(8/20-1)232幸福の科学入門 ⑦「愛の原理」―愛には発展段階がある(前半)―人生の奇蹟

幸福の科学入門

79 人生の目的と使命を発見せよ。あなたが今、生きている意味である。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。神の計画を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】

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第一章 黄金の人生を創る
7 人生の奇蹟
人間とは、ただ単に、平々凡々と月日を重ねてゆくだけの存在なのでしょうか。ただ単に、蟻のように、右往左往しながら、日々生きてゆくだけの存在なのでしょうか。

そうではありません。あなたがたの信ずる仏は、愛の仏であり、慈悲の仏であって、仏は、あなたがたを蟻以上の存在にするためのチャンスを、あなたがたに与えているのです。あなたがたの人生に、起死回生のチャンスを与え、目の鱗(うろこ)を取り去るための機会を用意しているのです。

あなたがたの目の鱗が落ちる瞬間とは、何か。すなわち、それが、人生の奇蹟の瞬間だと言えるのです。

あなたがたは、近眼になれば、自分の目に合う眼鏡を求めて、あちらの眼鏡屋、こちらの眼鏡屋と探し歩くでしょう。あるいは、コンタクトレンズを目にはめて、それで満足している人もおります。

しかし、なぜ、人の心が見えなくなったり、人生の目的が分からなくなったり、あの世の世界が見えず、仏の御心に対して無知であることに対しては、平気なのでしょうか。真理が見えないことに対して、どうして、平然としていられるのですか。あなたがたは、目に幾重もの鱗ができていることを知らなくてはなりません。この鱗が取れずには、ほんとうの目あきにはなれないのです。世界の実相は見えないのです。高級霊の働きは、もちろんのこと、看取しえないのです。

では、目に鱗がついている人とは、どういう人でしょうか。いくつか例を挙げてみましょう。

まず、医者です。医者は、人間の生命の探求をその使命とします。そして、生死の境界線をさまよう患者と対話する。それが、医者の仕事です。しかし、最近の医者を見てごらんなさい。死とは何かさえ知らないではないですか。人間がいつ死んだのかさえ、分からない。脳死とか言って、脳の機能が止まったときが死亡時だと考えている。とんでもない間違いです。

人間の死の瞬間とは、その魂が肉体を離れ、魂と肉体との霊子線(シルバーコード)が切れるときなのです。このとき以外に、死の瞬間はありません。魂が肉体を離れるには、心臓が止まってから、普通、数時間から、丸一日はかかります。つまり、肉体の機能は、外見上、止まったかのように見えても、霊体は、まだすっぽりと肉体とともに横たわっており、霊体としての心臓は、いまだに鼓動を続けているのです。

医者は、この真実を知らずに、脳波が止まったからと、死につつある人の臓器を取り出して、
他の病人に移植したり、あるいは、目の一部分を移植したりしております。こうした医者の無知な行為によって、死につつある人間が、一体、どれだけの驚愕と混乱に陥っているか。そのことを、はたして知っているのでしょうか。そのときの恐怖たるや絶大なるものであり、あの世への旅立ちを妨げるばかりか、導きに来ている守護霊の仕事を大変困難なものとしております。霊的真実を知らない臓器移植などは、医学の進歩でも何でもなく、唯物的西洋医学による、魂の尊厳の否定にほかなりません。

医者は、もっと、魂についての勉強をするべきです。そして、魂は死ぬときには、肉体とそっくりの形をしており、霊体としての心臓も、胃も、手足も、きちんと機能しているのだという事実に気がつかなくてはなりません。

目に鱗がついている第二の例は、僧侶です。死後の世界の存在を信じもせず、知りもしない僧侶が、収入だけのために、お経をあげているなど、もってのほかです。実際、こういう僧侶が、けっこう多いと言えます。僧侶の本当の仕事とは、霊界入りしたばかりで、戸惑っている魂に対して、死後の世界への導きを与えてやるということにあるのです。これが、引導を渡すということの、ほんとうの意味なのです。

形だけの読経をしたところで、死者は救われません。その内容を悟って、念として、伝えることが大切なのです。また、遺族に対しては、人生の目的と使命を教えてあげ、悲しんではいけないと諭す。それが、僧侶の仕事なのです。遺族の不安につけ込んで、商品でもあるまいに、値段によって戒名の高低を勝手に決め、商売に励むとは、言語道断です。死んでからあの世で、戒名など名のっている霊人など、ひとりもおりません。ましてや、地獄に堕ちた霊人に、何百万もする戒名をつけたところで、地獄の苦しみが和らぐなどということは、ありえないのです。

地獄の苦しみが救われるためには、死者自身が、自らの人生の誤りに気がつき、これを反省し、仏に詫びるのが基本です。つまり、地獄に堕ちた責任は、その人自身にあり、遺族たちにはないからです。遺族たちは、むしろ、明るく、楽しい生活を実践して見せることです。そうすることによって、死者の霊を安心させ、死者に、その人生の誤りを気づかせてあげる。そのほうが、はるかに大切だと言えます。そして、さらには、日々、仏道修行に励み、その結果得られた、徳の力、悟りの光を死者の霊に廻向(えこう)することです。【廻向・精進によって得た法力を他者に手向けること】仏法真理の光を、迷っている先祖に手向けることです。信の仏の子の姿を、その生活を、迷っている先祖に見せてあげることです。それが先決なの・
・す。

医者や僧侶以外にも、目に鱗がついている人は、たくさんおります。たとえば、裁判官もそうです。法が人間を裁くのでありません。人間が合議によってつくった法律が、人間の魂としての過去を裁くことはできないのです。実定法(じっていほう)の上の根本法、その最高のものを、「ノモス」(古代ギリシャでの法律概念)と呼ぼうが、「ノモイ」(ノモスの複数形)と言おうが、それは専門家の勝手です。しかし、少なくとも、法の根源は仏法真理にあるのだ、ということを忘れてはなりません。「法の支配」の本当の意味は、「仏法の支配」ということです。ですから、裁判官は、仏の心を心として、人を裁かなければならないのです。

【※実定法=慣習や立法のような人間の行為によってつくりだされ、一定の時代と社会において実効性をもっている法。 制定法・慣習法・判例法など。 
人為法。 ⇔自然法】

人間の罪を、点数化して、数量化して、断罪しようとした法学者もおりました。それは、完全なる間違いです。かつて、最高裁の長官であった人で、地獄に堕ち、自らの良心の呵責に苦しんでいる人を、私は霊視したことがあります。その人は、自らの生前において、霊など全く信じず、死後の世界など一笑にふしていたにもかかわらず、死刑の判決を言い渡していたことで、死後、自分が無知であったことに良心がとがめているのです。

裁判官にしても、検事にしても、あるいは、弁護士にしても、正しい真理を学んで、訴訟ごとに臨むべきなのです。真理は一つの法則であり、それについて無知であることは、何の言い訳にもならないのです。すなわち、目の鱗を落として、職業に従事せよ。要は、こういうことなのです。そして、目の鱗が落ちたとき初めて、その人には、人生の奇蹟が起きるにちがいないのです。

【大川隆法『黄金の法』第一章「黄金の人生をつくる」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

9/28(土)朝10時〜10時45分 三重テレビ7チャンネルで2022年エル・カンターレ祭御法話「地球を包む愛」の放送が決定いたしました。「小さな地方局かも知れませんが、象徴的闘いでした。この勝利はとても大きい」

一般放送に当たっては、メディア支援植福という形で、テレビ放送の経済的支援を伊勢支部にて支えさせていただいています。法人での提供も募集していますので、詳しくは支部までお問い合わせください。主の奇蹟の復活を祈り続ける今、私たちの信仰心をこの植福に結集してまいりましょう。

幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています―経典『ユートピア創造論』にあるように、私たちが「正しき心の探求」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとしている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。以下2003年に発刊されました主の著書である、経典『幸福の法』の第四章「幸福の科学入門」を引用しながら、幸福の科学の基本教義を学んでまいります。経典をお持ちでない方は、この機会に拝受ください。【税抜1800円】
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〇「愛の原理」
・愛には発展段階がある(前半)

さらに、その愛の教えには幾つかの段階があることを、私は『太陽の法』などの著書で説いています。「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」という段階です。これは、難しい哲学的な議論のように見えるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。

最初の、「愛する愛」は、自分の隣人への愛、隣人愛です。家族や友人など、日々、接する人への愛です。これは、低級な愛のようであって、低級ではありません。この段階を越えられたら、みんな天国に入れるのですから、非常に大きな法門です。まず、愛する愛を実践しなくてはいけないのです。

次に、天国に入れる心境であることを前提に、「生かす愛」という、一段高い愛の教えが出てきます。これは、ちょっと難しい面もある愛であり、智慧を使わなくてはいけない愛です。指導者、導く者としての愛です。

たとえば、教師の愛、学校の先生の愛は、子供を甘やかすことだけではないでしょう。もちろん、子供としては、ほめてもらえればうれしいし、優しくしてもらえればうれしいでしょうが、人を教育する際には、それだけではいけません。

やはり、しかるべき時はしかり、直させるべきところは直させることが必要です。本人にとっては苦しくても、「いま努力しなければ、あなたには道がない」ということを教えてあげなくてはいけないところもあります。

そのような、智えを使い、優しさと厳しさを兼ね合わせた愛が、生かす愛です。この段階まで行けば、この世的には、結構立派な指導者になれると思います。

その上に、「許す愛」という宗教的境地があります。さらに、もっともっと深い愛が出てくるのです。

自分の自我、自我の中の自分、人とは別の独立した自分というものを考えているうちは、生かす愛ぐらいまでが限度だと思います。

ところが、もう一段、宗教的境地が高まると自分が自分であって自分ではないような感じがしてくるのです。「仏の大きなてのひらの上に生かされている。その手の上に乗っている」という感じがしてきて、さらには、「その仏の指の一本として、この世で生きている。その指の一本として、この世で活動しているのだ」という感じがわかってきます。「自分は自分であって自分ではない。仏の使命を果たすために選ばれ、その一部として、この世で生きているのだ」という深い人生観が出てくるのです。

こういう深い人生観が出てくると、非常に慈悲に溢れた、ものの見方ができるようになります。すべての生きとし生けるものがこの世で魂修行をしている姿に、感動するようになります。

そのため、どのような悪人のなかにも、善なる光、仏性の光が見えるようになります。「この人の心のなかにも仏性はあるのに、今は、こういう間違った考え方や心により、間違った行為をして苦しんでいる」ということがわかるようになるのです。

こういう心になると、罪びとに対しても、愛の心、慈悲の心が起きてきます。「何とかして、この人の仏性を光らせることはできないだろうか。たとえ、他の人はこの人を愛することが出来なくても、自分は、この人のなかの仏性、仏の光を愛してあげよう」という気持ちになるのです。

【大川隆法『幸福の法』第四章「幸福の科学入門」 より抜粋】

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〇底なし沼のように、無限に奪い取る人

このように、子供時代に受けた心傷が、大人になってから、別なかたちで展開することが多くあります。それで、結局、不幸な人生をつくるのです。

そのもとは、原点において、「前半生、自分は不幸であった。充足されなかった。だから、誰か、これを充足してくれないだろうか。埋め合わせてくれないだろうか」と思うところにあります。

そういう思いで人生を生きている人は、実は、底なし沼のようなもので、そういう人に対して、いくら与えても、その与えたものは消えていってしまうのです。

会社での評価にしても、その人は、いくら評価されても足りないのです。「またまだ、もっと評価してほしい。もっとほめてほしい。もっと早く偉くしてほしい。もっと給料を上げてほしい。もっと、みんなの前で表彰してほしい」というように、きりがないほど、ずっと求めつづけます。

そのため、その人に対する評価は、どこかで必ず打ち切られます。そうすると、その人は不機嫌になってしまい、満足しないのです。

家庭であっても同じです。その満たされないタイプの人というのは、奥さんが、あるいはご主人が、いくら一生懸命、尽くしても、底なしで、満足しません。伴侶がいくら努力しても、それを評価しないで、「あれが足りない。これが足りない。」と、足りないところばかりを言います。・・・

これは人間の性格であり、何か一部分を取って責める人というのは、そこが埋まっても、他の部分を、また必ず責めます。

そのようなことがあって、こういう人は、なかなか満足しないのです。

人間は、男であれ女であれ、自分自身を振り返ってみて、百パーセントではないはずです。したがって、「あなたは、他の人に対して百パーセントを求めるほど完璧な人間なのですか」ということです。・・・

そのように、自分自身も百パーセントではないのに、他の人が百パーセントでなければ気に入らない人、あるいは、「自分は完全主義者、完璧主義者なのだ。そういう完璧な人が現れないかぎりは、自分は幸福にはなれないのだ」というようなことを言っている人は、幸福になれる権利を永遠に放棄しているのと同じなのです。

こういう無限に奪い取る傾向を持っている人は、いくら、まわりの人から本当に愛を注がれていても、それが分からないことが多く、足りないことのほうにばかり意識が行くのです。そのため、その人に対して、いくら愛を注いでもだめなので、結局は、愛を注いでいる人のほうが疲れてくるということがあります。

【大川隆法『幸福の法』第三章「人間を幸福にする四つの原理」より抜粋】

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幸福の科学の教えの第一は「愛」です。

そして、「愛は人から奪うものではなく、愛は人に与えるもの」として教えていただいています。

そして、愛を与える人になるためには、その前提として、他人から愛を奪うことがないようにすることも大切なことです。知らず知らずのうちに他人から愛を奪う傾向がないかをチェックしてみましょう。幼少時に親から十分な愛情を与えられてこなかった方は、本日の引用にありましたように、充分注意する必要があると思います。

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