61 分福(ぶんぷく)の心は大切である。おすそ分けの心を持て。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
8月3日(日)音楽祭「響感2025―主なる神を愛する―」が名古屋正心館を本会場に全国の支部・拠点にて14時より衛星中継されます。
幸福の科学 大川隆法総裁先生 作詞・作曲の音楽は、ロックやバラード・ポップス等、様々なジャンルにわたり、その数は450曲以上にのぼります。
主なる神は、全ての人を愛しています。その愛のために生まれた美しい天上の界の調べを是非、ご体感下さい。皆様のご来館をお待ち申しあげています。
8月10日(日)~ 8月12日(火)まで、お盆の供養大祭を開催いたします。この期間、
ご家族やご親戚の「個人名」でも、「〇〇家」の先祖への供養でもお受けいただけます。
大宇宙の創造主 にして地球神 であられる 主エル・カンターレへの信仰のもと、縁ある諸霊の供養を行い、故人への伝道、最大の報恩の機会とします 。
【お盆の幸福供養】
○幸福供養 先祖供養……仏説・願文『先祖供養経』
※ご家族やご親戚の「個人名」でも、「〇〇家」の先祖への供養でもお受
けいただけます。
○個人供養……仏説・願文『先祖供養経』
※友人・知人など、縁ある故人への供養。
○水子供養……仏説・願文『愛児・水子供養経』
※四正道を説いても少し難しいと思われる小さなお子様への供養。
(参照:『仏説・願文「先祖供養経」講義』
※各1 万円目安。(学生 3 千円)
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さて、ここからは、一年を通して非常に霊的な季節である「お盆」を迎えるに当たり、教典『信仰のすすめ』から第2章の「死後の世界について」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、経典『信仰のすすめ』のまえがきに、「手ごろなかたちで、幸福の科学の教え、その方向性をまとめたものであり、また、宗教書としてとても良心的な内容になっていると思う。一人でも多くの方に本書を読んでいただけることを切に願っている」と語られており、幸福の科学の信仰論の手引書ともなっています。本経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1500円】
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■『信仰のすすめ』第2章 死後の世界について
2信じることは大きな力となる
○信じることで新しい世界観を獲得できる
この世の人生では、「いろいろな可能性があるなかで、あなたは何をつかみ取りますか。今世の自分の考え、思想として、人生の結論として、何をつかみ取りますか」ということが問われます。そして、死んだときに、それが満点であるか、合格点であるか、落第点があるかが分かることになっています。
その段階で、この世での成功や失敗、「偉い」「偉くない」などの、この世的な価値観がひっくり返るようなことが、たくさん起きてくるのです。
地上において、いくら、霊界の存在に疑問を持つ人や、宗教に対して不信感を持ったり、宗教を迫害したりする人がいても、霊界側が泰然自若(たいぜんじじゃく・何事が起こっても落ち着き払って、少しも動じないさま)としているのは、人間は、みな、やがて死ぬからです。
「信じられない」と言って騒いでいても、それは、ほんの数年か数十年だけのことであり、死んだときに、すべてが明らかになります。人間はやがて必ず死ぬので、最後は問答無用で霊的世界を体験しなければいけなくなるのです。
「試験問題が難しくて解けない」と言われても、霊界側は、「試験終了のチャイムが鳴るまでは、しかたがない」と思って見ています。
地上の人のなかには、問題をすらすら解いている人に対して、「おまえは、けしからん。ずるいことをしているのではないか」などと言う人もいます。しかし、その問題は、各人が自分で説かなければいけないことになっているのです。
「そういうことを、理解できるか、できないか。信じられるか。信じられないか」ということは、リトマス試験紙の検査のように、「あなたは、どういう人間であるか」ということを示しています。
「あの世の世界を知る」ということは一つの大きな力ですが、知るだけでなく、信じることができたならば、それはもっと大きな力になります。
「信じる」という行為は、外国へ行くために船に乗ったり飛行機に乗ったりすることに当たります。リスクはありますが、それによって大きな旅ができます。未知なる大陸、未知なる世界に旅をし、新しい世界観を獲得することができるのです。信じることができない場合には、自分の歩ける範囲以外の世界を見たり体験したりすることはできなくなります。
3 臨死体験が示すもの
○数多く報告されている臨死体験
医学の世界においては、ここ二、三十年のあいだに、臨死体験というものについて、いろいろな発表がなされていて、現在では、末期医療も含めて、臨死体験が研究のテーマの一つになっています。臨死体験を真っ向から否定する人は減ってきており、「多少は、そういうものもあるのかな」と思われて、半信半疑ながらも、研究の対象にはなってきているのです。ただ、まだ宗教とリンクするところまでは行っていません。
医者が研究した結果、「交通事故に遭ったり、心臓発作や脳の病気などで倒れたりする人が、意識を失い、心臓が停止した状態のときに、魂の対外離脱、幽体離脱の経験をする」という報告が、何千、何万と出ています。
臨死体験のケースはいろいろですが、たいていは、心臓停止のあとに、幽体が頭のあたりからスポッと抜けていくことが多いようです。そして、病院の集中治療室などのベッドに寝ている自分を、二、三メートル上の、天上あたりから見ていることが多いのです。
幽体が抜け出しているあいだは、痛みもなく、とても安らいだ状態でいるのに、下のほうでは、医者や看護師、身内などが来て、「死んだ」「死んでいない」などと言ったり、手術をしようとしたりして、大騒ぎをしています。
ベッドに寝ている自分を見ると、タコ足配線のようにパイプを体にたくさん入れられ、見苦しい格好になっています。そのため、「もうやめてくれ」と言うのですが、そこにいる人たちには聞こえません。
その後、三十分か一時間、あるいは、それ以上たって息を吹き返したときに、自分の見てきた世界について話をするわけです。
そういう体験についての報告は、かなりまとまったものが、いろいろなかたち出ています。
【大川隆法『信仰のすすめ』第2章「死後の世界ついて」より抜粋】
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本日も、幸福の科学が目指すユートピアについて、ともに考えてまいりしましょう。
幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています―経典『ユートピア創造論』にあるように、私たちが「正しき心の探究」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。
そこで、ここからは、私たちが日々取り組んでいるユートピア活動の原点に立ち返り、幸福の科学がどのようなユートピアを目指しているのかを改めて確認する機会とさせていただきます。経典『ユートピア創造論』をお持ちでない方は、是非拝受ください。【税抜き1500円】
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■『ユートピア創造論』第2章「進歩と調和の挑戦」
2幸福とは何か
〇幸福とは何か(※前回の続き)
③消極的幸福と積極的幸福
幸福のとらえ方には、古典的な考え方が二つあります。
一つは「満足」の面を中心に考えるものです。これはわりとポピュラーな考え方です。
たとえば、汗を流して一日じゅう働き、家に帰ってお茶を一杯飲みながら、「今日もよく働いたなあ」と思って満足するという幸福があります。あるいは、子供が毎日すくすくと育っていくのを見て、うれしく感じる幸福もあります。
このように、「満足」というものを中心とした幸福は、人びとのあいだに根強く浸透してきました。
一方幸福というものを、もっとドラスティック(過激)に、もっとダイナミックにとらえる人たちも、歴史上、数多くいました。このような人たちは、圧倒的な善念と光を持って、他の人びとをぐいぐいと引っ張っていくようなリーダーだったと思います。
このようなリーダーたちは、歴史の転換点においてそそり立ち、「人間の幸福は停滞のなかにあるのではない。人間の幸福は、向上を目指す、より積極的で力強いもののなかにあるのだ」と獅子吼してきたのです。
この「進歩・向上」の面を中心とする幸福は、きわめて力強いものがあります。その結果、各時代において、人類の幸福の水準そのものを引き上げてきた面があることは否めないと思うのです。
「足ることを知る」という意味での消極的な幸福が、真なる幸福の科学なのか。それとも、「発展・成長を喜ぶ」という意味での積極的な幸福が、真なる幸福なのか。
この選択を巡り、みなさんは人生の途上において、何度も逡巡してきたに違いありません。いや、現在ただいまにおいても逡巡(しゅんじゅん)し、迷っているに違いないのです。
しかし、古来から、「真理は中ほどにあり」と言われています。二つの相対立するものがあって、どちらにも強く心ひかれるならば、必要な面がどちらにもあることを認めなければなりません。すなわち、幸福の二つの側面は、車にたとえると、アクセルとブレーキの意味を持っているのです。
人はともすれば過熱し、無我夢中の人生を生きることがあります。そうした人は、ときおり、ブレーキ役としての「足ることを知る」という幸福を知る必要があります。
熱に浮かされたように夢中で生きているなかにおいては、実は他の人びとの幸福を吸い上げてしまい、その人たちを悲しませていることも多いのです。
ところが、自分の夢にだけ夢中になっていると、そことが分かりません。自分の夢を実現することばかりに心を置いていると、そのあおりを受けて他の人が苦しんでいることがある、ということを忘れてしまうのです。
このような人は、人生においてときおり挫折を経験し、「現在ただいまのなかにある幸福」というものを発見しなければならなくなります。そうした自動調整装置が働くようになってくるのです。
逆に、足ることを知り、毎日、堂々巡りの人生を生きている人、その日暮らしの人生を生きている人に対しては、次のようなアドバイスが必要になります。
「それだけではだめです。人生にはアクセルも大事です。アクセルを踏むことを忘れては、車は前に進みません。
停まっていれば自分は安全だと思っているのかもしれませんが、あなたがいる道路を、どこだと思っているのですか。単なる田舎道だと思っているのですか。しかし、そこは高速道路かもしれませんよ。あるいは、都会の道路かもしれませんよ。
自分は停車していて、それで事足れりと思うかもしれませんが、あなたの後ろに続いている車をどうするのですか。後ろの車があれだけ警笛を鳴らしているのが、まだわからないのですか」
こうしたアドバイスがあてはまる人もいます。これもまた、ある意味でのエゴイスト(利己主義者)なのです。
他の人たちが積極的人生を養成し、より一層の発展を願っている時に、自分主義というか、「自分には自分の生き方がある。人は人、われはわれ」と、「ゴーイング・マイ・ウェイ」(わが道を行く)の人がいるのです。
それもひとつの生き方ではあります。しかし、車のたとえで述べたとおり、迷惑のかからないところに駐車していればまだしも、都会の一番交通の激しいところに車を止めておいては、五秒ともたないのが現実です。ましてや、一分、二分、三分、・・・と停めておいて、おいて、いったいどうしますかということです。
以前、『レインマン』という映画を観たことがあります。アカデミー賞を受賞した映画ですが、そのなかに、ダスティン・ホフマン演ずるレイモンドという人物が出てきます。彼は完全主義というか、非常に杓子定規な生き方をしているのです。
その映画には次のようなシーンが出てきます。レイモンドが道路を横断している途中で、目の前の信号が変わり、「ドント・ウォーク」(歩くな)という言葉が表示されると彼は立ち止まってしまいます。そして、横の車が参加に警笛を鳴らしているのに、「歩くなと書いてある」と入って動かないのです。
観ていておかしかったのですが、このような人が世の中にはたくさんいます。これが、「足ることを知る」という幸福にひたっている人です。
信号が変わり、「歩くな」という表示が出たからといって、歩行者が横断歩道の途中で立ち止まってしまえば、横の車は通れません。その場合、歩行者は足早に駆け抜けなければいけないのです。
これと同じく、みなさんはともすれば横断歩道の途中で立ち止まっていることがあります。しかし、自分が立ち止まることが、他の人に迷惑をかけることもあるのです。
結局、集団の一員として人生行路を渡っていくためには、ブレーキとアクセルの両方がぜひとも必要だということです。人間の生き方を一律に決められないのは、ここに理由があります。
道路の混みぐあいを見ながら、アクセルを踏まなければいけない時もあれば、ブレーキを踏まなければいけない時もあるのです。同じ道路であっても、車が渋滞している時もあれば、車の量が少なくて非常に速く走れる時もあり、日によって、あるいは時刻によって、走行の仕方は違ってきます。
同じように、数十年の人生のなかでは、いろいろな環境に合わせて、自分の操縦方法を変えていく必要があるのです。この観点を決して忘れないでいただきたいと思います。
④宇宙を貫く黄金の道―仏法真理
【※経典『ユートピア創造論』】第一章第一節では、さらに、「いろいろな時代に説かれた仏法真理、あるいはユートピア論は、つまるところ、私的幸福と公的幸福の大調和の実現に目的があったのです」と書いてあります。これは一つの発見です。
みなさんがいま受け入れている道徳観、あるいは「人間はこう生きるべきだ」という考え方は、宗教や哲学を学んでいなくても、成人する過程で身につけてきたものでしょう。
たとえば、「契約を破ってはいけません」「人のもとを盗んではいけない」「他人に暴力を加えてはいけない」など、基本的な教えはいろいろあります。それらは、世界各国で法律に定められていることからも分かる通り、ある程度、人類のコンセンサス(合意)の部分です。
実は、こうしたものの源流はすべて仏法真理にあります。これは結局、地上に生きている数多くの人間が、最大多数の幸福を享受できるための方法論であり、導きだったのです。そのように理解してください。
すなわち、宗教的真理ともいうべき本来の教え、仏法真理は、人間の心や頭脳の片隅にだけ置かれていてよいものでないのです。これは人類の目の前に広がって伸びている堂々たる
大道路であり、黄金の道なのです。これが実は中心の道だということです。
みなさんのなかには、まだ趣味や興味などから仏法真理を学んでいる人がいるかもしれません。しかし、これは人生の大道、いや宇宙の大道であり、宇宙を貫いている黄金の道そのものなのです。
つまり、仏法真理が中心にあったうえで、それ以外のものが脇に分散し、発展しているにすぎないのです。この根本を忘れてはなりません。
そして、仏法真理が宇宙の常識であり、人類史の常識でもあるということを知らしめるために、幸福の科学が活動をしているわけです。
これが根本の道であり、すべてのものは、この道を中心にして、発展・繁栄していかなければならないのです。
その意味では、本書によってユートピア論を学んでいることに誇りを持ち、それが黄金の道を歩むことでもあることを知っていただきたいと思います。
【大川隆法『ユートピア創造論』第2章「進歩と調和の挑戦」より抜粋】
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本日も経典『ユートピア創造論』の第一章「ユートピア創造論」の講義を振り返ります。
まず③の「消極的幸福と積極的幸福」では、私たちの幸福には、「消極的幸福」としての「足ることを知る」というものがあり、一方で、「積極的幸福」として、無限の「進歩・向上」を目指して自己実現を求めていく幸福があることを教えていただきました。
すなわち、幸福の二つの側面は、車にたとえると、アクセルとブレーキの意味を持っているということを教えていただきました。
このアクセルとブレーキを両方織り交ぜる生き方、結局、集団の一員として人生行路を渡っていくためには、ブレーキとアクセルの両方がぜひとも必要であることを学びました。
そして、④の「宇宙を貫く黄金の道―仏法真理」では、「いろいろな時代に説かれた仏法真理、あるいはユートピア論は、つまるところ、私的幸福と公的幸福の大調和の実現に目的があったのです」という発見から、このように最後まとめられています。
「すなわち、宗教的真理ともいうべき本来の教え、仏法真理は、人間の心や頭脳の片隅にだけ置かれていてよいものでないのです。これは人類の目の前に広がって伸びている堂々たる大道路であり、黄金の道なのです。これが実は中心の道だということです。
みなさんのなかには、まだ趣味や興味などから仏法真理を学んでいる人がいるかもしれません。しかし、これは人生の大道、いや宇宙の大道であり、宇宙を貫いている黄金の道そのものなのです。
つまり、仏法真理が中心にあったうえで、それ以外のものが脇に分散し、発展しているにすぎないのです。この根本を忘れてはなりません。
そして、仏法真理が宇宙の常識であり、人類史の常識でもあるということを知らしめるために、幸福の科学が活動をしているわけです。
これが根本の道であり、すべてのものは、この道を中心にして、発展・繁栄していかなければならないのです。
その意味では、本書によってユートピア論を学んでいることに誇りを持ち、それが黄金の道を歩むことでもあることを知っていただきたいと思います」
このように、私たち幸福の科学の会員は、「仏法真理」が宇宙の常識であり、人類史の常識でもあるということを、全世界に知らしめるために、幸福の科学が活動をしています。
これは、何ゆえに私たちが「仏法真理」を学び、世に広げようとしているのか。「幸福の科学」の原点を学ぶうえで最重要の内容です。共にしっかり学んでまいりましょう。
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8月に入り、お盆という霊的な季節を迎えるにあたり、皆様とともに「永遠の生命」についてともに考える機会を持ちたいと思います。経典『復活の法』第5章「生命の永遠について」を学び、地上世界を超えた実在世界の視点から私たち生きるべき視点を学びます。経典『永遠の法』をお持ちでない方は、全国の書店・支部・精舎で購入可能です。この機会にぜひ拝受ください。【税抜き1800円】
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■『復活の法』―第5章「生命の永遠について」―常に実在界の視点を持って生きよ
1仏法真理の勉強は魂の義務教育
○この世はミラーガラス付きの取調室のようなもの
「人間の生命は永遠である」ということを、地上の人たちが、どの程度、理解しているかというと、「ほとんど理解できずにいる」というのが、ほんとうのところでしょう。
かすかに感じとったり、物語として理解したりする場合はありますが、「実感として、生命の永遠を信じ、それをみずからの人生観にして生きる」というレベルまで行く人は少数です。そういうことを人前で言うと、この世の常識的な考え方をする人からは、笑われたり、反発されたりするかたちになっているのではないかと思います。この戦いが永遠に続いているのです。
しかし、「仏や神という存在があるのであれば、どうして、そのことがもう少しわかるようにしてくれないのか。誰にでも分かるようにしてくれたなら、それほど迷わずに済むのに、どうして苦心惨憺(くしんさんたん・※心を砕きながら、さまざまな苦労や努力を重ねること)しないと悟りが開けないようになっているのか。この世でも、横断歩道に白い線を引いたり、信号機が赤・青・黄色の光で表示したりするのだから、人々が間違わないように、もう少し分かるかたちにしてくれてもよいではないか」という考えも、一部にはあるでしょうし、あって当然であると思うのです。
「分からないようにしておきながら、なぜ、死後に裁きがあるように言うのか。その辺が不明瞭だし、フェアではない。また、科学的、合理的ではない」という考えもあると思います。
ただ、私は、霊的な体験をしている数少ない人間の一人として、「分からないには分からないだけの理由がある」と、つくづく感じるのです。
現実に、霊たちの姿が見えたり、声が聞こえたり、霊たちのしていることや、彼らがこちらに働きかけていることがわかったりする状態で、この世の人間が地上の生活を全うすることは、極めて厳しいことなのです。「霊たちに見られている」ということが分からないようになっているので、この世の人間は、プライバシーを保つことができ、いろいろなことができるのです。それが、「ガラス張りの状態で見られている」と思うと、たまったものではないでしょう。
テレビドラマなどで、警察の取調室に、「こちらからは見えないが、向こうからは見える」というミラーガラスが付いており、それを通して、本人に分からないように別室から観察している場面が出てきたりしますが、あの世とこの世の関係も、実は、そのようになっています。「あの世の霊人たちからは、この世を自由に見ることができるが、この世からは、あの世が見えない」というかたちになっているのです。
これを理不尽と見る考えもあるでしょうが、霊的な世界を実体験している立場からは、この世の生活においては、霊的なものが見えたり聞こえたりしないほうがよいと言えます。「異次元世界との交流をしながら、この世で生活する」ということは、かなり厳しいものがあり、生活に支障が出るでしょう。
ただ、そういう世界を忘れてしまってはいけないので、霊能者や預言者、宗教家など、例外として認められた一部の人が出て霊的な世界について説き、それを広げるのですが、大多数の人は、それを実際に体験することはありません。あるいは、人々が忘れ去らない程度に、ときどき、霊的な経験をさせるのですが、日ごろは霊的なものを感じないようにしてあるのです。
そういうシステムを守っていることが、よくわかります。
それはそうです。たとえば、「きょうのお昼ご飯は何を食べようか」と思ったら、「これにしなさい」という声が、あちこちから聞こえてきたりすると、普通の生活はしにくくなります。
また、何かをするたびに、いちいち、あの世から声が聞こえたり、あの世の人の姿が見えたりすると、この世の人間の主体性がなくなる面もあります。そのような環境下では、この世の人間として責任や自覚を持ち、主体的に判断しながら生きることは、かなり難しいでしょう。
そういう両面を考慮して、このようなかたちになっているのです。
そして、「死んだあと、自分がどうなるか」といことについては、「結果は、蓋(ふた)を開けてのお楽しみ」というところがあります。「分からないから、修行として、おもしろい」と言うと語弊がありますが、「分からないからこそ、修行としては、障害物競走のようで、よいところがある」ということなのです。
信じるも信じないも自由ですし、信じた結果、どうするかも自由ですし、信じない結果、どうするかも自由なのです。しかし、最後には、そのすべてについて、講評(こうひょう)、判定が行われることになっているわけです。
【大川隆法『復活の法』―第5章「生命の永遠について」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■お盆の幸福供養大祭の意義
幸福の科学の「お盆の幸福供養大祭」は、創造主にして地球最高の神・主エル・カンターレの供養の御光が、帰天されたご家族やご先祖などに直接臨む、奇跡の大祭です。
お盆は、故人へ思いが向きやすい期間であり、あの世の霊も地上にいる子孫に思いが向き、この世に帰ってきやすい期間でもあります。そのような時に、供養を執り行うことは、縁ある故人へ、エル・カンターレの御光を手向ける絶好のチャンスです。
現代では、「人生はこの世限りのものである」「あの世や霊はない」という唯物論的な考えが蔓延し、お墓やお葬式、供養も必要ない、と考える人が増えています。
しかし、人間は、死んだら終わりではなく、永遠の生命を持っています。経典『正しい供養 まちがった供養』では、「お墓には一種の“アンテナ”のような役割があります」「そうした供養のスタイルを取ることによって、天上界や地獄界にいる亡くなった方と心が通じる交差点になるところがあるのです」(p.134)と説かれています。お盆や「先祖供養」の伝統は、亡くなった方々に、思いを届け、光を手向ける機会となるので、大切にしていかなければならなりません。
供養は、一般の方にも受け入れられている宗教行事であり、関心を持っている方は多いものです。日頃なかなか支部に来られない信者の方や、ご家族・ご親戚の方にも、この機会に供養大祭にお誘いしてみることをお勧めします。折を見て、映画『ドラゴン・ハート』に描垂れている死後の世界「生き通しの人生」について語り、「あの世はあるんですよ!」とお伝えすることもできる絶好の機会です。
お世話になった方への最大のご恩返しとして、お盆の幸福供養大祭にお誘いしてまいりましょう。そして、主やご先祖に対する感謝の念いを捧げてまいりましょう。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(8/2-1)214『ユートピア創造論』⑤「進歩と調和への挑戦」幸福とは何か・宇宙を貫く黄金の道―仏法真理―『永遠の生命の』信じることで新しい世界観を獲得できる
