(3/25-2)84『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―信仰なくば―平坦なる道

『仏陀再誕』を読む

93 これが狐が化ける、あるいは、狐に化かされる話が多い理由であoる。また、『今昔物語』や『日本霊異記』、『聊斎志異(りょうさいしい)』などの影響も多かろう。【※88~82の格言をふまえて】

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

10 だから、与える愛で損をする者はなく、他人を騙して、奪って得をする者はないのである。

9 実在世界の法則は、与える者は与えられ、奪う者は奪われるということである。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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8忘れることの大切さ【正念】
〇過去の不幸を忘れられない人には「忘れることの美徳」を教える

特に、女性は忘れることのできない人が多いので、このことには注意してください。

勉強の法で記憶力がよければいいですけれども、勉強のほうは駄目でも、感情のほうだけはやたらと記憶力がよいことがあるのです。こういうのは困ります。これは不幸のもとです。「あのとき、あなたはこういう愛の言葉を言ってくれたのに、今はそうではない。だから、おかしい」というような理論です。

「あのとき、確かに、こうプロポーズした」「あのとき、あなたは『日本一の妻だ』と言った」「あなたは料理がうまいと言ってくれた。でも、今は下手だと言っている」と妻が言う場合もあるでしょう。あるいは、「あなたは最悪だ」「これは人間として許しがたい罪だ」など、妻から言われている夫はそうとういるでしょう。

これは、その選択的記憶が逆の方向へ、本当に不幸になる方向へ行っているということです。

ですから”非常に記憶力がよい人”に困っている場合は、忘れることの大切さを教えることです。「忘れるということは、偉大な人物になるための必須条件だ」と教えていくのです。そうすれば、「以前にこういうことを言ってほめてくれた」などということも言わなくなり、毎日、機嫌よく生きていけるようになるでしょう。

特に、記憶力のよい女性を妻に持った夫であれば、忘れる努力をさせないと、後々まで恨みを持たれることがあります。

「忘れることは大変な美徳である」と教えることは、重要なことだと思います。そのように影響することはできるということです。

やはり、これが不幸の原因の一つでもあるのです。あまりに不幸を生み出す方向に選択的な記憶力がよすぎるとよくないので、忘れることです。女性のなかには、長く思い続け、思い詰めていくところがある人も多いので、ポンポンと忘れていくことです。

また、夫の努力としては「光明思想」を持つことです。過去を忘れさせ、「来年はきっといいよ」などと言って、やはり「未来への希望」へ持っていくことです。そうすれば、家庭も円満になっていくのではないでしょうか。

以上、「正念」について述べました。

なお、仏教の伝統的な考え方のなかには、「正念」を「正しい記憶」という意味にとって、仏陀の教えを正確に憶えているか、を問う場合もある。次章の「正定」につなげていく上では、有効な修行にもなりえる。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」287pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第七章 信仰と仏国土建設への道 
○信仰なくば

あなたがたの数多くは、仏国土建設という理想に燃えているはずだ。
その仏国土建設の理想は、
決してこの世的なる、外面的なる仏国土ではない。
この仏国土が仏国土であるという理由は、
仏のよしとされる国土であるということ、
仏の理想とされる世界であるということなのだ。
それが、ほんとうの仏国土の条件であるということなのだ。
しからば、仏のよしとされる国土、
仏のよしとされる社会を創ってゆくためには、どうせねばならぬか。
信仰が根本であることは間違いない。
すなわち、この日本という国に、もし仏国土を創らんとするならば、
すべからく、日本国民は信仰心に目覚めなければならない。
また、この仏国土を日本以外の地域に広めたいと思うならば、
東南アジアにも、韓国、中国、アメリカ、ヨーロッパ、インド、
さまざまな国に、さまざまな地域に、仏国土を創りたいと願うならば、
その国にて、
信仰心というものを、しっかり土台としてつくらなければならない。
およそ、信仰なくばすべてのものは不毛である。
信仰心があって教育を受けて、はじめて教養というものはできてくる。
もし、信仰心の基礎なくば、いくら学問的つめこみをしても、
真の教養は生まれない。
それらは、偽物の教養である。
それらは、せいぜい科学的知識、
あるいは仏を否定するような唯物的知識の集積であって、
ほんとうの教養とは言えない。
真の教養は、信仰の土台があって、はじめて成り立つものなのだ。
そして、信仰の土台があって、はじめて真の教養が成り立ち、
真の教養人が地にあふれて、
そこに平和な世界が展開してくるのだ。

諸人よ、
これはいつの時代においても間違いのない真理であるのだ。
まず、あなたがたが仏国土を創ろうとするならば、
その国を、その地域を、素晴らしい人たちで満たさねばならない。
その地域に満ちるべき素晴らしい人たちとは、
まず信仰の土台がある人たちのことである。
仏を信じない人が、いくら増えたところで、
そのような国が仏国土になろうはずもない。
まず、仏を信ずる人を、
正しい信仰を持つ人を養成しなければならない。
また、子供たちには、当然のことながら、
両親から信仰心というものを教えてやらねばならない。
これが、親としての最大の義務であるのだ。
これが、親としての最大の教育であるのだ。
私は、そう思う。
親として生まれて、もしこの教育を怠ったならば、
いったいほかにいかなる重要な教育があるというのだろうか。
そんな教育はありはしない。
それは、親としてはまったくの怠慢としかいいようがないのだ。
世の父親よ、世の母親よ。
子弟(してい)の教育としていかなるものが必要であるか、
と問う方は多いであろう。
しかし、私は言っておく。
信仰なくば、いかなる教育も不毛であると。
仏を信ずる心なくば、いかなる教育も不毛であると。
それは、何らの作物を実らせない。
何らの実も実らせない。
そうではなくて、世の中に害をまく人間を育てるだけになる。
まず、よき作物を得ようとするならば、土地を耕せ。
土地を耕すことが、大切である。
土地を耕し、そのなかによき種を植えよ。
よき種を植えたならば、また、よく肥料を与えよ。
そして、よく水を与えよ。
さすれば、その作物はすくすくと育ち、たわわに実をつけるであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第六章 心の平静と祈り
2 平坦なる道

こうした静寂の日々を送るということは、ある意味においては、非常に平坦なる道を歩んでいると言えるかもしれません。人は、ともすれば、目立つことをやりたがります。華やかなこと、非常に外面的なことに心惹かれていきます。この世的な地位や名誉、あるいは、金銭に心惹かれていきます。

この世の地位や名誉も、ある意味で魂の進化に役立つ面があることは事実です。大いなる地位が与えられることによって、それだけの魂修行ができることもあります。こういう事実もあるでしょう。多くの人に影響を与えられるということもあるでしょう。

しかしながら、地位や名誉に揺れる心は、いつしか静寂心を失っていくことになります。地位や名誉のために生きてきた人が、定年退職を迎えてから惨めな晩年を送ることが多いのも、そうしたところに原因があると思います。

大切なことは、どのような地位に就(つ)こうとも、どのような肩書を持とうとも、どのように、いつも澄んだ湖のような自分を持っている。内なる自分のなかに、満々と水をたたえた湖のような心、あるいは、穏やかな春の海のような心を持ち続ける」ということが大事であろうと思います。

これは、非常に平凡に見えるかもしれません。平坦に見えるかもしれません。しかし、これがついには人生の勝利者になる道であるわけです。

いろいろなことがあろうとも、外面的にいろいろな脚光を浴びようとも、また、脚光を浴びない暗い世界に生きていようとも、常に心のなかに、穏やかに光る湖面のような静かな美しさ、鏡のような部分を持っている必要があると私は思うわけです。人間は人生がドラマチックであればあるほど、心が躍り、血が湧き、感激をすることが多いのですが、平坦なる道を歩んでいくという気持も大事です。

昔話に、次のような話があります。僧侶が二人、川のほとりに歩いてきたところ、女性が一人困っていました。実は、川が渡れないでいたのです。見れば、たいへん若く美しい女性です。

一人の僧侶はこう思いました。「女人は悟りの妨げである。女人とは話してもいけない。もちろん、女人に触れるなど、もってのほかである」と。そのようなことを考えたのです。

もう一人の僧侶は、つかつかと女性に近寄って「川を渡りたいのならば、私が渡してあげましょう。私の肩につかまりなさい。私の背中に乗りなさい」と言って、さっさと女人を背負って川の中に入っていきました。そいして、腰まで浸かり、やがて川から出できて向こう岸に渡っていったのです。

それをもう一人の連れ僧は見ていて、唖然としたものの、憤然とした面持ちで、あとからついて川を渡っていきました。先の女人を背負った僧侶は、やがて川を渡ると、女人を河原に降ろし、「では、お元気で」と言ってスタスタとまた進んでいったのです。

あとから追いついた僧侶は、その女人を渡した僧の肩をつかんで、「おい、おまえ、おまえは今、破戒僧となったぞ。仏道修行は、女人とのかかわりを断つことが基本である。それにもかかわらず、女人と話をし、こともあろうに女人を背負って川を渡るとは何事であるか」という問いかけをしたわけです。

すると、その僧侶はこう答えました。「わしは、もう女人を背中には背負ってはおらんぞ。お前はまだ背負っておったのか」と。そうした話をしたわけです。

そのように、形式主義で物事を考える人間というのは、「とにかく、いろいろな人との接触や出来事など、外面的なことを避けて、何もしない戒律的な生き方さえすれば、心穏やかに生きられる」と思いがちですが、本当は、修行の道とはそうしたものではないのです。「僧侶であるから、女人が困っているときに助けない」というようなことが仏道修行の本道ではありません。

人が困っているときには助ければよいのです。それが女性であるからといって、そのことばかりにいつまでもこだわっているのはおかしいでしょう。「女性であっても助けるときは助け、助け終わったらもう忘れ去る」、ここに無執着の境地があるわけです。

ところが、もう一人の僧侶は、女性を背負わなかったにもかかわらず、川を渡っても、まだ女性のことが気にかかって気にかかって仕方がないのです。心のなかに、それだけの執着をつかんでいるわけです。”女人を背負っている”のはそちらです。

そのようなわけで、平坦なる道というのは、決して何も起きない道のことを言っているのではないのです。人生において、「何の刺激もないような生き方をしろ」と言っているのではありません。山のなかに籠ったり、滝に打たれたり、あるいは、洞窟のなかに座ったりすることで、「平坦な生き方をする」ということを言っているのではないのです。

人間的にこの世に生きるなかには、さまざまな事件もあるでしょう。出来事もあるでしょう。しかし、すべきことはし、処理すべきことは処理し、片付けることは片付け、テキパキと捌(さば)きながら、しかもなお、心のなかに穏やかな湖面のような心を持ち続けて生きていくことが大事です。これが「無執着の境地」です。

そのように、どんな出来事であっても、すぐに心の穏やかさを取り戻す境地が大事です。いつもいつも、過去のことを思い出してよいわけでは決してありません。会社を退職したあとに、「自分は〇〇という一流会社の重役であった」「社長であった」「部長であった」というようなことをいつまでも言っている人がいます。

しかし、そうしたことは、その人が勤めていた時の机や肩書がそう言わせているのであって、その人自身にそのような力があったわけではないのです。なぜならば、その人が会社を去っても、会社は潰れてはいないはずだし、他の人が十分にその地位をこなしているはずだからです。仕事とはそうしたものです。取って代われるものをもって「仕事」というのです。

したがって、肩書や地位がいつまでもあると決して思ってはいけません。「それを取り去ったときに自分に何が残るか」ということを、いつも淡々として考えるような自分でなくてはいけないのです。そのへんを人間は誤解します。自分があげた実績や、自分の名前などにこだわります。そうしたものは過ぎゆくものだと思い、日々、うまずたゆまず、自分の思う道を歩んでいくことが大事です。

ある人にとっては、結婚するということが一大事件であり、人生の重大事であり、「生きるか死ぬか」といった大きな問題であるように思われることもあります。しかし、結婚しようがしまいが、淡々として歩んでいくのが人生の本道です。「そうしたこともあったか」ということです。

長い長い転生輪廻の過程においては、今世の人生というのはほんの一瞬です。ほんの短い時間です。そのなかで、誰と連れ添い、誰と生活をし、誰と共に悩みを分かち合ったとしても、それがどうということもありません。

それは、ちょうど、川を渡るときの僧に似ています。「あるときには女人を背負い、あるときには離す。いつまでも背負っていない」ということです。「川を渡るべきときには助けてあげなさい。渡り終わったらそれを降ろしなさい」ということです。

そのように、外面から自分を護るため、外部から自分を護るために、何の神風もないような防波堤のなかに自分を閉じ込めようとする必要は決してありません。いろいろなものの影響を受けながらも、そのなかで平坦に、何もなかったかのように、昨日も今日も明日も変わらないような生き方をしていかなければなりません。

昨日、部長に任命され、今日、部長を解任されたとしても、明日、結婚したとしても、それで豹変するような人格であってはいけないのです。

「何もなかったがごとく過ぎていく。人生の途中で出会ういろいろな出来事を、すべて魂の糧として吸収していく」ということが大事です。そうした生き方をしているときに、知らず知らずのうちに、魂は大きな器となっていくのです。

その途中で何も見ない、何も聞かないということがよいことではありません。馬車馬のように、目隠しをして前へ走ることのみをもって、よしとしてはいけないのです。目隠しはないので、いろいろな景色は見えるけれども、ただ淡々と、ポクポクと歩いていくをもって、よしとしなければいけません。

そういう心境にあるときに、心は執着にとらわれることは少なく、多くの迷いから遠ざかることができます。「無執着の境地」「平坦な道を歩まんとする心」こそが、大いなる成功へとつながっていくのです。

【大川隆法 『漏尽通力』第6章「心の平静と祈り」より抜粋】
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ここで、反省の基礎を学ぶべく経典『信仰告白の時代』より第3章『反省の原点』を学びます。経典をお持ちでない方はこの機会にぜひご拝受ください。【税込み1800円】
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■『反省の原点』
2 十八界(じゅうはちかい)の思想
①六根(ろっこん)―六つの感覚器官

人間が地上で肉体に宿って生活しているとき、その生活の出発点は、すべて「六根」から発生してきます。「根」とは感覚器官のことです。

六根の第一は、「眼」です。「眼根(げんこん)」といいます。みなさんは、眼によっていろいろなものを見、そこから得た映像によって、その対象を感じ取ります。しかし、眼に見えているものが、ほんとうに真実の姿であるかどうかは、誰ひとり確認することができないはずです。

ちなみに、人間には色彩が見えますが、動物のなかには、色彩が見えず、白黒テレビを見るかのごとく見ているものも数多くいます。また、人間には見えないけれども、彼らには、見えるものもあります。このように、眼ひとつをとってみても不確定なものです。すべての人が同じように見ているわけではありません。

次は、「耳(に)」です。耳によって聞く声、音によって、みなさんは一定の判断をし、この地上の生活をしています。しかし、耳から伝わってくるものが、真実ほんとうのものであり、他の人にも同じように捉えられて、誰が聞いてもそう聞こえるのかどうかは、保証の限りではありません。現に音楽の好みに違いがあるように、耳から入ってくる情報にも、人によって受け取り方に違いがあります。

また、動物のなかには、人間にはとうてい聞くことができない周波数の音を聞くことができるものがいます。人間が何も感じないものを聞き取るのです。そうしたことが事実としてあります。ということは、みなさんが耳で聞いたことが、普遍的で客観的なものであるかどうかは、保証の限りではありません。

そして、「鼻(び)」です。鼻によって、みなさんはいろいろな匂いを感じるでしょう。それを、ある人は心地よいと感じ、ある人はとうてい耐えられないと感じます。この鼻からも、みなさんの感覚は生じてきます。

さらには、「舌(ぜつ)」があります。口のなかにある舌によって、みなさんは人間生活の多くのことを感じとっているはずです。

毎日の食事が美味しいか美味しくないか、甘いか辛いか、酸っぱいか塩辛いか、そのようなわずか数種類の感覚の加減によって、みなさんの幸・不幸も生まれてくるはずです。

夫婦不仲の理由として、奥さんが料理を上手につくれないということも、よくあげられます。それなども、わずかに舌の感覚ひとつです。口のなかにある舌ひとつが、美味しいと感じるか美味しくないと感じるかで、離婚になってみたり、いろいろなことが起きたりすることもあるのです。そうした味覚というものがあります。

そして、みなさんの身体には、全身にいたるところに神経が張り巡らされています。これを「身(しん)」といいます。皮膚には感覚があり、手や足など、いろいろなところで感覚を味わいます。毛皮のコートを着て気持ちがいいと思うこともあれば、小さな子供の頭を撫でて柔らかいと感じこともあり、いろいろな感覚を皮膚は持っています。そして、皮膚の感覚を通して、男女の違いが起きていくことも数多くあります。

さらに、もう一つ、「意」というものがあります。心です。といっても、これは決して、私たちが宗教の世界のなかで語っているような、奥深いものではありません。みなさんの身体のなかでいえば、身体の五官から集められるさまざまな情報を判断している頭脳に当たる働きと考えてもいいでしょう。

以上の「眼・耳・鼻・舌・身・意」が六根です。山参りの修行者がよく「六根清浄」と唱えていますが、それは、この六根の感覚器官からいろいろな穢れが生じてくるので、それを取り除こうと言っているのです。

【大川隆法『信仰告白の時代』第3章『反省の原点』より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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■□■
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エル・カンターレ・大好き

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