(6/9-1)160『解脱の言葉「仏説・八正道」』について考える ⑫正思―心の三毒の点検【癡】―仏教は自由で寛容な教え

『解脱の言葉「仏説・八正道」』

160『解脱の言葉「仏説・八正道」』について考える ⑫正思―心の三毒の点検【癡】―仏教は自由で寛容な教え

8 信仰に目覚めていない人には、「生かされている」感覚は生まれない。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

7月7日は主の御生誕日です。7月7日13時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館より中継します。当日の本会場の別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館に全国・海外支部の代表者が参集し、全国・海外の中継会場を結んで、主への御生誕への感謝と「復活の祈り」を捧げる最大の式典とさせていただきます。7/7(日)~7/15(月・祝)まで、「御生誕祭」を開催致します。

7/14(日)は、津支部にて御生誕祭期間の後半における信仰心の結集の機会として、「『地球を包む愛』セミナー」を開催し、全国・海外の主要な精舎・支部にて、導師団を結成し、一同にて御生誕祭版「復活の祈り」を捧げると共に、「主の願われる夢の実現」に向けて救世運動を前進させ、全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てる誓いを捧げてまいります。

御生誕祭に合わせて発刊予定の『地球を包む愛』ならびに、楽曲CD「天御祖神の夢/天御祖神の降臨―Renewal 
ver.」を通して、すべての人の心を救済されようとしている主の大いなる愛を学び取り、エル・カンターレ信仰を深めると共に、天御祖神様の御名を全国・全世界に伝える決意を固めます。

この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

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さて、ここからは、常に主と共にあるために、教典『大悟の法』から第5章の「常に仏陀と共に歩め」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。主の御生誕祭に向けて、さらに神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■常に仏陀と共に歩め
○仏教は自由で寛容な教え
仏教の教えの特徴としては、「自由」と「平和」の二つがあります。

仏教は、一つには、非常に自由な教えであり、決して不自由なものではありません。それは教義においてもあてはまります。

釈尊の没後二千五百年のあいだに、仏教教団にはいろいろな宗派が数多く出ましたが、そのなかには、仏陀が説いた教えとは正反対のことを唱えている者もあります。それを許容するほど、仏教は器が大きいのです。

仏陀が説いた教えのなかから一部分のみ取り出して、それを宣べ伝える人が、あちこちに出たのですが、それを許容するものが、仏教にはもともとあったのです。

たとえば、日本の鎌倉期には、「坐禅こそが仏教だ」と説いた人(道元〔どうげん一二〇〇~一二五三〕)もいます。確かに、釈迦仏教にも坐禅はありましたが、仏教の教えは座禅しかなかったわけではなく、心の教えもあり、さまざまなものを含んでいました。

また、「念仏こそが仏教の本質である」(「仏教は念仏である」とも)説いた人(法然〔ほうねん一一三三~一二一二〕・親鸞〔しんらん・一一七三~一二六二〕)もいます。その念仏とは、「南無阿弥陀仏」と口で唱えることを指すようですが、もともとの念仏の意味は、そういうことではありませんでした。

本来の念仏とは、本章の2節で述べたように、「仏の姿を心に思い浮かべ、仏と一体になっていく。仏を念じて仏と一体化する」ということであり、「南無阿弥陀仏・なむあみだぶつ」と唱えるとではなかったのです。

ただ、これも、「南無阿弥陀仏」と言葉で表す過程において、仏と一体化していくことはありうるので、完全に否定することはできません。

あるいは、日蓮宗系の一部の教団では、「『法華経』こそが正しい教えである」と言って、それを行動の原理、折伏の原理としています。確かに、釈迦教団においても、間違ったものに対して厳しく破折した面があったことは事実です。

そういう意味で、仏教はさまざまな面があったことは事実です。

そういう意味で、仏教はさまざまな面を持っていました。仏教には、さまざまな面についての寛容さがあったのです。それが、仏教の二千数百年の流れのなかで、多様な教えや新しい宗祖が数多く出てきたことの理由です。そのすべてをのみ込み、ガンジス川のように滔々と流れてきたのが、仏教の教えなのです。

なかには、仏陀の説いた教えとは逆様(さかさま)のことを説いている場合もあり、川が逆流することまで許しているようにも見えます。

【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
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第二の 道は 『正思』なり
冷静に 己の 内を 見つめては
心の 実相 掴むなり
まず 煩悩の 火を鎮め
執着の 思いを 除き はじむべし
執着とは 
心の 中の こだわりなり
貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の 三毒なり
貪とは むさぼりの 心なり
瞋とは 怒りの 心なり
癡とは 愚かな 心なり
自分の 保身に こだわりて
他人を 害し
結局は
自己をも 滅ぼす 所業なり
獅子 身中の虫 己心の魔
仏性の敵 そこにあり 

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③癡(ち)
「癡」というのは、愚かさのことです。これも、なかなか深いものがあります。苦しみや悩みの原因には失敗があると思いますが、失敗は何によって起きるかというと、結局、ほとんどが「癡」―愚かさによって起きるのです。

賢い人であれば失敗しないことを、愚かであるために、むざむざ失敗していくのです。賢い人は、「ああ、これは失敗するな」ということが見えているので、その人に対して忠告するのですが、本人は言うことをきかずに、突入していって失敗します。これは、日本全国で、いつも起きています。残念ながら、愚かであることによって、何が正しいかがわからずに、判断が違うほうにいくのです。

よりによって全部、反対のほう、間違ったほうへ判断していくならば、その愚かさには根本的な原因がある、と考えなければいけないと思います。

その愚かさの原因は、一つには、定見、一定の見識を持っていないということです。その見識はどこから来るかというと、もちろん生まれつきの性質もありますが、それは言ってもしかたがないので度外視すると、やはり、その業務に適した知識、すなわち業務知識です。業務に関係のない知識を持っていても、しかたがありません。業務に関する知識を持っていること。それから、業務での経験を持っていること。ほとんどこれから、見識というものは生まれてくるのです。

やったことがないものに対する失敗率が高いのは、誰でも同じです。たとえば、本の出版業をしている人が、魚の種類などに豊富な知識を持っていても、その知識を使って出版業で成功するのは、まず無理です。その知識は、魚の図鑑でも発行する以外には、使えるところはありません。ですから、知識といっても、お門違いの知識なら使い道がないのです。その業務に関する知識を持っていなければ、だめなのです。

さらには、経験を積めば、それに優ることはありません。その経験のなかには、失敗も含まれています。失敗もまた大きな経験であって、あまり偉くなる前に、小さな失敗をしておくことは大事なことなのです。あまり早く偉くなりすぎた場合には、大きな失敗をすると大変なことになります。自分も大変ですが、組織も大変な危機になることがあります。

できたら、それほど偉くないうちに、平社員か主任ぐらいの時に、小さな失敗をしておいたほうがいいのです。ところが、地位が低い時に失敗しないで、支店長になってから失敗を犯すと、大きなダメージになります。社長になってからの失敗は、ダメージがものすごく大きいのです。

ですから、なるべく初期の段階で、失敗はこまめにしておいて、「こうすれば失敗する」という因果の理法を、よく体得しておくことが大事なのです。

それを知らずに、うぬぼれすぎ、勢い込んで、「自分なら、もっともっと大きな仕事ができる。もっともっと高い立場から仕事ができる」と、そのひとがあまりいうので、そのとおりやらせてみたところ、とんでもなく悲惨な結果になることもありまするそれは、少し欲が深かったのです。

このように、自分自身のうぬぼれの心から墓穴を掘ることもありますが、これはやはり自分自身に原因があるのです。

結局、その愚かさの原因は、その人に今必要な知識と経験が欠いていることがほとんどなのです。この場合には、例えば良きアドバイザーを得るなどのように何かで補わなければいけません。あるいは、自分の能力を超えていることに対しては、欲のところを少し抑えなければいけないのです。「自分はそこまでは無理だ」と思うなら、腹八分目ではありませんが、そこまでしないで抑えることが大事です。

ですから、適切なアドバイスをもらい、適切な知識情報を得て考えることも大事ですが、自分の現在の能力からみて無理な仕事に関しては、欲を出しすぎないことも非常に大事なことです。欲を出すと、それが愚かさとなって、悪い結果になることもあります。

得点を挙げることばかりを考えて、失点をたくさん出してしまってはいけません。得点が上がらない場合には失点を抑えるという考え方もあるのです。たいていの場合、分を超えたことをやろうとして失敗することが多いのです。特に事業経営的なものでは、それがあちこちで目に付きます。しかし、国家の運営レベルでも、そういう失敗はあります。

以上が、「心の三毒」です。この「貪・瞋・癡」は、よく理解してください。

また、初心者の方を教える場合も、この「貪・瞋・癡」のところが大事です。相手の悩みを聴くと、結局、その悩みの原因は、「貪・瞋・癡」のどこかに引っかかっているはずです。そして、申すこと宗教的な方、あるいは頭の好い方であっても、「慢・疑・悪見」のところには必ず引っかかっています。

このように、相手の話を聞けば、「心の三毒」、もしくは「六大煩悩」のどれかに、必ず引っかかっているのです。ですから、それを指摘してあげて、そこから抜ける道を教えてあげることが大事です。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
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それから、「癡」です。これも難しいところです。「愚痴」というと、今では、「自分のことを愚痴る」というような言い方をしますが、もともとは、そういう意味ではなく、「愚かなこと」という意味なのです。愚かな心、迷妄、迷い、これが愚痴です。

この癡もつらいことです。「私は、なんと愚かなのだろう」と反省できるかどうかを考えると、厳しいものがあります。これも、他人のことはよく分かるのですが、自分のことはなかなか分かりません。

自分の愚かなところが分かるのであれば、すでに直しているはずです。それが分からず、直せないから、誰が見ても失敗だというようなところまで行ってしまうのです。失敗して初めて、「自分は愚かだな」と思うわけですが、失敗しても、なかなか認めず、取り繕って、次のことをしたりします。自分の愚かさが分かる人は賢いと言えますが、なかなか分からないものなのです。

ここで言う愚かさは、学校の勉強における愚かさとは別のものです。賢さや愚かさには、もう一つ、人間としての賢さと愚かさがあるわけです。そのため、世の中には、勉強はできても、愚かなひとがたくさんいるのです。

それは、世の母親たちの多くが経験していることでしょう。「学校勉強はあんなにできて、あんなに良い学校へ行ったのに、どうして、うちの子は、こんなに愚かなのだろう」というようなことが、やはり、あるのです。これは不思議です。

直観というか、ひらめきというか、その時の一瞬の判断において、ビシッと当たる人と、外れる人とがいるのです。これは知識の量とは関係がありません。悲しいことですが、読み筋が当たる人と当たらない人がいるのです。

本当に賢い人は、転落していくような場合には、その転落のプロセスが事前に読めてしまうのですが、そうでない人は、実際に転落してしまうまで分かりません。転落してもまだ分からない人もいます。そういう人が地獄にいるのです。

転落することが自分でわかる人は、ある程度、すぐに反省ができますが、転落しても分からない人は、地獄で一生懸命に亡者をやっています。そのくらい、分からないものです。

悪魔でさえ、自分が愚かであることは認めません。みな、「自分は賢い」と思っているのです。

自分の愚かさを認めるのは難しいことです。

このように、仏教というものは、「徹底的に、本来の自己を取り戻し、迷える自己を叩き出す」という、自分との闘いなのです。

【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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さらに、経典「悟りの挑戦」より抜粋をご紹介いたします。
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それから、「癡」です。「やまいだれ」が使われているその字の通り、非常に病的な感じがしますが、一言で言うと愚かであるということです。こう言うと、みなさんも胸に手を当てたくなるのが本当のところではないかと思うのです。

愚かであるといえば、それも誰もが愚かなのです。ある意味では、本当の意味で悟った人間でないかぎり、本当の意味での全知全能の神でないかぎり、人間というのは愚かな存在なのです。ただ、その愚かな存在であっても、病的な愚かさにまでいかないことが大事なのです。

この病的な愚かさとして「癡」とはいったい何かというと、たとえてみれば、毛鉤(けばり)に噛みつく魚のような愚かさでしょうか。騙されて毛鉤に食いついていくような愚かさが魚にはあります。人間ならば、それを見たらすぐわかるのに、魚には分からないために餌だとおもって噛みつき、そして釣りあげられてしまって、あとで痛い思いをするわけです。知恵が足りません。

あるいは、今もういなくなりましたが、昔は鼠がずいぶんいました。その鼠捕りなどもそうです。入り口だけ開けておいて、なかに竹輪(ちくわ)などの切れ端を入れておくと、ものの見事に鼠がその中に入ってくのです。竹輪を食べて、蓋が閉まって、翌日は殺される運命となります。鼠はかなり臆病ですから、危険がないようにキョロキョロ見ながら近づくのですが、人はいないし大丈夫だと思うと、餌欲しさについ、なかに入ってしまいます。外から見ても、金網の中に入ったら危ないのではないかと思うのですが、入り口があるから出口もあるだろうと思って入ると、蓋が閉まってしまうのです。それは鼠が経験上考えたことのないことなので、分からないわけです。それで捕まってしまいます。こういう愚かさがあります。

あるいは、最近の話で言えば、ゴキブリ捕りがそれに相当するかもしれません。ゴキブリはトンネルと見るとやたらに通りたくなる習性があって、通路をつくっておいてやると、そのなかに呑気に入っていき、捕まってしまうのです。これなども「癡」です。

このように他の生き物の例で言われるとよく分かりますが、自分のことになると、なかなか分からないものなのです。そして、そういうことをしてしまうことがあるのです。

「田舎から上京してきて、『うまい話がある』と言われて、そのまま乗せられていったら、とんでもない目に遭った」というような話はよくあります。それから、宗教をしている人間は騙されやすいという特徴もあります。同情心をそそられると、ついつい同情してしまって騙されるようなこともあります。

この「癡」の部分も非常に大事かと思います。

【大川隆法『悟りの挑戦(上)』第二章「無明からの脱出」より抜粋】
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心の三毒である「貪・瞋・癡」は、自分の心を毒しますが、やがて、身の回りにいる方の心を蝕んでしまいます。だから、日ごろの心の点検では、
貪欲から離れるために、与える愛の実践ができているか。
瞋から離れるために、自分の思い通りにならないことに腹を立てるのではなく、仏はすべての人を平等に愛していることを知ること。
そして、
癡から離れるために、原因と結果の法則に基づいて物事を冷静に考えてみること。
これらを通して、心に生まれる毒を仏の光で解毒することが常に必要です。この毒を掘っておくと、次第に体中に広がってさらに大きな悪を引き寄せてしまうことがあります。仏性を汚さないように、常に心の三毒を点検しましょう。

本日の学びで印象的だったのは、癡(ち)という愚かさ、無明の原因として以下のように教えていただいた点です。

『その愚かさの原因は、その人に今必要な知識と経験が欠いていることがほとんどなのです。この場合には、例えば良きアドバイザーを得るなどのように何かで補わなければいけません。あるいは、自分の能力を超えていることに対しては、欲のところを少し抑えなければいけないのです。「自分はそこまでは無理だ」と思うなら、腹八分目ではありませんが、そこまでしないで抑えることが大事です』

このように、やはり、愚かであることの原因に知が足りていない点があげられますので、これは自助努力によって、無明を光明へと変えなければなりません。その中心はやはり、本を読むことが中心になります。「知は力なり」という言葉どおり、力の弱い者は欲望に負けて、魔の虜になってしまいます。魔を打ち砕くのは、善悪を分かつ智慧の光です。

また、経典『地獄の法』では、地獄と通じる代表的な「心の三毒」―貪・瞋・癡として、
P167~P196まで詳しい解説がされています。是非ご覧ください。また、地獄の法では
心の三毒に続く六大煩悩の「慢」・「疑」・「悪見」を呪いや憑依につながる間違った心としてP197~P210まで詳しく解説が加えられていますので是非ご覧ください。

幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。それが、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つからなる仏へ道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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