何層にも分かれた構造になっています。そのように、人間の霊的な存在自体も一様ではなく、何種類も組み合わせれているのです。そしてあの世に去った後も、そのような外側の部分から脱ぎ捨てられ、だんだん姿形が変わっていきます。

    そして、最後には「念い」だけが残るわけです。「心」と言ってもよいでしょう。そういう思考をするエネルギーのみが最後に残るのです。では、これは肉体か人体様の魂かといえば、そうではないのです。思考するエネルギーしか残らないのです。

    「空というのはアルということだ」と言っている意味は、実は、この部分のことなのです。

    「空」の最後に残るものは、目的性を持ったエネルギーであり、ここまで人間を分解したときにはアルわけです。ただ、外見上、私たちが見ているような存在はなくなるわけです。ですから、「あるともないとも言えない」とは、このことを言っているのです。

    ここに中道的観点からの存在論が展開されていくわけです。

    【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第4章「空と縁起観」より抜粋】
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    さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
    ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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    ■『太陽の法』第5章「黄金の時代」
    6 ラ・ムーの時代

    ムー大陸が、その最盛期を迎えるのは、ラ・ムーの時代でした。すなわち、いまからおよそ一万七千年近く前のことです。そのころ、ムーは、太陽信仰と太陽科学万能の時代を迎えておりました。この時期に、ラ・ムーが、肉体をもって生まれたのです。ラ・ムーとは、何代か前の釈迦の過去世です。また、ラ・ムーとは、「ムーの光大王」という意味を持っています。ラ・ムーの時代に、ムー大陸は、巨大な大帝国となったのです。もともとは、モア大陸と呼ばれていたのですが、ラ・ムーの時代に、その名をとって、ムー大陸、ムー文明としました。

    ラ・ムーは、ムー大陸の科学文明が非常に発達してきたことをよろこび、この機会を逃したら、地上に神の国をうちたてるときはないと考えました。ラ・ムー自身は、巨大な霊能力の持ち主でしたから、天上界の霊たちとは、もちろん、自由自在に交信できました。このころ、ラ・ムーを天上界から守護していたのは主としてアモール、のちのイエス・キリストでした。

    ラ・ムーの教えの中心は、三点ありました。第一点は、すべてのムー人は、神を太陽のごとき存在だと悟らねばならない。神は太陽のごとく、光に満ち満ちており、地上のわれわれに光を与えてくださっているのだということです。第二点は、すべてのムー人は、太陽のごとき愛と慈悲に生きねばならない。ほかの人間の心をいかに光明に満たしたかということが、愛と慈悲の本質であるとしました。第三点は、すべてのムー人は、向上を人生の目標としなければならない。向上とは、学芸、武芸にだけ適用されるのではなく、いかにして霊性を高めたかという点がポイントとなります。この三点が、ラ・ムーの教えのもととなったのです。

    ラ・ムーがそれから一万四千年のあまりのち、インドで仏教を広めた釈尊であることを知れば、仏教の教えは、すでに、ラ・ムーの時代にめばえていたことに気づきます。

    いまから一万七千年前のラ・ムーの教えは、まさしく本格的な宗教の始まりを告げるものでした。ラ・ムーの時代には、宗教と政治が分離されることはありませんでした。最高の宗教は、すなわち、最高の政治であり、最高の宗教家は、すなわち、最高の政治家だったのです。これも、よく考えてみれば、確かにわかることであり、人間が神からわかれてきたものであるならば、その地上に人間を統治するのは、もっとも神近き人、すなわち、大宗教家が担当するは、当然のことだといえます。

    ラ・ムーは、毎夜、宮殿でひざまずいては、高級霊たちと心のなかで対話し、国政の基本的方針についての判断をあおいでおりました。これは、まさしく政治の原点だといえます。なぜならば、政治とは、人間を治める技術であり、為政者のあやまちは、ただその人ひとりの問題ではなく、国民すべての生死を左右し、国民すべての魂を下落させることを意味したからです。人間心で、そうした重大事を判断することは、見方によっては、たいへん傲慢であり、非常に増上慢なのです。政治の原点は、ここにこそあったのです。すなわち、神のまえに謙虚になり、心静かにに、心むなしゅうして、神の声を聴くということです。神の言葉に耳を傾けるということです。

    しかし、やがてラ・ムーが没し、その偉大なる教えが形骸化してくると、ムーの全盛にもかげりが出てきました。しかも、悟りの力を否定し、怪しげな動物霊信仰の邪教団がはびこり始めました。悪しき霊能力信仰が、「愛と慈悲」の教えを嘲笑し、大陸全体に大きな想念の曇りがかかってきたのです。

    こうして、このムー大陸は、いまからおよそ一万五千百年前、三段階にわたる大陸の沈下によって、海中に没しました。ラ・ムーの名前からとった巨大な近代都市ラ・ムーも、この大陸の沈下によって、当然のことながら、大西洋中に沈没してしまいます。

    しかし、ムー人たちの一部は、なんとか逃げることができました。そのなかのある人々は、船で北上して、ベトナム人、日本人、中国人の源流になりました。また、ある人々は東へと進み、太平洋をわたって、南米アンデスの山に住みつきました。さらには、大西洋へと逃れ、大西洋上のアトランティス大陸へと、新天地を求めていった人々もおります。

    【大川隆法『太陽の法』第5章「黄金の時代」より抜粋】
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    続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

    人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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    ■『永遠の法』第4章 七次元の世界
    4 永遠の愛

    男女の愛、あるいは夫婦の愛においては、排他性や独占欲が伴うことに言及しました。では、「こうした独占欲は自己保存欲なのか。こうした愛は許されないのか」ということについて考えてみましょう。

    「万人を等しく愛することが人間の本質であるから、すべての人と平等に接してなければいけない」という考えも一方にはあるだろうと思います。

    しかし、たとえば、妻が八方美人であって、夫に対しても他の男性に対しても平等に接するという事態は、何を意味するのでしようか。あるいは、夫が、妻にも妻以外の女性にも平等に接するということは、何を意味するのでしようか。これは夫婦の共同体生活の崩壊を意味するのです。

    男女が共同生活をするというのは一つのルールです。なぜそうしたルールがあるかといえば、共同生活をすることによって、子供をつくり、養い、家庭を築きあげていくことを計画しているからです。

    もし、家庭が必要ではなく、男女の存在理由は生物学的に子供を遺すことだけであって、かつてのプラトンが理想としたように、国家が責任を持って子供を養い育てることが正しい姿であるならば、それこそ子供を遺すこと以外には男女の生き方がないことになってしまいます。

    しかしながら、仏の心は、そうしたところにあるのではありません。仏は「一人の男と一人の女が協力して子供をつくり、何十年かにわたって家庭をはぐくんでいくところに、多いなる収穫あり」と見ているのです。

    すなわち、男女の愛にある排他性、他人を排除するような思い、あるいは独占性は、一見、自己保存欲、自我我欲のようにも見えますが、これは、もっと高度なもの、すなわち、大いなる家庭愛、家庭の幸せをもたらすために奉仕している最小限度の必要悪であると言えるのです。

    狭い心のように見えるけれども、狭い心と見えしものが、さらに高次なものを生み出すために働いているのだと言えます。

    したがって、男女のあいだにおける独占欲は、必ずしも悪いものだとは言えません。ただ、これが過剰になって、相手を縛り、相手を人間として尊重しないくらいにまでなったとき、すなわち、その嫉妬が以上になったときには、不幸を生み出すことも事実です。

    「男女のあいだにおいては、健全なる嫉妬心、すなわち、共同生活を守る範囲での、行きすぎない、ほどほどの嫉妬心があることは許容されている」と考えていいと思います。ただし、異常に敏感で、相手を責めさいなむような嫉妬心にまでなったときには、必ずや不幸を生むことになるでしょう。

    男女の愛というものを考えてきました。これは、仏が、仏のほんとうの心は愛にあることを教えるために、人間の男女に、恋愛をさせ、結婚をさせ、夫婦愛を実らせ、さらには親としての愛を実現させることによって、愛の教育をしているということなのです。

    しかし、男女の愛から生み出される夫婦愛、さらには親子愛というものは、永遠普遍のものかといえば、必ずしもそうとは言えません。これは、ある程度、本能的なものであることも事実です。また、偶然という言葉はふさわしくないかもしれませんが、たまたまそうした巡り合わせになったために、お互いに愛するようになった場合もありうると思います。

    仏は、男女に結婚をさせ、子供をつくらせ、家庭をはぐくむようにさせているわけですが、それだけをもってよしとしているのでしょうか。そうではなく、男女の愛というものは、ほんとうの愛に目覚めるためのきっかけとして用意されているのではないでしょうか。

    どのようにエゴイスティック(利己的)な生き方をしている人であっても、異性を快く思う気持ちを持っているはずです。また、
    すくなくとも自分の子供に対しては、快い思いを持っているはずです。

    異性や肉親への愛というものは、「永遠の愛を知るための一つのきっかけであり、「こうした最低限の愛を契機として、さらに高度な愛に目覚めなさい」というのが、仏のほんとうの心なのです。このことについて、人間は心を向けていかねばなりません。

    【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第4章「七次元の世界」より抜粋】
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    『太陽の法』においては、およそ一万七千年近く前、太陽信仰と太陽科学万能の時代を迎えラ・ムーについて学びました。ラ・ムーはお釈迦様の遠い過去世です。
    また、今学びを深めている主が説かる『太陽の法』はかつてラ・ムーが説いた『太陽の法』であるとも言われていました。

    また、経典『日本建国の原点』の質疑応答では、「日本の源流は「ムー帝国」にある」として、日本に神々が集われている理由としては、「この国の源流に、直前のムー帝国の文化があるからだ」と説かれています。日本はムー文明の正当な継承者であるのです。

    また、そのムー文明の源流をたどると、三万年前の天御祖神の日本降臨に端を発している点も見逃してはなりません。日本の神々の源流はアンドロメダであるという驚きの真実が経典『天御祖神の降臨』にて明らかにされています。私たちの文明は元々宇宙起源であるのです。

    話をラ・ムーの時代に戻しましょう。
    このころ、ラ・ムーを天上界から守護していたのは主としてアモール、のちのイエス・キリストでした。
    ラ・ムーの教えは以下の三点で、2600前にお釈迦様が説いた仏教の教えの基礎となるものでした。ここでもう一度、ラ・ムーの教えを整理します。

    『ラ・ムーの教えの中心は、三点ありました。

    第一点は、すべてのムー人は、神を太陽のごとき存在だと悟らねばならない。神は太陽のごとく、光に満ち満ちており、地上のわれわれに光を与えてくださっているのだということです。

    第二点は、すべてのムー人は、太陽のごとき愛と慈悲に生きねばならない。ほかの人間の心をいかに光明に満たしたかということが、愛と慈悲の本質であるとしました。

    第三点は、すべてのムー人は、向上を人生の目標としなければならない。向上とは、学芸、武芸にだけ適用されるのではなく、いかにして霊性を高めたかという点がポイントとなります。

    この三点が、ラ・ムーの教えのもととなったのです。

    いまから一万七千年前のラ・ムーの教えは、まさしく本格的な宗教の始まりを告げるものでした。ラ・ムーの時代には、宗教と政治が分離されることはありませんでした。最高の宗教は、すなわち、最高の政治であり、最高の宗教家は、すなわち、最高の政治家だったのです。これも、よく考えてみれば、確かにわかることであり、人間が神からわかれてきたものであるならば、その地上に人間を統治するのは、もっとも神近き人、すなわち、大宗教家が担当するは、当然のことだといえます。』

    これは、一万七千年に説かれた『太陽の法』の一部とも言われていますので、とても重要です。繰り返し学んで、覚えてしまいましょう。また、仏教との関連でいえば、ラ・ムーの教えは反省の原理としても重要な教えです。詳しくは経典『幸福の科学の十大原理(下巻)・「反省の原理」のなかで、ラ・ムーの三正道が重要です。

    〇ラ・ムーの三正道①―愛の反省
    人間は人を愛して生きるべき存在である。愛を人に与えたかどうか、これを毎日必ず振り返れ。

    〇ラ・ムーの三正道②―天上界と心を通わせる反省
    今日一日、神あるいは神近き高級霊といわれる守護・指導霊と心を通わすことができたかどうか。これを反省せよ

    〇ラ・ムーの三正道➂―学びの反省
    汝、今日いったい何を学びしか。これを反省せよ。一日を無駄にしていないか。学ばずして一日を終わるな。一時間を終えるな。一分を終えるな。一秒を終えるな。

    また、後半の『永遠の法』では、前節の「愛の力学」にさらに説明を加えていただいています。

    『男女の愛にある排他性、他人を排除するような思い、あるいは独占性は、一見、自己保存欲、自我我欲のようにも見えまずか、これは、もっと高度なもの、すなわち、大いなる家庭愛、家庭の幸せをもたらすために奉仕している最小限度の必要悪であると言えるのです。

    因みに、私たちの愛する伊勢という言葉は、『ホツマツタエ』によると、女性を意味する妹(イモ)と、男性を意味する背(ヲセ)によってイセとという言葉になったと伝えられています。

    伊勢という漢字は、イセという音に感じを当てはめただけであり、漢字自体に意味はありません。男と女の正しい道という意味がイセという言葉に込められています。この故事には、木花開耶姫(このはなのさくやびめ)が登場します。以上、余談でした。

    狭い心のように見えるけれども、狭い心と見えしものが、さらに高次なものを生み出すために働いているのだと言えます

    愛の力学に存在する排他性は、より高次な愛を生み出すための必要悪であると教えていだきました。

    また、男女間の愛や、家族愛に関してもこのように説かれました。

    『仏は、男女に結婚をさせ、子供をつくらせ、家庭をはぐくむようにさせているわけですが、それだけをもってよしとしているのでしょうか。そうではなく、男女の愛というものは、ほんとうの愛に目覚めるためのきっかけとして用意されているのではないでしょうか。・・・

    異性や肉親への愛というものは、「永遠の愛を知るための一つのきっかけであり、「こうした最低限の愛を契機として、さらに高度な愛に目覚めなさい」というのが、仏のほんとうの心なのです。このことについて、人間は心を向けていかねばなりません」

    このように、人として愛を与えることが当然である関係であってもそれは、より高度な愛を育むためのきっかけであることも学びました。身近にいる人への愛を通して私たちは主の愛に気づき、根本仏である主に対する永遠の愛に気がつくこと、そしてその永遠の愛を根本仏に捧げ続けることの大切に気づき、その証明として、私たちの隣人を愛し、救い助けることを私たちは根本仏から期待されています。

    今日も、永遠の愛を主に誓い、私たちの隣人に愛を与える一日を共にしましょう。

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    本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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    Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
    We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
    One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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    。゜+. With Savior 。゜+.
    100%エル・カンターレ信仰
    ―天御祖神とともに―
    伊勢から世界に伝える強い信仰
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    文責:蒲原宏史 
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