61 上にペコペコ、下にガミガミだと、人はついて来ない。
64 自己中心人間は、組織の害虫である。
【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
映画『ドラゴン・ハート』が公開中です。
109シネマズでの上映時間は
①11:05〜13:15
②13:40〜15:50
③18:50〜21:00
明和109シネマズの
映画『ドラゴン・ハート』に一人でも多くの方をお連れして、天国への道を伝えるために地獄の知識をしっかりと学んでまいりましょう。
今、この映画を観たことが将来の救いの手になることになります。愛する人にこの映画を届けてまいりましょう。
7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/6(日)と7/7(月)は、両日とも13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
さて、ここからは、仏教精神に立ち返るべく、教典『大悟の法』から第三章の「仕事能力と悟り」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
■仕事能力と悟り
2禅宗の悟り―神秀と慧能
○努力の過程を無視したら教育は成り立たない
仕事能力と悟りに関しては、「悟りだけでなく、仕事能力も大切である」ということばかりでなく、「悟りの内容自体にも、仕事能力のレベルが関係するのではないか」ということを非常に強く感じます。
たとえば、「だれでも、すぐに仏になれる」という、天台本覚思想的な考え方がありますが、私はそれに対して批判をしています。(拙書『悟りの挑戦(下巻)第6章、同『黄金の法』第4章〔共に幸福の科学出版刊〕)。
そういう考え方は、言ってみれば、学校の入学式で、校長先生が新入生に、「みなさんは、すでに立派な人であり、優秀であり、百点を取れるのですよ」と、あいさつしたようなものなのです。
確かに、努力すれば百点を取れるかもしれませんが、実際問題としては、なかなか、そう簡単にはいかず、マルもあれば、バツもあるのが普通です。延々と何年間も勉強を続けて、実力をあげていくのが筋なのです。この過程を無視したら、教育というものは成り立たないでしょう。
「みなさんは、そのままで仏様なのですよ。生まれつき仏様だから、それでよいのですよ」ということであれば、これは、教育に対する完全なる無私と同じであり、「教育は要らない」ということになります。すなわち、ある意味で、後天的な修行の部分を無視することと同じなのです。
実は、禅宗の悟りにおいても、それが大きな影響を与えているのではないかと思います。
○五祖弘忍の筆頭弟子・神秀の悟り
禅は、もちろん、仏教の一流派であり、達磨大師(五世紀後半~六世紀前半に活躍)がインドから中国にわたったことが始まりです。宗祖の達磨自身にも問題点がありますが、中国南宗禅を確立した六祖慧能(六三七~七一三)が特に問題になると思います。
六祖慧能の先生は、五祖弘忍(六〇一~六七四)という人です。
弘忍は長年にわたって弟子を教えましたが、晩年、そろそろ引退する時期になったので、後任を決めることにしました。
弘忍の寺は、けっこう、はやっていて、七百人ぐらい(五百人説、千人以上説あり)の弟子がいたといわれていますが、そのなかの上座として、神秀(六〇六~七〇六)という人がいました。上座とは、筆頭の弟子、師範代のようなものです。神秀は優秀な秀才で、十分な教学も修めており、五十代の、人格的にも立派な人だったので、「この人が跡継ぎだろう」という予想で、衆目は一致していました。
ただ、五祖の弘忍は、「このまま神秀に跡を譲るわけにもいかない。いちおう、何か試験をしなければいけないだろう」と思い、「さあ、だれか、自分の悟りを発表してみよ。自分の悟りを偈に書いて、張り出してみよ」と言ったのです。偈とは詩のようなものです。
ところが、弟子たちは、「どうせ後継者は教授師の神秀に決まっているから、わざわざ自分の悟りを発表したところで邪魔になるだけであり、その必要もないだろう」と考えて、だれも発表しなかったのです。
しばらくたっても、だれも発表しないので、神秀は恐る恐る、自分の悟りを偈(本心の詩)に託し、名前を秘して、南の廊下の中央の壁に書きつけました。
その偈は、次のようなものでした。
身はこれ菩提樹
心は明鏡の台の如し
時々に勤めて払拭(ふっしき)し
塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむることなかれ
(「塵埃をして有らしむることなかれ」ともいう)
菩提樹とは、インドの”悟りの木”(ピッパラ樹またはアシュヴァッタ樹)であり、釈尊がその下で瞑想をして悟りを開いたとされる木です。「身はこれ菩提樹」とは、「この身は悟りの木である」ということです。
明鏡(「みょうきょう」とも読む)とは、澄みきって曇りのない鏡です。明鏡の台(うてな)とは、化粧をするときの鏡台と考えればよいでしょう。「心は明鏡の台の如し」とは、「心は澄み切って曇りがない鏡の台のようだ」ということです。そして、「時々に勤めて払拭し、塵埃を惹かしむることなかれ」とは、「そのため、ときどき、努力して、それをきちんと拭い、塵埃、つまり塵(ちり)や埃(ほこり)、ごみを付けないようにしなければいけない」ということです。
要するに、「この身というのは、生きながらにして悟りを求めている、菩提樹のようなものであり、心というのは、明鏡の台のような仏性そのものである。だから、これに塵や埃、垢が付かないように、いつも気をつけて精進し、汚れを落とさなければいけない」というのが、この偈の意味です。
これは仏教としては非常にオーソドックスな悟りであり、釈迦の八正道などの教えにも間違いなく合致しています。
その偈を見て、他の弟子たちは、「さすがは神秀だ。やはり上座は大したものだ。これで跡継ぎは決まりだな」と言い合ったのです。
ところが、そのときに、慧能(えのう)という人が出てきます。(次回につづく)
【大川隆法『大悟の法』第三章「仕事能力と悟り」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』の前に、「お釈迦様の八正道」を共に学んでまいります。復刻版で経典『真説・八正道』が再販されていますか、これは、主が現代の時代に合わせて再整理されたものです。その意味では八正道の現代応用ともいえる尊い経典なのですが、これを学ぶ前段階として仏教オリジナルの八正道を共に学んでまいりたいと考えています。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
正精進―仏道に向けての精進
六番目には「正精進」―正しく精進するということがあります。精進とは、もちろん仏道に向けての精進であり、仏道精進のことです。努力の習慣を身につけることです。
精進の内容に関して述べると、まず、精進は毎日毎日必要なものですから、常に向上を目指していることが前提となります。常に向上をめざしつつ、毎日毎日、悪を捨て、善を取るという修行です。心の中に悪の種をまかないこと、悪の行為を捨て善を取る―この積み重ねが精進なのです。
本を読む行為一つとっても、有害な本を捨てて、真理価値を含んだ本を読む―これも当然、精進になります。怠け心を排して、価値のあることをしていく―これも精進です。
それから、いままで自分が持っていた弱いところ、カルマのところを切り替えていくことです。「いままで他人様に迷惑をかけていたが、そうした自分の性質、性格等を、きようは勇気を持ってか改めた」「今までどうしても言えなかったのに、きょうは勇気をもって言うことができた」という自己変革も、正精進に入ります。
この正精進も一生を貫くものなのです。向上心を持って努力していくことが正精進です。正しい努力と言い換えてもいいでしょう。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
それでは、続いて、別の経典『釈迦の本心』から八正道の「正精進」についての主の解説をご覧いただきます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
〇正精進
次は、「正しく道に精進をする」ということについて考えてみましょう。この場合の「道」とは、仏道の道、仏法真理の道です。
人間はなにげなく日々を送りがちですが、人生というものは実は目的地がはっきりしているのです。その目的地とは、死という関門を通り抜けてたどり着く天上界です。
この天上界に還ることが、大いなる仏が立てた魂の進化計画にかかわっており、ここから「正精進」の意味が明らかになります。すなわち、正精進を考えるためには、この世、三次元世界が存在することの目的を考えざるをえないのです。
三次元世界とは、結局、魂の学習の場、魂修行の場なのです。また、教育の場であると同時に、大いなる光の芸術の場、すなわち、仏の栄光、仏の繁栄を持ちきたらすべき場でもあります。これが大切な考え方であって、正精進を考えていく鍵はここにあるのです。
正精進についての観点を、私は次の二つに要約したいと思います。
一つは、この三次元の人生を魂の学習の場としてとらえ、「はたして自分は、魂の学習というテーマに沿った生き方をしているか。そうした努力を積み重ねているか」と考えることです。
正命が、一日をサイクルとした短期決戦的な考え方だとするならば、正精進は、年単位のような中期計画ということになるでしょう。正精進は、「一年、三年、五年、十年といった年数のなかで、どのように自分をつくっていこうとしているのか。そのために、どのような準備をしているのか」ということにかかわるのです。
このように、自分の生き方を魂学習の観点から考えてみることが第一点です。
第二点の検討点は、霊性の進化、霊格の向上を確かめるということです。正精進の目的は、結局、霊性の進化、霊格の向上にあるのです。それゆえ、霊格が向上しないような生き方であっては、正精進をしているとは言えません。
霊格が向上していくとは、悟りのレベルが上がっていくことを意味します。それでは、悟りのレベルが上がるとは、どういうことなのでしょうか。どのようになれば、悟りのレベルが上がったと言えるのでしょうか。その答えとして、次の三つの観点があげられると思います。
第一点は、自分自身が真実の姿がよく見えるということです。すなわち、公平無私なる第三者の眼でもって、あるいは仏の眼でもって、自分自身の真実の姿がよく見えるようになったかどうかが、悟りつつあることのチェックポイントの一つなのです。
第二点は、他人の姿を、単に自己とは個別のものと見るのではなく、「大調和のなかにある他人」という見地から眺められるということです。すなわち、同胞、仲間という眼、「共にユートピア建設のための光の戦士」という眼で見られるということです。
第三点は、人生と世界の存在の意味を深く理解しうるということです。すなわち、みずからが生かされている環境の意味を道破できるということです。
この三つを確認できたときに、その人の霊格は高まっているということができます。正精進の目的も、ここにあるのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
正精進とは、正しい努力ということでした。
自助努力の精神は、幸福の科学の中でも重要な考え方の一つです。
正精進のポイントを2つに絞るとするならば、
一つは、時間の使い方。
そして、二つ目は、経典の読み方です。
正精進は、一日二十四時間の枠の中で、できるだけ多くの時間、一分、一秒を、仏法真理とつながっている時間にするということです。これは主とつながる時間を一日のうちで最大限に持つ努力をするということです。
主とつながる時間とは、仏の御心を知るために、主の経典を読み、学習すること【教学】、現在から過去を振り返り、自らの過ちを改めること【反省】、沈黙のうちに、菩薩になった未来から現在に向けて、隣人を幸福にするために、自分に何ができるかを静かに考えること【瞑想】、仏国土実現のために、主のため、世のため、人のために、祈ること【祈り】を中心に考えてみましょう。
仏とつながる時間は絶対時間と呼ばれています。それ以外の生活時間を相対時間です。人生において重要なのは絶対時間です。「教学」・「反省」・「瞑想」・「祈り」に「伝道」を加えた五つの時間が私たちの絶対時間の中心です。
経典の読み方については、経典「自分を鍛える道」を是非ご覧ください。仏の沈黙の声を聞くために、自分を鍛え、霊能力と正しい人生を共に得てまいりましょう。
正命は、正精進を実行するうえでの基礎になる部分です。身体に例えれば、「正命」は基礎体力に当たるといえます。一方、「正精進」はプロになるための日々の訓練(トレーニング)ということになります。私たちが目指すプロとは人助けのプロであり、それが菩薩と呼ばれる存在となります。私たちの精進は仏や菩薩に向かう自助努力です。
精進を常に重ねるうえで、正しい生活習慣は絶対に欠かせないものです。正精進を下支えするのは、正命です。
本日の学びで印象的だったのが、正命と正精進の違いが精進必達における短期的・中期的な目標の違いであるところでした。これについては、以下のように説かれています。
『正命が、一日をサイクルとした短期決戦的な考え方だとするならば、正精進は、年単位のような中期計画ということになるでしょう。正精進は、「一年、三年、五年、十年といった年数のなかで、どのように自分をつくっていこうとしているのか。そのために、どのような準備をしているのか」ということにかかわるのです。』
また、経典『釈迦の本心』では、正精進について二つの要点を教えていただきました。
一つは、この三次元の人生を魂の学習の場としてとらえて、「はたして自分は、魂の学習というテーマに沿った生き方をしているか。そうした努力を積み重ねているか」と考えることです。
二つ目は、霊性の進化、霊格の向上を確かめるということです。正精進の目的は、結局、霊性の進化、霊格の向上にあるのです。それゆえ、霊格が向上しないような生き方であっては、正精進をしているとは言えないということでした。
ということで、
努力の継続と霊格の向上が正精進の要であることを教えていただきました。正精進は八正道の完成における重要な要素ではないかと思います。菩薩の修行項目である六波羅蜜多にも精進波羅蜜多があり、精進の完成が如来への道ともなりますので、かなり重要な修行項目です。
仏陀の悟りの言葉である「『仏説・正心法語』とともに、よき宗教的生活習慣をつくり、
正命によって正精進を引っ張りましょう。そして、「教学」・「反省」・「瞑想」・「祈り」・「伝道」の五つによって正しい精進を共に続けてまいりましょう。
幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『心の挑戦』
第8章「業とはなにか」
5 正しい宗教の見分け方―反省と自己責任
考えてみますと、この因縁話の場合に、ありえることも一つあります。
確かに、身内のなかに―父母、祖父母、あるいはその前の先祖に―不成仏の霊がいるということは現実にあると思いますし、ずっと手繰(たぐ)っていけば、不成仏霊がいないような家系というものはないでしょう。ですから、そういう方が子孫に影響を与えているということは、理論的にはありえることです。
また、それを理論的につかまえて、「先祖供養をどんどんやらなければいけない」と言って、毎日、先祖供養をやっているような団体もあることはあります。これもある意味での”因縁切り”なのだろうと思いますが、そういうことをしているところもあります。
ただ、幸福の科学では、「そうした悪霊の霊障があれば、確かに体調に不調や、さまざまな間違った判断による苦しみが生まれることはありえるけれども、自分自身の心を磨いて、行いを修めていくことによって、あるいは心自体を調えていくことによって、そうした悪霊の波動を断ち切ることができる」ということを、お教えしています。そして、「地上に生きている人が正しい生活を送ることによって、間違った生き方をして苦しんでいる先祖たちも、その姿を見て救われることがある」という話もしています。
これは、たとえ話で言えば、こういうことです。父親が多大な借金を背負っていて、また息子は息子でまったく別に同じような借金を背負っているとしましょう。その借金を背負っている息子が父親の借金を返すことができるでしょうか。そういう問題を提起してみると、「できない」というのが答えです。ところが、「事業に成功して大きなお金を持っている息子が、父親の借金を返すことができるか」という設問の場合には、「できる」ということになります。これが先祖と子孫の関係であるわけです。
先祖が浮かばれていない、地獄で苦しんでいる、ということは、借金を背負っているのと一緒です。精神的な借金、この世で生きたときの借金を背負っているわけです。
その借金を払うために、子孫がそれを供養し、先祖を成仏させようとするときに、子孫が悪霊に憑かれるような滅茶苦茶な生活をしていた場合には、子孫もまた負債を負っているわけです。借金を持っている者が、借金を持つ人の借金を代わりに返すことができないのです。その借金を返すことができるためには、自分自身の蓄財をしておかなければならないのです。豊かであればこそ、他人の借金を払うことができるのです。
この「豊かである」ということは何かというと、今世において徳を積んでいるということなのです。それは、仏法真理に基づいて日々修行しているということです。光の徳を積んでいること。光を蓄積していること。天の蔵に富を積んでいること。それがあってこそ、苦しんでいる人に対して、その光を廻向することができるのです。光を手向けることができるわけです。これが、先祖を供養する場合の正しいものの考え方なのです。
ですから、御札や護摩木で先祖が救われるわけではないのです。生きている子孫たち、縁のある人たちが、日々、徳を積むことが大事なのです。宗教的修行をして光を数多くいただくこと、守護霊・指導霊からの光をいただいていること、そういうことがあって、その方が「○○さん、どうぞ幸福になってください」と言うならば、その先祖の借金は子孫の資産によって支払うことが可能になるのです。
ですから、地上に生きている人が、自分の病気や経済的問題、人間関係のもつれなど、さまざまな葛藤であえいでいて、苦しくて苦しくてしかたがなく、この苦しさから逃れるために、「それはきっと先祖が悪いのだ。先祖が祟っているからだ。だから、先祖を追い払えば、なんとか幸福になれる」などと思って先祖供養をしても、現実には、そういうものでは先祖の不成仏霊を払うことはできないばかりか、自分もまた同じような世界に堕ちていくのです。
こういうところにつけ込んでくる悪徳商法、悪徳宗教の毒牙にかからないように気をつけなければいけないと思います。
たとえば、先祖が刑務所に入ったという「刑獄の因縁」があっても、本人が刑獄に入るのは、本人自身が悪いことをしたからです。自分が法律に違反したことをしたから刑務所に入ったのであって、先祖の責任ではないのです。それを、「刑獄の因縁というもがあって、先祖の因縁のために、自分はたまたまそういうことになったのだ」ということを言うならば、これはまったく自己責任のない考え方です。
自分の思いや行いについてまったく責任を取らないで、たとえば交通事故で人をはねても、「これは先祖の因縁が祟ったのだ」とか、「先祖が人殺しをしたことがあるから、それが出たのだ」などというようなことを言っていたら、本人の責任はまったくないことになります。
自分が愛情関係のもつれでいろいろな痴情問題を起こしたとしても、「これは先祖の色情の祟り、因縁であって、自分の責任ではない。先祖が浮かばれていないからいけないのだ。先祖を供養すればいいのだ」というようなことを言っていたら、本人自身の心と行いのコントロールという責任はどうなるでしょうか。反省はどうなるでしょうか。ですから、因縁話や業の話においても、先祖の責任や家計の責任にして、自己責任をまったく認めない宗教、自分の責任として反省しないようなことを教える宗教、そして、それに基づいて多額の布施を強要するような宗教は、間違った宗教であって、悪霊の虜(とりこ)になっている宗教です。そういうところは完全に悪霊に支配されています。
正しい宗教かどうかの見分け方は、生きている人、現実に修行をしている人に、反省をきちっと教えるかどうか。自己責任のところをきちっと教えるかどうか、というところにかかっています。
ですから、先祖供養団体に対しても、ここのところをチェックしてください。ご先祖様にすべて任せてしまって、ご先祖様が悪ければ自分は幸福になれない、ご先祖様がよければ自分は幸福になれる―こういうワンパターンの考えをしているところは、ことごとく間違いです。
やはり、「幸・不幸は自分自身がつくっていくものであって、生きている人を救うのが真の宗教である」ということを知らなくてはならないと思います。
【大川隆法『心の挑戦』第8章「業とはなにか」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き
■
文責:蒲原宏史
(5/26-1)146『釈迦の八正道』 ⑨正精進―仏道に向けての精進―努力の過程を無視したら教育は成り立たない
