(5/23-1)143『釈迦の八正道』 ⑥正語―正しい見解のもとに語る・一日一生、不惜身命

『釈迦の八正道』

23 この世に異性が存在したことに感謝しよう。
24 神様、生命を下さって、有難う。そうつぶやいてみよう。

【大川隆法 箴言集『病の時に読む言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。

7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
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■新復活
6 一日一生、不惜身命
○「まだ残された使命がある」からやり続けられている

あれから十五年がたち、もうとっくに、”散って”いなければいけないところをまだ生きているので、本当に申し訳ないと思っています。「もう死ぬか、もう死ぬか」と思ってやっているうちに、このようなことになってしまいました。意外と死なないものです。

「自分の命は、もうそれほど長くはない」と感じていたので、「毎日、何かをしなければいけない」と思って、「一日一生」で進めていたら、いつの間にか、これほど説法や書籍の量が増えてしまう状況になったわけです。

私はすでに還暦を超え(説法当時・2024年で御生誕68周年)、日蓮や空海が亡くなった歳も超えてしまいました。彼らであれば、人生が終わっているところになりますが、今のところ、私の”ディーゼル”はまだ動いています。

お釈迦様は八十歳ぐらいまで生きたとされていることもあり、私も若いころに、「これから五十年はやります」と約束をしました。三十歳にして立ち、八十歳まではやるつもりでいたわけです。

ただ、いったん死んだ気持ちでやり始め、続けることができているのは、「使命がまだ残っている」ということだろうと思ってやっています。

あの当時、「法は説き終えた」と思っていたけれども、まだまだ出てくるものだということに驚いています。

また、大学づくりをしたり、映画を製作したり、歌をつくったりと、さまざまなこともし始めたので、「人間というものは、なかなか分からないものだ」というように思っています。自分としては、まだまだ広がっていっているような気がしているのです。

○「死」を体験して身に沁(し)みた「一日一生、不惜身命」
今回述べたことについては、すでに知っている人もいるでしょう。この法話を、映画「世界から希望が消えたなら。」を見る前に聴くか、あるいは、映画を観てから聴くかは分かりませんが、実際に私の身に起きたことの概要を述べました。これが私の「新復活」です。

そうした「死」というものを自分で間近に体験し、「明日死ぬかもしれない」「年内に死ぬかもしれない」という気持を持つことによって、「一日一生」や「不惜身命」といった言葉が、本当に身に沁みて感じられました。

例えば、ブラジル伝道へ行くときなどは、私の知識不足もあって、ブラジルはアマゾン川の畔(ほとり)だろうというイメージから、「今回は、アマゾン伝道だ。アマゾン川流域を点々と講演をしていくのだろうから、これはもう死ぬかもしれない」と本気で思っていたところがあります。

実際にサンパウロへ行ってみると、ヘリコプターで現金輸送をしているのを見て驚きました。地上では強盗に襲われるかもしれないということで、ビルからビル、銀行から銀行というようにヘリで移動していたので、「日本よりもこちらの方が進んでいるのかな」と思うこともありました。

そのように若干の誤解もあったものの、ブラジルには都市部もだいぶあったので、アマゾン川までは行きませんでした。

さらに、アフリカまで巡錫に行けましたので、よいこともたくさんあったとは思っています。

以上、私の「新復活」の前後にあったことについて、簡単に述べました。

【大川隆法『新復活』より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』の前に、「お釈迦様の八正道」を共に学んでまいります。復刻版で経典『真説・八正道』が再販されていますか、これは、主が現代の時代に合わせて再整理されたものです。お持ちでない方は、是非お求めください。【税抜き1700円】その意味では八正道の現代応用ともいえる尊い経典なのですが、これを学ぶ前段階として仏教オリジナルの八正道を共に学んでまいりたいと考えています。
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正語―正しい見解のもとに語る
八正道の三番目には「正語」があげられます。正語についての教えは、すでに私は何冊かの著書において、かなり具体的なものを出しています。

たとえば、宗教的に述べるならば、邪教を挙げれば簡単です。統一教会的な騙しのテクニック、何でも騙していくということも、もちろん正語に反しています。

あるいは、創価学会的な脅迫・恐喝・脅し、こうしたものも、当然、正語に反しています。宗教生活をする人であれば、徐々に言葉を整えることが大事です。

もちろん、真実そのとおりのことを、他人に注意するのは大事なことですが、そうではなく嘘八百でやっていくのは間違いになります。

一番大事なことは妄語戒(もうごかい)です。「妄語」とは、間違った言葉です。特に、悟りに関する内容を偽るのが、一番大きな罪になります。

それから、多少、技術的になりますが、「Aさんに行ったこととBさんにいったことが違う」といった二枚舌を使うこと「両舌」や、ここにもないお世辞を言って人をくすぐり堕落させたりするようなこと「綺語」も、当然、正語に反します。

一番単純なものでは悪口です。仏教的には「悪口(あっく)」といいます。単なる悪口を言うこともそうですし、本来は正思に分類できる愚痴を口に出して言ったり、偽りのないようで周りの人を惑わせたりすると、これも正語に反します。

これが正語の教えです。ただ、みなさんが心しなければならないのは、言葉を正すということが消極的な方向に現れてしまい、正しいことも言えないようになることです。間違ったこと、悪いことを言う人が、銃弾をいくらでも打つように言葉数が多く、正しい見解のもとに活動している人が、それに足して何も言い返せず黙っていることによって、悪を増長させ、正しい者たちの集団をぐらつかせるようなことが現実にあったならば、これはやはり間違いであると思わなければなりません。

「忍辱(にんにく)」とは、要する忍耐のことですが、宗教的忍耐とは、決して悪を助長することではありません。正しいことを「間違っている」と言われて、「はい、その通りです」と引き下がることでもありません。

「仏陀のしていることは間違っている」と言われて、「はい、その通りです。忍辱いたします」と引き下がることでもありません。

「仏陀の説いていることは間違っている」と言われて、「はい、そのとおりです」と引き下がる仏弟子はいないのです。「それは、あなたの考え違いである。仏陀の教えは、こうしたことにおいて正しいのである。あなたのほうが邪見なのである」と反論するのは、仏教徒として当然のことです。この批判、ないし論理的な切り替え氏は、感情的に起こることも伴わずにできることです。必要なことは、押しの強さであり、言葉の論理的な組み立てなのです。

ですから、悪を受容し、それを増長させることをもって、正語の教えとするべきでは絶対にありません。それは間違いです。これは、別な面においては、正しいことを語らなかったという意味で、作持戒(なさねばならない戒め)といての「正語戒」(正語のすすめ、ぐらいの意味)に反するかもしれません。

特に当会は非常に人の好い方が多いため、この正語のところで間違って、口の悪い人たちを優勢にさせてしまう傾向があるので、人の間違いに対しては、きちんと正していくことが大事です。その際に、「いたずらに感情的にならずに、やはり事実を根拠として、あるいは理論を根拠として、的確に批判をしていき、相手を悟らしめることが愛なのである」ということを、きっちりと理解してくことです。

間違った見解のもとに、いろいろな活動をしている人は、地獄に落ちていきます。ですから、こうした人たちを救うためには、その見解が間違いであることを教えてあげなければならないのです。それを教えてあげることができないのならば、伝道は成り立たないのです。

世の中の人は誤解しているのです。知らないことがたくさんあるのです。だからこそ、教えてあげる必要があるのです。間違った見解に対しては、それが間違っていることを指摘しなければなりません。そして、「正しい見解とはこのようなものです」ということを教えてあげなければなりません。

正語においては、消極的に「こうしたことを言ってはいけない」ということもありますが、積極的に「正しい法論を解く」ということも、非常に大事なことです。けっして「弱々しい善人」になるべきではありません。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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それでは、続いて、別の経典『釈迦の本心』から八正道の「正語」についての主の解説をご覧いただきます。

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〇正語
それでは、「正しく語る」とはどういうことでしょうか。

正見のところでは、間違った見解を形成することは心に毒をつくるということを述べましたが、人間は、「語る」ということを通しても、心に毒を受け、毒を売り、毒を広げることが多いのです。「人びとの苦しみの大半は言葉に起因している」とも言えるでしょう。

他人から発せられた言葉が自分を不幸にすることもあれば、自分の発した言葉が他人を不幸にすることもあります。言葉は人間の幸・不幸と非常に関係があり、ある意味では、「言葉の調律」ができれば、地上は理想社会となっていくことが可能なのです。

霊天上界においては、高級霊界に近づくほど、言葉の調律ができるようになります。高級霊界には、他人に対して悪しき言葉をはく人はいません。ときどき批判めいたことを言うことはなきにしもあらずですが、その場合は、その人をよくするため、善導するためであることが原則であり、心底から他人を嫌った言葉を発する人は高級霊にはいないのです。

したがって、言葉というものは、その人の人間性を評価するための大きな目安、基準となります。自分の言葉がどういうものであるかは、反省の項目として非常に特徴的であり、分かりやすいチェックポイントだと言えます。

正語の反省においては、「きょう一日、自分はどのように語ったか」ということを具体的に思い出してみます。言葉というものは、たいてい、他人の存在を前提としているので、「どういう人が自分の前に現れたか。その人に対して、どう語ったか」ということを、一つひとつ点検してみるのです。

気分や体調がすぐれないとき、また、悩みのなかにある時には、たいていの場合、他人に対して否定的な言葉を数多く出していると思います。否定的な言葉とは、相手が幸福にならないような言葉、相手を傷つけ、不安に陥れ、前途を真っ暗に感じさせるような言葉のことです。

否定的な言葉を出すことは、不幸の拡大再生産をしているのと同じです。自分が暗い感情に囚われているのは自分ひとりの責任ですが、それを言葉に出して語ることによって、その病原菌が他の人びとにうつっていきます。そうした言葉を一日の比較的早い段階で浴びてしまった人は、不愉快な一日を送ることになり、その人の不愉快さが、また他の人にも伝染していくことになるのです。

したがって、言葉の調律は非常に大事な修行です。良い言葉を出す。正しい言葉を出す。仏の心にかなった言葉を出す。こうして言葉を正していくうちに、言葉のもととなる部分、すなわち思いへも、反省の作業が深く深く進んでいくようになるのです。

言い換えれば、「真実語」を常々語り、「悪口」(ひとの悪口)、「妄語」(うそ)、「綺語」(おべんちゃら・へつらい)、「両舌」(人を仲たがいせる言葉)を避けることです。

【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
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世界宗教の中で、言葉に関する戒律が明確にあるのは仏教だけであるとも言われています。
幸福の科学においても、正しい言葉を使う(正語)では、
言葉は常に真実語を語ることを常としており、以下の四つをとくに戒めています。

・嘘偽りがないこと (不妄語)
・人の悪口を言わないこと (不悪口)
・相手次第で語る内容を変えないこと (不両舌)
・心にもないお世辞をいわないこと  (不綺語)

真実に反す言葉を使うと二倍の罪を重ねてしまうことをよくよく注意する必要があります。まず、真実語を語らなかった人はその悪なる言葉で、他人を傷つけてしまいます。これが一つ目の罪です。
そして、自分の語る悪い言葉は、自らの耳を通して、心に還り、自分自身を傷つけてしまいます。これが二つ目の罪です。

仏性を通して自と他は一体だからです。間違えた言葉や評価は他人を傷つけるのみならず結局自分も傷つけてしまいます。

「人を呪わば穴二つ」という言葉があるように、悪い言葉は自分と他人の墓穴を掘ってしまうことになります。これまで、言葉のトラブルで悩んでいる方のお話を聞いていると、ほとんど、「自己保身」の感情がとても強い方でした。「人に良く思われたい」「自分の立場を守りたい」「自分のために人を利用したい」理由は様々ですが、要は自己保身です。

このような方々は間違いなく、自己信頼の低い方々でもありました。
「身から出た錆」といえば、それまでですが、
言葉が悪いために、自分が自分を傷つけてしまい、自分を信じることができず、結果人を信じることができない心を自ら作り上げてしまっています。

毎日、口にしている言葉が、仏様の立場から見て正しいものであるのか、点検してみましょう。その言葉がごみのようなものであるならば、心に思い描いている内容を今一度点検してみましょう。口から出る言葉が、天使や菩薩が喜んでくれるような内容であるならば、その心は平和そのものであると言えます。普段生活の中で使う言葉の質によって、私たちは心に天国も地獄もともに作り上げることができます。言葉の力で、私たちの身の回りに天国世界をともにつくりましょう。

幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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