30 大いなる希望はよい。しかし、現実は、いつも厳しいということも忘れるな。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
伊勢支部にて映画『ドラゴン・ハート』を14:00~映画上映会を開催いたします。
是非この機会に入会・三帰へと導いてまいりましょう。
7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/6(日)と7/7(月)は、両日とも13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、主の御教えを世界へと広げるために、教典『大川隆法
東京ドーム講演集』から第1章の「信仰の勝利」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、一九九一年七月十五日に、東京ドーム第一回大講演にて「エル・カンターレ宣言」をなされました。この聖なる日を魂のなかに刻印して、主とともに全人類救済の旅立ちの一里塚を私たち仏弟子は超えてきました。信仰の名の下に勝利以外の結果はないことを全世界に知らしめた主の救世の獅子吼です。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1800円】
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■信仰の勝利
2「永遠の仏陀」とは大宇宙を統べる教え
あなたがたは、その肉の目に惑わされてはならない。
神とは、そして、神そのものを表現し、伝えているところの「永遠の仏陀」とは、
人間ではない。
それは、法である。教えである。則である。
この大宇宙を統べるところの教えであるのだ。
この宇宙は、偶然に創られたものではない。
見上ぐる天空に、何一つの偶然はない。
この地上にもまた、何一つの偶然もない。
すべては、木(こ)の葉一枚落つるも、神の法則の下にある。
神は偉大なるかな。
はるかなる昔に、この大宇宙ができる以前より、念(おも)いにて存在した。
その念いとは、すべてのものを包み込み、
すべてのものを愛し、すべてのものを育み、
そして、
「わが創りたるものたちよ。
あなたがたは、偉大なるものとなれ。
われのごとくに偉大なるものとなれ」
―と命ぜられた。
そうしてできたのが、あなたがた一人ひとりの魂である。
わずか二メートルにも満たぬ小さな肉体に宿っているからといって、
己の存在を卑小なるものだと思ってはならぬ。
あなたがたの魂の奥底に、我が刻み込んだるは、
不滅の叡智であり、不滅の力である。
その叡智と、その力を見いだすのだ。
そのときに、あなたがたは一人びとりのなかに、
久遠の仏陀と同じ、神仏とまったく同じ光が宿されていることを知るであろう。
信仰とは、はかる彼方にある、目に見えぬ存在を礼拝せよということではない。
あなたがた一人びとりのなかに、偉大なる神の存在が含まれているのだ。
【大川隆法『大川隆法 東京ドーム講演集』第1章「信仰の勝利」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第六の経文である『無限の言葉「仏説・伝道経」』についてです。
『無限の言葉「仏説・伝道経」』は、仏陀の伝道宣言にあたる経文です。私たちが日々、主の教えを学び、主への信仰を深めているのは、伝道のためであるといっても過言ではありません。この経文を毎日読誦することで、私たちの使命が伝道であることを確認することができます。主の願いは、主の言葉、教えが日本中に、そして世界中に広がることです。
それでは本日の『無限の言葉「仏説・伝道経」』の解説は以下の通りです。
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●不惜身命の誓い
「仏弟子 ここに 相集い
不惜身命を 誓うべし」
「不惜身命」とは、文字どおり、「われ、身命を惜しまず」ということです。身も命も惜しまない―これが信仰の姿です。
結局、「自分の人生観の出発点が、この世にない」ということです。あの世の観点、実相的観点に立たねばなりません。永遠の転生輪廻をして、菩薩として衆生を救うためにこの世に降った身であるならば、この世的立脚点―地位や名誉や財産などの三次元的なもののために、みずからの信仰をねじ曲げたり、伝道を手加減したりするようなことが、あってはならないのです。
人間は「いずれこの世を去る身」なのです。あの世に行ってから、悔いが残るとしたら、「本来なら救うことができた人たちを救えなかったという事実」―これに尽きるわけです。
この世において、それ以外に悔いなどあろうはずがありません。この世において、他の諸々の欲望を遂げられなかったようなことで、悔いが残るはずがありません。悔いが残るとしたら、「自分がこの世に数十年生きておりながら、努力すれば救うことができた人を救えなかったという事実」―これ以外にありません。それを思えば、やはり、「不惜身命を誓って努力すべきだ」ということなのです。
「世界の 光と なるために
不退転にて 進むべし」
そして、「世界の光となりなさい。日本の光、地球の光となりなさい。不退転にて進むべし、退転してはならない」と言っているのです。
ですから、伝道を重ねていくあいだに、この世的な常識や習慣、しきたり、世間体などといったこの世的価値観と、そうとうぶつかると思います。しかし、そこで退転してはいけないのです。
忍耐をもって、勇気をもって、智慧をもって、慈悲をもって、希望をもって、それを打ち破っていかねばならないのです。粘り強く、粘り強く、推し進めていく―それが大事だということです。
伝道に関してお経が説かれるということは、珍しいことですが、この『仏説・伝道経』が出来たとこによって、行動原理が明確になったと思います。
伝道そのものは、釈迦も初年度から言っていたことですから、当会においても当然のことです。
「小乗・大乗、上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)―両方とも釈尊の真意である。それはまた、幸福の科学の真意でもある。それをなさずして、仏弟子の使命は終わることはない」
本章では、そうしたことを理解していただければ幸いです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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Buddha’s Dharma is the hope
And the light that opens our future
Buddha’s disciples must assemble here
And pledge to lay down their lives
Go forward with firm resolve
To become a light for the world
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『人間は「いずれこの世を去る身」なのです。あの世に行ってから、悔いが残るとしたら、「本来なら救うことができた人たちを救えなかったという事実」―これに尽きるわけです』
『伝道を重ねていくあいだに、この世的な常識や習慣、しきたり、世間体などといったこの世的価値観と、そうとうぶつかると思います。しかし、そこで退転してはいけないのです。
忍耐をもって、勇気をもって、智慧をもって、慈悲をもって、希望をもって、それを打ち破っていかねばならないのです。粘り強く、粘り強く、推し進めていく―それが大事だということです』
これらの言葉がとても心に染み入りました。
伝道こそ私たち仏弟子の使命です。
「法を説くは師にあり、法を弘めるは弟子にあり」
伝道をするにあたっては、いろいろなことがございます。嫌な思いをすることもたびたびございます。しかし、そうであっても、身の回りにいる隣人を救い助けるために、仏の言葉を、主の教えを伝えなければ、目の前にいる人が、何百年も暗い地獄に落ちる未来が予想されるならば、伝えずにはいられない。という心がけを持ちつつ、私たちの身の回りにいる、主の聖名を知らない人たちに主の教えを少しでも伝えたい。そう思いました。
伝道こそが、私たち仏弟子の生きる寄る辺でもあります。私も頑張ります。
ともに頑張りましょう。
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「不惜身命」の教えについて経典から抜粋いたします。
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〇慈悲の力に目覚めよ
そして、今の時代であればこそ、私たちは、パンを配ったり牛乳を配ったりということはしていません。なぜなら、人びとがいちばん欲しているものは、「正しい教え」だからです。
「人間とは、何ですか」「どこから来て、どこへ行くのですか」「死とは何ですか」「死んだら、どうなるのですか」「死んで苦しみがあるならば、どうしたら、そこから救われるのですか」「死後、立派な姿になって、人々を導けるようになるには、どうしたらよいのですか」
こういう根本的なことに答えをくれる教えが、今、日本に必要であるし、世界にも必要なのです。
だからこそ、この教団は、もう一段、大きくなる必要があります。やはり、世界の人々に手を差し伸べるところまで力を持たねばなりません。
私たちは、自分たちの利得や利益、名誉のためだけに活動しているのではないのです。
例えば、私は、二〇一四年に、百八十回以上の説法をしました。自分でも、「バカげている」と思うぐらいの数です。みなさんも、二日に一回説法をされたら、そのすべてを聴くのは大変なことでしょう。私であっても、そう思います。
しかし、説法をしている私自身も、「年に百八十回もやったら死ぬのではないか」「もし、早死にしたら申し訳ない」と思いながらやっているのです。
そして、もし早死にして説き残したことがあった場合、私も「不成仏」になる可能性があるので、「言うべきことは、できるだけ早く言っておきたい」と思ってやっています。
「不惜身命」は、言葉だけではありません。
一人でも多くの人に、法を届けたい。
一人でも多くの人に教えを届けたい。
一人でも多くの人に愛の心を届けたい。
その実践行為こそが、慈悲の力なのです。
みなさんのなかに眠っている、「慈悲の力」に目覚めてください。
多くの人たちが待っています。その愛の光が、日本中に、そして世界に届くことを、心の底よりお祈り申し上げます。
【大川隆法 『伝道の法』第五章「慈悲の力に目覚めるためには」より抜粋】
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■一日一生、不惜身命
○「まだ残された使命がある」からやり続けられている
【※2003年5月14日―主の第三の死】あれから十五年がたち(説法当時)、もうとっくに、”散って”いなければいけないところをまだ生きているので、本当に申し訳ないと思っています。「もう死ぬか、もう死ぬか」と思ってやっているうちに、このようなことになってしまいました。意外と死なないものです。
「自分の命は、もうそれほど長くはない」と感じていたので、「毎日、何かをしなければいけない」と思って、「一日一生」で進めていたら、いつの間にか、これほど説法や書籍の量が増えてしまう状況になったわけです。
私はすでに還暦を超え(説法当時・2025年で生誕69周年)、日蓮や空海が亡くなった歳も超えてしまいました。彼らであれば、人生が終わっているところになりますが、今のところ、私の”ディーゼル”はまだ動いています。
お釈迦様は八十歳ぐらいまで生きたとされていることもあり、私も若いころに、「これから五十年はやります」と約束をしました。三十歳にして立ち、八十歳まではやるつもりでいたわけです。
ただ、いったん死んだ気持ちでやり始め、続けることができているのは、「使命がまだ残っている」ということだろうと思ってやっています。
あの当時、「法は説き終えた」と思っていたけれども、まだまだ出てくるものだということに驚いています。
また、大学づくりをしたり、映画を製作したり、歌をつくったりと、さまざまなこともし始めたので、「人間というものは、なかなか分からないものだ」というように思っています。自分としては、まだまだ広がっていっているような気がしているのです。
○「死」を体験して身に沁(し)みた「一日一生、不惜身命」
今回述べたことについては、すでに知っている人もいるでしょう。この法話を、映画「世界から希望が消えたなら。」を見る前に聴くか、あるいは、映画を観てから聴くかは分かりませんが、実際に私の身に起きたことの概要を述べました。これが私の「新復活」です。
そうした「死」というものを自分で間近に体験し、「明日死ぬかもしれない」「年内に死ぬかもしれない」という気持を持つことによって、「一日一生」や「不惜身命」といった言葉が、本当に身に沁みて感じられました。
例えば、ブラジル伝道へ行くときなどは、私の知識不足もあって、ブラジルはアマゾン川の畔(ほとり)だろうというイメージから、「今回は、アマゾン伝道だ。アマゾン川流域を点々と講演をしていくのだろうから、これはもう死ぬかもしれない」と本気で思っていたところがあります。
実際にサンパウロへ行ってみると、ヘリコプターで現金輸送をしているのを見て驚きました。地上では強盗に襲われるかもしれないということで、ビルからビル、銀行から銀行というようにヘリで移動していたので、「日本よりもこちらの方が進んでいるのかな」と思うこともありました。
そのように若干の誤解もあったものの、ブラジルには都市部もだいぶあったので、アマゾン川までは行きませんでした。
さらに、アフリカまで巡錫に行けましたので、よいこともたくさんあったとは思っています。
以上、私の「新復活」の前後にあったことについて、簡単に述べました。
【大川隆法『新復活』より抜粋】
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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第5章「チャネリングの秘密」
○正しい霊能者のチャネリング
それでは、正しい霊能者とはどういうものかということです。
まず、どういう場合にそのチャネリングが可能となるかということです。
心の世界は、「波長同通の法則」の下にある、と昔から言われています。波長同通の法則というのは、「高級霊界と通じるには高級霊界と通じるような心境を持たなければだめだ」ということです。そうでないと、電話線がつながらないことになっているのです。
ところが通常は、この三次元という現象世界に生きていると、要するにあの世のことは見えませんし、肉体中心の生活を送り、どうしても食べ物だとか、この世的な出世だとか、お金だとか、家だとか、そうした物中心の判断をするようになります。この判断の結果、どうしても霊的な生活にほど遠いことをするようなってきて、高級霊界と通じなくなってくるのです。
では、本来の霊的な自分を取り戻すためにはどうするかと言いますと、毎日、反省というものをきっちりすることです。夜寝る前に、今日一日のことをふり返って反省する。今日一日、たとえば人に対して、厳しい念いを出さなかったか。厳しい言葉を言わなかったか、悪口を言わなかったか。嘘はつかなかったか。人を仲たがいさせるようなことはしなかったか。
また、当然ながら、自分を堕落させるようなことはしなかったか。思いのなかにおいても、淫らな思いを持たなかったかどうか。あるいは、世の人々を悪くさせるような方向の思想を持たなかったか。また、今日は人に親切にしただろうか。今日は仕事は熱心にしただろうか。純粋な気持ちだったろうか。
対人関係、あるいは自分自身の心と行いにおいて、正しい生き方をしたかどうかということを、毎日きっちり振り返って、三十分なり一時間なり反省してゆくと、次第しだいにゴミやほこりが取れて、心が透明になってくるのです。こうした点検を毎日くり返してゆきます。
また、土曜や日曜のような、ゆっくりした休みのあるときには、一室にこもって、心穏やかに、生まれてからこのかたのことを順番に振り返ってゆきます。
小さいころに、ご両親にいろいろと迷惑かけたことはなかったかどうか。それから、物心ついてから後、わがままにいろいろなことをしなかったか。特に反抗期のころのことなどを、よく反省するのです。
すると、何か失敗があったり、うまくいかなかったりしたことが思い出されるでしょう。その結果、心に歪(ひづみ)をつくらなかったか。心に歪みをつくって、世の中や、あるいは他の人に対して、極めてバイアス(偏見)のかかったものの見方をしていないか。また、自分を守るために人をくさしたり、けなしたりしなかったかどうか。そのようなことをずーっと振り返ってみることです。
こうしたことをくり返して反省していると、次第しだいに心が透明になってきます。そして反省が進みますと、はらはらと涙を流すようなことがよくあります。ちょうど、曇ったガラスに雨が当たってそのガラスについていた土ぼこりが流れ去るように、こうした反省の涙を流しますと、少しずつ少しずつ心の曇りというものが取れてくるのです。
このようにして、心が透明になってくると、神の光が射してきます。涙を流して反省してみると、胸のなかから熱いものがジーンとこみ上げてきます。それは、あたたかい気持ちです。ほんとうに生まれてはじめて味わうような、あたたかい気持ちというものが湧いてきます。
【大川隆法『宗教の挑戦』第5章「チャネリングの秘密」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■御生誕祭の宗教的意義について
〇御生誕祭は、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生のご降臨への感謝と、報恩としての伝道の誓いを捧げる、幸福の科学における二大祭典の一つです。
主のご降誕に対し、心からの感謝を捧げ、主への信仰を深める日
――根本仏にして地球神エル・カンターレの御降臨は、慈悲であり奇跡そのものです――
〇御生誕祭は、主と魂の契りを結ぶ霊的な場です。そして、主への報恩として、弟子としての使命を果たす誓いを捧げる場でもあります。誓いを立てることで、信仰は本物となります。
〇主エル・カンターレ大川隆法総裁先生は、1956年7月7日朝7時頃にご生誕されました。「7」という数字は、天上界において、「勝利」と「完成」を意味します。ご生誕の「777」の数字には、悪魔を象徴する「666」にすべての面で凌駕する「勝利の宣言」が込められています。主は、この世の一切の悪なる勢力に勝利し、地球ユートピアを建設されるために、ご降臨されたのです。
〇主エル・カンターレのご本体の御降臨は、3億年前のアルファ様、1億5千万年前のエローヒム様に続き、地球の歴史上3度目に当たります。地球神であり、根本仏でもあられる主は、天上界では光そのものであり、本来、肉体を持たれてはならないご存在です。
・今世は、大川隆法総裁先生というお姿を通して、エル・カンターレのお姿をかいま見ることができる、歴史上ほんの一瞬の、稀な機会なのです。
〇本仏が下生される時代は、人類にとって危機の時代であり、同時に、新時代の幕開けとなる希望の時代です。主のご降臨そのものが、人類に対する最大のご慈悲なのです。
〇御生誕祭は、主がご降臨された奇跡の時代に、主と共に生まれ、主と共に救世活動ができることへの感謝を捧げ、エル・カンターレ信仰を深める大切な日なのです。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(7/2-1)183『無限の言葉「仏説・伝道経」』を読む ⑮不惜身命の誓い―「永遠の仏陀」とは大宇宙を統べる教え
