40 悪霊の発生源は、呪いであり、利己欲と排他性である。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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おはようございます。
7月7日は主の御生誕日でした。1956年7月7日午前7時ごろ、主は一切の衆生救済と地球を越えて銀河系を超えた宇宙の法を説くべく、徳島は川島の地にご生誕されました。
この日は、人類史上最大の奇跡として後世に語り継がれます。私たちは、2000年、3000年後には神話として残るであろう歴史的事実に立ち会っているのです。本日はこの奇跡の御生誕に主に最大の感謝と報恩を捧げるべく13時より伊勢支部・熊野拠点にて、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館より「御生誕祭」を衛星中継します。
7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。
この聖なる日に、支部に相集い、主への感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきます。皆様万難を排してご参集ください。
『精舎霊域護持植福』など各種植福を本日承っています。
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「七」は勝利の日 「七」は目覚めの日 「七はあなたの生誕の日」
私たちは 主エル・カンターレ御降臨という
奇跡の時代に 仏弟子として 主と共に歩ませて
いただけますことを 心より感謝いたします
そして 主への報恩として
日本に 全世界に エル・カンターレ信仰を弘め
地球ユートピアを実現してまいります
私たちは これからも 仏弟子の使命である 伝道に邁進し
必ずや 「七の月」の「七の日」を
主の勝利の記念日とすることを お誓いいたします
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さて、ここからは、主の御教えを世界へと広げるために、教典『大川隆法
初期重要講演集⑥悟りに到る道』から第2章の「仏陀再誕」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、一九九〇年十月二十八日に、一九九一年七月の「エル・カンターレ宣言」に先立ちて、縁生の弟子達へ、仏弟子の本懐である伝道に邁進せよと激励された、再誕の仏陀の獅子吼です。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1800円】
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■仏陀再誕
4人類の運命を賭けた聖なる戦いのために
○真実を知らない人々の死後に待ち受けているもの
ところが、わずか数十年の間にその使命を簡単に忘れ果て、あろうことか、この、神の創られた人間を「アメーバのごときタンパク質の一片が偶然に進化したもの」とするようなバカげた思想を信じ、学校教育でも流し、そして、大宇宙から見たならば取るに足らない箱庭のような世界のなかで、全世界を探求しているような気持でいるわけです。
すべては、生まれてくる前に天上界で誓った、地上で果たすべき役割を忘れてしまい、いや、あまつさえ、すでに反故(ほご)としてしまったことの結果であります。
すでに遅いことは遅い。遅きに失したと言えば、それまでであろう。
しかし、地上に生命があるということは、この地上において魂が生かされているということは、まだチャンスが残されているということなのです。毎日毎日が新たなる機会の連続であるということであるのです。
各人に残された日々は有限であります。命いつまでもあると思ってはならぬ。この地に生きていられる命は、数えられる日数であるのです。その一日一日を、己の使命を全うするために使わずして、もはや、来世への希望などないと思わねばならん。
あなたがたの多くは、わが記したる書物を読み、すでに知っているであろうが、現代の人々のその数、半数以上は地獄といわれる苦しみと悲しみと暗闇の世界へと旅立っているのが現実であります。
現実そのものがそうとうであるのに、それに輪をかけたような危険な事態が迫っているということは、どういうことでありましょう。それは、多くの魂たちが永遠の生命を押し潰されて呻吟(しんぎん)するということであるのです。
あなたがたは、その多くの同胞たちのこれからを待ち受けているところのその苦しみや悲しみに、目をつぶっていられるのだろうか。
例えば、ここに二万人の人がいるとして、このうちの一万人が、いや、一万二千人が、数年、数十年の先に、太陽の光も射さない地獄で闘争と破壊のままに生き、そして、一部の者はそこにいることもできずに地上に舞い戻って、生きている人間たちに憑依して、一時的な苦しみを逃れようとし、そして、彼らをもまた地獄の淵に引きずり込んでいるという現実があるのです。そして、そういうふうに、自分もまた、なる可能性があるのです。
その現実を知っていて黙っていることは、これは大いなる罪であります。この沈黙は罪であります。目の前にざっくりと大きな穴が開いていて、自分の友人たちがもう数歩歩けばそのなかに落ちていくというのに、黙っていることは、これは罪です。罪なのです。明らかに罪であるのです。
知っているのに、それを教えてあげることさえできないということは、何たることでありましょう。
それでも、自分の今まで数十年生きてきたところのその生活が守れたならば、それでよいと言うのだろうか。そんな狭い小さな心であってよいのであろうか。
大きな声で叫ばねばなりません。
そして、人数がとてもとても多いですから、
私たちは、知力・気力・体力のすべてを投入して、
彼らを救う時間を早めねばなりません。
早くしなければならないのです。
時間を縮めなければならないのです。
縮めなければ、それだけ遅くなるのです。手遅れになるのです。
多くの人びとが知ることなく、真実を知ることなく、
幸福な世界から消え去ってゆくのです。
もし、今、大きな戦乱が起きて、何万、何十万もの人が死ぬとしても、
そのなかに、一人でも多くの人が真理を知っているということが、
彼らを救うことになります。
肉体の生命を救うことができないとしても、
彼らの永遠の生命を幸福な世界に連れていくことは可能であります。
息を引き取るまでが勝負であるのです。
そのときまでに真実を知らなかった人々は、
それからあと、いったい誰に訪ねればいいのですか。
誰が教えてくれるのですか。
ましてや、死後の世界を信じもしなかった本人であるならば、
誰が救うことができましょう。
ちょうど、病院の前で病気になったとしても、
「医者など信用しない」と言ってその門をくぐらねば、
その人が死んでいくように、
己自身が気づかない者は、そうたやすく救っていくことはできません。
それは真実です。
【『大川隆法初期重要講演集⑥悟りに到る道』第2章「仏陀再誕」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第七番目、最後の経文である『仏説・降魔経』についてです。
『正義の言葉「仏説・降魔経」』は、『仏説・正心法語』の最後を飾るお経であり、今までにない経文だと言われています。悪魔との対決についても、「幸福の科学」の基本教義として、明確に根本経典の中に入っています。それでは、引き続き経典『仏陀の証明』より主の御解説をご紹介いたします。
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●悪魔の軍隊 ⑦疑惑
そして、疑いです。悪魔にそそのかされると、人が信じられなくなってきて、何もかもが疑わしくなってきます。
間違ったものや、人を騙そうとしているものを見抜くのは智慧の力であって、それは大事なものです。しかし、それと一見よく似ていても、ものごとを疑っているうちに、疑惑が中心となって、すべてが悪魔に見えてきたりするようなことは、また悪魔の手なのです。何もかも疑わせてしまう。そうしたことがあります。
たとえば、邪教団に対してはしかたがないことかもしれませんが、マスコミなどがよく使う手は、宗教家が幹部の前で話したことを、テープか何かで録音してきて、外で暴くというようなことです。こうしたリーク(漏洩)をします。そうすると、「誰が漏らしているのだろうか」「誰に言っても漏れるかもしれない」と、お互いにだんだん疑心暗鬼になってきます。不信感、猜疑心(さいぎしん)が強くなってきます。
それが強くなると、たとえば政治体制でいえば、KGBという秘密警察が目を光らせていた旧ソ連のようになります。「どこに盗聴器が付いているかわからない」「どこに敵と通じている人がいるかわからない」―このようなことをお互いに思いはじめると、これもまた、もはや悪魔の掌中にあります。
ですから、「悪いことを考えている人がいるので、気をつけなければいけない」ということも智慧なのですが、みんなが疑心暗鬼になってきはじめたら、これもまた悪魔の掌中にあるのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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☆悪魔の十の軍隊☆
①欲望
②嫌悪
③飢渇
④妄執
⑤ものうさ・睡眠
⑥恐怖
⑦疑惑
⑧「みせかけ」と「強情」
⑨誤って得られた利得・名声・尊敬・名誉
⑩自己をほめたたえ、他人を軽蔑する
悪魔の軍隊の七番目は「疑惑」でした。宗教組織に限らず、一般社会でもそうですが、組織の力が低迷するのは、だいたい内部で人と人同士が疑いの目でお互いを見てしまうところから始まるのではないかと思います。悪魔も悪知恵をはたらかせて、言葉巧みに「正語」の反対である、「嘘」「悪口」「両舌」「過ぎたお世辞」などを使って、人と人の中を引き裂こうとします。
悪魔のやり口は結構ワンパターンで、人の持つ欲や、嫉妬心をくすぐって、集団から個人を引き離し、引き離した個人を取り囲み餌食にしていきます。この人と人の間を引き裂くのに使うのが、本日のテーマ「疑惑」でした。人の心の中に疑惑が生まれると、人の善意や愛の心を疑い、逆に悪意に捉えたり、嫉妬を搔(か)き立てられたりして、私たちの心に宿る神仏の力を奪ってしまいます。
悪魔は私たち人間の心の隙をいつも狙っています。逆に隙が無い状態はどういう状態であるかというと、八正道による中道が取れている状態です。だから悪魔は、私たちが正しいものの見方をしている状態では、取り憑く余地がありませんので、かならず、私たちの「正見」の部分に揺らぎを与えようとします。その方法が「疑」と「悪見」です。
ですから、私たちは常に心の「中道」が取れているか。常にチェックする必要があります。そのためには、仏の教えである智慧と、自分の心をしっかりと観察できる反省の習慣が必要です。
そして、万一、サンガの中で、疑惑が生まれた時に必要なのは、三宝帰依の精神にすぐ立ち返ることが大切です。「仏【大川隆法総裁先生】」「仏の教え【仏法真理・四正道】」「仏の教えを学び伝道する仲間【支部の会員・幸福の科学のメンバー】」―この三つの宝を信じるという「信仰の原点」に立ち返ることです。なぜならば、正しいものの見方である「正見」の前提として必要なのは、正しい信仰である「正信」だからです。
三宝帰依があっての八正道です。正しい信仰の下で、智慧を生かして、原因と結果の法則に基づき周りをよく観察して正しいものの見方―「正見」をとることで、魔の惑わしを見破ることが必ずできます。新聞・テレビ・週刊誌などのマスコミやスマートフォン・タブレットなどのインターネットの世界においても「疑惑」や「悪見」が渦巻いていますので、常に自らの正見が護持できているかを注意してまいりましょう。
正しい信仰―「正信」に基づいて「正見」をなし、魔の手口を見破り、魔境を破りましょう。
そのためにも、こまめな反省を心掛けることが大切です。
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心の指針69 『心の平和』
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長い人生の間には、
あなたの敵として現われてくる人もいるだろう。
あなたを害し続ける人も出るだろう。
だが、よく知ってほしい。
愛と憎しみは、コインの裏表なのだ。
そもそも、あなたに関心のない人は、
あなたを敵視したり、
批判したりすることはないのだ。
あなたは知らず知らず、
相手の自尊心を傷つけたのかもしれない。
あるいは、
相手の厚意を無視したのかもしれない。
また、
相手の嫌っている人の味方をしたのかもわからない。
とにかく、
自分を害した人を、
いつまでも恨み続け、
憎み続けることは、
あなたの仏性を汚(けが)すのだ。
報復は、あなた自身の魂を、
地獄の泥沼に引きずり込むだろう。
許しなさい。
忘れなさい。
そして心の平和を得なさい。
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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第6章「世界宗教への道」
○個人救済の原理
教義的な側面について、さらに考察を加えたいと思います。
第一点の個人の救済という問題についてですが、キリスト教的に言われる「救済」は、仏教的に言えば「解脱」です。
「この世の苦しみ、煩悩の束縛から逃れたとき、すなわち解脱したときに人間は涅槃の境地に入れるのである。つまり、蛇が皮を脱ぐように各人が自分の重い執着を脱ぎ去ったときに、幸福になれるのである」という理論が仏教にはあります。
キリスト教における救済とは、やはり貧しき者、悩める者、悲しめる者、こうした者に安らぎと勇気と愛が与えられることだと思います。こうした救済論には、かなり他力的なものがあることも事実です。祈りによって救われる。神の恵みによって救われる。また、その手足となって活躍する神父、牧師、シスターたちの活動によって救われてゆくという面があると思います。
ですから、一方は解脱といい、他方は救済といい、説明の方法は多少違いますけれども、自力的か他力的かという違いです。解脱は自力的ですし、救済は他力的な要素をより多く持っていると思います。
そういう観念の違いはありますが、それぞれが目的としているものは一緒であり、そこに現にいる人間をいかにして幸福にするか」ということです。これは、キリスト教的には、「その人の罪をどうやって取り去るか」という問題になりましょうし、仏教的には「執着をどう取り去るか」という問題になりましょう。あるいは日本神道的には、「穢(けが)れをどう祓(はら)うか」という問題になると思います。この理論が明確になければいけません。
反省の手順、いかなるものを反省するか、どのように反省するか、これに関しては、仏教で言えば八正道というものがあります。キリスト教的に八正道のような明確なものはありませんけれども、信仰によって人が救われる、キリストを信ずることによって救われる、聖書を読み、そして神の愛を信ずることによって救われるという、信仰を中心とした救済があります。
【大川隆法『宗教の挑戦』第6章「世界宗教への道」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■御生誕祭の宗教的意義について
〇御生誕祭は、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生のご降臨への感謝と、報恩としての伝道の誓いを捧げる、幸福の科学における二大祭典の一つです。
主のご降誕に対し、心からの感謝を捧げ、主への信仰を深める日
――根本仏にして地球神エル・カンターレの御降臨は、慈悲であり奇跡そのものです――
〇御生誕祭は、主と魂の契りを結ぶ霊的な場です。そして、主への報恩として、弟子としての使命を果たす誓いを捧げる場でもあります。誓いを立てることで、信仰は本物となります。
〇主エル・カンターレ大川隆法総裁先生は、1956年7月7日朝7時頃にご生誕されました。「7」という数字は、天上界において、「勝利」と「完成」を意味します。ご生誕の「777」の数字には、悪魔を象徴する「666」にすべての面で凌駕する「勝利の宣言」が込められています。主は、この世の一切の悪なる勢力に勝利し、地球ユートピアを建設されるために、ご降臨されたのです。
〇主エル・カンターレのご本体の御降臨は、3億年前のアルファ様、1億5千万年前のエローヒム様に続き、地球の歴史上3度目に当たります。地球神であり、根本仏でもあられる主は、天上界では光そのものであり、本来、肉体を持たれてはならないご存在です。
・今世は、大川隆法総裁先生というお姿を通して、エル・カンターレのお姿をかいま見ることができる、歴史上ほんの一瞬の、稀な機会なのです。
〇本仏が下生される時代は、人類にとって危機の時代であり、同時に、新時代の幕開けとなる希望の時代です。主のご降臨そのものが、人類に対する最大のご慈悲なのです。
〇御生誕祭は、主がご降臨された奇跡の時代に、主と共に生まれ、主と共に救世活動ができることへの感謝を捧げ、エル・カンターレ信仰を深める大切な日なのです。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(7/12-1)193『正義の言葉「仏説・降魔経」について考える ⑩悪魔の軍隊 七 疑惑―真実を知らない人々の死後に待ち受けているもの
