(5/22-1)142『釈迦の八正道』 ⑤正思(正思惟)―正しい信仰観に基づく考え方―医師の「余命五~十年」の言葉を受けて心のなかに決意したこと

『釈迦の八正道』

20 他人の罪を赦(ゆる)し、悪態をも許そう。
21 自分が嫉妬しつづけてきた人がいるなら、その人の長所に憧れていたことを認めよう。
22 自分より優れた人が、たくさんいてくれたから、この社会は繁栄したのだと思おう。

【大川隆法 箴言集『病の時に読む言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。

7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
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■新復活
○医師の「余命五~十年」の言葉を受けて心のなかに決意したこと
そこで、私は、「医者が言うように、五年で死ぬか十年で死ぬかは分からない。でも、本当に最後だと思うなら、もう思い残しがないようにしよう」と決意しました。

そのころ、関西方面へ視察に行ったとき、たまたま立ち寄った大阪中央支部にいた、三、四人の職員としばらく面談をしていると、信者間で連絡が回ってしまったようで、一時間ほどして外へ出たときには、二百人ぐらいの人が集まっていました。

大勢の女性信者たちのなかでもみくちゃになりながら、「すみません。せっかく来られても何もできないので、触りたかったら、もうどこでも触ってください」といような感じで立っていると、私の裾やワイシャツ等、いろいろなものを引っ張られたり、触りまくられたりしました。そういうことがあったのを覚えています。

それで、「これは、みんな、よほど飢えているな。やはり、説法しなければないけない」と痛感し、二〇〇七年六月の終わりごろから、全国の支部への巡錫を始めたわけです。

こうしたことも、当時の家内には気が狂っているように見えていたのだろうと思います。

○「新復活」後、二千回以上の説法、学校法人と政党の設立
そのころ、当時の家内は、総裁はもう死ぬものだと思って、自分が二代目になる形での準備を着々と進めていたのです。彼女の生誕地である秋田のほうは「純正癡・秋田」となり、そこに文殊館(現・秋田信仰観)が建ち、幸福の科学を文殊信仰に変えるための準備に入っていました。

ところが、私が「全国行脚をする」などと言い出したので、「ああ、これはもう”特攻隊”となって死ぬ気だな」と思い、彼女には狂ったように見えたのではないでしょうか。

さらに、その時点では予想していなかったのですが、二〇〇七年十一月のハワイでの英語説法を皮切りに、海外巡錫も始めました。(※Be positive 
幸福の科学出版刊 参照)

もちろん、やけになったところもあったのかもしれません。「どうせなら、やれるだけやって”大空のサムライ”風に散ってもいい」という気持があったのも事実です。

少なくとも、「病気をして、もう死ぬ」というような局面に立ち会った人から見れば、私は”発狂状態”に見えただろうと思います。

しかも、私は病気の直後に、幸福の科学の月刊誌の巻頭言(「心の指針」)を九年分書きました。それは、もし、途中で私が亡くなったとしても、月刊誌に総裁の巻頭言が載り続ける間は、まだ信者をつなぎとめておけるだろうと思ったからです。

それなのに、突如、そういうこと(巡錫・じゅんしゃく)をすると言うので、「ちょっとおかしくなったのではないか」という感じだったのだと思います。

私が海外巡錫を始めたあたりでやめておけば、まだよかったのかもしれませんが、二〇一〇年に幸福の科学学園中学校・高等学校の那須本校を開校し、さらに、二〇一三年には関西校も開校し、それ以前にも、二〇〇九年に幸福実現党の立党までしているので、これはもうすっかり錯乱状態に入ったように見えたのでしょう。

その過程で、当時の家内と私との心の距離がだんだん離れていきました。彼女は、教祖殿の近くに立てられていた自宅に一人で住み、別居したまま二、三年ほどたちました。そこには、弟子の強制力もあったのかもしれません。

それでも、別居当初は幸福実現党の党首をやってくれたこともあるのですが、すぐに投げ出してしまい、その後は、私がやらなければいけなくなりました。

当時の家内には、私が玉砕したいかのように本当に見えていたのでしょう。おそらく、『永遠の0(ゼロ)』のスリーリーのように、「爆弾を積んだゼロ戦で、航空母艦に急降下してぶつかりたいんだろうな」というように見えていたのではないかと思います。それは、常識的に見ればそうだったのかもしれません。

二〇〇四年に大病をするまでに行った講演は九百回、発刊書は三百書ぐらいだったような気がしますが、おかげさまで、そのあとは二千回以上の説法をしていますし、二〇一九年中に通算三千回以上まで行くのはほぼ確実になっています。【※2019年 10月 22日説法 
3000回突破して(『感謝しかない』3000回説法を超えて―」)経典も2600冊突破しています】また、英語説法も百三十数回行いました。さらに、ほかにも事業を数多くやっています。

要するに、「もう死体だ」と言われたあとに発刊した書籍の点数は、翻訳書もいれて二千数百書以上になるのです。これは、ありえないことが現実に起きたということでしょう。
【2023年時点では説法3500回、発刊経典は3150書】

【大川隆法『新復活』より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』の前に、「お釈迦様の八正道」を共に学んでまいります。復刻版で経典『真説・八正道』が再販されていますか、これは、主が現代の時代に合わせて再整理されたものです。お持ちでない方は、是非お求めください。【税抜き1700円】その意味では八正道の現代応用ともいえる尊い経典なのですが、これを学ぶ前段階として仏教オリジナルの八正道を共に学んでまいりたいと考えています。

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正思(正思惟)―正しい信仰観に基づく考え方
二番目に「正思」がきます。以前、八正道の中で正思の順番を少し下げて説いたのは、現代人は心というものがよくわからないからです。(初版「新説・八正道」)現代では、自分の心の中の在り方を問われても、何のことかさっぱりわかない人が多いので、より具体的な正語を先に出していたのです。伝統的には、正信、正見があっての正思なのです。

正思というのは、思いの世界に関するものであり、具体的に言えば、心の中で考えていることです。心の中で考えていることの内容が正思なのです。それは、やはり深い洞察を含んだものでなければならないと思います。

要するに、自分自身の内側を見つめていき、一日のあいだに心の中で何を考えてきたかを見ていくのです。

正しい信仰観から見て、それは正しい考えであったのだろうか。また、縁起の理法から見て、自分は正しい考え方をしたのだろうか。そうした考え方をすれば、悪しき種を蒔いて、大変なほうに行くのではないだろうか。人に対して悪いことを考えたりもしたが、そのままだと、どのような結果になるのだろうか。

このように、一日のあいだに心の中に去来したことを振り返りながら、仏法真理にあっているかどうか、仏の教えにあっているかどうかを点検していく―これが正思です。正しい宗教信条を受け入れ、それに基づく見方を確立して、心のあり方をつぶさに点検していくことが正思なのです。難しくいえば、「貪・瞋・癡」という心の三毒や、「慢・疑・悪見」を含めた六大煩悩の反省が、正思の中心になります。

正思は、別名、「正思惟」(しょうしゆい)ともいいます。思惟とは、思考、考えることです。考えることができるだけでもたいしたものであって、世の中には、考えることができない人が大勢います。常に手先だけ動かしている方、ものごとを条件反射的にしか判断できない方が大勢いるのです。

しかし、自分の心の中を見つめられるようになれば、たいしたものです。正しい考え方があり、冷静に自分自身を見つめるという考え方があって、次に具体的な行為が続いていきます。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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それでは、続いて、別の経典『釈迦の本心』から八正道の「正思」についての主の解説をご覧いただきます。
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〇正思
次に、「正しい思い」というものを考えてみましょう。

これは、仏法真理に基づいた考え方ができるかどうかの自己分析です。みずからが何を思っているかを、仏の立場で冷静に分析できる人は、そう多くはありません。実際、正思の部分が完成すれば、反省の七割、あるいは八割近い部分がカバーされることになります。

「思い」とは、結局、心のなかに一日中ながれている考えのことです。それは、方向性もなく、とりとめのないものであり、行ったり来たりしている波のようなものだと思います。

しかし、その人がどのような人物であるかは、その人の心に去来する思いをみれば分かります。どのような思いをもっているかを点検すれば、その人がいかな人物であるか、だいたい見当がつくのです。したがって、思いを純化し、高度化する以外には、人間として偉大になっていく道はないのです。

行動については、ある程度、他の人が判断することもできるでしょうが、思いの中身は他人には読めません。思いの中身は人によって千差万別であり、非常に大きな差があります。それは、いかんともしがたいほどの差なのです。

もし、心の表面に小さな扉があり、そこに鍵を差し込んで扉を開けると、自分が心のなかで思っていることが、テレビ画面に映るように他人にも見えるとしたらならば、自分がいかなる人間であるか、一目で見破られてしまうでしょう。

心のなかがガラクタで満ちているならば、その人はさみしい人生を生きていると言わざるをえません。しかしながら、心のなかに美しい思いが満ちているならば、その人はすばらしい人生を生きていると言えます。

そして、「思いの中身を、いかに高めていくか」ということが、実は地上の浄化にかかわっているのです。「一人ひとりの想念をよくしていく。美しくしていく」ことが、結局、地上をよくし、地獄界をなくしていく方法ともなっているのです。

したがって、まず、みずからの思いの正体を見極めるところからスタートすべきです。

みずからが何を思い描いているのかを、一日のなかで、ときどき検討してみることです。そして、悪しき思いが出たときには、すぐに修正することです。「間違った心を起こした。すまなかった」と思い、修正をしていく必要があるのです。

また、一日の終わりに、その日、心に去来したことを省みることです。たとえば、他人に悪口を言おうとしたが思いとどまってという場合は、正語の部分は守れたとしても、もし心にその人への憎しみが渦巻いていたならば、明らかに間違った姿であり、その思いを正すことが大事なのです。

思いのコントロールは、それを義務づけ、習慣化していくと、しだいに深いところまで入っていくようになります。

さらには、修行に向かって正しい志を持つことや、仏法真理に基づき、日々の出来事に対して正しい判断を重ねることも、伝統的解釈での正思であることに留意していただきたいと思います。

【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
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ある日の夢のことです。
お寺の和尚さんみたいな僧侶から
「あなたとは何ですか?」と問われて
「私は蒲原です」と答えました、
「それは名前です。あなたとは何ですか」と問われて、
「私は、支部長です」と答えて、
「それは役職です。あなたとは何ですか」と問われて、
「私は、もうすぐ47歳です」と答えて、
「それは年齢です。あなたとは何ですか」と次々に問われて、あれこれ答えるのですが、
最後に答えたのが「私とは、私が考えていることです。」と答えると、
「そう、それがあなただ」「あなたとは、あなたが今思い、考えていることに他ならない」
和尚さんからこういわれて、目が覚めました。
「私とは、私が考えているもの」なのです。

名前や、肩書き、経歴、年齢、家族構成、住所や職場はすべて自分の環境を説明するものでしかなく、私たちそのものではありません。しかし、目に見える世界、形ある世界である、この世に埋没していると、「自分が一体何を考えているのか」「心に何を思い描いているのか」を知らずに、ただ環境に現れる現象に反応しているだけの生活を送ってしまいます。
豊かな社会に生きながら、心の存在を忘れてしまうのは、現代における流行病と言えそうです。

常日頃から「心の中で交わされている声のない会話がどのようなものであるかを常に点検しましょう。驚くほど、いろいろな声なき声を発信しています。心に去来する思いが、仏様に見られても恥ずかしくないものでありたいものです。これを書いていて、自分も冷や汗が出る思いです。

「正思というのは、思いの世界に関するものであり、具体的に言えば、心の中で考えていることです。心の中で考えていることの内容が正思なのです。それは、やはり深い洞察を含んだものでなければならないと思います」という主のお言葉がとても染み入りました。また、
「実際、正思の部分が完成すれば、反省の七割、あるいは八割近い部分がカバーされることになります」ということですので、正思が八正道の肝の部分となりますので、自分の考えや思いが仏様の立場で正しいものであるかに注目してみましょう。

幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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