29 詐欺師は、いつも人のふところを狙っている。疑似餌(ぎじえ)に釣られる魚となるな。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第6章「業と輪廻」
4 十二縁起による輪廻観
〇無明【過去世の因】→行【過去世の縁】→識【生まれ変わりたいという意識】
まず、「無明」すなわちこの世における「貪・瞋・癡」中心の迷った念いがあって、それに基づく行ない―「行」があって、その「行」がすなわち業になります。そして、魂の奥底にそれが焼き付いて、来世、生まれ変わるときの魂の主体になる「識」ができてきます。
〇名色(みょうしき・明色)【受胎~8週目】
この生まれ変わりの魂の「識」が、身体のなかに宿ってくることを「名色(みょうしき」といいます。このは原語からの翻訳で、従来から使われている言葉ですが、この”名”と”色”というのは、よくわからない言葉です。これは「精神と肉体」あるいは「心と身体」を意味すると言われています。これが「名色」の語源なのです。
ところが、ここにちょっと問題があります。ここでは、意識が胎児の身体に宿って、「名色」となって、それから「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官ができあがるということになっています。この当時の生まれ変わりの考え方によると、精子と卵子の結合によって、お腹のなかで受胎した段階で魂が入ると考えていたようなのです(この考え方を「結生識」という)。
その考えで行くと、論理はすっきりします。―精子と卵子が結合したときに、生まれ変わりの意識がお腹のなかに入ってくる。その後、意識と、それに合わさった肉体、つまり胎児の身体ができあがってくる。次に、「眼・耳・鼻・舌・身・意」という目や鼻や口などがはっきりしてきて、感覚器官ができあがる。さらに、できあがった感覚器官がいろいろなものを触れるようになる。そして感受性ができあがってくる―。このように、論理としては成り立っているのです。
けれども、私が研究したかぎりでは、魂が胎児に宿るのは、だいたい九週目、三月に入るときです。これを胎児の姿で見てみると、だいたい四週目ぐらいのときに、何か動物的な身体になっています。多少、手や足らしきものや、頭や目らしきものはできているけれども、人間の胎児としては、まだ姿がはっきりしていません。八週目あたりから、人間の胎児として、動物とはっきり区別がつく形として、目、鼻、口、耳、こういうものができあがってくるのです。九週目に入るころに実際に魂が入ります。わが家の子どものときには、そうでした。それまでは魂が入っていないのです。胎児に魂が入っていないのに生きているわけです。
これはおそらく、精子、卵子が持っている生命エネルギーと、母体の持っている生命エネルギーとが結合して、肉体の外形とオーバーラップする幽体の原料分というか、元素の部分が、八週目ぐらいまでにできあがりつつあるのだと思います。要するに、肉体器官を動かすだけの意識のようなものが、この期間にできあがりつつあるようです。つまり、将来の幽体の基礎になる、内臓器官やその肉体を司る部分の霊体の基礎になるものが、この期間にできあがりつつあって、人間としての外形ができあがった段階で、魂の本体が入ってくる、これが現実のようなのです。
そうしてみると、「十支縁起」「十二縁起」では、「識」から生まれ変わるというように考えていますから「魂の意識が入って、心と肉体ができあがって、六根【※眼・耳・鼻・舌・身・意】ができあがる」という考え方には、実は無理があるのです。「名色」のときは、意識はまだあの世で待機中であって、一方、お腹のなかでは、肉の塊、動物の子どものようなものができあがりつつあるのです。
ですから、「精神と肉体」あるいは「心と身体」という意味の「名色」は不適切であって、本当の意味においては、肉体が明確化してくるという「明色(みょうしき)」といった意味愛の言葉の方が正しいと思います。
ただ、学問上では、そのような使い方はないので、あまりお勧めしていませんが、本当の意味では、魂が入っていないので、「名色」という言葉は正しくないわけです。
〇六処(ろくしょ)【胎児に魂が入る8・9週目】→触【誕生~2、3歳児】→受【感受性が豊かな思春期】
それから「六処(ろくしょ)」です。これが八週目から九週目で、手足、目鼻だちがはっきりしてきます。この段階で魂が入ってきて、人間として自分を支配しようとしはじめます。
私の説明では、この「六処」ぐらいまでが体内の部分で、その以降は生まれてから後のことであり、「触(そく)」の部分が二、三歳児程度までの感覚、「受」が、それから物心つくぐらいまでの間であり、感受性が豊かになるのはこの段階である、というように説明しています。
ただ、説明の仕方によっては、「受」までを全部、胎内に入る期間に入れてしまう人もいます。「お腹のなかだって触れるだろう。お腹のなかだって感じられるだろう」と、胎生学的発想として、そこまで全部をお腹のなかの説明にしてしまう方もいます。れそも可能です。ただ、お腹のなかで、そんなに細かく分類してもしかたがないと思います。
〇愛(渇愛)【少年・青年期12歳~25歳】
さて、生まれてきてから、いろいろなものを触ったり感じたりするようになって、感覚が研ぎ澄まされて、いろいろなものを感受するようになります。そのうちに、好み、好き嫌いがはっきりしてきます。これが「愛」です。物心つくあたりで、これがかなりはっきりしてきます。これは十二歳ぐらいから二十五歳食いまでの間の思春期です。少年・青年期は「愛」の時代、要するに、自分が快楽をはっきり感じ、好きなものが何かがわかる時代です。そして愛欲が燃え盛ってきます。
〇取(しゅ)【二十五歳~五十歳】
それから、大人になってから執着が生まれてくる時代、いよいよ執着が本格的に出てくる時代が、「取(しゅ)」です。これは二十五歳から五十歳ぐらいまでです。
〇有(う)【五十歳~帰天】
それから「有(う)」という魂的傾向性ができるのが、だいたい五十歳ぐらいです。これを聞くと、がっかりする方がかなりいるでしょう。十歳ぐらいのときには、その人が将来大人になり歳を取って死んで、来世、生まれ変わる時にどうなるのかといっても、わかりません。二十歳の人ならわかるかといえば、これもやはりわかりません。三十歳の人ならわかるかといえば、魂の傾向性やその人の器、能力がかなり見えてはくるけれども、まだ今世が固まっていないので、来世は決まっていません。
しかし、五十歳ぐらいになってくると、自分の能力や過去の経歴その他からいって、、今世の評価がかなり固まってきます。このへんになると、八割方は、もはや逃げられません。「あなたはこういう人間です」と言われて、言い訳できる余地は二割ほどしか残っていません。「来世はだいたいこうなりますよ」と言って、八割は当たるのが五十歳ぐらいなのです。あとの二割程度は、まだ、じたばたする余地があります。しかし、やがて棺桶の蓋が閉じて、もはや言い訳がきかなくなって、実在界のスクリーンに自分の一生を映されて、「はい、終り」の世界に入っていくわけです。このように、だんだん残りが少なくなって、また来世の「生」「老死」(老病死憂悲悩苦)となります。
〇三世両重(さんせりょうじゅう)の因果
また、この「十二縁起」をさらに分解して、「過去世の『無明』と『行』という因があって、『識・名色・六処・触・受』という果がある。また、『愛・取・有』という、人間として生きている間につくる新たな原因、この『無明』と『行』があって、果としての『生・老死』がまたできあがる。このように因果がダブルで出てくる」というように説明する人がいます。そして過去世・現世(現在世)・未来世という三世にわたった生まれ変わりであるというので、それを「三世両重の因果」と言うこともあります。非常に理論的です。仏陀の弟子たちには、哲学のように頭の良い方が多かったので、こんなに見事に分類したのです。おかげで暗記するのが少々たいへんになりました。「三道」【※惑・業・苦】ぐらいに戻してくれると簡・
・です。「惑・業・苦」で説明してくれると、「ああ、なるほど」とすぐ分かりますが、「十二縁起」までいくと、暗記するのが大変になってきます。
【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第6章『「業」と輪廻』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第3章「愛の大河」
2 愛の存在
人々は、愛について考える機会がたくさんあります。しかし、愛そのものを見たという人は、ひとりもおりません。愛とは、それを手に取ってみることができないし、これが愛ですと取り出して、人に見せることもできないものだからです。
しかし、考えてもごらんなさい。人間は、どれだけ、目に見えず、手に触れることもできない存在を信じているかを。たとえば、風。あなたがたは、風そのものの存在を見て、確かめることができません。とはいえ、木の葉が舞いあがり、木々がざわめくとき、あなたがたは、風の存在を信じます。あなたがたの肌に触れるので、そのやさしさを、その冷たさを、その力強さを、知っています。これが「風」だと表現することはできます。ただし、その風を捉えて、箱のなかに入れて、、そこから取り出して人に見せるわけにはいきません。
愛とは、すなわち、風のようなものです。だれもがその存在を信じ、それが存在するという感覚を共有しながらも、それを客観的に証明して見せるわけにはいかないのです。あなたがたは、愛の存在を証明することはできません。しかし、愛の臨在を感じることはできるのです。これが愛だと取り出して見せることはできなくても、そこに愛があるということを感じ取ることはできるのです。
愛とは、なんと神によく似た存在でしょうか。神について、いままで、多くの人が語り、多くの人が信じてきたにもかかわらず、これが神ですという具合に、それを取り出して見せることは、だれにもできませんでした。かつて、たくさんの偉人たちが神について、宗教、哲学、詩、文学においてあれだけ語りながらも、だれひとりとして、神の存在証明を提示することはできませんでした。
あのイエス・キリストでさえ、人々に、神の姿を見せることができなかった。天なる父を、あの方をごらんなさいと、人々に示すことはできなかたのです。
「私の言葉を聞く者は、私の天なる父の言葉を聞く者である。父が、われに来て、いま、語っておられるからである。私の業(わざ)を見る者は、私の天なる父の御業を見るに同じである。父が、私にこの業をなさしめているからである」
と、イエスは、いつも語っていました。つまり、イエスは、自分が語り、自分が行ったことを通して、神を感じとりなさいと、つねに、教えておられたのです。ですから、人々は、彼の権威ある言葉を聞き、そこに神を感じ、彼に帰依したのです。
人間にとって、いちばん重要なものは、かえって存在証明になじまないものが数多くあるのです。いつの時代においても、そうです。いつの時代でも、一番大切なものは、その存在を証明できないことの方が多いのです。
神―愛―勇気―叡智―善―優しさ―美―調和―進歩―慈悲―真理―真心―無私。
これらはすべて、宇宙に満ち満ちている実在であり、光の世界においては、これらの言葉を知らない方はひとりもおりません。しかし、この地上では、だれひとりとして、そうしたものが、確かなる存在だと証明することができないのです。なぜならば、これらの大切なものは、すべて四次元以降の実在界にある存在だからです。すなわち、三次元的材料をもってしては、証明することができないのです。
現在、私が認識している根本仏(根源神)とは、二十次元以降の超高次元の存在を意味します。ですから、その存在を三次元の基準で証明することは、不可能なのです。だからこそ、「信仰」というものがあるのです。「信仰」という言葉は、「信じて仰ぎ見る」という意味です。信じるとは、感じ取り、受け入れるということです。そして、仰ぎ見るとは、おおいなるものに敬意をはらい、自らをむなしくするということです。
イエスはいいました。「神は愛なり」と。愛とは確かに神の所属のひとつでありますが、イエスはこのときに、それ以上のことを語っていたのだといえます。
「神は、その存在を証明しうるべきものではない。あえて、神に似ているものをあげよというならば、それは、愛である。愛は、その存在を何びとも証明しえないにもかかわらず、人々は愛のすばらしさを知っているではないか。愛のよさを知っているではないか。そして、愛を手に入れんと努力し、その愛の力を信じているではないか。
信仰とは、そうしたものである。愛の存在を信じる者は、神の存在を信じよ。愛の力を信ずる者は、神の力を信ぜよ。なぜならば、神は、愛だからである。見よ、神の子であるわれイエス・キリストは、愛の業をなすなり。これ、われがなすにあらず、我が天なる父、わが神、われに来りて、われにこの業をなさしめるなり、愛を見んとせば、なず、わがなす業を見よ。そこに愛があり、そこに神がある」
右にあげた言葉は、いまから二千年近いむかしに、イエス・キリストが、ナザレの地で語っていた愛の話の復元です。当時は、私が天上界からイエスを指導していたからこそ、私は彼の言葉を知っているのです。
【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第1章 四次元の世界
10 進化への道
四次元のこと、すなわち、三次元地上世界を去り、あの世に行ってからの生活について、さまざまに述べてきましたが、多くの人が考えるのは、「なぜそのようになっているのだろうか」ということだと思います。
「なぜ天国や地獄があるのだろうか。そうした世界があることを、この世に生きているときに、なぜ教えてもらえないのだろうか。なぜ肉体と霊があるのだろうか。この世でもあの世でも、霊であればいいではないか」と考える人も多いでしょう。
肉体から霊への移行は、せみが皮を脱いで羽化登仙するようなものです。何年ものあいだ地下で眠っていたせみの幼虫が、やがて木に登って幹の途中で止まり、殻を脱いで羽を出し、大空を飛びまわる―こうしたものによく似ています。
また、葉の上をはっていた醜い青虫が、いつのまにか蛹(さなぎ)になり、やがて紋白蝶や揚羽蝶になるのを見ることもあります。青虫が蛹(さなぎ)になり、やがて蝶(ちょう)になっていく姿は、実は、人間の転生輪廻の姿を教えんがために、仏が創ったものなのです。そのように姿を変えながら人間は進化しているのです。
なぜ青虫が蝶になるのか不思議でしょうが、仏がそのように創ったのは事実であって、誰も否定できません。何十本もの短い足を持ち、体をくねらせながら葉の上を歩きまわり、醜い顔をして歯を食んでいたものが、いつかしら羽を生やして大空を飛びまわる姿は、人間の霊的進化を暗示しているのです。
そのような姿を、なぜ仏は創ったのでしょうか。結局、そこには仏の慈悲が働いているのです。蝶が蝶として、最初から大空を飛びまわってもいいのですが、それ以前の段階で、地の上をはうという不自由な生活をすることで、大空を飛ぶことがどれほど素晴らしいか、その生きがいというものを、仏は人間に教えているのです。
人間に生まれていながら、「紋白蝶になりたい」と思う人はいないでしょうが、大空を自由に飛ぶ紋白蝶の姿には、人間にも味わえないような素晴らしさがあります。人間にはないような幸せが紋白蝶にはあるのでしょう。こうしたなかに、仏の慈悲というものがあるのです。仏はそうした幸せを紋白蝶に与えているのです。
同じように、肉体という不自由なものに宿って生活している人間も、やがてそれを脱ぎ捨てることによって、本来の霊的な姿が出てきます。そのときに、人間は自分のすばらしさを数倍も数十倍も感じていくのです。
地上においては、思ったことがなかなか実現しないために、人間は焦りや疲労、無力感を感じます。しかし、あの世は思ったことがすぐ実現する世界です。人間はその素晴らしさに気づき、「こんなことは地上ではなかった。これは何十倍も素晴らしいことだ」と感じるのです。
こうした素晴らしい霊的進化への道こそ、仏が用意した、あの世とこの世のしくみなのです。なぜなら、こうした脱皮、次なる段階への昇華がなければ、ほんとうの意味での幸せを感じ取ることができないからです。
霊的であることは、仏の本質と同じ本質を持っているということです。仏の本質と同じ本質を持っていることを、各人が実体験として味わうことができるのです。これはすばらしいことです。こうしたすばらしい世界のなかに、みなさんは生きているのです。
そして、一時期、百年、二百年と地獄で苦しむ経験があったとしても、それもまた、長い目で見たときには、本人を進化に導くための砥石なのです。つまり、本人が最も欠点としているところを、徹底的に反省すべき環境におかれるのです。これは一概に悪ではなく、彼らも進化への途上にあるということです。
だからといって、地獄をそのまま放置しておいていいわけではありません。その間、苦しみは苦しみとしてあるのですから、その苦しみから脱するために、本人がいち早く間違いに気づくように指導し、正しい方向へ歩めるようにしていくのが真のあり方であり、仏の心に適った方法でもあるのです。
他人の力によって、そうした努力はなされています。ただ、他人の力がなくても、やがて本人が自分で気づいていけるように、地獄という存在があるのです。少しは後退していくように見えても、長い目で見れば、結局、すべてが進化への道を歩んでいるということです。この事実に間違いはありません。
【大川隆法『永遠の法』第1章「四次元の世界」より抜粋】
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現代科学がいくら発達しても、霊界や天国地獄の存在がないということを証明できたことはありません。一方、世界の歴史上、神仏や存在し、あの世や天国・地獄が存在することを語り伝え要した人々が、時代を超えて数限りなくいます。
経典『地獄の法』はあの世を信じない人に対して、生きているうちに死後苦しまないようにするために説かれた救世の法です。地獄をこえて、天国にいたる門をあける鍵は信仰心であり、世のため、人のために、聖なるものを守るために捧げる利他の念いです。それを伝える教えが『地獄の法』です。これは形を変えた『メシアの法』の続編であると私は考えています。
本日の教えで特に重要なのは以下の言葉ではないかと思います。
『人間にとって、いちばん重要なものは、かえって存在証明になじまないものが数多くあるのです。いつの時代においても、そうです。いつの時代でも、一番大切なものは、その存在を証明できないことの方が多いのです。
神―愛―勇気―叡智―善―優しさ―美―調和―進歩―慈悲―真理―真心―無私。
これらはすべて、宇宙に満ち満ちている実在であり、光の世界においては、これらの言葉を知らない方はひとりもおりません。しかし、この地上では、だれひとりとして、そうしたものが、確かなる存在だと証明することができないのです。なぜならば、これらの大切なものは、すべて四次元以降の実在界にある存在だからです。すなわち、三次元的材料をもってしては、証明することができないのです。
現在、私が認識している根本仏(根源神)とは、二十次元以降の超高次元の存在を意味します。ですから、その存在を三次元の基準で証明することは、不可能なのです。だからこそ、「信仰」というものがあるのです。「信仰」という言葉は、「信じて仰ぎ見る」という意味です。信じるとは、感じ取り、受け入れるということです。そして、仰ぎ見るとは、おおいなるものに敬意をはらい、自らをむなしくするということです』
「信仰」こそが、この世とあの世の壁を打ち破り天国にいたる道であり、「神様・仏様を信じる」これが天国への道なのですね。これはこの世とあの世を貫く秘密の力の部分です。
この世にある目に見えるものや、聞こえるもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れられるもの
、五官で感じるものによって、形あるものによって、形なき仏や神や、天国や、あの世を証明することはできないということは重要な真実です。だからこそ、信じることがこの世においてあの世において尊いことであることが分かります。私たちは信仰を通してでなければ、仏神や天国世界の実在を本当に知ることができないのです。共に本物のエルカンターレ信仰を日々に主への感謝と共に高め、深め、広めてまいりましょう。
また、『永遠の法』では、四次元世界の総括として魂の進化への道として、蝶が羽化登仙する姿や、地獄での経験について教えていただきました。この論点は経典『地獄の法』においても大変重要ですのでくり返し学びたいところです。特に最後の個所は仏の立場でなければわからない霊的真実でした。
青虫が蛹(さなぎ)になり蝶(ちょう)になる。羽化登仙(うかとうせん)のプロセスは仏が人間に肉体を脱ぎ捨てて、霊となる転生輪廻のプロセスを暗示によって教えるために創られたという言葉に感動しました。本日の引用ではこのようにありました。
『肉体から霊への移行は、せみが皮を脱いで羽化登仙するようなものです。何年ものあいだ地下で眠っていたせみの幼虫が、やがて木に登って幹の途中で止まり、殻を脱いで羽を出し、大空を飛びまわる―こうしたものによく似ています。
また、葉の上をはっていた醜い青虫が、いつのまにか蛹(さなぎ)になり、やがて紋白蝶や揚羽蝶になるのを見ることもあります。青虫が蛹(さなぎ)になり、やがて蝶(ちょう)になっていく姿は、実は、人間の転生輪廻の姿を教えんがために、仏が創ったものなのです。そのように姿を変えながら人間は進化しているのです。
なぜ青虫が蝶になるのか不思議でしょうが、仏がそのように創ったのは事実であって、誰も否定できません。何十本もの短い足を持ち、体をくねらせながら葉の上を歩きまわり、醜い顔をして歯を食んでいたものが、いつかしら羽を生やして大空を飛びまわる姿は、人間の霊的進化を暗示しているのです。
そのような姿を、なぜ仏は創ったのでしょうか。結局、そこには仏の慈悲が働いているのです。蝶が蝶として、最初から大空を飛びまわってもいいのですが、それ以前の段階で、地の上をはうという不自由な生活をすることで、大空を飛ぶことがどれほど素晴らしいか、その生きがいというものを、仏は人間に教えているのです』
仏はただ単に、青虫が蝶になることを目的にされていのではなく、青虫がいろいろな教訓や学びをたずさえて成長するプロセスを大切にされています。仏が私たち人間を創造されたのは、ただ人間が成長して天使や菩薩になることのみならず、そのプロセスにおいて、愛・知・反省・発展の四正道の道を歩む中で、悟りという果実と悟りに伴うユートピア建設という幸福をよしとされているからです。その悟りと幸福を手にするためには霊的人生観が必要不可欠です。本日の引用ではこのようにありました。
『霊的であることは、仏の本質と同じ本質を持っているということです。仏の本質と同じ本質を持っていることを、各人が実体験として味わうことができるのです。これはすばらしいことです。こうしたすばらしい世界のなかに、みなさんは生きているのです。
そして、「時期、百年、二百年と地獄で苦しむ経験があったとしても、それもまた、長い目で見たときには、本人を進化に導くための砥石なのです。つまり、本人が最も欠点としているところを、徹底的に反省すべき環境におかれるのです。これは一概に悪ではなく、彼らも進化への途上にあるということです。
だからといって、地獄をそのまま放置しておいていいわけではありません。その間、苦しみは苦しみとしてあるのですから、その苦しみから脱するために、本人がいち早く間違いに気づくように指導し、正しい方向へ歩めるようにしていくのが真のあり方であり、仏の心に適った方法でもあるのです。
他人の力によって、そうした努力はなされています。ただ、他人の力がなくても、やがて本人が自分で気づいていけるように、地獄という存在があるのです。少しは後退していくように見えても、長い目で見れば、結局、すべてが進化への道を歩んでいるということです。この事実に間違いはありません』
この深い教えと特に感動的で、仏の慈悲を感じざるをえない所でした。繰り返し読み味わいましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(10/16-1)【基礎教学通信】289『太陽の法』を読む22「仏法真理は語る」愛の存在―「悟りの挑戦(上巻)」十二縁起による輪廻観―『永遠の法』進化への道
