(6/8-1)159『解脱の言葉「仏説・八正道」』を読む ⑪正思―心の三毒の点検【瞋】―正しい方向を教えることが仏弟子の仕事・自主的に守る「戒」と共同生活のルールである「律」

『解脱の言葉「仏説・八正道」』

7 信仰をあざ笑う人からは、遠ざかれ。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

映画『ドラゴン・ハート』が公開中です。本日8日は、熊野市文化センターの交流ホールにて14:00より、映画上映会を開催します。蒲原は終日こちらに参加します。

109シネマズでの上映時間は
①16:40〜18:50

伊勢支部でも14:00~映画上映会を開催いたします。
是非この機会に入会・三帰へと導いてまいりましょう。

明和109シネマズの
映画『ドラゴン・ハート』に一人でも多くの方をお連れして、天国への道を伝えるために地獄の知識をしっかりと学んでまいりましょう。
今、この映画を観たことが将来の救いの手になることになります。愛する人にこの映画を届けてまいりましょう。そして、一人でも多く方を幸福の科学に入会・三帰へと導いてまいりましょう。

7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/6(日)と7/7(月)は、両日とも13 
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、常に主と共にあるために、教典『大悟の法』から第5章の「常に仏陀と共に歩め」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。主の御生誕祭に向けて、さらに神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■常に仏陀と共に歩め
3 心の自由性
○正しい方向を教えることが仏弟子の仕事

私は、自分の悟った内容を、法話として説いたり、本として出したりして、いろいろなかたちで、みなさんにお伝えしています。その仏法真理の本は、一冊一冊が巨大な”磁石”です。そういう磁石が何百万の単位で世の中に出ていき、人々の心を変えていくのです。

その磁石に引きつけられた人は、その人自身もまた磁石に変わっていきます。それはちょうど、長いあいだ磁石にくっついていた鉄が、それ自体もまた磁石となって、ほかの鉄をくっつけるようになるのと同じです。磁石そのものが、他のものをまた磁石に変えていく力を持っているのです。

伝道も、結局、こういうことなのです。「心の法則を伝えたい」という熱意そのものが磁石となって、心の法則が伝わっていきます。そして、心の法則を知り、その使い方をマスターした人は、その世において、真実の人生、幸福な人生を生きられるようになります。さらに、それを自分で味わって幸福な感覚を得た人が、また新しい磁石となって、それを発信していきます。これが伝道の過程なのです。

これは幸福になる方法の話ですが、その反対の場合も当然あります。世の中には破壊的な想念を持った人もいます。そういう破壊的な”逆磁石”を持った人が出てくると、それによって多くの人が不幸になることもあります。

特に、非常に破壊的な想念を持った人が、政治的な指導者や思想的な指導者となり、高い立場、指導的立場に立った場合には、ほんとうに逆磁石となって、すべてのものを破壊し、狂わせていきます。世の中にはそういうこともあるのです。

そのような逆磁石の働きは、何千年、何万年にもわたって続いています。それと戦い、ただしい”北極星”のありかを示し、「北の方向はこちらである」ということを教え続けているのが、神の使徒であり、光の天使であり、如来や菩薩なのです。

力だけで比べると、どちらも強いように見えて、真理はどちらかなのかがわかりにくいとこもあります。しかし、明らかに北は北なのです。その正しい方向を教えることが仏弟子としての仕事でもあるわけです。

○自主的に守る「戒」と共同生活のルールである「律」
心というものは自由性を持っており、その方向性は自由自在です。それが一定のよい方向に向かうことによって、いっそう集中度が高まり、念いの実現性が高くなります。

たとえば、念いを繁栄という方向に絞り込めば繁栄が現れ、智慧という方向に絞り込めば智慧が現れ、精進という方向に絞りこめば精進が現れます。一つの方向に向かって絞り込めば、それが実現してくるのです。

したがって、各人がそれぞれ、「自分はこういうことをしよう。しかし、こういうことはすまい」という、自分に合わせた戒めを持つことが大切なのです。

仏教には「戒」というものがあります。これは、交通ルールのようなものとは違って、各人が自分で「これを守ろう」と設定するものです。

たとえば、「今年は毎月一冊、仏法真理の本を読もう」という誓いを立てれば、それはその人にとっての戒になります。

そして、毎月読むことにしていたのに、「今月は読みそこねた」ということになれば、それは破戒、すなわち戒を破ったことになります。ただ、それに対する罰則は何もありません。戒には罰則はないのです。

しかし、戒めを破ったことに対して、自分自身が深い慙愧(ざんき)の念、後悔の念を味わい、「こんなことではいけない。もってもっと自分を強くしなければないない。自分を鍛えなくてはならない」と思うわけです。それによって、修行が進んでいくのです。

戒と聞くと、普通は「不自由なもの」と考えがちですが、ほんとうはそうではなく、各人が自分の修行のレベルに合わせてつくっていくものなのです。

釈迦教団において在家の信者に授けられていた「五戒」(不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒)も、「五つ全部を守らなければいけない」というものでは必ずしもなく、「まず、どれか一つだけでも守りなさい。二つ守れるなら二つ守りなさい。三つなら三つでもよろしい。五つ全部守れるなら、さらによろしい」というかたちでした。したがって、たくさん守ろうと思う人は、百戒でも二百戒でもよかったのです。

そのように、自分を向上させるために、自主的に立てて守っていこうとするものが戒なのです。

これに対して、罰則のあるルールとして、「律」というものがあります。これは、出家教団における共同生活のためのルールです。

現代でも、学校の寮などに入ると「起床は××時です」「食事は××時です」「門限は××時です」「消灯は××時です」などの規則があり、「これを守らないと、寮から出てもらいます」ということになります。このような、罰則付きのルールのことを律というのです。

共同生活のなかで、お互いの修行の邪魔をしないようにするために、「このルールを守る範囲内においては、お互いに相手の権益を侵害することなく、自由を満喫できる」という共通項を定め、それを律と呼んだのです。「この律を守っていれば、共同生活が可能である。律に定めがない範囲では、自由に行動してかまわない」ということだったわけです。

そして、律に反した場合には、その程度に応じて、いろいろな罰則がありました。(たとえば、一週間の反省行とか、教団追放など)。

このように、仏教には戒と律があり、戒は自由なものだったのですが、律は共同生活に即したルールであり、違反すると罰則があったのです。

律は出家者にはありましたが、在家にはありませんでした。在家の人たちが守るのは戒だけであり、罰則はなかったのです。戒は自主的なものであり、「なるべく守ろうと努力してください。守れなかった場合には、反省して、もう一度頑張ってみましょう」というものであつたわけです。

戒の内容は、仏教的精神に則った方向のものであればなんでもよく、各人が自分で考えていました。現代的に言えば、「毎日、運動しよう」「食べすぎないようにしよう」「寝すぎないようにしよう」というものでも戒になります。

そのように、戒は自由なものであり、罰則は特にありませんでした。これが仏教教団の在り方です。

自由には、放縦、すなわち、「ほしいままに何でもできる」という意味での自由ももちろんありますが、もう一つ、「自分で自分をコントロールする。自分で目的性を持ち、方向性を決める。自分で一定の範囲を定め、そのなかで生活していこうと決める」という意味での、意志を含んだ自由もあります。

この意志を含んだ自由は、責任を伴う自由であり、非常に責任感あふれる自由です。このような、責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのです。

「お互いに迷惑をかけずに、思う存分に修行して、心の法則をマスターしよう。自分自身の心の奥にある、宇宙につながっているものを手に入れよう」というスタイルであったわけです。

【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
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第二の 道は 『正思』なり
冷静に 己の 内を 見つめては
心の 実相 掴むなり
まず 煩悩の 火を鎮め
執着の 思いを 除き はじむべし
執着とは 
心の 中の こだわりなり
貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の 三毒なり
貪とは むさぼりの 心なり
瞋とは 怒りの 心なり
癡とは 愚かな 心なり
自分の 保身に こだわりて
他人を 害し
結局は
自己をも 滅ぼす 所業なり
獅子 身中の虫 己心の魔
仏性の敵 そこにあり 

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The second step is ‘right thought’
Look within yourself calmly
And find the truth of mind
First, soothe the flames of worldly desire
And remove your attachment
Attachment is what sticks to your mind
It originates from the Three Poisons
Greed, anger and foolishness
If you are too concerned
About defending your own interests
You will harm others
And will eventually damage yourself
This is a thorn in your mind
Here is the enemy of Buddha-nature

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正思―心の三毒の点検【瞋(じん)】
「瞋」は、怒りの心です。カーッとくる人で幸福な成功者はあまりいません。もちろん、社会的には出世する人もいて、瞬間湯沸器のような社長もいますが、やがて人間関係を損なってしまい、晩年は不幸であることが多いと思います。

ただ、怒りのなかには、「生かす愛」としての厳しさの部分もありますので、ただただ甘い言葉だけを人に言えばよいわけではなくて、人を導く場合には厳しさもなければいけません。この使い分けが大事です。知性的、理性的に人を導くことは、非常に大事なことです。

しかし、オコゼのように、少し触れただけでカっとして針が出てくるというタイプは、地獄的だといって良いと思います。

それから、肉体が原因で怒りっぽくなることもあります。肉体の疾患、たとえば、身体の調子が悪くて血圧が高いとか、いつも疲労しているとか、足が弱っていたり、内臓が悪いところがあったりというように、肉体的欠陥が原因でカっとしやすい人もいます。その場合には、心の問題とだけ捉えるのではなく、健康生活を送るために、やはり健康管理というものを、しっかりやらなければいけません。

また、酒を飲むと人格が変わり、怒って暴れる人もいます。酒を飲むと大声で怒鳴り始めたりして、出世を棒に振る人も後を絶ちません。酒を飲むと自分がそうなるということがわかっていながら、飲むのをやめられないのが普通の人です。そうした人は、飲酒を抑えて、早く正常に戻ることが大事です。これは、理性をもって自分の人生に修正をかけていく必要があります。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
この経典は、もともと会内経典でしたが、HSU開学を前に、一般書として書店でも頒布されている大変ありがたい経典です。お持ちでない方は是非拝受ください。【税抜き1500円】
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次は、「瞋」です。怒りの心です。これは、よく分かると思います。客観的に目で見て分かります。

ただ、その怒りが、本能的に怒っているものなのか、個々の判断が難しいのです。

立場が上の人は自分の怒りを必ず正当化します。「部下を鍛えるために怒ったのだ」「教えるために怒ったのだ」「これは教導の怒りだ」などと、いろいろ言います。それは、そうかもしれないし、そうでないかもしれないので、その辺はよく見ないと、単に虫の居所が悪いだけの場合もよくあるのです。

自我が固まってくると、それがなかなか見えないので、やはり、無我の立場でなければいけません。

怒りは、自分の体にも悪いのですが、他の人にもいろいろな影響を残すので、気をつけなければいけないところがあります。

ただ、怒ってよい場合もあります。それは、相手が間違っていて、止めないと転落するような場合です。「このままだと、駄目になる」という場合には、心を鬼にして、叱ってあげなければいけない、怒ってあげなければいけないのです。相手が間違った考えを持っていて、「このままでは、この人は駄目になる」と思ったら、「自分は悪人だと思われるだろうな」と思いつつも、心を鬼にして言わなければいけません。

そういうことを自覚して言っている場合には、それは「生かす愛」でしょうから、おそらく正しい怒り方でしょう。自分を客観視して「相手に嫌われるだろうが、心を鬼にして言わなければいけない」と思っているようなときは、理性的な怒りです。そういうことをしなければいけないときもあるのです。

人間は間違いを犯すものであり、特に、経験の浅い人、若い人は間違いが多いので、言ってあげなければいけない場合もあります。その辺はよく区別してください。

ただ、いつも怒っているような人は、本能のままに起こっていると見て、まず間違いないので、そういう人は、少し胆力をつけて、忍耐するようにしなければいけません。

【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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さらに、経典「悟りの挑戦」より抜粋をご紹介いたします。お持ちでない方は是非お求めください。
『悟りの挑戦』が仏陀自身による仏教解説であることがわかることだろう。―『あとがき』
【税込み1800円】
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〇「瞋」=統御できない怒り
それから「瞋」は、カーッとこみ上げてくる怒り、自分で統制できない怒りです。短気で、すぐカッとしてしまう人がよくいます。見境なくなって、その時だけもう自分を失ってしまって、何を言っているか分からなくなるのです。とにかくすぐにカッとなってしまいます。頭の回路を通して冷静に考えて、「これは怒るべきことであるから怒らなくてはいけない」と思うのではなくて、何かに触れると瞬間湯沸器のようにカッと怒る人です。これが「瞋」なのです。

これも、昔から心の毒素の一つになっていて、この怒りを出すと、せっかく穏やかに治めていた心の水面が非常に波立ちます。そして、不愉快で不愉快でしかたがありません。夜も眠れなくなってきます。ですから、人と会うと非常に面白くないし、すぐカッとする癖があります。

会社に勤めていても、非常によくできた人のように見えるし、頭もいいし、見栄えもいいし、ずいぶん立派な人だと思うのに、いま一つ出世しない人がいます。そういう人の特徴として、この「瞋」、怒りのというのを持っていて、すぐカッとなってしまうところがあるのです。思わぬところで人格がコロッと変わってしまうので、せっかく九十九点とって、あと一点積み上げようとするときに、がらがらがらと崩れてしまうのです。

「彼を管理職にどうか」という話が出たときに、「あれはすぐカッとなる男なので、何かの時にちょっと信用できない」「取引先で喧嘩したらどうする」「部下に対していきなり八つ当たりをすることがある」「いきなり上司に食ってかかることがある」「そういうことがいきなり出てくるので、ちょっとどうかな」というようなことを言われて、出世が遅れたりする人がいます。ですから、能力的には、非常に高いのに、どうして出世しないのかというときには、そういう短気を持っていることがよくあるのです。

なぜそうなるかということですが、これもある意味での動物性の一つなのです。動物たちもすぐカッと歯を向いたり、牙をむいたり、詰めを建てたり毛を逆立てたりします。それにちょっと似ていると言えるでしょうか。あるいは、自分の領域内に何ものかが入ってくると、すぐに迎撃するような性格に近いかもしれません。ヤマアラシのように、周りに対して、猛然と針を立てるのです。やはり動物的な本能の一種かもしれません。ですから、この怒りのところを抑えると、心は穏やかで、修行に適した状態になります。

ただ、これにも例外があるので付け加えておきます。ここで言われる怒りというのは、いわゆる「私憤」です。私の怒り、憤りを戒めているのです。これに対して「公憤」というものがあります。公の怒り、憤りです。これは完全になくしてはしまってはいけないことなのです。この公の怒りというものがなくなると、世の中を前進させる力がなくなるのです。・・・ですから、私憤、すなわち自分の個人的、本能的、反応的な怒りではなく、公の怒り、すなわち理性を内に秘めたような怒りを、ある意味では持っていなければ、世の中は少しも変わりませんから、これは知っておいてください。

宗教改革なども、多くはみな、この公の怒りを内蔵しているものです。現状の宗教では人は救えない、そこで立ち上がる―そのエネルギーは公の怒りです。これは「瞋」とは違いますので、間違わないでいただきたいと思います。

それから、個人的な領域においても、「怒る」ということと「叱る」ということはまた別のことです。人が間違ったことをしているのに、それをそのまま為さしめる、許容するのがよいという意味では必ずしもありせん。叱るということはまた別にあります。子供がいたずらをして言うことを聞かない時に、親としては叱らなくてはいけません。それを叱らないで甘やかしておくと、いざという時に自分でチェックできない子供ができあがってきます。このように、未熟なるものに対して強い指導を与える場合の叱るという行為は、また別の行為です。この二つの例外があるということは知っておいてください。

【大川隆法『悟りの挑戦(上)』第二章「無明からの脱出」より抜粋】
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心の三毒に対して、解毒剤があるとすれば、「五停心観」という禅定を挙げることができます。
経典『沈黙の仏陀』の中に、第四章「五停心観」がございまして、詳しく解説をいただいています。私も四禅定に入る前に、雑念を払うためによくこの禅定を取り入れていますが、特徴としては、この禅定が「心の三毒」と「慢心」と「散乱心」に対応している点です。
「五停心観」の第二の禅定に「慈悲観」がありまして、怒り多き人が修する観法として紹介されています。

簡単に説明すれば、「好きな人、嫌いな人、どちらでもない人、そうした人たちに対して平等に接しなければいけないという、平等視をするのです。「みんな同じく神仏の子なのだ。自分にとっては、いろいろと好き嫌いがあったりするけれども、みんな神様がよしと思ってつくられた人たちなのだ。そういう魂なのだ」と、まずはいったんゼロに戻して、平等視をしようとするものです。

慣れてくると、相手にも相手の立場があって、一生懸命なのだということが見えてくるようになり、怒りがスーっと引いていく感覚があります。そして、怒りを覚える相手に対しても差別することなく、「抜苦与楽」、すなわち苦を抜いて楽を与えてあげようと感じる心が大切です。

ですから、自分が思い通りにならないと思うように、他人だって自分に対して思うようにならないことを怒っているかもしれないという事実に気づいたときに、真理の言葉『正心法語』の「他人に対して理解をし、自分に対しては反省せよ」という仏言が自分の怒りの心を溶かしていくのを感じることもありました。

怒りは、心の毒です。毒は光の言葉で解毒することができます。
主の教えは慈悲に満ちています。主は光そのものだからです。

幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。それが、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つからなる仏へ道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。

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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第3章「信仰は美しい」
〇オフィスの窓ガラスに映る後光

この「信仰は美しい」という言葉を口にするときに、私がいつも思い出す光景があります。それはもう遥か遠い過去のようにも思えるのですが、時間的に、みたら、まだ十年も経つかたたないかというくらいのことでありましょう。【※1992年発刊当時】

それは、私がまだ会社勤めをしていたころのことです。

朝から働きづめに働いて日が暮れ、やがて窓の外が真っ暗となり、残業の時間帯に入りました。夜の七時、八時になった頃でしょうか、ふと見ると、壁面いっぱいの大きな窓ガラスに部屋の中の様子が映っています。そこには机とか、電話とか、まだ残っている人たちが立ち働いている姿などが映っているのですが、そのなかには私自身の姿も映っておりました。

ワイシャツを着、腕をまくり上げたネクタイ姿で、デスクの周りを動いている私でありましたが、ふっとその姿を見てみると、詩文自身の後頭部、ちょうど頭の後ろの部分に、わずか四、五センチではありますが、金色の光が出ているのです。まるで蛍か何かの光が点滅するように、強くなったり弱くなったりして、金色の光が出ているのです。これがいわゆる「オーラ」というものです。

今日一日働いて、「ああ、疲れたな」と思っていたのですが、ガラスに映った自分の姿を見、後頭部から出ているその黄金の光を見て、不思議な不思議な感じに打たれました。

そのようなオーラあるいは神の光ともいうべきものは、普通は人の目には見えないものです。しかし、私の目には見えました。それも直接に見るのではなくて、間接にガラスに映っているものが見えるということが、何ともいえずに不思議に感じられたものです。

神の光は、普通は人の目には見えないものなのだ。それが鏡に映るかのようにガラスに映っているということは、神の光も普通の光と同じように反射するという法則を持っているのだろうか。そのように反射して映るのだろうか。その事実がとても不思議に感じられたことでした。

思いとしては、わずか数秒のことでありましょう。しかし、一日の忙しい仕事のなかに埋没しておりながら、ふと見たその光景によって、「ああ、自分は天使なのだ。天使なのに、今こういう仕事のなかに埋没しているのだ。この私の姿は本来の姿ではないのだ。今はこのように、自分自身になかなか納得のゆかない毎日ではあるけれども、後頭部から出ているこの黄金色の光が、私が何者であるか、本来いかなる使命を持っているのかということを示しているのだ」、そのように強く思ったのでした。

ガラスに映る神の光は、当然ながら鏡のなかでも見ることができました。憑かれたときには、鏡に向かって自分の顔を映してみます。「ああ、今日は疲れているなと」と思うときがあります。そのときには、手を胸の前で合掌の姿にして、心静かに、大宇宙の神のエネルギーが自分なかに流れ入ってくるというイメージを浮かべます。あるいは高級霊の名を呼びます。

「イエス様の光、流れ入る」
「日蓮聖人の光、流れ入る」

こういった言葉を心のなかで何度も唱えると、鏡に映った自分の姿の後頭部あたりから光が急に出始めて、頭の上に黄金色の柱が立ったように見えてきます。そして上のほうからサーッと金色の光が入ってきて、自分自身の身体のなかを通ってゆく感じがよくわかりました。

その光が入ってくると、疲れが一度にとれてしまうのです。そして笑顔になって、また仕事を開始することができました。それは何とも不思議な光景でした。

世のなかの人は、万に一つも、そのようなことはご存じないでしょう。しかしながら、霊的な世界に目覚めた者、霊的な世界の真実を知っている者は、こうした経験ができるのです。その神の光というものを、肉眼で鏡やガラスに映った姿で目撃することができたということは、なんと不思議なことでしょう。

おそらく読者の多くも、心を調和し、日々自らを振り返り、そして神仏を思う心が強くなってくれば、鏡のなかの自分の姿に後光が射しているのを見ることがあるかもしれません。それはそれは神秘的な瞬間ですが、またある意味においては、人間は本当にこの世限りの物質的な存在ではないということを、まざまざと見せつけられる思いがきっとすることでしょう。

そのときに、「あなたの心眼が開いた」と言ってもよいと思うのです。この心眼とは「霊眼」と言い換えてもよいかもしれません。

このように、私たちは実際は常に異次元の世界と交流しながら生きている存在なのです。

【大川隆法『宗教の挑戦』第3章「信仰は美しい」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」映画伝道について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に霊的真実と
主エル・カンターレの御存在を弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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