新日本国憲法 第五条
国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する。また、国内の治安は警察がこれにあたる。
【大川隆法『新日本国憲法 試案 第五条』】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
来る2月11日は建国記念日を迎えます。建国記念日の由来は、明治時代、日本の建国を祝う日として紀元節(きげんせつ)がありました。初代天皇とされる神武天皇が即位した日が、紀元前660年の2月11日だったことから定められたようです。そして、1873年から第二次世界大戦後の1948年まで祭日として人々に親しまれていました。しかし、戦後の日本を占領していたGHQ軍の意向により、紀元節が廃止されることになりました。
その後、国民の間で紀元節を復活させようという動きが高まり、建国を記念するための日が設けられたようです。その際に、「紀元節」から「建国記念の日」へと名称が変わったと伝えられています。このようなことから、1966年に国民の祝日として制定され、翌年から適用されるようになりました。
本日は、主の『新日本国憲法 試案』から新しい日本の建国の精神を振り返ります。
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第五条 国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する。また、国内の治安は警察がこれにあたる。
【大川隆法『新日本国憲法 試案 第五条』】
〇「国防と治安」こそが政府の責務
・永世中立国のスイスでさえ軍隊を持っている
今の憲法は、第九条の問題で、いろいろと揺れていますが、私の試案には、「国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する」と、はっきり書いてあります。
これに対して、日本国憲法の第九条を見ると、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」(第一項)、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(第二項)とあります。
これは、完全に武力を取り上げられて、戦争を放棄し、占領軍に丸裸にされた状態です。この条文からは、占領され、武装解除をされて、お手上げ状態になっているような国の姿が見えてきます。まさに、「二度と武器を持って立ち上がるなかれ」といわれているような状態なのです。
諸外国も同じ状況であるなら、これでも別にかまわないとは思います。しかし、
こういう状況の国は日本以外にはないのです。
現時点で「永世中立」を謳(うた)っているスイスであっても、それなりの戦力は、きちんと持っています。
スイスは、ヨーロッパの小国なので、歴史的に何度も侵略の危機に遭ってきました。そのため、自国が侵略されると見たときには戦う体制ができていて、随時、戦力を整えています。
日本人は、憲法九条に関する議論のなかで、「スイスが『永世中立』を守っているように、日本は『非武装中立』でいけるのではないか」ということを言いがちなのですが、スイスには軍隊がきちんとあるので、それは違うのです。
「戦争をしない」ということ、「一切、武力を持たない」ということは、同じではありません。「武力を持っていない」ということは、「戦争をしない」ではなくて、「戦争ができない」ということを意味しているのです。
また、憲法九条の第二項では、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」となっています。
「自衛隊は軍ではない」という言い方もありますか、九条の条文の「その他の戦力」のなかには自衛隊も本当は入るのかもししれません。
また、海上保安庁も「その他の戦力」に入っている可能性はあります。海上保安庁の巡視船も、海賊船ぐらいは撃退できるので、戦力といえば戦力なのです。
【大川隆法『新日本国憲法 試案』より抜粋】
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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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5 涅槃寂静の悟り
では、「涅槃寂静・ねはんじゃくじょう」とはいったい何だったのでしょうか。
束縛の多い物質界、そしてまた迷わしの多い自己認識、他人認識、そのような現実を現実として見抜いていながら、そのなかで一切から超脱した自分というものをつかみ出し、それを知るいきながらに、実相世界の住人としての自己を体験する。その実相世界の住人としての自己に目覚めて、実相世界の住人としての眼で、耳で、鼻で、口で、身体で、考え方で、現実世界のなかを生き渡っていくこと、これを悟りと言います。そして、そのような人のことを、目覚めたる者、「覚者・かくしゃ」といいます。それが、「仏陀」という言葉の別名でもあります。それは現実に可能なことなのです。そのような悟りの道を万人に教えていたのが仏教であったのです。
もし、この地上界を去った、目に見えない世界、霊界世界、実在世界というものがなく、また、人間存在が霊的存在でないとしたら、このような悟りは成り立たないのです。それは単なる唯物論であり、人間が焼けて灰になれば終わりという思想と、まったく変わらないことになります。
ですから、「涅槃寂静」という考え方も、気をつけないと、単なる虚無主義、ニヒリズムに陥っていくことがあります。しか、実はそうではありません。永遠なる実相世界というものを、現在ただいまにおいて知ること。その悟りの力を持って、この現象界を生き渡っていくこと。生きながらにしてその悟りの世界に入ること。これが、涅槃に入(い)るということです。
もちろん、悟りたる者も、最終的には、この肉体を脱ぎ捨てることによって、完全な涅槃に入ることになります。しかし、肉体に宿りながら悟りの世界に悟入(ごにゅう)することこそが最大に尊いことであり、それが魂の最大の進化をもたらすことなのです。
ですから、「悟ったら何もかもなくなる」とか、「死後の魂生存もない」などという思想は、まったくの間違いです。そのような思想に囚われてはなりません。
善をしている人は、無我というもを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐・しかんたざ」を唱えた道元禅師であっても、やはり過去世・現世・来世という三世をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業・さんじごう」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知った上での禅定なのです。それを知った上での只管打坐なのです(十二巻本『正法眼蔵』〔三業時〕に「仏祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の利をならひあきらむるなり」と・
・
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�る)。
では、なぜ坐るのか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空鶴の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に足の訓練以外の何ものでもありません。
同じようなことがほかにもあります。無目的に坐るという足の訓練だけをしている禅者がいるのと同様に、山を歩くだけで足の訓練をしている人もいます。千日間、毎日、山を何十キロも歩けば、身体は強くなるでしょう。ある意味で精神力も鍛えられるでしょう。しかし、いくら山道を歩き、いくら崖を登り岩山を駆けても、所詮、それは天狗、仙人の世界であって、仏陀の悟りにはほど遠い境涯です。
さらにまた、断食をして、自分の肉体を徹底的にいじめる人もいます。断食をしているうちに意識が朦朧となり、魔界の者たちが周りに表われ、身体の中に入ります。それを神仏の声と誤認する者が数多くいます。肉体も精神も苦しめることによって悟りが得られるという間違った思想です。
仏陀は、それと訣別(けつべつ)することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現れないのです。
いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
そうではなくて、肉体を否定するという、自殺につながるような思想が、悟りであろうはずがありません。もしそれが悟りであるならば、生まれて来たばかりの子供を死なせてやることが、いちばん涅槃に近いことになり、それが母親の仕事となるでしょう。しかし、現実はそうではありません。
確かに、この世の中は苦しみに満ちていまする人生は苦しみに満ちているけれども、その苦しみののなかに真実を見いだすことによって、苦しみはまた大いなる楽しみへと変わってくるものなのです。
【大川隆法『沈黙の仏陀』第1章「沈黙の仏陀」より抜粋】
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さて、伊勢支部の発展を祈念して、「支部発展のための祈り」から一つずつポイントをご紹介させていただいいています。最終回は『三帰信者に期待すること』についてです。
まず、『支部発展のための祈り』という経文がございますが、こちらは、三帰信者の私たちが、2000円の奉納目安でいただける大変ありがたい経文です。
私も毎日ありがたく読誦させていただいています。
『支部発展のための祈り』の経文には、主より「幸福の科学の正会員である三帰信者に期待すること」をわかりやすく教えてくださっています。三法帰依したら10のことを中心に日々の信仰生活を組み立ててもらいたいという願いが込められています。
幸福の科学の正会員の条件は「三宝に帰依すること」です。
「三宝」とは、私達仏弟子がこの世において、そしてあの世において、もっとも大切にしている宝物のことです。「帰依」は信じるということです。
本日は『三帰信者に期待すること』の第10です。
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主が三帰信者に期待すること
⑩ 仏法真理を学び、自己の悟りを探究し、人々に愛を与え、ユートピア創りに邁進してください。
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●幸福の科学の教えのキーワードは
「愛」と「悟り」と「ユートピア建設」
幸福になるための鍵は、私たちの「心」にあります。幸福になるための心の法則「仏法真理」を学び、実践していくことで、人間にとっての本当の幸福を実感することができます。そして、一人が幸福になったら、その幸福を周りの人々に広げ、地域や国家に広げ、さらには世界中に拡げ続けて、この地上に生きるすべての人々に、真の幸福―神仏を信じることができる幸福―を実感してほしい。キーワードは「愛」と「悟り」と「ユートピア建設」人々を愛し、悟りを深め、地球ユートピアを実現するために、幸福の科学は、今日も世界中で活動を続けています。
●愛
愛には、相手の幸せを願う「与える愛」と、見返りを求める「奪う愛」があります。純粋な「与える愛」の実践をする時、人間は真の幸福を得られます。多くの人を愛せるように、愛の器をどこまでも広げていくことが、人間としての成長でもあるのです。
●悟り
仏法真理に沿って自分の心を見つめ、自己変革の努力を重ねていく中で、人生の意味に目覚めたり、人を許せたり、悩みが解決したりといった「あなたにとっての悟り」が現れてきます。無限の悟りを目指して、心を磨き続けていきましょう。
●ユートピア建設
幸福の科学の目標は、世界の人々が幸福に暮らせる「ユートピア」を創ること。愛と悟りを求めて仏法真理を行い人を増やし、地球環ユートピアにするために、啓蒙活動や海外支援など、様々な活動を展開しています。
私達、弟子にこめられた主の願いがわかりやすく知る手掛かりに、主の「楽曲」があります。主が未来の仏弟子に託した夢が幸福の科学学園の校歌にこめられています。
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未来をこの手に(幸福の科学学園校歌)
作詞・作曲 大川隆法 ☆霊指導 仏陀
一、
探し求めていたものは
未来の心
自分の使命
人生の目的
今は飛べない雛だけど
いつかはきっと鷲になる
アイ・ハブ・ア・ドリーム
夢の未来はきっと来る
愛・知・反省・発展の
四正道を究めたら
悟りの姿が見えてくる
父も母も待っている
私が光となって
きっと世を照らす日が来ると
その日 その時まで
精進の道を歩く ひたすらに
未来をこの手に 確かにつかもう
二、
夢にまで見たものは
ユートピアの姿
法友の愛
不屈の勇気
今は修行の身だけれど
いつかはきっと花が咲く
キープ・オン・ラーニング
悟りの国がそこにある
愛と悟りとユートピア
建設の夢は必ずや
世界各地に実を結ぶ
主もきっと願われる
私が師となり
法輪を転じる日が来ることを
その日 その時まで
忍耐の道を歩く ひたすらに
幸福の卵を 産み続けよう
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この世は、愛がすべてであり、愛一元の世界を私たちは生きています。主は光であり、主は愛です。その愛を多くの人にと遂げるためには、「悟り」という名の智慧が必要です。愛と悟りが地球を覆うとき、そこに現れるのは仏国土ユートピアです。私達、三帰信者が伊勢支部に相集うのは、主の悲願をこの地上世界に現象化するためです。
そのためには、数多くの仲間が必要です。
一人でも多くの方を主のもとへ導き、共に活動する仲間を増やしてまいりましょう。
本年2024年もとても厳しい年となります。しかし、厳しさの中に希望の光を見出すことこそ私達、ハッピーサイエンスメンバーの底力であることを確信しています。「太陽の法」と共に、一人でも多くの方に「メシアの愛」を共に届けてまいりましょう。
伊勢支部の発展は常に主と共に、法と共に、サンガと共にあります。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちのの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(1/31-1)31「支部発展のための祈り」セミナー最終章「三帰信者に期待すること ⑩愛と悟りとユートピア建設
