新日本国憲法 第二条 信教の自由は、何人に対してもこれを保証する
【大川隆法『新日本国憲法 試案 第二条』】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
来る2月11日は建国記念日を迎えます。建国記念日の由来は、明治時代、日本の建国を祝う日として紀元節(きげんせつ)がありました。初代天皇とされる神武天皇が即位した日が、紀元前660年の2月11日だったことから定められたようです。そして、1873年から第二次世界大戦後の1948年まで祭日として人々に親しまれていました。しかし、戦後の日本を占領していたGHQ軍の意向により、紀元節が廃止されることになりました。
その後、国民の間で紀元節を復活させようという動きが高まり、建国を記念するための日が設けられたようです。その際に、「紀元節」から「建国記念の日」へと名称が変わったと伝えられています。このようなことから、1966年に国民の祝日として制定され、翌年から適用されるようになりました。
本日は、主の『新日本国憲法 試案』から新しい日本の建国の精神を振り返ります。
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第二条 信教の自由は、何人に対してもこれを保証する
【大川隆法『新日本国憲法 試案 第二条』】
〇宗教性悪説を打破するために
・現行憲法は、実質上、「信教の自由」を保証していない
わりに早い段階で、「信教の自由」の条文を出しました。前文も第一条も、かなり宗教的な色彩をおびているので、第二条に「信教の自由」を持ってきたのです。
「信仰を持つ自由」を誰に対しても保証するということです。条文としてはこれだけで、付帯条項をつけることはやめました。
現行の憲法には、付帯条項として、「政治と宗教を分離せよ」「公教育から宗教を分離せよ」といった政教分離規定がありますが、それによって、現実には、宗教を社会の片隅に追いやる力が働いていると、私は考えます。
例えば、日本国憲法第二十条を読むと、「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。」という文言のあとに、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(第一項後段)、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(第二項)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。」(第三項)とあります。
この条文を素直に読めば、宗教というもが非常に日陰の存在とされていることは明らかです。
最初にある、「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。」ということはよいのですが、例外規定が多すぎます。これだけ例外を設けられたら、信教の自由を保障していないのとほとんど変わらなくなります。
「宗教団体は、国から特権を受けたり、政治上の権力を行使したりしてはならない」ということになると、第二十一条の「結社の自由」は、宗教団体はまったく適用されないかのごとくになりますし、「言論・出版の自由」等に制約がかかるようにも読めます。
また、人間平等の原則からいって、「その人の職業によっては政治家になれない」ということがあってはいけないはずです。「漁業をやっていても、農業をやっていても、政治家になれるのに、宗教家であれば政治家になれない」ということならば、これは明らかにおかしいとおもいます。
むしろ、宗教家は普通の人よりも見識が高いことが多いのです。精神修養を積んだ「大人を教えられる教師」が数多くいるのが、宗教の世界なので、政界の浄化ということを考えるならば、こういう規定は、かえって有害無益であると考えます。
【大川隆法『新日本国憲法 試案』より抜粋】
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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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2仏教の教えの基本
③涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
さらに、仏教の教えの中心とされるものの三番目に、「涅槃寂静」という教えがあります。
涅槃の境地というものは、初期の仏教教団において、非常に憧れをもって探し求められた境地です。すべての修行者の修行目的は、この涅槃の境地に至ることであると言われていました。
その涅槃の境地を一番最初に味わい、自分のものとして享受(きょうじゅ)したのが、ほかならぬ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶっだ)であったわけです。そして、目には見えぬ、言葉でも言い表しかねる、その涅槃の境地を人びとに教えるために、さまざまな修業論を展開したのです。
では、涅槃の境地とは、いったいどのような境地でしょうか。
「諸行無常」において、変転きわまりない時間軸のなかでの諸存在の姿を捉えました。また、「諸法無我」のなかで、一切は空であるという思想につながっていくような空間論的な存在を観じました。時間と空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、向上なるものは何もないという悟りでした。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか―。この意味を追求することこそ、涅槃寂静の悟りなのです。
すべての時間的観点から見た場合に、
すべてのものは流れ去っていくものである。
そして、空間的観点から見ても、
すべてのものには、本来、我なるものはない。
自性なるものはない。
永遠に続いていくもの、
自分自身が生み出していく力によって続いていくようなものは、
何ひとつない。
現にあるものはすべて、
それ自体で成り立っているものではない。
何かによってつくられたるものであり、
また、必ず滅びていくことが確定しているものである。
それが、この世の存在である。
時間においては無常、
また、空間においては空。
そのような思想のなかで生きている我とはなんであるか。
「我思う、ゆえに我あり」という思想もあるであろう。
しかしながら、そのような時間的・空間的観点において、
何ひとつつかみどころのない、
そのような縦と横の交わる交差点、
その十字架のなかに立っている我とは、いったい何であろうか。
それを深く考えなくてはならない。
そうしてみると、
実は、本来の自己なるものは、
この肉体のなかに宿って、
特定の名前を持ち、特定の両親を持っている
あなた自身ではないはずである。
おそらくそうではない。
空間的にも時間的にも、
一切が、つかみとることができない。
そのなかに生きている我のみを、
ほんとうにつかみとることができるのだろうか。
そうではない。
その我というものも、
実は、神仏の永遠の時間と空間のなかで、仮に存在あらしめられ、
その掌(てのひら)において、遥かに見えている存在である。
川にたとえるならば、
その川の中を流れていく泡沫(うたかた)、
その泡にしかすぎない。
そう、いつか川の中から、水の中から生まれ、
そして必ず消えていくことになっている泡沫(うたかた)の自分が、
「自分とはいったい何であるか」ということを考えている。
考え、考え、考え、考え抜いて、
そして永遠の実相なるものをつかみとっていく―。
そこに涅槃寂静の境地が開けてくる。
すなわち、
自分というものを通して、
神仏の本来の姿を、その意図を、
その光なるものを見抜いていくこと。
そのためには、
己というものを、
限りなく、空(むな)しく空(むな)しくしていかなければならない。
【大川隆法『沈黙の仏陀』第1章「沈黙の仏陀」より抜粋】
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さて、伊勢支部の発展を祈念して、「支部発展のための祈り」から一つずつポイントをご紹介させていただいいています。本日は『三帰信者に期待すること』についてです。
まず、『支部発展のための祈り』という経文がございますが、こちらは、三帰信者の私たちが、2000円の奉納目安でいただける大変ありがたい経文です。
私も毎日ありがたく読誦させていただいています。
『支部発展のための祈り』の経文には、主より「幸福の科学の正会員である三帰信者に期待すること」をわかりやすく教えてくださっています。三法帰依したら10のことを中心に日々の信仰生活を組み立ててもらいたいという願いが込められています。
幸福の科学の正会員の条件は「三宝に帰依すること」です。
「三宝」とは、私達仏弟子がこの世において、そしてあの世において、もっとも大切にしている宝物のことです。「帰依」は信じるということです。
一つ目の宝は「仏」です。仏様の本当の名前をエル・カンターレといって、地上に今、「大川隆法総裁先生」として下生されています。私たちの主です。私達仏弟子にとって、最も尊い宝物です。
二つ目の宝が「法」です。法とは主の説かれる教えのことです。
三つ目の宝が、「僧」です。僧とは主の教えを拡げようとする者の事です。宗教法人「幸福の科学」は僧の集まりです。
三法帰依された方には、「仏説・正心法語」の他、「祈願文①」「祈願文②」「エル・カンターレへの祈り」を拝受いただけます。奉納目安は各2000円目安となります。
前置きが長くなりましたが、本日は『三帰信者に期待すること』の第7です。
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主が三帰信者に期待すること
⑦ 職員、講師、法友たちのアドバイスを受けながら自分の課題を見出し、経典、法話(ビデオ、DVD、CD、テープ)の学習に日々の精進として取り組んでください。
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三帰信者である私達の心がけとして、大切にしている心の態度とは「正しき心の探究」です。正しさとは神様・仏様の心、つまりは、エル・カンターレの心より生まれます。だから、正しい心を探究とは、神仏の心を探し求め、それを学ぶということになります。神様・仏様の教えを「仏法真理」といって、私の主である「大川隆法総裁先生」の教えを日々学んでいます。また、「正しき心の探求」とは幸福の科学の基本教義である「愛・知・反省・発展」の「四正道」を毎日実践することであるとも教えていただいています。
人生の課題については、そもそも、人間存在に対する私達の間違えた見方から様々に生まれているのではないでしょうか。
つまり、人生の課題について考える前に、自分と他人が異なる存在なのではなく、本来一体であるとう見方、前提がとても重要だと思うのです。
私たちには、地上の目で見たら、個人個人は、それぞれ別々の存在に見えます。しかし、私たちの肉体には魂が宿っていて、その魂の中心に心があり、その心の中心には、仏さまから分かれた光、「仏性」(仏性が宿っています)。
私たちが生まれる前にいた世界、そして、私たちが死後に帰る世界、本来私たちが住んでいる天国世界から見ると、私たちは決して個別バラバラな存在ではなく、仏性を縁として私たちは一体です。だから、自分を傷つけることも、人を傷つけることも、仏からいただいた「仏性」を傷つけるという意味において同じであり、間違えであることを私たちは主より教えていただいています。
私たちは、自分以外の存在と「愛」によって結ばれており、神仏と私たちは「慈悲」によって結ばれている本来尊い存在です。私たちが地上に生きているのは、前世の記憶をすべて無くした中で、地上世界において、愛に目覚め、神仏の慈悲に目覚めるためです。
宇宙や、地球や、人間を創造した主なる神への信仰をもつこと。それによって、自分が神仏から愛され、生かされている「慈悲」に目覚めること。他の存在によって自らが生かされているということに気づき、主なる神を愛するために、自らの隣人に愛を与えること。
これが、私たちの人生の課題です。
主より「神とは、愛である」と教えていただいています。
そして、私たちは、主より心の自由を与えられています。その自由を使って、人生の中に「主なる神」を発見し、神の愛を発見し、愛を他の隣人にどのように与えるか。私たちは100%の自由と、それに対する責任を負っています。だから、人生の課題、問題とは「愛」の問題であると言っても過言ではないと思います。
ここで、主より賜りました心の指針「人生の問題集」をご紹介いたします。
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「人生は一冊の問題集である」
とは、まさしく至言だ。
人生修行の歳月を重ねるほどに、
その意味を重く感じる。
すべては、
自分自身がまいた種と、
その育て方に原因がある。
また、自分自身と他者とのかかわり方、
自分と自分を取りまく世界との関係を、
どう考え、どう行動していくかにある。
自分の努力で、
自分の人生の問題集が解ける、という考え方が、
縁起の理法を信ずる立場だ。
何を善と見、
何を悪とるか。
どのような行為を、
仏意にかなっていると考え、
どのような行為を
悪魔の所業だと思うか。
あなたは日々、
選択と決断を迫られている。
その答えの集積が、
あなたの人生の総決算である。
あなたは来世の採点結果を、
運命ではなく、自分の努力点であると、
静かに受け入れる境地を持たねばならない。
【心の指針『仏は支える』より抜粋】
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まさに人生は一冊の問題集であり、その問題集の解決のために、主よりさまざまな、心の教えや、あの世とこの世を貫く幸福についての教えをいただいています。
支部や精舎の講師は、皆様の人生の問題集の解決をお手伝いいたします。
主からいただいた心の教え―仏法真理―に基づいて、神仏の御心にかなう答えを友に導きだしていきましょう。共に力を合わせて、「愛」と「悟り」と「ユートピア建設」を実現して参りましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について
・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。
・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。
日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。
・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。
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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)
(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)
・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。
(『現代の武士道』)
・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
(「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(1/28-1)28「支部発展のための祈り」セミナー㉘「三帰信者に期待すること ⑦自分の課題と真理の学習」
