92 また町中でも、商売繁盛のための、稲荷神社が路地に建っている。それは、ビルの屋上にもある。狐霊か、それを自称する人間霊が、ご祭神になっていることが多い。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
11 男女の愛も、仏法真理から見ると、「与えた」か、「奪った」かで、天国地獄が分かれる。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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8忘れることの大切さ【正念】
〇反省のあとには自分を許し、「心の切り替え」を早くする
さらに、自分自身を許してやることも大事です。
過去の思いや行いについて反省はできます。しかし、それを打ち消すことはできません。すでにしてしまったことを消してしまうことはできないのです。そのときに、自分ができるだけの償(つぐな)いの思いを出し、行為をしたと思うなら、その自分をも許してやることです。そうしたことも大事です。
こういうときにはどうすればよいかというと、自分がさらに素晴らしい生き方をすることによって償(つぐな)っていくことです。過去の事実、過去に掘ってしまった穴を埋めることばかりを考えるのではなく、ある程度、やるべきことをしたら、その後は素晴らしい人生を展開することによって、その部分を十分に償わせていただく方向で生きることです。
この「忘れる」ということを十分に使えなかった人は、「正念」において失敗するでしょう。
これは、別の言葉で言えば、「心の切り替えの早さ」ということでもあります。心の切り替えが遅い人は、不幸を引きずることになります。いったん起きてしまった事実、取り返しがつかない事実であるならば、これから素晴らしい実績を出していくことで、お返しすることは可能なはずです。よい行為、善行というものは、必ず、いろいろな人のところへ回り回っていきます。過去の行為を取り消すことができないならば、これからその五倍十倍のものを返していくことです。それによって埋まっていくことでしょう。
したがって、この「忘れる」という方法を覚えてください。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」285pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第七章 信仰と仏国土建設への道
○命落とすとも
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
さて、私は信仰の大切さを説いてきた。
いつの時代においても、この信仰というものは大切である。
もし、あなたがたの生命の安全と信仰とのどちらかを選べ、
と言われたならば、
迷わずに信仰を取れ、
信仰を取ったところで、あなたがたは永遠の命を失うことはない。
あなたがたは永遠の栄光のなかにあるだろう。
しかし、地上の命と信仰とのどちらを取るかと言われて、
命のほうを取った者は、
やがて地上を去ってから、激しい後悔にさいなまれることとなる。
あれだけの固い意志で、堅固な意思で、修行を重ねてきたのに、
あんな誘惑でもって、その信仰の道から、離れたということが、
地上を去った後、幾百年、幾千年もの間、汚辱(おじょく)となって残るのだ。
そして、魂の後悔は止むことがない。
そのような魂の後悔は、
たとえ地上にありて、鋸(のこぎり)にて身体を引き裂かれようとも、
これほどまで苦しくはないと言わんばかりの苦しさであるのだ。
過去、偉大なる仏陀が地上に降りた時も、
信仰心を失い、そして師への罪を犯した者たちは、
地上を去った後、
どれほどまでの苦しい、苦渋に満ちた魂生活を送ったかということを、
あなたがたは知っているだろうか。
このように、信仰を失うということは、
命を落とすよりも大変なことであるのだ。
命落とすとも、信仰を失ってはならない。
また、地位や名誉や金銭のために、
また、異性への情欲のために、
信仰を失ってはならない。
あなたがたの人生において、迷うべき時があるであろう。
そして、どちらを選ぶかをひじょうに考えるであろう。
たとえば、会社に勤めているものであれば、
地位や体面というものもあるであろう。
また、社会的名声のあるものであるならば、
名誉ということもあるであろう。
また、金銭ということもあるであろう。
また、妻や夫の愛情というものもあるであろう。
しかし、いかなるものをも秤にかけるとも、
信仰より重いものはないということを知りなさい。
信仰とは、仏と一本に結ばれるということ。
仏と一筋に結ばれるということ。
仏と一つになること。
この地上に、仏より重いものはないということを知りなさい。
いかなる秤にかけようとも、
いかなる地上的なるもの、金銀を、財宝を積もうとも、
しかし、仏より重いものはない。
信仰とは、仏と一体となること。
この仏と一体となるということを、決して忘れてはならない。
この信仰なくして、仏国土の建設などありえないのだ。
私は、そう思う。
【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第六章 心の平静と祈り
1 静寂の大切さ
本章では主として、「心の穏やかさ」「平静さ」「平安」ということについて話をしていこうと思います。
まず、私は、「静寂ということの大切さ」について語ってみたいと思います。現代文明のいちばんの問題点が一体どこにあるかといえば、結局のところ、「忙しすぎる」、あるいは、「喧噪(けんそう)のなかにある」という点にあるのではないかと思います。
とにかく騒がしい文明です。この文明の側面を音楽的に見るとするならば、たとえば、ジャズであるとか、ロックであるとか、心静かな人にとっては騒音としか思えないような音楽になると思います。これが現代文明の一つのあり方であろうと思います。一時代前のクラッシック音楽の時代が過ぎ、そうした高級霊が指導していない場合の地獄的なる音楽が氾濫している時代と言えるかもしれません(例外はある)。
これはビジネスマンにとっても同じであって、「とにかく忙しい。電話、ファックス、メール、あるいは、来客、訪問といった分刻みの厳しいスケジュールのなかに生きていて、心が休まるときがない」と言えると思います。
そういう意味で、静寂というものの値打ちが失われているのではないかと考えられるのです。時折、人々は休みを取って、古都の京都であるとか、奈良であるとか、鎌倉であるとかを、ふと無性に歩いてみたくなることがあります。「そうした所で、古仏の顔を見ながら心を休めたい」と思うことがあるわけです。しかし、それも束の間であって、まだ、日常の喧騒(けんそう)のなかに、その姿が消えていくことが多いのではないかと思います。
静寂の大切さは教えられないとなかなか分からないものですが、人は時折、一年に一度、あるいは、数年に一度、そうした静寂ということに対して思いを巡らせます。例えば、新宿の副都心のような大都市の、五十階建ての超高層ビルのなかで忙しく仕事をしていて、「これこそが人間のあり方だ」と思っていた人が、ふと京都のような山寺の軒先に佇んでみて、
自分の世界とのあまりの違いに驚くことがあります。
そして、そうした所に座って、書物を呼んだり考えごとをしたりして、石庭などを眺めながら一日いろいろなことを考えてみると、「はたして、人間の値打ちとは何なのか。人間の幸せとは何なのか」ということをふと思い、分からなくなってしまいます。こうしたことに関しては、人々は、ほとんど指導されることもなく、それぞれの感性のままに流されていると言えるのではないでしょうか。
こうしてみると、「大都会の何十階建ての高層ビルで忙しく立ち働く」ことと、「庵、あるいは、お寺のような所で静かに自分の心を振り返ってみる」ことの、どちらがはたして人生にとって値打ちのあることかといえば、一概には言えません。人は華やかな世界を求めるわけですが、ふと、「心の故郷はそこにない」という感じを受けます。いろいろな書類を書いたり、電話で忙しく話したりすることのなかには、本当の心の安らぎはないのではないかと思うのです。
その感は、地上を去って、あの世の世界、すなわち霊天上界に還ってみると、もっと深くなってきます。地上的な忙しいビジネス世界というものは、霊格においては、非常に低い世界です。
高級霊界に行くほど、心は調和され、安らかな世界が展開しています。山々は緑であり、野原は美しいのです。花が咲き乱れ、蝶が舞い、鳥が飛び、人々は安らかな会話を交わしています。心は穏やかであって、「永遠の今」を生きているという感じがします。
ところが、下層霊界に行くと、人々は、時間に追い立てられるように忙しく立ち働いていることがよくあります。もちろん、上段階の指導霊であっても、仕事そのものはたいへん忙しく働いていることはあるわけですが、それでも、心の安らぎというものを常に持っています。そのようなことが言えるのではないかと思います。
こうしてみると、静寂というものは、やはり、心の奥深いところにある根源的なる欲求だと考えたほうがよいと思います。人間には、そうした静寂を求める気持ちがどこかにあるということです。何ゆえに静寂を求めるのでしょうか。それは、かつて魂の故郷において味わった感覚であるからです。魂の故郷において、そうした静寂のもたらす幸福感というものを味わったからです。
修道院などでは、一日に一定の時間、瞑想、あるいは、沈黙ということをさせるわけですが、誰とも話してはいけない時間というものがあります。そうした時間を設ける理由は、「自分の内を見つめて、みずからの内なる心を掘り出す。内なる心と対話する」ということを通して、昔、魂が味わった郷愁を思い起こすことができるからではないでしょうか。
これは、人間のいちばん根源的なる欲求のうちの一つなのです。外面的な派手さを求めるのは、どちらかといえば、魂においては偽我に近い方向です。外側の面であり、偽りの部分です。
ところが、静寂を求める心は、魂の奥の奥にあるものを求めていく行為、すなわち、神仏へと向かっていく行為でもあるわけです。こうした静寂の持つ意味というもの、その大切さということを現代人は忘れ去っているように思います。
「静寂なままに生きる。静寂のうちに考える。静寂のうちに生活する」ということは、それで一つの価値ある生き方なのです。忙しい毎日であればあるほど、忙しくいろいろな人と会っていれば会っているほど、「静寂な時間をとる」ということが大事であろうと思います。そして、自らの内を振り返り、いろいろなこの世的な波動に乱されることなく、心の楽しみを味わってみることです。
この心の王国、心の王国における自由の満喫は、何人にも犯されない永遠の幸せです。この永遠の幸せを守ることが大事なのです。
忙しく生きる人であればあるほど、もう一度、自らを振り返り、そうした静寂の時間を取ってみてください。何も話さず、何も聞かず、静かにしている時間です。それは五分でも十分でも十五分でも構いません。そうした時間があるだけでも、人間の魂はそれだけ霊的な瞬間を持つことになるのです。その霊的瞬間を忘れてはならないと私は思います。
【大川隆法 『漏尽通力』第6章「心の平静と祈り」より抜粋】
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ここで、反省の基礎を学ぶべく経典『信仰告白の時代』より第3章『反省の原点』を学びます。経典をお持ちでない方はこの機会にぜひご拝受ください。【税込み1800円】
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■『反省の原点』
1三つの驕(おご)りと「生・老・病・死」
今日は、ある意味において、「宗教は、いったい何のためにあるのか」ということにつながっていく話をいたします。
みなさんは、人間としてこの世界に生きているわけですが、人間には「三つの驕(おご)り」があります。
第一の驕りは、「若さの驕り」ともいうべきものです。
たいていの人間は、十代、二十代、あるいはそれを過ぎた年代においても、若さということを驕るのです。「自分はまだ若い。人生はこれからであり、前途は洋々であって道は開けている。いかなる試行錯誤をしようとも、まだまだやり直しがきく」と考え、青春の花びらを散らすがごとく、さまざまな事柄や人間関係に熱中します。そして、「自分はいま何をしているのだろうか」と気がついたときには、もはや人生の半ばを過ぎており、若さはどこかへと消えていて、人生の後半にさしかかっていたということがあります。
桜も、三分咲きのときには未来しかないわけですが、満開になれば、やがて散っていく運命にあります。若者に、「老いてのちのことを想像せよ」というのは酷(こく)かもしれません。しかし、一日一日、その日は近づいています。
第二には、「健康の驕り」というものがあります。
みなさんのうち、大多数の方がたは健康でしょう。そして、勉強したり、運動したりして歩んできた、これまでの人生を、当然であるとも考えるでしょう。しかし、みなさんがいったん重い病気にかかったならば、その人生はどうなるでしょうか。
「普通に学校で学べたことが、どれほど幸福であったか。普通にスポーツができたことが、どれほどの幸福であったか。貧しくとも家庭の団欒(だんらん)がありえたことが、どれほどの幸福であったか。健康であるということが、これほどまでに幸福を生むものであったならば、ああ、どうしてあんな小さなことにこだわって、自分は苦しみをつくっていたのだろうか」と思うことでしょう。
健康を失ってみて初めて気がつく者、それが健康の驕り、高ぶりであり、それに気づく時が、人生のどこかで、みなさんを待ち受けています。
「自分の身体は頑健、頑強であって、病気ひとつしたことがない」と自慢していた人が、三十代、四十代になると、急に身体の不調を訴えます。暴飲暴食をし、いつまでも若い時のつもりでいた人が、大変な病気になって、「今後、家族をどうしたらいいのだろうか」と悩むようになります。それは自分の健康に驕っていたのです。「健康というものは、ただで手に入るものだ」と思い、驕っていたために、そうした場面が訪れてきて、人間のその高ぶりの気持ちを諭してくれることがあるのです。
第三に、「生命(いのち)の驕り」とでもいうべきものがあります。
これは、仏法真理を学んでいる方は別かもしれません。しかし、みなさんが、毎朝、家を出て出勤をする途中で出会う人たち、会社で会う人たち、そして会社の帰りに出合う人たちは、どうでしょうか。まるで、自分の生命が無尽蔵であって、決して終わることがないかのごとく生きているように見えませんか。今日があるように明日もあり、十年後も、二十年後も、五十年後も、百年後もあるように思ってはいないでしょうか。それが「生命の驕り」です。
ところが、百人が百人、この地上を去っていくことになるのです。長生きをする人でも、百歳、百二十歳までです。たいていの人はもう少し早く、この地上を去ります。平均寿命が八十歳であったとしても、それはあくまでも平均の話であって、自分に対するお迎えが、いったいいつ来るかはわかりません。にもかかわらず、あたかも自分の生命が無限であって、今の状態でこの世にいつまでも生きていける、そのような錯覚に陥っています。これは、自らの生命に驕っていると言わざるをえません。
最初に述べた「若さの驕り」は、言い換えてみれば、「生・老・病・死」の、「生」と「老」に当たるでしょう。生まれてくる、そし老いていく、そうしたときの苦しみや悲しみを忘れて、青春を謳歌しているものの愚かさというと考えもいいでしょう。
さらに、「健康の驕り」は、「生・老・病・死」の「病」に当たるでしょう。自分自身にも家族にも、いつ何どき病が襲ってくるか、わからないにもかかわらず、病になって初めて、「ああ、健康というものは、どれほどありがたかったか」ということを教えられることになるのです。
そして、「生命の驕り」とは、肉体を持って生きているこの生命が、百歳、二百歳、三百歳と、いつまでも続くと思うことです。これは、やがて来る「生・老・病・死」の「死」という現象との対決を、避けていることにほかなりません。
ちょうど、満ちてくる海の潮にも気づかずに、岩場でいつまでも遊び戯れている子供たちにも似て、人間にはそうした三つの驕りがあります。それゆえに、人間は自分の人生というものを深く考えることなく、過ごしてしまうことになるのです。
しかし、何度も何度も私がみなさんに語り伝えているように、この地上の教育では決して教えてくれないことが、唯一の真実なのです。人間の本来の世界は、あの世の世界、「実在界」と言われる霊の世界なのです。
そして人間は、魂修行をするために、その実在界の生活に別れを告げて、わずか数十年間、この地上に生まれ変わって来ているのです。その世界から生まれてきて、またその世界に還っていく―それが人間なのです。地上から見れば、あの世に行くことを旅立ちと思うでしょうが、あの世から見れば、この世に来ることこそ旅立ちなのです。
みなさんは全員、あの世の世界において、大人としての生活を営んでいたのです。しかし、地上に生まれてくるときに、その意識をそのまま持ち越して来たのでは、この世での魂修行に差し支えがあります。そこで、いったんすべてが白紙に戻され、どのような如来も、あるいは幼き悟りの魂も、もう一度ゼロから始めることになっているのです。
そして、何十年かを地上で過ごすうちに、だんだん、地上こそがほんとうの生活の場だと思うようになり、もといた世界を忘れていきます。このように、まったく価値の逆転した人生観が生まれてくるのです。
悠久の昔には、人間の寿命は、現在よりはるかに長いこともありました。五百歳まで生きた人は数多くいましたし、一千歳まで生きた人もいました。そうした長い寿命が許されていたのです。ところが、地上であまりにも長いあいだ生活を送っていると、肉体での生活こそがすべてだと思って、実在世界の生活を忘れていく人間が次づきと出てきはじめたため、人間の寿命は、どんどん短くなっていきました。それが歴史の真相なのです。
みなさんは、自らが自分自身だと思っているその姿を、その考え方を、その人間観を、疑ってみる必要があります。ほんとうの自分自身が見て判断しているのか、感じているのか、考えているのかを、もう一度、問うてみていただきたいのです。
【大川隆法『信仰告白の時代』第3章『反省の原点』より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き
(3/24-2)83『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―命落とすとも―静寂の大切さ
