1 病気とは、魂の休息日である。
【大川隆法 箴言集『病の時に読む言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
風薫る五月となりました。五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。
5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。
当日は13
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(水)~5/18(日)まで、新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
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■新復活
1大川隆法の闘病実話がもとになった映画「世界から希望が消えたなら。」
○映画のもとになった実際の事実を話す
本章のテーマは、実は、今年(二〇一九年)の秋に公開予定の映画「世界から希望がきえたなら。」(製作総指揮・原案
大川隆法/二〇一九年十月十八日公開予定)に出てくるテーマです。
そのなかには、主人公である御祖真(みおや・まこと)がトルストイの『復活』という本を手に取りながら病に倒れ、闘病している場面が出てきますし、復活したあとに『新復活』という本を出すシーンも出てきます。また、「新復活」という題の主題歌がエンディングで流れることになっています。
この映画では、『新復活』という本を、主人公の御祖真が書いていることになっているので、それに関する事実を話しておいてもよいのではないかと思います。
実際に私が入院したのは、もう十五年も前(二〇〇四年)のことになるので、記憶はどんどん薄れていきますし、人も変わっていきます。まだ幼くて、当時のことをしなかった方も、どんどん幸福の科学の職員や活動家になってきているので、折に触れて、ターニングポイントについての話をすることが必要なのではないかと思うのです。
私自身についても、記憶がだんだんと薄れつつあるので、忘れる前に記憶にとどめておかねばならないものもあるかと考えています。
実際に起きた事実であっても、現在、自分が置かれている状況に応じて、いろいろと「解釈」や「意味づけ」が変わってくる面もありますし、それに関係した人たちも、その後のいろいろな事情により、距離感に「近い、遠い」が出てきたので、「位置づけ」が変わって言ったりすることもあるのではないかと思っています。
十五年たって、それに関する映画をつくるに際し、私の感想も含めて、「どのような新復活であったのか」ということを簡単にお話しできれば幸いだと思っています。
○大川隆法は退社・独立後、ベストセラー作家として出版社を起こした
私は一九八一年に天上界から啓示を受けました。【※3月23日は大悟の日】そして、一九八六年に、退社・独立するように指導霊から促され、自分も決意して、七月七日、満三十歳になる日に、退職の依頼というか、辞表を会社に提出しました。
ただ、それを会社のほうはなかなか受け取ってはくれませんでした。課長は「とても受け取れない」と言い、部長も「とても」ということで、上へ上へ上がり、副社長のところまで行き、何度も揉めた上で、ようやく退社が認められたのです。
規定上、辞表を出せば、いちおう一週間で辞められることになってはいたので、七月十五日付で退社することになりました。この経緯については、さまざまなところで書いたり話したりしてきたように、準備は十分にできてはいなかったのですが、退社して独立したわけです。
この映画には、そのあたりも絡んで出てきます。
私の場合も、(この映画の主人公のように)本を出して、だんだんにファンが集まってきました。最初は、「宗教家」というかたちではない、「ベストセラー作家」というかたちで、出版社を起こしていくスタイルから始まっています。
実際には、最初から宗教家として世間に受け取られてもかまわなかったのですが、幸福の科学が宗教法人格を取得するまでの間、私は、どちらかというと、ベストセラー作家的な位置づけにされることも多く、そのような扱い方をされていたことは事実です。
最初に「幸福の科学出版株式会社」をつくり、その株式会社の法人格で、いろいろな契約などもしていました。五年ぐらいかかって宗教法人としての法人格を取得しました(一九九一年三月七日に取得※のちの宗教法人設立記念日)が、それまでの五年間ぐらいは、契約を全部、株式会社でやっていたのです。
自分としても、霊言が降りているので、「宗教家」というイメージもありましたけれども、「ベストセラー作家」的なイメージもあり、世間の捉え方も、だいたい、そういう感じであったのではないかと思います。当時はまだ、「作家イメージを出した方が、人気が出て、人が集まりやすいかな」と思っていた面もあります。
当時は「高額納税者番付」の発表をしていたころで、私はいつも作家部門のほうで申請をしていたのですが、作家部門に入れてもらえず、毎回、「その他部門」のほうに分類されていました。その他部門に入るのは文化人などです。「本を書いているだけではなく、講演会など、ほかの活動もなされていますから」ということで、その他のほうに分類されたのです。
そのため、日本画家で東京藝術大学の学長をしていた平山郁夫(ひらやま・いくお)さんや、茶道裏千家の千宗室(せん・そうしつ)さんなど、このような人たちと並べられ、その他部門で出ていたのですが、それはそれで悪くはないだろうと思います。
後半においては、若手歌手の宇多田ヒカルさんとか(歌手部門)、AKB48の曲の歌詞も書いている秋元康さんとか、あのあたりとだいたい並んで出ていました。
当時は、二、三億円ぐらい、個人で所得税を払っていたと思います。
○著書が売れて、中核の読者たちが信者になっていった
ある意味で新宗教はイメージが悪く、幸福の科学が出てきてから、それをプラスイメージに変えようとして、そうとう頑張ってはいたのです。
戦後、新興宗教や新宗教のイメージはずいぶん悪く、活動しにくい面がそうとうありましたし、私が会社勤めをしていたときにも、そのようなイメージはありました。
そのため、「本のほうから攻めていく」ということについては、「上手な攻め方だ」と、周りも、マスコミ関係者やジャーナリストたちも言っていました。「活字の信用を通じて広げていくのは賢いやり方ではないか」と言われてはいたのです。
普通の宗教の場合、「もうすでに信者がいて、出した本を信者に買ってもらう」というイメージが強いため、作家の側から見れば、「同じではない」という言い方が多いのだと思います。
しかし、私の場合は、「信者がいないときに本を出し、その愛読者が増えていき、愛読者のレベルを超えて信者になっていった」という歴史であったので、何らやましいところはなく、宗教であることをごまかそうとしたつもりはないのです。
実際に本が売れ、中核の読者たちが信者になっていきました。それが事実です。最初のころに私の本を読んでいた人は、ほぼ信者になったのではないでしょうか。最初の核ができたあたり、核としての信者が一万人か一万五千人ぐらいできたころは、初期の数年の愛読者が信者の中心だったのではないかと思います。
その意味での吸引力は、そうとうあったのではないでしょうか。実際、手紙等はそうとう来ていました。
ただ、私の場合、やや慎重な性格でしたし、合理的思考ができたこともあって、「スタート点では、やや用心深かったかな」と自分では思っています。
○「中年期を迎えた方々が背負っている重み」をも描いた映画
(私の人生における)節目は幾つかあります。「霊的現象が起き始めたころ」「退社・独立して幸福の科学を立てようとしたころ」「当会が宗教法人格を取得したころ」「結婚したころ」など、節目は幾つかあったかと思います。
今回の映画では、「主人公が退社・独立をして、ベストセラーを書く。その間に結婚し、子供たちができて家庭ができる。そして、仕事がだんだん大きくなっていく」という過程で生まれてくる葛藤のようなものも中心に据えています。
ある意味では、宗教家の自伝の一部というより、「一般の方々のうち、中年期を迎えた、管理職になる年齢あたりの方々が背負っている重み」というものを描いてもいます。そのため、観ていて共感なさる方も多いのではないかと思います。「四十代ぐらいで病気をした人が、退院してから仕事で復活できるかどうか」ということと重ね合わせてみる方も、おそらくいらっしゃると思います。
さらには、もう一段、主人公の使命感が重くなり、病気治しをしたり、世界の平和のために「宗教の融合」を唱えて活動したりするところまで踏み込んでいっているので、ある意味では、「(私が新復活して)その後の十五年間の部分」が”短縮形”で少し入っているのではないかと思います。
【大川隆法『新復活』第1章より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。
『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『目覚めの言葉「次第説法」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。
この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、「施論」―与える愛の実践・「戒論」―悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―です。
お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。
それでは『智慧の言葉「仏陀の悟り」』はこのように続きます。
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戒律・道徳 大切な
人の 道だと 悟るべし
物惜しみして 不道徳
来世は
地獄・餓鬼・畜生
悪道の 苦は 避け難し
されども
施論・戒論を
守りし 者には 生天論
天界の 幸福生活 定まれり
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Realize that the precepts and morals
Are essential for you to live
As a human being
If you are miserly and immoral
In the next life you will go to hell
The realm of beasts
You will never escape the agony of offering
And live according to the precepts
You will be reborn in heaven
Where you are promised a happy life
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〇生天論―戒律・道徳の大切さ
地獄・餓鬼・畜生というのは代表であって、「三悪道」(あるいは「三悪趣」)といいます。「悪趣」というのは、悪い趣味ということです。「地獄」というのは、天国ならざるものの総称です。天国のどこか特定のところへは行き場所がない人の行くところが地獄です。
「餓鬼」というと、痩せておなかが大きくなっている餓鬼霊を思い浮かべるでしょう。餓鬼地獄に行く人の特徴は、まず物惜しみ、すなわち、ケチ、吝嗇(りんしょく)です。あるいは嫉妬心が強い。それから、奪う心、「欲しい、欲しい」という気持ちが非常に強いのです。
「畜生道」には、「血の池地獄」が隣接しています。この畜生道にはどんな人が行くかというと、一つには男女の関係を非常に乱した人たちです。これは現代では非常に多いです。・・・強盗殺人、強姦、節操のない異性関係、欲しかったら取るというような系統の人が、畜生道によく言っています。
そして、「物惜しみして不道徳だと、悪道の苦は避けがたい」と説いています。不道徳というと、「宗教なのに道徳か」と言われるかもしれませんが、道徳とも当然関係があるのです。
仏教では、「七仏通戒偈」(しつぶつつうかいげ)といって、釈尊を含めた「過去七仏」が共通して説いた教えとして、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」ということが言われています。これは、「悪いことをなすなかれ。善いことをなしなさい。みずから心を浄くせよ。これが諸々の仏(過去七仏)の教えである」という意味です。「こんなことは、当たり前のことでないか」と思うかもしれませんが、この当たり前のことが、できないのです。・・・
それで、「施論・戒論を守った者には生天論。天に生まれることができます」と説いています。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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生前に、残念ながら、正しい信仰をもたない、いわゆる無明に生きた方々は、死後もなお、光の無い世界-地獄の世界にて、信仰心を取り戻す修行をなされることになります。
仏教の世界観には、10の世界があると言われています。それが、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天界・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界です。
そのなかで、
暗闇の世界には、大きく四つあり、「地獄の世界」「餓鬼の世界」「畜生道の世界」「阿修羅の世界」となります。信仰をもたない人が死後に赴く世界です。いずれにしても、私たちが肉体を脱ぎ捨てて、魂になったときに、自分が生前常に心に描いていた通りの姿形になりますので、その姿形に似た世界に赴くということになります。難しい言葉では「波長同通の法則」といいますが、これは生前の世界でも、死後の世界でも同じように働く法則です。ですから、生前に動物のような考え方をしていた方は、死後動物のような姿形になって「畜生道」に落ちたり、生前いつも誰かを裁き、責めさいなむ心を持つ人は、「阿修羅」の世界に落ちたりします。そこでの反省が一通り済むと再び「人間」に戻り、「天国世界」に還ることができ・
・というのが霊界の基本的な仕組みです。
このように、あの世で地獄の世界から人間界・天界を経て再び、地上に転生することを六道輪廻といい、迷いの転生輪廻といわれています。
人は、魂の成長のために、あの世とこの世を繰り返し生まれ変わる「転生輪廻」を繰り返しますが、この世で正しい信仰をもつことができなかった人は、「地獄」「餓鬼」「畜生」「阿修羅」「人」「天」の六つの世界の循環をくり返してしまいます。これが「六道輪廻」と言われる、迷いや苦しみの転生輪廻と言われているものです。
経典『秘密の法』にて、この「六道の世界」とは別に、「天狗」「仙人」「妖怪」「妖魔」などの地獄とは違うけれども、裏側の世界にいて、素直に仏に帰依できていない奇妙な世界があることも明らかにされました。霊界世界は広大であるようです。また、その内容を経典『地獄の法』はさらに霊界の裏側のみならず、地獄世界についての真理を主は説いてくださっています。
地上での現代生活は、科学がとても進化して便利な世の中になりましたが、天国・地獄・裏側世界を分ける判定基準は今も昔も何一つ変わりがありません。このあたりが、最近の閻魔様の霊言などで明らかにされています。ともに学びを深めて、生前から地獄や裏側世界に落ちない心がけを重ねていきたいものです。
「六道輪廻」から脱して天国世界での幸福生活を死後に送るために必要なのが、生前に「戒」を持ち、「布施」の習慣を重ねることであることが理解できました。これは自らを救い、人を救い助ける上において基本でありながら、とても大切な教えです。真理を知らない方に対しては、このあたりを優しくお伝えしましょう。ちなみに六道の上、天国世界にあるのが、「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」の四つの世界であり、われわれ、修行者が常に心を通わせるべき処です。【六道と四つを合わせて「十界」となります。】
まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。そして次に我見を離れて、「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。最後に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。
とにもかくにも、
仏の教えがぎっしり詰まっていますから、共に、毎日、繰り返し読み込んで、理解を深めてまいりましょう。
正心法語の全編読誦する時の心がけとして、皆様にお願いしたいのが、経文を読む前に、皆様の魂のきょうだいを全員召喚して、魂のきょうだい全員で正心法語を読むという気概で臨んでいただきたいということです。私は魂に熏習するという言葉を使うとき、これを意識して読経しております。魂の兄弟に主の教えを伝えることも立派な伝道です。意外と、この点は私たちにとって見落としがちなので常に意識しましょう。
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死後の天国と地獄を分ける人生の法則は、意外とシンプルです。
「三宝への帰依をして、布施の精神と戒律を持って地上生活を営むことができたら死後に天国に還ることができます。逆に、仏・法・僧への三宝を敬わず、人から愛を奪い、戒を持たず本能のままに身勝手な地上生活を送るならば、死後に地獄に堕ちます」
ということです。これを仏教では因果応報と言います。原因と結果の法則です。
施論・戒論を簡単に説明すると
施論―与える愛の実践
戒論―自らに戒めを持つことで心の修行・魂修行に集中すること
ということでした。
これに関連して、主におかれましては『地獄の法』と説いていただきましたので、何で天国と地獄が分かれるのかについて関連する箇所をご紹介いたします。
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●仏陀が考える「天国・地獄を分けるもの」とは【経典『地獄の法』p61】
・「石は池の底に沈み、油は浮く」という教えの真意
仏陀はこれに対して(※バラモン教など拝火教が火を拝むこと)革新運動として、もちろん、それを全部否定しているわけではないのだけれども、新しい教えとして出したのは、「人が天国に行くか、地獄に行くかということは、(※その人の生まれや血筋・身分ではなく)その人の心と行いによるのだ。思いと行いによって、決まるのだ」ということです。そのようなことを言っています。
この行いのことを「業(ごう)」といいます。「カルマ」といういい方もあるのですけれども、「この世に生まれて何を考え、何をしたかということで、その人自身の業というものが決まってくるのだ。カルマというのが決まって、そのカルマが来世を決定するのだ」―これが仏教の基本です。・・・
「石を放り込んだら、普通は石は水より比重が重いから、底に沈むだろう。では、これを、バラモン教徒たちが池に沈んだ石に『浮かび上がれ、浮かび上がれ』と言ったら、浮いてくるのか。浮いてこないだろう」というようなことを言っている。
それは、その人の「業」ということですが、この場合は「罪」でしょう。「罪が重いために地獄に堕ちていく者、こんな者は救えない」というわけです。「自己責任である」ということを言っているのです。
逆に、「では、今度は油の壺を池に投げ込んで、油を放り込み、『この油よ、池の底に沈め』とご先祖に祈ったら、この油は池の底に沈むのか。沈まないだろう。水の上に浮かぶだろう」―。これは比重が水より軽いということでしょう。
要するに、「罪が軽くて、浮くべくして水よりも上に浮いてくる者は天国に行くけれども、石のように比重が重くて、罪が重い者は沈むべくして池の底に沈む」ということです。これは、「火を焚いたり先祖に祈ったりするだけで救われはしない」と言っているのです。
●「人生の罪業はすべて「照魔の鏡」映し出され、逃れられない」【経典『地獄の法』p77】
この世で、殺人をやったとしても、自分は見つからなかったということで、「逃げ延びた。助かった。この世ではちゃんと名誉ある職業で終えた」と思っていても、あの世では、必ず閻魔(えんま)様はいて、閻魔様の前でその罪業を暴かれるということです。
●「原則、信仰心なき者は地獄に堕ちる」【経典『地獄の法』p88】
信仰心のある者とは、言葉に出して明確に言えるかどうかは別として、例えば「神仏の存在、あるいは高級霊、光の天使、菩薩、こういう方々がいるのではないか」と本心で思っているようなタイプの方です。
それから、「もしかしたら、悪いことをすれば地獄に堕ちるかもしれない。いいことをすることが、人間としてはふさわしい生き方であって、そういう人は来世、幸福に生きるのが望ましい」という考え方を持っている人です。基本的に、天国・地獄を分けるときに、そのような宗教心を持っていない人は地獄に堕ちるということになります。
●プロの宗教家であっても、信仰心もなく、本質を知らなければ地獄行【経典『地獄の法』p91】
ですから、一番目には「信仰心、あるいは信仰心と思われるような、そういう考え方や心境を持っているかどうか」というところで、バシッと判定されます。
●閻魔の法廷は生前の「思い」「行い」「心の声」を全部記録し、逃さない【経典『地獄の法』p95】
ですから、基本的に、地獄に行く前の「閻魔の法廷」は公平であって、この世で思ったこと、行ったことは、ひとつ残らず全部記録は残っています。
それは本人自身の魂のなかにもあって、昔、「想念帯」というような言葉でも使ったことはありますが、テープレコーダーやそんなものに似たものです。心の中の声が全部記録されているし、やったことも全部、映像で撮ったかのように記録されているので、想念のテープを読めれば、どんな人かはすぐわかります。
言ってみれば、昔はレコード盤のような刻みだけの入っているのを見ただけで、「この人の曲調はどうであるか」ということは、もう一発で分かるようになっているということです。特に、高級霊になれば、それは一瞬にして読み解くことができるようになります。・・・
だから、「悪いことは何一つできない」ということです。
そこで、大事なことは、何でしょうか。人間として生きて、悪いことを何もしないで生きるのは、それはちょっと、現実問題としては難しいことだろうと思います。「問題を解く」ということで言えば、「間違いをする」ということです。それは起きることです。しかし、何とか合格点を取ることが大事なわけで、失点を出すけれども、得点のほうが多くて合格になる人生を目指さなくてはいけないのです。
●死後、「信仰」「思い」「行為」は確実に裁かれる【経典『地獄の法』p143】
だから、「信仰」、そして「何を考えたか、思ったか」です。これは「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」の六大煩悩を中心に考えればよろしい。
それから、「行為」です。「行いとして、人の神性や仏性を傷つけるようなことを多くやった者はなかなか許されない。あえて、この世に生きている間に回心するならば、逆のことをちゃんとやって、別の人間になるように努力しなさい」ということです。
●「天国に行くか、地獄に行くか」は生きているうちに始まっている【経典『地獄の法』p150】
「地獄というのは、死んでからあと、ゆっくり考えればいいことだ」「行ったときにどうするかを考えればいいことだ」と、たいていの方は思っていらっしゃるのではないかと思いますけれども、そうでもないのです。もう生きているうちに始まっているのです。・・・
生きている時のその人の生活、特に霊的な生活、精神面も含めた、体のコンディションも含めた考え方として、どんな人生を送っているかを見れば、何年か後、何十年か後について予想はつくということです。
●自分の人生を反省してみるだけでどの地獄に行くかわかる【経典『地獄の法』p211】
「死んだあと、自分がどこに行くか」ということは、霊能者に教わる必要もなく、自分の人生を点検してみれば分かってしまうということです。・・・「どこの地獄に行くか」などと訊かなくても、「自分の人生を反省してみるだけで、それは分かります」ということです。そういうことをよくよく考えてみてください。
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このように、見てみると、やはり生きている時の心がけ次第で、天国と地獄の行き先が分かれるということがよくわかります。一日一日の枠のなかで、与える愛の実践と仏に見られても大丈夫である思える生活を重ねる中に、天国への扉が開かれるのだということでした。
その意味においても、経典『地獄の法』や箴言集『地獄に堕ちないための言葉』をよく読みこんで、日々の反省の材料にさせていただきたいと改めて思いました。
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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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■『心の挑戦』
第6章 中道思想の実践
4 霊肉の調和
さらに、中道思想の実践として大事な考え方に入っていきたいと思います。それは「霊肉の調和」ということなのです。これが、実はいちばん大切なことでもあるのです。
極端な思想として、「人間は肉体や物質だけの世界に住んでおり、自分自身もそこに属するものである」という考えがあります。「物質世界こそがすべてである」という唯物論の見解です。
あるいは、「空」の思想や「無」の思想が行きすぎて、宗教的人格ではありながら、この世を捨てることのみに汲々(きゅうきゅう・一つのことに一心に努めて、他を顧みないさま。また、あくせくしてゆとりのないさま)として、結局、虚無主義、ニヒリズムに陥(おちい)って、現世をいっさい否定しているような人もいます。
そういう方が存在することは事実ですけれども、もし、すべての人間がそのようになったとしたら、この地上界は決して天国になることはありません。
霊的な世界が現実にあるとしても、この世を完全に否定し去り、そして逃避のみを考えていくような世の中を考えてみたら、それもまた、ありうべき世の中でありません。
霊的な世界が現実にあるとしても、この世を完全に否定し去り、そして逃避のみを考える人間の山になっては、またいけないのです。霊的なものの見方と物質的なものの見方は、ともに極端な見方であり、私たちが地上に生きている限りは、この両方を完全に捨て去っては、生きていくことはできないのです。その霊肉をよく見据えながら、バランスをとって生きていくことが大事です。
これを、「色心不二(しきしんふに)」という言葉でいうこともあります。「色」というのは肉体のことで「肉体と精神は不二一体である。二つは完全に分離することはできない」という意味にとれます。これはどういうことか、さらに深く考えてみたいと思います。
ある禅宗の大家で、鈴木大拙(※過去世に達磨大師)の後継者を自認している方(※秋月劉珉)の書籍を読んでみますと、この「色心不二」という言葉を、「肉体と心とは不二一体であるから、肉体が滅びたら心も滅びるのだ」というように説明しています。要するに、「死んで火葬場で肉体が焼かれたら、心も消えてしまうのだ」というように、この色心不二を説明しています。
この方自身は、この見方が、釈迦が否定した「断見」(だんけん・死んだら何もかも終わりだという見方)であるということがどうしても分からないようです。それは結局において、霊存在を認めていない、あるいは仏への信仰心を持っていない、唯物論的な肉体修業に明け暮れた、哀れな悟りの結果というしかありません。
このような極端な色心不二説もあるということを、心に置いていただきたいと思います。
【※極端な色心不二説・・・・たとえば、「しかし、仏教には『今・此処・自己』の〈個の生命〉を離れた〈生命以上の価値〉など断じてない。『一霊皮袋・皮袋一霊』である。『身心不二』である。身を殺すとき魂もまた死ぬ。禅においても、いな禅においてこそ、『個』は厳然たる事実であり、最後の権威である」(『秋月龍珉・あきづきりょうみん・著者集1』〔三一書房〕、二七五ページ)
あるいは、秋月龍珉著『誤解だらけの仏教』(柏樹社)三ページには、「私は、霊魂を認めない。あの世も信じない。転生輪廻も否定する。三世の因果も信じない。葬式だの法事だの言う死者儀礼は本来の仏教とはかかわりなかった。仏教は、無神・無霊魂説なのだから、霊魂どころか、『神も仏もあるものか』などというような仏も認めない」とある。】
【大川隆法『心の挑戦』第6章「中道思想の実践」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き
■
文責:蒲原宏史
(5/11-1)131『目覚めの言葉「次第説法」』を読む ⑦生天論―戒律・道徳の大切さ―【新復活】大川隆法の闘病実話がもとになった映画「世界から希望が消えたなら」
