(9/13-1)【基礎教学通信】256幸福の科学入門36「愛と天使の働き」この地上で天使の働きを―「悟りの挑戦(上巻)」―「瞋」=統制できない怒り―『黄金の法』そして、空海

幸福の科学入門

66 会社の看板を、自分の実力と勘違いしていないか。

71 家庭円満と、仕事の成功を両立できる人は、尊敬しよう。

73 浮気は人生の花にして地獄。死後の『血の池地獄』は、何とか避けよう。

【大川隆法 箴言集『仕事への言葉』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちの方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第2章「無明からの脱却」


3 「瞋」=統制できない怒り

それから「瞋(じん)」は、カーッとこみ上げとくる怒り、自分で統制できない怒りです。短気で、すぐカッとしてしまう人がよくいます。見境なくなって、そのときだけもう自分を失ってしまって、何を言っているかわからなくなるのです。とにかくすぐにカっとしてしまいます。頭の回路を通して冷静に考えて、「これは怒るべきことであるから怒らなくてはならない」と思うのではなくて、何かに触れると瞬間湯沸器のようにカッと怒る人です。これが「瞋」なのです。

これも、昔から心の毒素の一つになっていて、この怒りを出すと、せっかく穏やかに治めていた心の水面が非常に波立ちます。そして、不愉快で不愉快でしかたがありません。夜も眠れなくなってきます。ですから、人と会うと非常に面白くないし、すぐカッカとする癖があります。

会社に勤めていても、非常によくできた人のように見えるし、頭もいいし、見映えもいいし、ずいぶん立派な人だと思うのに、いまひとつ出世しない人がいます。そういう人の特徴として、この「瞋」、怒りというのを持っていて、すぐカッとなってしまうところがあるのです。思わぬところで人格がコロッと変わってしまうので、せっかく九十九点取って、あと一点積み上げようとするときに、がらがらと崩れてしまうのです。

「彼を管理職にどうか」という話が出たときに、「あれはすぐカッとなる男なので、何かの時にちょっと信用できない」「取引先で喧嘩したらどうする」「部下に対していきなり八つ当たりすることがある」「いきなり上司に食ってかかることがある」「そういうことがいきなり出てくるので、ちょっとどうかな」というようなことを言われて、出世が遅れたりする人がいます。ですから、能力的には非常に高いのに、どうして出世しないのかというときには、そういう短気を持っていることがよくあるのです。

なぜそうなるかということですが、これもある意味での動物性の一つなのです。動物たちもすぐカッと歯をむきます。どんな動物でもそうですが、自分の身に危険があったりすると、歯をむいたり、牙をむいたり、爪を立てたり、毛を逆立てたりします。それにちょっと似ていると言えるでしょうか。あるいは、自分の領域内に何者かが入ってくると、すぐに迎撃するような性格に近いかもしれません。ヤマアラシのように、まわりに対して、猛然と針を立てるのです。やはり動物的な本能の一種かもしれません。ですから、この怒りのところを抑えると、心は常に穏やかで、修行に適した状態になります。

だた、これにも例外があるので付け加えておきます。ここで言われる怒りというのは、いわゆる「私憤(しふん)」です。私の怒り、憤りを戒めているのです。これに対して「公憤(こうふん)」というものがあります。公の怒り、憤りです。これは完全になくしてしまってはいけないことなのです。この公の怒りというものがなくなると、世の中を前進させる力がなくなるのです。

たとえば、非常な圧政、封建体制が続いていて、農民たちももはやがまんがならないし、このままでは世の中が立ちいかないというときに、革命のために立ち上がる、明治維新の志士のような人たちがいます。これは怒りに走っているから間違いかといえば、そうではなく、これは公憤なのです。公の憤りというのは失ってはいけないものです。これは正義ともかかわってくることです。

ですから、私憤、すなわち自分の個人的、本能的、反応的な怒りではなく、公の怒り、すなわち理性を内に秘めたような怒りを、ある意味では持っていなければ、世の中は少しも変わりませんから、これは知っておいてください。

宗教改革なども、多くはみな、この公の怒りを内蔵しているものです。現状の宗教では人は救えない、そこで起ち上がる―そのエネルギーは公の怒りです。これは「瞋」とは違いますので、間違わないでいただきたいと思います。

それから、個人的な領域においても、「怒る」ということと「叱る」ということはまた別のことです。人が間違ったことをしているのに、それをそのままなさしめる、許容するのがよいという意味では必ずしもあません。叱るということはまた別にあります。子供がいたずらをして言うことを聞かないときに、親としては叱らなくてはいけません。それを叱らないで甘やかしておくと、いざというときに自分でチェックできない子供ができあがってきます。このように、未熟なる者に対して強い指導を与える場合の叱るという行為は、また別の行為です。

この二つの例外があるということは知っておいてください。

【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第2章「無明からの脱却」より抜粋
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】

『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第4章 太陽の昇る国
6 そして、空海

最澄の同時代に、彼より七歳年下の空海(七七四年~八三五年)がおりました。いわゆる弘法大師です。空海は、讃岐の国(香川県)の佐伯(さえき)一族に生まれ、十五歳で上京し、大学明経科に入って、たちまち俊才ぶりを発揮しました。しかし、その出世コースを捨てて、二十歳頃、放浪の旅に出たのです。

彼は、この世の栄達のための仏教ではなく、悟りを開いたときの釈迦が体験したこと、そのものの体験を望みました。そして、出家した釈迦にならって、四国の山野を彷徨(さまよ)うのです。彼は、四国徳島の南都で、滝行に打ち込んだ後、山づたいに高知(土佐)へと渡っていきました。徳島(阿波)の大滝山で、彼は、一人の修験者に会い、こう言われます。

「おまはん(あなた)は滝で修行する人と違う。おまはん、空と海の見えるところで修行なさるのがふさわしい方じゃ。南へ下り、日和佐の村までは浜づたいに、そこからは、手斧を持って、山道を切り開きながら、南へ向かいなされ。鬼の出る国、土佐の室戸岬には、途中毒蛇(はめ)に食われなんだら、二日で着くはずじゃ」

この修験者は、霊能者であり、読心力がありました。【※その後の霊査で、この方は現在に転生して幹部職員となっています】この頃、空海は、虚空蔵求聞持法という一種の超能力体得の秘宝に夢中になっていたのですが、滝行では、まだ、神通力を得ることができませんでした。そこで、修験者に言われたとおり、山づたいに、土佐室戸岬に向かい、最御崎(ほつみさき)に辿り着きました。そして、そこで、手ごろな洞窟を見つけ出します。釈迦が菩提樹下で中道の心で禅定に入る修行を続けた後、悟ったように、空海は、ここで、悟りを得たいと願ったのです。

私の霊眼には、洞窟の入り口は直径二メートル五十センチぐらい、奥行きが二十メートルぐらいあるように映ります。太平洋の荒波に浸食されてできたもののようです。空海は、ここで、懐に入れた焼米と、山中で採ってきた木の根っこを食料として、約二十日間、瞑想行をしております。奇蹟は、十五日目の明け方頃に訪れました。禅定中の空海の体が小刻みに前後に揺れ、その体がみるみるうちに大きくなり、洞窟を抜け出し、土佐の荒波を眼下に見下ろします。やがて驚いたことに、明けの明星が、巨大に転じた空海の口の中に飛び込んできたのです。彼は、このとき、宇宙即我の神秘体験をしたのでした。空海が二十歳と七か月の頃であったと思われます。

この神秘体験をした後、彼は、宇宙大になった自分が見た空と海のイメージをもとに、「空海」と名のるようになったのです。そして、それ以後、霊視能力や霊聴能力がつき、実在界の霊たちと語り始めるようになります。このときの指導霊は、大日如来的容姿で現れた仏陀と、不空三蔵でした。やがて、空海は、不空三蔵の霊指導によって、八〇四年に入唐し、長安で、恵果和尚(七四六年~八〇五年)に師事することとなります。その恵果の死の間際に、法を継ぐ者として指名されたのです。

空海は、八〇六年に帰朝すると、はなばなしく活躍する最澄を冷ややかに見ながら、(※最長は八〇五年に既に帰国)真言密教樹立の精進を始めます。その十年後の八一五年には、高野山に金剛峯寺を建て、正式に真言宗を開きました。さらに、八二三年には、京都の東寺を与えられ、いわゆる東密を盛んにしてゆきます。空海は、天台、最澄などの顕教(けんぎょう)は結局は、生きている人間を諭すための説法論にしかすぎず、やはり、真に悟り、真に霊的求心力を得てこそ、ほんとうの修行であり、密教こそが真実の教えであると考えたのです。密教は、現在では、一種のシャーマニズムのようにも思われていますが、やはり、原始仏教に立ち返って釈迦が初めて悟りを開いた頃の精神に立ち戻ろうとする動きであったのです。

空海の偉さは、即身成仏を説きながらも、単なる小乗仏教に止まらず、大衆救済の心を失わなかったことです。これが、香川県(讃岐の国)に満濃池をつくったことや、八二八年に京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立した行為のなかに表れていると思います。空海は、現在、八次元如来界で、法の研究にいそしんでいます。彼の研究の中心は、「念の性質」ということについてです。すなわち、彼は、人間の幸・不幸を分けるのは、その念の性質だとし、それをコントロールする方法を考えているのです。そして、かつての彼の著作『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』を超える真理の大著を書きはじめております。法の研究そのものへの情熱の強さが、空海と最澄との境遇を分けたのだと言えるでしょう。

しかし、この空海の思想に危険な問題点を見いだすとすれば、やはりその即身成仏的思想でしょう。現に徳一も、唯一現存する著作『真言宗未決分』において、真言密教には、「行」と「慈悲」が欠けているという、彼の立場からの批判をしつつも、同時に即身成仏は実は不可能なのではないかとの手厳しい批判を重ねております。

確かに、即身成仏論には、本覚思想【※人間はもともと悟った存在なのだとし、修行して初めて悟れる始覚思想と対置される】に同通し、頓悟的【※一躍跳入的にすぐに悟れる考え】な悟り感覚へと導く危険な面があります。真言密教の流派の中で、後世、この危険なワナにはまったのが、後に興教大師(こうきょうだいし)とも言われた覚鑁(かくばん・一〇九五年~一一四三年)です。彼は、当時はやっていた浄土信仰と真言密教の融合をもくろみ、真言を唱えるだけで即身成仏できるとする急進的な密教念仏を推進しました。一時は、鳥羽上皇の後援をうけて、勢力を急拡大しましたが、金剛峯寺側に武力でもって追放され、和歌山の根来(ねごろ)に逃れて、無念の死を迎えました。真義真言宗の祖とされ、密教系の人々からは高・


�評価する声もありますが、現実は、地獄に堕ち、悪魔として暗躍を続け、現代でも、「真如苑」「阿含宗」という二つの密教系邪教団を支配しています。【※覚鑁は現在、大川家長男に取り憑き、仏敵となっています。転生に西行法師がいますが、高野山で30年近くを過ごしたのち、晩年は1180年から6年間、伊勢市・二見町に移り住んでいます。】

結局、空海の説く即身成仏の思想も、修行者の個人的資質が大きく影響することは、彼は直弟子として、十哲(じってつ・実慧・真済・真雅・泰範・智泉・真如・道雄・円明・杲隣・忠延)を輩出しながらも、その後が十分に続かなかったことで分かります。

また、即身成仏論といっても、単純な天台本覚思想との違いは、空海の主著『秘密曼荼羅十住心論』において、「十住心」※といって、人間の心の段階が十段階あり、そのそれぞれに対応する教えの段階があることを明らかにした点からも明らかです。この仕事は、天台智顗が教相判釈論として展開した「五時八教」論※や、『魔訶止観(まかしかん)』に比肩され、空海が、念仏や題目を唱えるだけで救われるという、後世の堕落型天台本覚思想と一線を画した宗教思想の巨人であることを意味しています。

【※十住心(じゅうじゅうしん)=華厳経の十地論などを参考にした、悟りの階梯説。】

①異生羝羊心(いしょうていようしん)・動物の心。本能に支配され、善心のない段階→一向行悪行(いっこうぎょうあくぎょう)【※苦しみの転生輪廻を繰り返す段階・六道輪廻の地獄・餓鬼・畜生・阿修羅】

②愚童持斉心(ぐどうじさいしん)・愚かな子供に善への志向がめばえる段階→人乗(にんじょう)【※苦しみの転生輪廻を繰り返す段階・六道輪廻の人界】

③嬰童無畏心(ようどうむいしん)・安らかな幼子のように信仰に目覚め、宗教的安心を得る段階→天乗(てんじょう)【※苦しみの転生輪廻を繰り返す段階・六道輪廻の天界】

④唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)・森羅万象が五蘊(ごうん・色・受・想・行・識)の仮和合であることは悟るが、五蘊そのものは実在は疑わない段階→声聞乗(しょうもんじょう)

⑤抜業因種心(ばつごういんじゅしん)・惑業苦(わくごっく)を見抜いてその種を取り除こうとする段階→縁覚乗(えんがくじょう)

⑥他縁大乗心(たえんだいじょうしん)・無限の慈悲心から、一切の衆生を救済しようと努力する段階→法相宗【※徳一の宗派】

⑦覚心不生心(かくしょうふしょうしん)・心が一切の束縛から離れたものであると悟る段階→三論宗【※竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派】

⑧一道無為心(いちどうむいしん)・森羅万象をあるがままに絶対の真理であると悟る段階→天台宗【※最澄が立宗した宗派】

⑨極無自性心(ごくむじしょうしん)・森羅万象は何もかも固定的な実体をもたず、真理がそのままそこに顕現していると悟る段階。→華厳宗【空海が別当を努めた東大寺が総本山】

⑩秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)・己の心の本質を看破し、ありとあらゆる真理を悟る究極の段階→真言宗【※空海が立宗した宗派】
(それぞれ〇〇〇〇住心、ともいう。例、異生羝羊住心)

※五時八教(ごじはっきょう)=天台智顗が、釈尊の多様な教説について、時系列的にとかれた順序を推定し、経の優劣を判定したこと。

天台は、①華厳時(華厳経)②鹿苑時・ろくおんじ(阿含経)③方等時・ほうどうじ(維摩経/勝鬘経)④般若時(般若経典)⑤法華涅槃時(法華経/涅槃経)の順で釈迦が経を説き、最終段階で説いた法華経がいちばん優れているとした。しかし、現代の学問としては、各教典とも、釈迦没後、数世紀にわたって編纂されたものであることが分かっており、五時八教論が正しいとは認定されていない。だが、天台が大量の経典を学問的に分析しようとした努力は評価できる。

【大川隆法『黄金の法』第4章「太陽の昇る国」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。以下2011年に発刊されました主の著書である、経典『真実への目覚め』を引用しながら、幸福の科学の教義をお伝えいたします。
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■愛と天使の働き
5この地上で天使の働きを

私は、「愛の対極にあるものは、憎しみではなく嫉妬である。実は、それが、七大天使の一人であるルシフェルが地獄界に堕ちた理由でもある。すなわち、地獄界が拡大していった第一の理由は嫉妬にある」ということを述べました。

しかし、嫉妬の表れのなかには、明らかに、「憎しみ」「憎悪」と言われるものもあると思います。その憎しみ、憎悪は、他に対する破壊的活動など、目に見える悪なる行為として現われることもありましょう。

しかし、私は、今、みなさんに言いたいのです。

かつて、イエスは、「先生、いったい何回、人を許したらよいのですか。七たび許せばよいのですか」と弟子に問われたとき、「七の七十たび許せ」と言ったはずです。「七の七十たび」とは四百九十回に当たります。

みなさんにも、憎い人はいるかもしれません。嫌いな人はいるかもしれません。その人を四百九十回、許したことがありますか。ないでしょう。

しかし、私は、それ以上のことを言いましょう。

憎しみに対し、愛を持って接せよ。
憎しみに対し、愛の大河でもって、その憎しみを押し流していけ。

圧倒的な善念でもって、ささやかな憎しみや怒り、嫉妬の小川を押し戻していただきたいのです。それが、おそらく、この国が希望に満ちる未来を持つための条件でもあると思います。

真なる愛は、希望をもたらします。真なる希望は、繁栄をもたらします。真なる繁栄は、あなたがたに、真なる自由をもたらします。真なる自由は、あなたがたに、「真理とは何であるか」ということを、百パーセント教えるようなるでしょう。

あなたがたは、真理の子であってほしい。
あなたがたは、希望の子であってほしい。
あなたがたは、繁栄の子であってほしい。
あなたがたは、善の子であってほしい。
そして、何よりも、あなたがたは、神の子であってほしい。

そう、私は強く強く願うものです。

そして、神の子である、あなたがたの目指すべき道は何でしようか。

あなたがたもまた、天使の一人として、この地上を浄化するために、この地上をユートピア化するために、日々の努力を惜しまないでほしいと思うのです。

私は、はるか二万キロを超え、空の旅を二万キロも続けて、このブラジルの地に降り立ち、五度の説法を行いました。これが最後の説法、最終回の説法です。

どうか、よく聞いてください。

私が、ここに来たのは、あなたがたに天使になってもらいたいからです。

あなたがたにも、この地上で天使の働きをなしていただきたいのです。

この地上でなした働きは、霊界における修行の十倍以上に相当します。

地上の人間は、天上界を見ることも神の姿を見ることも、地獄界を見ることもできません。そうした、本当は見ることのできない世界を、信仰のみによって知り、神への道を歩んでいる、あなたがたこそ、日々の精進のなかで天使になっていただきたい存在なのです。

どうか、その方向で、日々、智慧を磨き、努力・精進してくださることを、心から願ってやみません。

Muito obrigado.〔ムイト・オブリガード(どうもありがとうございました)〕

【大川隆法『真実への目覚め』第5章「愛と天使の働き」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学とは何か』より、天使の予備軍である「阿羅漢」(あらかん)の定義について主より教えていただきます。
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〇阿羅漢とは何か
「幸福の科学」では、阿羅漢という言葉がよく使われます。これはもちろん中国から渡ってきた漢語であり、もともとはインドの釈迦の時代から伝わっている言葉でもあります。釈迦仏教で、よく使っていた考え方であると言ってよいでしょう。

阿羅漢というのは、ひととおりの反省が終わって、心の塵や垢が落ち、後頭部から後光がさし始める段階のことを言います。一応修行者としてプロの領域に入る、それが阿羅漢です。・・・

さて、この阿羅漢というのは、どのような境涯を言うのかということについて、さらにくわしく話をしてみたいと思います。

この阿羅漢の境涯というのは、私が説明している次元構造で言うならは、六次元神界の上段階にある境地と言ってよいと思います。六次元の境地というのは、すでに述べておりますように、人間としてリーダーの世界に入ってくる世界です。その世界のなかには、学校や文化人、芸術家など、そうそうたる人々が来ています。このそうそうたるリーダーたちが集まっている六次元深海のなかで、真実神仏を信じて、菩薩に向けて修行をしている人たちのことを、阿羅漢と言います。そして、その境涯が地上においても実践されることがあるので、地上において菩薩に向けて修行している人たちのことも、阿羅漢と言います。

この六次元の上段階の心というのが、どういうものであるかというと、言ってみれば光の天使の予備軍というように、位置づけられると思います。光の天使となると、天上界においてその目印となるべきものに、後光と言われるものがあります。西洋の絵画のなかでは天使の頭のまわりにリングが描かれています。東洋のほうでは、仏像や仏画において、後光がかかっている絵があります。このように、ある程度、天使の印である丸いお盆のような後光が出てきております。

ただ、阿羅漢の状態では、まだまだこの後光を出す力はじゅうぶんではないと言えましょうか。菩薩が明瞭な後光を持っているのに反して、阿羅漢では、まだ後頭部を中心として光が出ているといった段階かもしれません。しかし、霊的なめざめのある人から見れば、明らかに通常人との違いが見られるわけです。

さて、阿羅漢の心境とは、どのような心境であるかというと、人間として地上人で見た場合には、ある程度の完成領域に近づいていると言ってもよいかもしれません。別な言葉で言うならば、相当な人格であるということです。あるいは、相当な心境であるということです。地上に生きていて、そうして特別な仏道修業などをしていない人で、阿羅漢の状態に達しているという人は、そう多くはいないわけです。

もちろん、心清く生きてきて、そしてさまざまな仕事に携わってきた人で、霊的直観がひじょうに鋭くなっているような人のなかにも、阿羅漢というものはいます。この意味で、阿羅漢を、かならずしも仏教修行者のようにとらえることは、まちがいであると言ってよいでしょう。阿羅漢のなかには、もちろん在家の方も数多くいます。その人が知っていると知っていないとにかかわらず、そうした状況にあります。

これは結局のところ、次のように言い換えてもよいと思います。地上に生活していて、そして多少なりとも真理を目指している人にとっては、この阿羅漢の境地が最初の関門であり、最初の目標点であり、ある意味では合格点でもあるということなのです。

〇阿羅漢の基準
私たち修行者にとって大切なこの阿羅漢ですが、では、阿羅漢と認定されるための基準は、いったいどの辺にあるのでしょうか。これについてくわしく話をしてみたいと思います。

まず、阿羅漢と認定されるための基礎基準の一つとしては、心の透明感があるということがあげられるかもしれません。心のなかに透明感がある、これは別な言葉で言えば、執着という名のひっかかりがないということなのです。たいていの人は、心のなかにひっかかりがあります。その人の心の姿を見たならば、がん細胞のような細胞が、心のどこかに巣くっているのです。そして暗い影をつくっています。

その執着という名のガン細胞は、きわめて三次元的なこと、この世的なことに関して、思いがとどまっていることを言います。たとえば、出世であるとか、金銭であるとか、異性に対する思いであるとか、あるいはもっとマイナスなものになってくれば、積極的な憎しみ、愚痴、怒り、嫉妬、こうしたものが一点に止まっている状態、これを執着と言うのです。まれには、この執着のなかにも自己実現的な執着もあって、ある意味で自分の向上をめざしているのだけれども、現状がそれにとても追いつくこと永く、それが執着になってしまっている気の毒な人も世のなかにはいます。

いずれにせよ、阿羅漢となるためには、心のなかの、この手のしこりを取り除く必要があります。がん細胞を切除しなければならないのです。そのいちばんのよい方法が、反省という方法なのです。

反省というのは、『釈迦の本心』などにも書いておきましたが、心の曇りを、まずさまざまな尺度でもって除いていく方法です。八正道という基準においては、正しく見る、正しく語る、正しく生活をする、正しく仕事をなす、あるいは正しく道に精進するというように、いくつかの基準が設けられています。修行者として当然守るべき、こうした作業基準をきっちりと守って、そして、その心の針がズレた部分、揺れた部分を天上界に向けてピンと戻しておくこと、これが反省の方法なのです。

人間の心は、一日のうちにさまざまに揺れています。そして、それはちょうど時計の針のようなもので、よいことを思っていれば上の方に向いていますが、悪いことを思っていれば下のほう、すなわち地獄のほうを指し示しているのです。ただ、たいていの場合は、振り子のように揺れているのが実際の姿です。しなしながら、大きな執着を持っている人はそこで心の針がピタッと止まっていることが多いのです。それゆえに、天上界に針が射すこともなく、天上界の人びとからの啓示を受けることもなくなってしまうのです。

ここで、次なる基準について、触れておきたいと思います。第一の基準が、心のなかにしこりがないこと、言い換えれば、透明感があること、ということでありましたが、第二の基準は、みずからの守護霊の通信を受けられる段階であるということです。

では、守護霊の通信を受けられるとは、どういうことなのでしょうか。それは、積極的な意味においては、霊道が開けるという現象が出てくるのが、その阿羅漢の状態からです。反省が進み、心の曇りが取れてきたときに、次第しだいに光が射してきます。そして、この光が射したところに向けて、みずからの守護霊の光がサァーッと差し込んできます。こうして心の窓が開け、守護霊の声が聞こえるようになります。守護霊の声が直接胸に響いてくることもあれば、霊言のようなかたちで、口を通して語ることもあります。また、それとは違った場合には、それが自動書記というようなかたちで、現れてくることもあります。

いずれにせよ、精神を統一し、目をつぶった状態でいると、みずからの守護霊から通信が送られてくるわけです。それが直接的であるか、間接的であるかはさまざまではありますが、霊道が開いた場合には、ある程度直接的な基準が、守護霊から与えられるようになってきます。その際に、守護霊は地上の人間に対して、さまざまなことを言います。心のなかの過ち、行動の過ちについて、ひとつひとつ指摘することがあります。そして自分が則を越えている場合には、そのようなしてはいけないということを、教えてくれるようになります。このように、阿羅漢になったいという証明は、守護霊の通信を受けられるということで、表されると言ってもよいでしょう。

しかし、宗教修行者ではない場合で、阿羅漢的な心境に達していても、守護霊の声が聞けない人は数多くいます。こういう人びとは、方法論的に、この霊道を開くということが十分に分かっていないために、心の窓は完全に開いておりません。また、ある意味で、守護霊がまだ霊道は開かない方がいいと考えてることもあって、開かせない場合もあります。霊道を開く場合には、守護霊よりもはるかに偉大な力を持つ指導霊が霊道を開けようとする場合です。この場合には、守護霊の許可なく霊道が開くこともあります。しかし、それは例外であって、たいていの場合、守護霊の許可がなければ、霊道は開けません。

けれども、霊能者でなくても、たとえば経営者とか学者のなかには、ひじょうに強くインスピレーションを受けているタイプの人がいます。こうした人びとは、守護霊の通信を間接的に受けているのです。ひらめきというかたちで、彼らの声が聞いていることが多いのです。このような場合にも、あるいみで、阿羅漢の一種に達していると言えるかもしれません。

阿羅漢の基準の三番目は、他人の気持ちが手に取るようにわかり始める、ということなのです。マインド・リーディング、読心能力という言葉がありますが、阿羅漢の状態になると、じつに他人の考えがよくわかるようになります。それは、まるで手に取るようなかたちです。その人に接するとその人が考えていることが、直接的にパッとわかるようになってきます。そしていろんな真理の言葉が、ズバズバと口をついて出るようになります。その人が悩んでいることに対する答えや、あるいは方針が、無意識のうちにズバズバと口から出ることがあります。

それは、たいてい守護霊から得ている力であるのですが、そして、阿羅漢の状態になると、相手が最後まで語る前に、相手の考えていること、言わんとすることが分かってしまったりすることが、数多くあります。これも、阿羅漢の基準であると言えましょう。

以上に、いろいろと述べてまいりましたが、一般的な阿羅漢の基準としては、心にひっかかりがなく、透明感が増すこと、そして第二に霊道が開けるか、あるいはそれに近い状態になること、三番目に、他人の気持ちが手に取るようにわかり始めること、この三つの基準をあげることができるでしょう。

ただ、霊道が開けて、本人は阿羅漢だと思っていても、じつは地獄の悪霊に支配されている人もよくいますから、これはよくよく注意しなければなりません。どのように点で、まちがわないようにしなければならないかというと、増上慢にならないということです。どうしても、霊的能力を持ちたがる人、あるいは持った人というのは、うぬぼれの気持ちが出てきます。そのうぬぼれの気持ちのところに魔が忍びこみ、本人を転落させるように誘惑することになるのです。それがいちばん危険な現象です。

ですから、阿羅漢の状態に近づいたと思ったら、みずからを謙虚に考える必要があります。謙虚にとらえなおしていく必要があります。こうしてはじめて、真実の阿羅漢となれるのです。単に霊の声が聞こえたといっても、阿羅漢とは言えません。その人が増上慢で、心が高ぶり、揺れているときに、阿羅漢ということはありません。阿羅漢の状態になれば、心は不動心であって揺れず、そして透明感があります。いつも心が揺れないで、安らいでいる状態でなければならないのです。

大川隆法『幸福の科学とは何か』第7章「阿羅漢をめざして」より抜粋】
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現代は「呪いの時代」と言われています。
その呪いは、愛の反対である嫉妬から生まれていることも教えていただきました。
相手の不幸を願う嫉妬や憎しみに対して私たち信仰あるものはどうすればよいか。
重要な心の指針をいただきました。

本日の主の教えでは、

『憎しみに対し、愛を持って接せよ。
憎しみに対し、愛の大河でもって、その憎しみを押し流していけ。

圧倒的な善念でもって、ささやかな憎しみや怒り、嫉妬の小川を押し戻していただきたいのです。それが、おそらく、この国が希望に満ちる未来を持つための条件でもあると思います。

真なる愛は、希望をもたらします。真なる希望は、繁栄をもたらします。真なる繁栄は、あなたがたに、真なる自由をもたらします。真なる自由は、あなたがたに、「真理とは何であるか」ということを、百パーセント教えるようなるでしょう』

この言葉が、私にとって一転語でした。

ブラジルは、貧困問題を原因とした犯罪が多発しており、治安が不安定であります。その根底には、富を持つものへの嫉妬が呪いになっていることが原因であることを教えていただきました。日本においても、平等意識が強く、富を持つものに対する嫉妬や呪いが絶えません。私たちは、自分の理想像である存在に対する嫉妬を抑えて、逆に祝福するマインドを持ってまいりましょう。そして、人の罪をあげつらうのではなく、人の罪を許すことができる宗教的悟りを共に得てまいりましょう。

この地上において、主は私たち一人ひとりに、天使や菩薩と呼ばれる存在になることを求められています。
私たちも今、主のご復活をお祈りしながら、聖なるものを守るために、主とその教えを守るために、立ち上がった菩薩です。本日の引用では、御法話の絞めくくりに感動的なお言葉がありました。

『私が、ここに来たのは、あなたがたに天使になってもらいたいからです。

あなたがたにも、この地上で天使の働きをなしていただきたいのです。

この地上でなした働きは、霊界における修行の十倍以上に相当します。

地上の人間は、天上界を見ることも神の姿を見ることも、地獄界を見ることもできません。そうした、本当は見ることのできない世界を、信仰のみによって知り、神への道を歩んでいる、あなたがたこそ、日々の精進のなかで天使になっていただきたい存在なのです。

どうか、その方向で、日々、智慧を磨き、努力・精進してくださることを、心から願ってやみません』

遠くブラジルの地で説かれた御法話ですが、世界中の仏弟子にとっても大切なお言葉であると感動しました。

私たち主の弟子に求められるのは、主からいただいた限りない愛を少しでもお返しするために、私たちの隣人を救い助けるために、愛を与え続けることではないかと思います。
主の願いを受けて、私たちも光の天使となり、主のため、世のため、隣人を救うために、さらに一歩を共に踏み出してまいりましょう。

今世において、私たちが、人助けのプロとして菩薩や天使になることを主は期待させています。主の期待に応え、主の御手足として私たちの隣人たちの心を、エル・カンターレ信仰によって救い助けてまいりましょう。

また、経典『幸福の科学とは何か』からは、私たち修行者として目標とすべき天使・菩薩の入門としての「阿羅漢」の条件について学びました。阿羅漢の基準としては、心にひっかかりがなく、透明感が増すこと、そして第二に霊道が開けるか、あるいはそれに近い状態になること、三番目に、他人の気持ちが手に取るようにわかり始めること、この三つの基準でした。

そして、修行者にとって一番の大敵が、外なる敵ではなく、自らの己心の魔である増上慢でした。うぬぼれの気持ちを常に戒めて、常に謙虚で不動心を持つことが天使や菩薩にとって大切な心がけです。

正しき心の探究による心の修業を通して、「愛・知・反省・発展」の四正道と隣人を救い助ける愛の実践を通して、自らの背中や頭の後ろから後光が出るように、共に修業を重ねてまいりましょう。

本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。

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文責:蒲原宏史 

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