(4/29-2)28『永遠の仏陀』を読む―跳躍の時―正思の道―禅定波羅蜜多

『永遠の仏陀』を読む

27 妖怪は均整のとれた考え方ができない。陰と陽が極端に出るが、ふだんはオブラートに包んでいる。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

69 近未来のヨーロッパが、寒波で凍りついた。地獄の住人の上にも、雪が降り積もった。凍り付いた街の入り口に、「グレタの町」という看板がかかっていた。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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■『現代の武士道』
第1章 武士道の根本―武士道の源流―
2 『古事記』『日本書紀』に見る武士道精神
〇父から恐れられるほど強かった武勇の人・日本武尊(やまとたけるのみこと)

鎌倉時代よりもっと前の日本を見ても、やはり、そういう人は、いろいろといたのではないかという気はします。

武士は鎌倉で始まったのではなく、例えば、『古事記』『日本書紀』等に出てくる日本武尊を見ても、これは武士ではあったのではないかという気はするのです。「武士(もののふ)」ということです。

彼には双子の兄がいたようですが、その兄が、諸国から集められた税金や貢ぎ物が集まってくるなか、本当は「地方の美人を天皇に差し上げる」ということで、父である当時の十二代景行天皇のもとに来るはずだった美人を横取りして、自分の妻にしてしまうということがありました。

これは、現代で言えば「業務上横領」か「背任」かというあたりでしょう。それを見た日本武尊は、実の兄ではありますが、「許せない。天皇に対する忠義を裏切って、私服を肥やすとは何事であるか」ということで成敗してしまいます。「厠(かわや・トイレ)で刺し殺した」ということになっているのです。

それは、当時の習慣法的な考え方、法治国家的な考え方から見れば正しいことで、”警察長官”として当然やるべきことではあったでしょう。しかし、父親である天皇であっても、そんな息子は怖いわけです。

そのため、日本武尊が九州に「熊襲(くまそ)平定」に行き、成果をあげてきたのにもかかわらず、十分に休みも取らせないまま、「次は東国へ行け」と言って、東(あずま)に行かせています。日本武尊が父である自分のために兄まで殺しているのに、「近くに置いて、寝首をかかれたら困るから」ということで、できるだけ遠くに離そうとしたのです。やはり、日本武尊がそうとう武勇の者であったことは間違いないでしょう。

ところが、日本武尊の妻であった弟橘媛(おとたちばなのひめ)は、実は東国出身、関東出身だったようです。つまり、「税金を払おうとしないので東国を攻めろ」ということは、「奥さんの実家を攻めろ」ということと同じだったのです。(ホツマツタヱ伝)。そのため、日本武尊が東国に兵士を率いていったときには、東国の兵士たちは、「身内が来たものだ」と思って、歓迎するつもりで出迎えに来ていたぐらいなのです。

しかし、父である天皇の命には従わなくてはいけないので、その身内を、「天皇の命、”行政命令”であり、討たなければいけない」ということで、妻の実家を皆殺しにすることまでしなければいけなくなります。そのような戦いまでやっている人です。

【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』
3多様性の意味【正思】
〇神仏の光の「多様性」の意味と注意点

次に大事になってくるものは何でしょうか。

頂点から出てきた光がプリズムを通して七色に分かれ、霊的世界および地上に流れています。その光のもとに、いろいろな理念が体現されているわけです。そして、それは、人間に理解されやすいように、あるときには「愛の教え」といわれ、あるときには「慈悲の教え」といわれ、また別のときには「勇気の教え」ともいわれ、またある時には「智慧の教え」ともいわれています。こうしていろいろな教えが説かれているのです。

これは、人間が学んでいく過程において必要であるために、そうしたプリズム化が行われているのです。そして、それぞれの人の魂にとっていちばん学びやすいところから入っているのです。

この意味において、それぞれの魂は、黄色の光線、あるいは青色の光線、紫色の光線など、さまざまな光線下にあって修行をしているわけですが、それは「自分の魂が進化していくための一つの過程である」という観点を決して忘れてはなりません。
例えば、「自分が紫の光線にいるから、それのみが真理だ」と言ってはいけないように、赤色や黄色など、他の光線下にいる人たちのことも善として認めなければいけないのです。

こうしてみると、多様な教えが出ていることの根底には、修行のなかにある者同士が、ある程度の距離を持ってお互いを認め合うような寛容さを出していくための方法であることが分かります。多様さというのは、それぞれ一つの道を通して修行する者同士がお互いに反目し合うのではなく、「より大きな神の芸術をつくっていくために生きている間柄なのだ」ということを証明する意味合いがあるわけです。

それは、決して、「神の教えは、AでもBでもCでもDでもよい」ということを意味しているのではありません。この点をしっかりとつかまないと、「正しい思い」ということは絶対に分からないのです。

この多様性の解釈を間違って、「Aの考えでもBの考えでもCの考えでもよい」ということで、何でもよいことにしてしまったら、八正道のなかの「正思」は存在の意味がありません。「それぞれの人が、それぞれの都合ですればよい」というのであれば、「正思」が探求の目標にはならないはずです。また、幸福の科学の「正しき心の探求」は意味をなさないことになるのではないでしょうか。

したがって、あくまでも、「究極において一点に集まるものがある」ということを忘れてはならないのです。一点から分かれてきたものは、それぞれの魂の道筋において、過程において、学ぶべきものとして提示されているのです。

この一つの道筋のなかにあるものにとって気をつけなければならないことは、「自分の考え方が絶対だと思ってはならない」ということです。寛容の心を持ってそれぞれの道静を認めながら学ばなければならないのです。

【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」100pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第四章 跳躍の時 
〇正思の道

そして、その魂向上の道の一つに、
反省的瞑想という方法がある。
我はかつて、おまえたちに八正道を説いた。
八つの正しい道を説いた。
正しく見よ。
正しく思え。
正しく語れ。
正しく行為をなせ。
正しく生活をせよ。
正しく道に精進し、
正しく念じ、
正しく定に入れ―と。
この八つの正しき道こそ、
おまえたちが、人生の途中で仏法真理に目覚め、
その人格を向上させ、
珠玉の宝へと変えてゆくための秘法であるのだ。

この八正道のなかで、
特に大事なことを、ただ一つ取り出すとするならば、
すべては、「正しく思う」という、この一点に集約される。

あたりを見渡してみよ。
おまえたちを取り囲んでいる人たちの、
心の様相を見よ。
心のありかたを見よ。
なんとも見下げ果てたことを、
一日中、考えているではないか。
いや、ほとんど考えなきに等しい人が、
どれほどの数、いることであろうか。
考えなき人生を生きるとは、
昆虫の人生にも劣ると言わざるをえまい。
昆虫でさえ、みずからのえさを探して、
考え考え、道を歩み、
みずからを害するものを避け、
そうして生業を立てているではないか。
考えることもなく生きているということは、
昆虫以下の人生であるとさえ、言うことができよう。
人間として生まれ、そして生きてゆくことの、
いちばんの意味は、
人間が考えというものを持つことができるという点に、
帰着するのだ。
すなわち、「正しく思う」とは、
「正しく考える」と言いかえてもよいだろう。
おまえたちの人間性を決定しているものは、
すべて、おまえたちの考える中身にある。
もし、他人の心がガラス張りだとして、
誰もがその中身を見ることができるとしたならば、
おまえたちは、いったい、どのように感じるだろうか。
まさしく、それは驚愕(きょうがく)でしかあるまい。
もし、おまえたちの首から黒板がぶら下がっていて、
その黒板に、おまえたちの考えていることが、
チョークの文字となって現れているとしたら、どうするか。
街を歩くことさえできまい。
人と視線を合わせることさえできまい。
何しろ、おまえたちの考えていることが、
すべて外に書かれ、
そして、他の人の目にさらされるというのだから。

この際に、どうすればよいのか。
そう、基本的には二つのことが重要となろう。
一つは、見られても恥ずかしくないような、
仏法真理に則ったことを考えるということである。
そして、いま一つは、
もし仏法真理に反したことを考えたとしても、
即座に修正を入れるということなのだ。
「ああ、自分は間違ったことを考えていた。
これは、自分の良心に照らして、
まことに恥ずべきことであった」と、
即座に修正することなのだ。
それによって、魂は洗われ、
その汚れは取り去られるのだ。

このようにして、
自分の正しい思いというものを探求してゆく過程において、
その魂は、次第しだいに力を帯びてくることになるのだ。
偉大なる人物とは、
偉大なることを考えた人間のことであるのだ。
これが大事なポイントとなる。

【大川隆法『永遠の仏陀』第四章「跳躍の時」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第三章 六波羅蜜多の思想
8 禅定波羅蜜多

「禅定波羅蜜多」は、別名「精神統一の完成」とも呼ばれています。

これは八正道の「正定」と重なるところもありますが、正定とどう違うかと言えば、正定は、正しく定に入ったかという、定に入るときの精神状態、思いのあり方を、作法として反省するところに力点があるのに対し、禅定波羅蜜多は精神統一を日々重ねていくという実践の徳目を指しているのです。

たとえば、日曜日などの閑暇(かんか)が訪れたときに過去を振り返るのは、そう難しいことではないかもしれません。しかし、毎日を忙しく過ごしていながら、日々、自らの心の内や行動をふり返るのは、容易なことではありません。こうした日々を積み重ねていくのは大変なことなのです。

したがって、日々、みずからの内を見つめる時間を確保しつづけることができた人は、それだけですでに非凡の高みに上っていると言えます。

私はみなさんに、自分自身のことに思いを巡らせていただきたいのです。生まれてから現在までのことを思い出すのは、それほど難しいことではないかもしれません。しかし、日々に自らの心を発見し、探求し、確認するという作業を積み重ねることが、どれほど困難なことか分かるでしょうか。それは大変な努力を要するものなのです。

そして、禅定波羅蜜多の究極の姿は、特定の作法に則った禅定をするだけではなく、作法にかかわらず禅定の状態に入るということにあるのです。すなわち、人間として当然なすべき仕事や生活をしていながら、歩くなかにも、語るなかにも、仕事をするなかにも禅定がある姿―これが実は禅定波羅蜜多の完成した姿なのです。

これは、一日二十四時間のどの部分をとってみても禅定の状態にあるということです。つまり、心は常に天上界に向いており、いつでも高級諸霊と話ができるような状態、禅定とまったく同じ状態にあるということです。実はこれが、人間として目標とすべき、修行の最高段階なのです。

現代でも、禅宗においては、人里離れた庵や寺のなかで、人びとが坐禅を実践していますが、日常性から脱却して心の世界を探求するのは、そう難しいことではありません。しかし、日々の仕事をしながら、そのなかで禅定の状態を続けるというのは、非常に困難なことなのです。

この最高の状態の禅定に至ったときには、心は平静です。また、他人からのどのような言葉を受けたとしても、その波動を自らの内に受けことなく、心は常に、澄んだ湖面のような姿をしています。

このような理想の状態、天上界にいるのとまったく同じような状態で三次元に生きている人、「三次元即実在界」「三次元即菩薩界」の生活を実践できる人のことを、禅定波羅蜜多の完成者というのです。

ここまで至ることが修行者の目標であり、釈迦教団のなかでも最大の目的の一つとされていたのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
 ―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
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大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶16周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。

そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。

私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。

そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。

私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。

①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】

②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】

③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】

④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】

⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】

⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】

私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。

主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
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73 算数のおかげで商売もでき、数学のおかげで、建物の建築や乗り物づくりができた。
【大川隆法『病のときに読む言葉』より】
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

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