42 他国を奪い取ることしか考えていない国も、必ず経済的に破滅する。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第2章「小乗と大乗」
4 大衆救済としての大乗
では、その内容にはどのような違いがあるのでしょうか。
まず、言葉から説明しなければいけませんが、「乗」というのは、乗り物という意味です。「小乗」は小さい乗り物、「大乗」は大きな乗り物という意味です。船や自動車と一緒です。つまり、教義(教理)を乗り物にたとえたのです。
当たり前のことですが、小乗の人びとは自分たちのことを「小乗」とは絶対に言いません。これは、大乗の人たちが出てきて、「彼らは小乗(ヒーナヤーナ)なんだ。自分たちは大乗(マハーヤーナ)なんだ。大きな乗り物だ」と、先にいた人たちをおとしめて言ったものであり、このように言えば、そちらのほうがいいように聞こえるわけです。つまり、後から出た人たちが先の人たちを「小乗だ」と言っているわけです。
先にいた人たちは自分たちのことをなんと何と言うかといえば、「上座部(じょうざぶ)」(テーラバーダ)と言っていました。厳格に釈迦の教えを奉じる団体というぐらいの意味で、保守的な一派のことです。この「上座部」と袂(たもと)を分かったのが「大衆部(大衆部)」です。戒律に対して寛容で、これがのちに大乗運動へと発展していきます
(近時、有力な異説〈平川説〉があって、在家者の仏塔信仰から大乗仏教が発生したとする。確かに大乗の人たちが仏塔信仰をした事実はあるが、在家の人たちの仏塔信仰が大乗仏教をつくったとする発想には無理がある。大乗の膨大な経典群は、プロの在家修行者の仕事であろうし、私も宗教家の一人として、強力なエネルギー磁場をつくる宗教家が出なければ、新しい教えを広がらないことを確信する。事物崇拝から自然発生的宗教改革は起こらないのである)。
この大乗の人たちが、「小乗」と言って、彼らを哀れみ、蔑(さげす)んだのです。その心はどこにあるかというと、結局、「小乗の人たちというのは、自分を救うことに熱中している」ということなのです。しかも、その自分とは「出家した者」ということであり、出家した者のみが悟り、出家した者のみが苦しみから救われるという教えなのです。そうすると、「それでは、在家の人は、全然、救われないではないか」というわけです。「在家の人は、出家者に対して、布施だけすればよいのか。供養すればそれでよいのか。それだけのことで済むのか」というわけです。
そこで、「やはり大勢の人を救わなければいけないだろう」ということで始まった宗教の民主主義化、すなわち一種の民主化が大乗仏教なのです。つまり、在家の人びとに焦点を当ててきたのです。「出家者だけが救われるというのは、ちょっと甘いのではないか。それでは人類救済にはならないのではないか。やはり、在家の人びとも救わなければいけないのではないか」、このように在家の人たちを取り込むかたちで盛り上がっていったのが大乗の教えなのです。
実際に、大乗が興ってきた背景には、出家者たちが、自分たちだけの哲学や論理学のようなものに追いかけていって、彼ら自身の語る言葉にもはや救済力がなくなっていたこと、そして、戒律でがんじがらめになって、形式主義に堕していたということも、現実としてはあると思います。そこで、必要に応じて、そうした新しい仏教が出てきたのだと思います。
「大乗仏教は釈迦の教えではない。仏説に非(あら)ず」という、「大乗非仏説」という考えが小乗のほうにあるのですけれども、もちろん大乗仏教は天上界から釈迦の指導を受けて出てきたものですから、これは正しくはありません。そのような新しい方向が天上界から出されて、興ってきたものです。大衆救済として、大きな乗り物としての大乗ができてきたわけなのです。【※大乗非仏説は日本では、富永仲基『出定後語』が有名です。これに基づいて国学者の平田篤胤は仏教を批判しました。富永仲基は山本七平に転生しています。平田篤胤は大川家次女に転生しています】
一言でいえば、小乗は「自分は出家して修行しなければ救われない」ということでしたが、大乗は「大きな乗り物だから、これに乗ったら、五百人だろうが千人だろうが、みんなあの世の彼岸まで連れていってあげますよ。これに乗りなさい。そうすれば向こうまで行けますよ」という、寛大で非常に度量のある教えなのです。
では、これがどのように展開したのでしようか。たとえば法華経教団などもその代表的な一派です。「『法華経』を読めば救われる。受持するだけでも救われる。釈迦の悪口を言っても地獄には堕ちないが、『法華経』の悪口を言ったら地獄に堕ちる」など、それほどまでにこのお経はありがたいという話を、ここまで極端にしはじめました。それから、浄土系もみなそうです。「浄土三部経」である『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』などのお経をあげれば救われるとか、阿弥陀様の名を唱えたら救われるといった教えが出てきました。これもみな大乗の流れなのです。そのように民衆化した宗教が大乗であると言ってもよいでしょう。
ただ、ものごとには反面があります。小乗仏教のほうは厳格に釈迦の教えを奉じていたため、ある意味ではきっちりとかたちが残っていましたが、大乗仏教のほうは、このように民衆化した結果、やはり商売型になるのはやむをえず、「一人でも多くのお客さんを入れたい」という商売繁盛型になっていって、どんどんエスカレートしていったのです。
たとえば、「『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで救われる」ということから、「弥陀は念仏を称える前に知り給う」の世界に入ってくるわけです。「発心を起こした段階でもう救われる」とか、「発心を起こさなくても、悪人でも救われる」とか、商売がどんどん前進していくわけです。そこまでいって客を広げるかたちになっていきました。
これも、精神としてはわかりますが、では、結果として実際その通りになっているかどうかは、怪しいところがあります。本当に救われているかどうかというところは厳密には調べていないのです。大乗のほうは、そこまで極端になって広まりましたが、まただんだんに堕落していったという流れもあります。
さて、大きく小乗と大乗に分けましたけれども、もう一つの別の流れとして、密教があります。これは厳密には大乗仏教に入れるべきではないかもしれません。大乗仏教は、主として紀元前一世紀から紀元後一世紀ぐらいに発生してきたものですけれども、密教、だいたい紀元後七世紀ぐらいのインドから出てきたものなのです。かなり遅れて出てきたものです。
この密教は、仏教とは称しているものの、実際には、その内容は仏教ではない部分がかなりあって、インドの古代からのヒンズーの教えを母体とし、現世利益と霊能信仰を中心にした宗教です。ですから、インド、中国と渡ってきた密教は、厳密な意味においては、釈迦が説いた仏教とは違うものがあります。
仏教が生き延びるために、自己変身して、インドの伝統的な宗教のなかに溶け込んだのが密教です。
日本ていえば、仏教が生き残るために、神道のほうに寄っていき、それから修験道のようなものに入り込んでいくと、この密教のようなかたちになるのです。
ただ、この密教も、中国の最盛期、それから日本の空海に伝わるあたりにはオリジナルの教えになって、また違った、評価すべきものに変わってはきています。
インドなどのもともとの密教は、その後、堕落した宗教になって、仏教が最期を迎えるきっかけになりました。釈迦の教えはまったく正反対のこと(たとえば、性欲の積極的肯定)を言いはじめて、行動においても教えにおいても、極端になり、結局は堕落する方向に行って、消えていきました。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第4章「悟りの極致」
5 観自在
如心というのは、霊界の秘義に通じた菩薩の境地だといってもいいでしょう。それは如来界へも通じるものがあります。如心にも、やはり段階があるのですが、通常、阿羅漢の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。これは、なにも地上界で悟りをひらいた方のことばかりではありません。あの世、すなわち、実在世界でも、同じことがいえます。
ただし、あの世の霊だから、何もかもがわかるのかといえば、けっしてそうではありません。やはり、その霊の認識の高さ、悟りの高さによって、理解できたり、把握できたりする範囲は異なってきます。その典型的な例は、「予知」です。四次元以降の実在界の霊たちは、程度の差こそあれ、だれもが、将来起きること、つまり、未来の事件に関して、ある程度予知することができます。ただし、それが地上の三次元の人間に対してなされると、往々にして問題となります。というのは、時間的に、あるいは、場所的にズレることがあるからです。
もう少しくわくし説明すると、その理由は二点あります。第一点は、将来起きることにも、確定的事件と流動的事件があるからです。確定的事件とは、高級霊界において、決定済みのことで、これは、よほどのことがないかぎりくつがえすことが不可能です。しかし、流動的事件とは、このままでいけばこうなるであろうという予測的な段階にしかすぎません。ですから、これは、地上人の努力や、守護・指導霊たちの努力によって変更することが可能です。つまりは、天上界の霊の予言もはずれることがあるということになります。
第二の理由は、天上界の諸霊の意識の段階差と、得意・不得意の分野によって、予言の精確さに、程度の差が出てくるからです。一般的にいえば、霊格が高ければ、高いほど、予知がよくあたるのはもちろんです。予知を専門の職業としている霊もいるほどで、やはり専門家のほうがあたる確率が高いといえます。
さて、ここで、如心の段階の上にある、観自在という悟りの境地について説明しましょう。
般若心経というお経の最初に、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」という文句があります。これをそのまま訳せば、「観自在菩薩の修行の境地がたいへん深まり、内なる潜在意識の宝庫をおひらきになったときに」という意味です。観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。
菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ち上がり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神通力(法力)を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地になってくると、少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになってきます。つまり、観自在菩薩とは、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。
観自在菩薩は、インドの釈迦の時代には、アヴァローキタースヴァラ(サンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラ
Avalokitesvara)と呼ばれておりました。観世音菩薩も同義語です。六大神通力とは、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽の六つです。ここで、そのそれれぞれについて説明しましょう。
天眼とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。
天耳とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力なども、これにあたります。
他心とは、いわゆる読心のことです。マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。
宿命とは、単に自分の将来がわかるでけではなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまで分かってしまいます。
神足とは、いわゆる霊体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞したり、テレポーテーションしたりする能力のことです。
漏尽とは、「心の欲する所に従って、矩を踰えず」と喝破した孔子の境地で、欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力です。たとえ霊能力をもったとしても、たんねんに心の錆落としを続ける精進能力です。
【※(注)漏尽・・・通常、仏教の読み方としては「ろじん」を使う。「漏」とは煩悩を意味する名詞であり、「有漏・うろ」(心の汚れが残っている状態)、「無漏・むろ」(心の汚れがすべて滅し尽くされた状態)といった使い方をし、「漏尽通力」とは、煩悩を滅尽する能力と理解されている。ただ、煩悩を滅尽するには、日々の反省行が必要であり、霊能力というよりは、高度な智慧の力であるといってよい。なか、高度な霊能力を有しながら通常人と同じ生活ができる点に重点をおいて、過去に「ろうじんつうりき」という言葉を使ったが、今回から正統な仏教用語に戻すことにする。】
観自在菩薩とは、以上あげたこの六大神通力が何らかのかたちで身についてきた状態の人のことです。同時に多人数の人の心を読んだり、遠隔地の人の心が手にとるようにわかる「如心」よりも、一段と高い心境だといえます。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第3章 六次元の世界
3 悟りの階梯(かいてい)
あの世の世界は意識体の世界であり、その意識には段階があります。まずこれを知ることが、悟りへの第一歩となります。
「悟り」という言葉にもいろいろな意味があります。低い意味での悟りとは、たとえば、「人間は肉体ではない」ということを知ることです。これだけでも、悟りは悟りなのです。四次元幽界においては、「人間は肉体ではない」ということを明確に悟っている人は、そう多くはありません。肉体のような、肉体でないような、まだはっきりとは分からない生活をしている人が多いのです。
また、地獄界から天上界へ上がるときの悟りもあります。この場合の悟りとは、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない。人間は他人のために生きなければいけない存在である」ということについて、最低限の認識を持つことです。
地獄にいる人たちは自我我欲のままに生きています。自分中心であって、「自分が、自分が」という思いに満ちています。「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生きている人が地獄にいて、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」と言っているのです。
ただ、彼らも、自分と同じように、自己保存欲、自我我欲のままに生きている人間たちといっしょに、何十年、何百年と地獄で生きているうちに、それがいやになって、考えを改める時期が来ます。これが、地獄から天国へ上がる場合に必要な最初の悟りです。もっと安らぎのある平和な世界を希望する時期が来るわけです。
そして、四次元の上位部分である精霊界へと還っていき、そこからさらに、五次元善人界へ還っていくことは、すでに述べたとおりです。
五次元のことを、善人界、あるいは精神界といいます。冷静に目覚めた人びと、精神性に目覚めた人びと、善というものが大切だということに目覚めた人びと、こうした人びとが五次元の住人なのです。
ただ、五次元の世界は、善人ではあっても、まだまだ悟りを真剣には求めていない人々のいるところです。結局、仏や神に対して心が充分に向いていないということです。
これに対して、六次元光明界においては、いわゆる無神論者たちはすでに影を潜めています。「人間や霊たちを生かしめている偉大な存在がある」ということを、六次元にいる人たちはみな大なり小なり知っているのです。ただ、その偉大なる存在のことを、仏と呼ぶか、神と呼ぶかは、人によって違います。たま、それを求める方法にも、さまざまな差があるわけです。
六次元には、僧侶や神主、教会の牧師などといった聖職者たちが数多くいます。彼らは仏や神に関して真っ向から考えをまとめています。
しかし、その一方で、そうでない人たちが六次元にいることも事実です。それは、地上にいたときに、自分の職業のなかで進化をとげた人たちです。仏や神を求めたわけではないけれども、職業を通して高度に進化を遂げた人びとも六次元の住人なのです。
六次元世界には学者が非常に多いという事実があります。大学教授や優秀な教師であって、しかも心が地獄界に向いていなかった人たちが数多く来ています。大学の先生は非常に多いのです。
また、医者、弁護士、裁判官など、この世的に尊敬される職業の人たちも数多くいます。これ以外にも、政治家や高級官僚で心の美しかった人たちが、六次元光明界に還ってきています。
こうした人たちを見ると、どの方面であろうと、ある意味で進化を遂げた人びとだと言えます。たとえば画家や音楽家など、芸術的才能を伸ばして高度に進化した人たちも六次元光明界にいるのです。
六次元の住人たちの主たる仕事とは何でしょうか。僧侶や神主、教会の牧師といった人たちは、地上の人たちを宗教的に指導しています。また、元政治家は、地上の政治家たちを指導しています。元官僚は、地上の役所の仕事を指導しています。元芸術家は、地上ににる芸術家たちにインスピレーションを与え、元大学教授は、地上で学んでいる者たちにインスピレーションを与えています。
こうした仕事をしながら、彼ら自身も自分の専門領域での悟りを求めています。また、それを下の者に与えていくことによって、菩薩行の前の段階を経験しています。すなわち、人に対して役に立つという行為を経験しているのです。
結局、六次元光明界に通用している価値概念とは、「有用性」―役に立つということです。世の中の役に立つ、世の進歩に役立つ、世の中の発展に役立つ、主としてこうした基準でもって、六次元の人びとは生きているのです。
これは真に愛と呼ぶにはまだ充分ではなく、その一つ前の段階でですけれども、愛の萌芽(ほうが)となるべき考え方だと言えるでしょう。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第3章「六次元の世界」より抜粋】
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悟りの段階にある「阿羅漢」の上の菩薩と如来の間に梵天があります。本日は八次元存在である如来の法力「観自在」について学びました。悟りの高さや救済力に応じた法力を授かるようになることもわかります。阿羅漢(6次元上段階)→菩薩(如心・7次元)→梵天(観自在力・7次元上段階から8次元下段階)→如来(観自在力・8次元)と段階を踏むにつれて仏に近づいていくということです。
本日の教えでは、このようにありました。
『如心というのは、霊界の秘義に通じた菩薩の境地だといってもいいでしょう。それは如来界へも通じるものがあります。如心にも、やはり段階があるのですが、通常、阿羅漢の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。これは、なにも地上界で悟りをひらいた方のことばかりではありません。あの世、すなわち、実在世界でも、同じことがいえます。』
また、このようにも説明がありました。
『菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ち上がり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神通力(法力)を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。』
さまざな高次元世界について学んでいますが、
私たちが目指すべきはまずは「阿羅漢」の境地です。
今世私たち伊勢支部の信者全員が「阿羅漢」になることをめざし、主の御手足として救世運動に参加してまいりましょう。阿羅漢の悟りをめざし謙虚に修行を続け、ともに精進を重ねてまいりましょう。
悟りの力と愛の力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。
また、後半の『永遠の法』では、『あの世の世界は意識体の世界であり、その意識には段階があります。まずこれを知ることが、悟りへの第一歩となります』とあり、各霊界においての悟りがあることが明らかにされました。
四次元世界の悟り―低い意味での悟りとは、たとえば、「人間は肉体ではない」ということを知ることです。これだけでも、悟りは悟りなのです。四次元幽界においては、「人間は肉体ではない」ということを明確に悟っている人は、そう多くはありません。肉体のような、肉体でないような、まだはっきりとは分からない生活をしている人が多いのです。
地獄界から天上界へ上がるときの悟り―「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない。人間は他人のために生きなければいけない存在である」ということについて、最低限の認識を持つことです。
五次元世界の悟り―五次元のことを、善人界、あるいは精神界といいます。冷静に目覚めた人びと、精神性に目覚めた人びと、善というものが大切だということに目覚めた人びと、こうした人びとが五次元の住人なのです。ただ、五次元の世界は、善人ではあっても、まだまだ悟りを真剣には求めていない人々のいるところです。結局、仏や神に対して心が充分に向いていないということです。
六次元世界の悟り―これに対して、六次元光明界においては、いわゆる無神論者たちはすでに影を潜めています。「人間や霊たちを生かしめている偉大な存在がある」ということを、六次元にいる人たちはみな大なり小なり知っているのです。ただ、その偉大なる存在のことを、仏と呼ぶか、神と呼ぶかは、人によって違います。たま、それを求める方法にも、さまざまな差があるわけです。・・・結局、六次元光明界に通用している価値概念とは、「有用性」―役に立つということです。世の中の役に立つ、世の進歩に役立つ、世の中の発展に役立つ、主としてこうした基準でもって、六次元の人びとは生きているのです。
六次元までの悟りでは、まだ具体的に「愛」の本質に対する悟りまでは届いていないのが理解できます。やはり「愛の悟り」が具体的になるのは七次元菩薩界以上の高級霊界空になるようです。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(10/29-1)【基礎教学通信】302『太陽の法』を読む35「悟りの極致」観自在―「悟りの挑戦(下巻)」大衆救済としての大乗―『永遠の法』悟りへの階梯
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