(7/30-1)211『進歩と調和への挑戦』 ④幸福とはなにか―物差しで測れないものは信じない唯物論者

進歩と調和への挑戦

58 しかし、正当な勤労によって、貯蓄し、富をなすことは善である。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

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さて、ここからは、一年を通して非常に霊的な季節である「お盆」を迎えるに当たり、教典『信仰のすすめ』から第2章の「死後の世界について」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、経典『信仰のすすめ』のまえがきに、「手ごろなかたちで、幸福の科学の教え、その方向性をまとめたものであり、また、宗教書としてとても良心的な内容になっていると思う。一人でも多くの方に本書を読んでいただけることを切に願っている」と語られており、幸福の科学の信仰論の手引書ともなっています。本経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1500円】
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■死後の世界について
○物差しで測れないものは信じない唯物論者

現代の科学は、主として、ここ二百年ぐらいのあいだに発達したものです。しかし、宗教は、現代に遺っているものだけでも数千年以上の歴史があります。科学が発展する以前からあるものを、あとから出たものである科学によって測るのは、なかなか難しいものがあります。

死後の世界、霊界の話を信じない、科学的思考の人、科学者や唯物論者などと話をすると、彼らは、まるで、三十センチの物差しを持ち、「この物差しで測れるものでなければ信じない」と言っているような感じなのです。

たとえば、大空の広さを物差しで測れるでしょうか。厳密に言えば測れるのかもしれませんが、測れるようでもあり、測れないようでもあり、「ちょっと無理かな」という虚しい感じがします。また、地球の外周を物差しで測れるかどうかというと、原理的には可能でしょうが、そんなことを実際にする人はいません。やはり無理があります。

科学的思考の立場から「死後の世界は信じられない」という人は、ちようど、そんなかんじであり、何とも名状(めいじょう)し難い虚しさがあります。

あるいは、そういう人は、「いつも陸地を両足で歩いているから、海の向こうにあるものの存在についてもそこまで歩いていけなければ、信じられない」と言っている感じに近いでしょう。

たとえば、「日本から海の上を南に下っていくと、オーストラリアという大陸があります」と言われて、「海を歩いて渡っていけなければ、信じられない」と言っている感じに近いのです。

『聖書』には、「イエス・キリストが湖の上を歩いた」という記述があります。しかし、いくらイエスであっても、日本からオーストラリアまで歩いていくことはないでしょう。オーストラリアまで行くのであれば、やはり、「『歩いていく』などと言わずに、船か飛行機に乗ってください」と言いたくなります。

舟に乗って海の上を行く行為、飛行機に乗って空を飛んでいく行為にあたるものが、実は、信仰といわれるものなのです。

初めて船に乗る人は、「この舟に乗れば、オーストラリアに着きますよ」と言われても、なかなか信じられないかもれしません。いくら、写真でオーストラリアの景色をいろいろと見せられたり、地図を見せられたりして、「船の速度は××ノットだから、これだけの時間があれば付きます」と言われても、「ほんとうに着くのかな」と疑問に感じるかもしれません。

ほんの数百年前までの世界観は、「世界の果ては絶壁になっていて、巨大な滝のように海水が下に落ちており、あとは何もない」というものでした。そういう世界観句を持っている人は、「船に乗れば、ほんとうにオーストラリアに着くのだろうか」と疑問に思うでしょう。

「飛行機に乗って、数時間、飛べば、着きますよ」と言われても、初めて飛行機に乗る人にとっては、あのような金属の乗り物に乗って飛んでいくことは、ほとんど”信仰”の世界でしょう。

「飛行機に乗っていけば海外へ行ける」ということを信じられない人は、「そもそも金属が空を飛ぶのか」という疑問から始まって、「実際に飛んでいるではないか」と言われても、「いや、あれは金属ではないかもしれない」と言い、「飛んでいる姿がテレビに映っているではないか」と言われても、「あれは、作り物かもしれない」言い、「実際に飛行機で海外や行って帰ってきた人がいるではないか」と言われても、「それは嘘かもしれない」と言うわけです。

そのように、どこまでも疑ってかかると、「『飛行機に乗っていけば海外へ行ける』というとは、嘘かもしれない」という感じがするでしょう。

実際に、まだ飛行機に乗ったことのない人は、よく、「飛行機に乗るのは怖い、あんなものが空を飛ぶとは、どうしても信じられない」と言います。

「私は、歩いて行けるところでなければ、その存在は信じられない」という人に対しては、「海の上を歩いて渡ることはできないし、困ったな」ということになり、そこで話が途切れてしまいます。

「何度も繰り返してできるものでなければ真実とは思えない」「万人がやって同じ結果が出るものでなれば信じない」などと言って、それを科学的な態度、実証的な研究態度であると思っている人は、ちょうど、「物差しで測れないものは信じられない」「この足で歩けるところでなければ信じられない」などと言っているような感じなのです。

そういう人は、説得されないことに喜びを感じているようなところがあるので、彼らを説得するのは、かなり難しい面があります。

【大川隆法『信仰のすすめ』第2章「地球神への信仰とは何か」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

御生誕祭に合わせて発刊されました経典『地球を包む愛』そして、『地球を包む愛』CD&DVDは今一番大事な主の御教えですので、皆様必ず拝受ください。また、楽曲CD「天御祖神の夢/天御祖神の降臨―Renewal 
ver.」を通して、すべての人の心を救済されようとしている主の大いなる愛を学び取り、エル・カンターレ信仰を深めると共に、天御祖神様の御名を全国・全世界に伝えてまいりましょう。

本日は、幸福の科学が目指すユートピアについて、ともに考えてまいりしましょう。
幸福の科学は「愛と悟りとユートピア建設」を旗印に毎日活動をしています。

幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています―経典『ユートピア創造論』にあるように、私たちが「正しき心の探求」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。

そこで、ここからは、私たちが日々取り組んでいるユートピア活動の原点に立ち返り、幸福の科学がどのようなユートピアを目指しているのかを改めて確認する機会とさせていただきます。経典『ユートピア創造論』をお持ちでない方は、是非拝受ください。【税抜き1500円】
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〇幸福とは何か
幸福の科学の原点でもあるユートピア論は、私たちが標榜する「幸福の科学」というスローガン、看板そのものに着目した場合、目的としての「幸福」と、手段としての「科学」―この二つの追求、探求が基本となっています。

幸福の科学において、「の」という言葉でつながれている「幸福」と「科学」は、実は目的と手段の関係にあるのです。

では、「幸福」という名で私が定義しているもの、みなさんにお伝えしようとしているものの、ほんとうの姿は何でしょうか。幸福の科学では、何をもって幸福としているのでしょううか。

① 私的幸福と公的幸福
私はこの第一章一節で、ごく単純にではありますが、幸福について明快な分類をしてみました。これは「私的幸福」と「公的幸福」です。この二種類の幸福の追求が、ユートピア創りというものが何であるかを如実に示しているのです。

結局、幸福の科学が目指しているものは何かというと、まず、ユートピアのもとに集まる人びとが、個人として真実の喜びに満ちあふれていることであり、しかも個人だけでなく、国家などの全体においても、大いなる景観、すばらしい展開が示されているということなのです。

桜の花が咲くとき、それぞれの花は一輪一輪咲いています。しかし、その一輪一輪がばらばらの時期に咲いたならば、桜の木はどれだけ美しく着飾ることができるでしょうか。一年のうちのある時期、すなわち四月の初めごろに、いっせいに花が咲くからこそ、そこに調和の美が出てくるのではないでしょうか。

一本の桜の木だけが花を咲かせるのではなく、隣の木にも、その隣の木にも、また、あちらの山にもこちらの公園にも、桜の花が咲いてこそ、春が巡ってきたと言えるのです。

したがって、桜の木が咲くことのなかにも、まさしく私的幸福と公的幸福の考え方があるわけです。

一本の桜の木は、自分が花を咲かせることに一生懸命でしょう。これは私的幸福の追求です。しかしながら、一本一本の桜の木が私的幸福の追求に真剣であることが、結局は、春という季節の最も象徴的な景観を呈することになっているのです。私たちは目の前から桜というものを消し去ったとき、春という季節は、限りなく寂しく、むなしいものに見えることでしょう。

ユートピア創りもこれと同じです。みなさんは、それぞれの幸福をめざしていただいけっこうです。しかし、現在は「人類の春」としてのユートピア創りの時期でもあるのです。

この時期に花を咲かせなければ、ほかに咲かせるときはありません。夏に咲いても、秋に咲いても、冬に咲いても、時節が違います。仏から命ぜられたユートピア創りの時期に花咲かせてこそ、本物となるのです。

このような全体的見地、季節の移り変わりという見地から
ユートピアというものや、そのなかにある幸福というものを考えていただきたいと思います。

② 悟りという名の幸福
では、私的幸福、個人の幸福とは何でしょうか。
もちろん、幸福にもレベル差、ランク差があります。日常に必要なものが満たされるという幸福もあるでしょう。人間として最低限必要な条件を備えるという幸福もあるでしょう。しかし、もっともっと精神性の高い幸福もあるのです。

幸福の科学では、私的幸福の究極にあるもの、最高の高みにあるものとして、「悟り」という名の幸福をあげています。そして、それに達しない幸福は、悟りにたどり着く途中の段階の幸福にすぎないと考えているのです。

なぜ、悟りというものが、幸福という言葉に置き換えられるのでしょうか。何ゆえに、悟りというものが幸福なのでしょうか。

それには二つの要因を内に秘めています。
第一の要因は、今生にあって、すなわち、この三次元世界を生きていくにあたって、悟りとはまことに得がたきものであることです。

まことに得がたきものを得ることのなかによろこびを見出すのは、人生の常です。そう簡単に手に入れられないもの、流されるままに生きていては手に入れることのできないものである、悟りというものを得てこそ、今世の修業は意味があると考えられるのです。

そして実は、私的幸福から公的幸福への展開は、悟りという言葉によってつながっていくのです。これが第二の要因です。

悟りというものは二つの面をともなっています。一つは、個人の喜びという、私的幸福の側面です。もう一つは、「悟れば愛他の思いを出さざるをえない」という宿命があることです。

悟るということは、人間の使命を覚る(さとる)ということであり、また、みずからの成り立ちとゆくえを知るということでもあります。本来の使命を覚ったとき、人間はじっとしているわけにはいきません。行動せざるをえなくなります。

しかも、その行動は一定の方向性を持っています。それは徹底的善念、愛他の方向です。「人を愛さずにはいられない」「人と接して、よき感化を与えずにはいられない」「人に話しかけて、その人の心を豊かにしないではいられない」―これが愛他の思いなのです。

結局、簡単に言うならば、悟りとは「人間の使命の自覚」です。また、それは「自分自身の使命の自覚」でもあります。したがって、当然ながら、それは公的幸福の実現へとつながっていくのです。

みなさんは何十年かのちには、この地上を去ることになります。地上を去ったとき、だれもが必ず後悔することが一つだけあります。それは公的幸福の面です。

どのようにダイナミックな生き方、情熱的な生き方をしたとしても、また、知性あふれる生き方をしたとしても、「どれだけ多くの人を幸福にしたか」という観点から見たときには、充分ということはありません。完全ということはないです。

たとえ光の天使であっても、地上を去り、みずからの数十年の人生をふり返ったとき、「どうして、かくのごとく生きてしまったのか。もっと別の生き方ができたはずだ。もっと多くの人たちに接する機会をつくるこができたはずだ。もっと愛することも、もっと夢を与えることもできたはずだ。それなのに、これだけの仕事しかできなかった」という現実に直面して、涙を流すのです。

みなさんのなかには、光の天使も数多くいます。また、光の天使の候補生も数多くいます。みなさんはやがて、みずからの使命に目覚め、法を伝え、多くの人びとを仏法真理の道へと誘うようになるでしょう。

しかし、そうした道が開け、その仕事に就いたとしても、最終駅において後悔するというてんについては、いまから予言しておいて間違いがないのです。

したがって、みなさんは、みずからのあり方を現時点にだけ置くのではなく、みずからが地上を去る時点に立って、現在の人生を見つめ直す必要があります。すでに終点にある自分の目から見て、残された旅の時間と距離がいかほどか、ということを考えていただきたいのです。

そこに、おのずと情熱がわき上がってくるはずです。「もし情熱がわき上がってこないならば、あなたは人間として偽物である」という厳しい言葉を、私は述べておきます。

本物の人間であるならば、人生の終点に立って、現時点のみずからの姿を振り返ったとき、そのままで満足できるはずはありません。必ずや、自己改善に取り組み、積極的なる人生を生き、多くの人々に勇気と光を与え、与え、与えつづけんと、決意せずにはいられないのです。

そうした目覚めへのきっかけとして、幸福の科学はさまざまな行事を用意しているわけです。この出発点を忘れないでいただきたいと思います。

【大川隆法『ユートピア創造論』より抜粋】
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本日も経典『ユートピア創造論』の第一章「ユートピア創造論」の講義となります。「幸福の科学」の原点を学ぶうえで最重要の内容です。共にしっかり学んでまいりましょう。

まず、本日の学びでは、幸福について明快な分類を教えていただきました。これが「私的幸福」と「公的幸福」です。この二種類の幸福の追求が、「幸福の科学」のユートピア創りというものが何であるかを如実に示しています。

幸福の科学が目指しているものは何かというと、まず、ユートピアのもとに集まる人びとが、個人として真実の喜びに満ちあふれていることであり、しかも個人だけでなく、国家などの全体においても、大いなる景観、すばらしい展開が示されているということなのです。

ここで、私的幸福と公的幸福という 
言葉がでてきました。私たち幸福の科学会員が目指す幸福とは私的幸福と公的幸福を同時に実現しようとするものです。つまり私的幸福の実現が社会全体の幸福―公的幸福と重なる形での実現を目指しています。

そして、私たちが追求している本当の幸福とは、「幸福の科学では、私的幸福の究極にあるもの、最高の高みにあるものとして、「悟り」という名の幸福をあげています。そして、それに達しない幸福は、悟りにたどり着く途中の段階の幸福にすぎないと考えているのです」と説かれています。

「悟りという名の幸福」のために、私たち幸福の科学メンバーは生きています。
そして、悟りとはこのように説かれました。

「悟るということは、人間の使命を覚る(さとる)ということであり、また、みずからの成り立ちとゆくえを知るということでもあります。本来の使命を覚ったとき、人間はじっとしているわけにはいきません。行動せざるをえなくなります。

しかも、その行動は一定の方向性を持っています。それは徹底的善念、愛他の方向です。「人を愛さずにはいられない」「人と接して、よき感化を与えずにはいられない」「人に話しかけて、その人の心を豊かにしないではいられない」―これが愛他の思いなのです。

結局、簡単に言うならば、悟りとは「人間の使命の自覚」です。また、それは「自分自身の使命の自覚」でもあります。したがって、当然ながら、それは公的幸福の実現へとつながっていくのです」

これを仏教の言葉では、「利自即利他」と教えていただいているものです。自分の幸福の追求が他の人を救い助けるという生き方です。

その悟りを得る方法として、このように説かれました。

「したがって、みなさんは、みずからのあり方を現時点にだけ置くのではなく、みずからが地上を去る時点に立って、現在の人生を見つめ直す必要があります。すでに終点にある自分の目から見て、残された旅の時間と距離がいかほどか、ということを考えていただきたいのです」

このように、この世の視点だけでなく、あの世の視点から自分の生きている意味や、自分の使命を考える必要があることを学びました。

幸福の科学の存在意義を改めて考え直すための基本でありながら、大切な教えでした。
引き続きともに学びを深めてまいります。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福として、1 
口 10 万円からお受けいたします。

・本植福に参加された方には、「『天御祖神 
感謝報恩の誓い』奉納書」を拝殿の基壇部分に御奉納させていただき、大きな貢献をされた方につきましては、記念碑建立時に銘板をもうけ、そのお名前を記名し、顕彰させていただきます。

・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

日々のご支援に心より感謝申し上げます。

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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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