(6/5-1)156『解脱の言葉「仏説・八正道」』について考える ⑧正見―「因・縁・果・報」による正しい観察―瞑想のなかで見えてくるもの

『解脱の言葉「仏説・八正道」』

4 自分が認められることのみを追い求める人生は、虚しい。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

7月7日は主の御生誕日です。7月7日13時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館より中継します。当日の本会場の別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館に全国・海外支部の代表者が参集し、全国・海外の中継会場を結んで、主への御生誕への感謝と「復活の祈り」を捧げる最大の式典とさせていただきます。7/7(日)~7/15(月・祝)まで、「御生誕祭」を開催致します。

7/14(日)は、御生誕祭期間の後半における信仰心の結集の機会として、「『地球を包む愛』セミナー」を開催し、全国・海外の主要な精舎・支部にて、導師団を結成し、一同にて御生誕祭版「復活の祈り」を捧げると共に、「主の願われる夢の実現」に向けて救世運動を前進させ、全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てる誓いを捧げてまいります。

御生誕祭に合わせて発刊予定の『地球を包む愛』ならびに、楽曲CD「天御祖神の夢/天御祖神の降臨―Renewal 
ver.」を通して、すべての人の心を救済されようとしている主の大いなる愛を学び取り、エル・カンターレ信仰を深めると共に、天御祖神様の御名を全国・全世界に伝える決意を固めます。

この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

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さて、ここからは、常に主と共にあるために、教典『大悟の法』から第5章の「常に仏陀と共に歩め」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。主の御生誕祭に向けて、さらに神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■常に仏陀と共に歩め
2 瞑想のなかで見えてくるもの
○仏との一体感

宗教では、精神統一というものを非常に重視します。仏教だけでなく、キリスト教やイスラム教、その他の宗教も、何らかのかたちで、瞑想にあたるものを持っています。

瞑想とは、外界からの刺激をできるだけ遮断して、「自己の内なるものを見つめる。内なる自己を見つめる」という時間をとることです。

そして、瞑想をさらに進めていくと、仏や神と対話し、自己が溶け出して仏や神と一体化する状態、「仏は自己であり、自己は仏である」という状態になっていきます。

仏教では、各地の寺院で仏像を祀っています。ユダヤ教やイスラム教から見れば、それは偶像崇拝として否定されるもしれませんが、仏教には、やはり意味があるのです。

仏像を本尊として安置し、それに向かって精神統一をしていると、本尊が自分のなかに入り、自分が本尊のなかに入って、本尊と自分とが一体になってきます。これを「入我我入(にゅうががにゅう)」といいます。自分のなかに本尊が入り、本尊のなかに自分が入って、本尊と自分とが渾然(こんぜん)一体となる境地があるのです。

本来は、仏像なくして、そういう状態に入れるのが本筋ですが、その前段階の方便として、まず、心に仏の姿を描くことができるように、仏をかたどった像の前で、合掌するなど、さまざまなポーズを取って、精神統一の訓練をするわけです。

心に仏を思い浮かべ、心のなかから、この世的な波動、三次元的な波動をどんどん落としていき、自分と仏との一体感を味わうのです(本来の念仏)。

○人間の心のなかにある純金の部分
そして、仏との一体感を味わうなかで、「自分」と思っていた個性の部分に、実は二種類のものがあることが分かってきます。

それはちょうど、川で砂金と石ころを選(え)り分けるような感じです。自分というもの、あるいは、今世の数十年でつくった、自分の個性と思っているもののなかに、砂金の部分、金色に光っている部分と、そうでない石ころの部分とがあるのです。

石ころの部分の自分とは何かというと、たいていの場合、肉体的感覚に基づき、肉体を自分だと認識して生きることによって、つくってきた殻のことです。あるいは肉体としての自分が生きやすいような選び方をする傾向性です。そういうものが、船の底のカキ殻のように、たくさん付着しているのです。

これを、瞑想のなかで選り分けていかなければなりません。真実の砂金の部分とそうでない部分を分けていくのです。

その選り分ける作業をしていくと、「仏と我、我と仏」という関係だけでなく、我なるものと、我以外の、この世に生きとし生けるものとの関係が、次第しだいに分かってきます。

すなわち、地上には、数億、数十億の人々が、さまざまな好き嫌いを持ち、それぞれ個性的に生きていますが、そういう他の人間のなかに宿っている砂金の部分、金色に光っている部分が見えてくるのです。

自分の内にある砂金の部分、金色の部分を発見できない人は、他の人のなかにある砂金の部分を発見することは難しいのです。瞑想のなかで、自分の内にある純金の部分を発見した人は、その同じ目によって、他の人の心のなか、個性のなかにある、金の部分、金色に光っている部分が見えてくるのです。

そして、「純金性という点において、自と他がつながっている」ということも見えてきます。さらに、「純金性という点において、自分と仏もつながっていて、仏と他の人もつながっている」という世界が見えてきます。

したがって、「何もかもを、この世的に同じに扱う」という意味での平等性や、結果平等における民主主義的な考え方とは違った意味での平等性が見えてくるのです。それぞれの人のなかに宿っている純金の部分、他の人のなかにある金色の部分が見えてきて、「金としての性質を持っている」という点における同質性、平等性が見え、「平等性智(びょうどうしょうち)」が目覚めてくるわけです。

【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
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まず第一は
『正見』なり
縁起の 理法を 信じては
己れの 道を 正すなり
原因 必ず 結果あり
因・縁・生・起が 縁起なり
自己も 世界も 原因の
種が 蒔かれて  【因】
水を やり   【縁】
果実が 実り  【果】
報いあり    【報】
果実の 甘さ 苦さにも
種と 育ちに 理由あり
己れ 自身の 幸・不幸 
過去に 必ず 原因あり
振り返りみて 反省の
心 起こすは 正見なり

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〇正見―「因・縁・果・報」による正しい観察
何がよくて何が悪いか、結果的には、すべては分からないのです。しかしながら、すべての人が、「因・縁・果・報」の流れの中に生きています。

そして、「報」は、生きているうちに起きることもありますが、死んでからのちに起きることもあります。この世的には栄達しても、あの世に還ってからは違う、ということは当然あるのです。人生は、ここまで考えないと完結しません。

ですから、何度も述べているように、仏教的人生観というのは、「因・縁・果・報」の考え方なのです。そして、この考え方というのは、ほかの原因もあるでしょうが、基本的には、
「自己責任の原則」に戻ってくることは、まず間違いありません。

要するに、「人生における現在の苦しみの原因は基本的に自分にある」ということです。つまり、自分が現在、苦しんでいるのには、苦しむだけの理由がやはりある、ということです。

自分の過去について、両親の段階から辿ってきて、結婚や子供、職業など、現在までのいろいろなことを、ずーっと点検してみて、その原因をよく分析すれば、苦しみの理由がわかります。苦しみの理由がわかったならば、そこでよく自分のうちを見つめてください。たとえば自分の欲によって起こされている苦しみならば、その欲の部分を根元からバシッと切らなければいけません。

それから、時代性と地域性(たとえば二十世紀後半に日本人に生まれたことなど)のように、人間心や人間の力では、いかんともしがたいものに対して、やはり運命を甘受することです。これに対しては、不平不満を言ったところで、しかたがありません。自分自身の欲望などが原因となって起きているものに対しては、その原因を摘んでいくことが大事ですが、自分自身ではどうにもならないものに関しては、あまり悩むのは無駄なことでもあるのです。

たとえば、「自分がほかの人に気に入られるかどうか」ということについては、自分に原因があって、嫌われたり好かれたりするということもあるでしょうが、それを超えて、自分の個性自体が受け入れなれない場合には、人それぞれの考えがあるのでしょうから、そうしたものとして受け取らないといけません。それでよいのだと思います。・・・

ですから、「何もかも自分の思い通りになる」ということが、必ずしもよいことではありません。

「思い通りにならなくて、よかった」ということもあるのです。思いどおりにならなかったことに関しては、「それでよかったのだ」と思っていけ入れる心、そうした気持ちも大事だと思います。

このように、縁起の理法でもって正しい観察をなすことが、正見です。すなわち、きっちりとした真理の法則に基づいて、心の目で見て、正しい観察をするのが正見なのです。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
この経典は、もともと会内経典でしたが、HSU開学を前に、一般書として書店でも頒布されている大変ありがたい経典です。
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〇無常観
仏教学者によっては、「正見は、難しいけれども、結局、無常観なのではないか。『無常の理をでもって見ることができかどうか』ということなのでしないか」という人もいます。これも一つの見方でしょう。

普通に、この世の教育を受け、経験を積んできた人は、残念ながら、無常観でもって世の中を見ることはできません。それは、やはり宗教的な真理を知っていないと、できないことなのです。

「この世は仮の世界で、いずれ過ぎ去っていく世界であり、本当の世界は、あの世の世界である。肉体はいずれ滅びるが、そのなかにあるもの、魂、永遠の生命のほうが生き続けるのだ」という目でもって見る見方があり、それを最も端的に言えば、無常観ということになります。

「諸行無常。この世のものは、すべて流れていき、移り変わっていくものだ」という目で見られるかどうかです。

こういう諸行無常の目で見ると、「執着だ」と言われているものが、全部、網にひっかかってくるのです。・・・

子供に執着しても、子供は、やがて大人になり、自立して、親から離れていきます。

財産は、「いつまでも、そのまま持ち続ける」ということはできません。

健康に執着しても、腰は曲がり、病気になり、やがて必ず死にます。この予言は外れません。悲しいけれども、誰もが亡くなって、火葬場で焼かれるのです。・・・

禅宗系は、八正道さえも使わず、座禅をするだけで、何万ものお寺が、ご飯を食べています。・・・これは、釈尊の教えの、ほんの一部分しか使っていないでしょう。釈尊の四十五年の説法のなかの、ほんの少しを使っただけでも、二千年ぐらい、ご飯を食べられるのです。
・・・

したがって、宗教というのは、すごいものだと思います。・・・宗教というものは宝の山です。同じく宝の山でも、ダイヤモンドや金の山であれは、大勢で持ち去ったらなくなりますが、宗教というのは無限にわいてくる宝なのです。

なぜかというと、時代が変わり、人が変わっても、人間としての本性は同じであり、人間が生きるべき道というのは、そう大きく変わるものではないからです。昔に説かれた教えでも、人間の心に関するものについては通用するのです。

この世のあり方は違っていても、心のあり方は変わりません。それは永遠にずっとつながっていくものです。生活様式が変われば、それに応じた解釈を、そのつど、新しい指導者が教えなければいけませんが、心の教えそのものは永遠に続いていくものなのです。

だから、宗教は無限なのです。この世のものは、巨大な会社であろうが、お金であろうが、宝石であろうが、何に執着しても、全部なくなりますが、この教えの部分はなくなりません。

体に関することではなく心に関すること、心を生きもののように見るならば、心の育て方、飼い方ということ、これについて教えてくれるものは宗教しかありません。したがって、宗教はずっと続いていくのです。

【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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幸福の科学の教えのなかでも、とりわけ大切な教えとして「原因と結果の法則」がありますが、八正道の「正見」は「因・縁・果・報」の流れで物事を観ることでした。「正見」と「原因と結果の法則」は切っても切れない関係です。

正しい信仰がなければ、正しいものの見方ができないということですから、「正見」そのものがとても奥が深いものとなっています。物事をありのままに見ることを仏教の言葉で如実知見(にょじつちけん)といいますが、考え方に先入観がある、もしくは、自我に偏るものの見方であれば、色眼鏡がかかったようになり、正しく「因縁」を見ることができません。
主におかれましては、如実知見に関して、このように教えていただいています。
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「白紙の目で見る」ということは難しいことです。どうしても先入観が入ります。過去に一定の基礎情報が入っているため、先入観があり、その先入観に基づいて、ものを見てしまいます。この先入観を外して、白紙のかたちで見る、仏法真理の立場から見るということは、難しいことなのです。まず、この修行をしてください」
【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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仏の視点で物事を見ることができるようになるためには、日ごろの宗教的修行が必要になります。少しずつですがともに精進を重ねてまいりましょう。

本日の学びで大切したいことは、「仏教的人生観が縁起の理法による正見である」という点です。主の教えではこのようにありました。

『仏教的人生観というのは、「因・縁・果・報」の考え方なのです。そして、この考え方というのは、ほかの原因もあるでしょうが、基本的には、
「自己責任の原則」に戻ってくることは、まず間違いありません。

要するに、「人生における現在の苦しみの原因は基本的に自分にある」ということです。つまり、自分が現在、苦しんでいるのには、苦しむだけの理由がやはりある、ということです。

自分の過去について、両親の段階から辿ってきて、結婚や子供、職業など、現在までのいろいろなことを、ずーつと点検してみて、その原因をよく分析すれば、苦しみの理由がわかります。苦しみの理由がわかったならば、そこでよく自分のうちを見つめてください。たとえば自分の欲によって起こされている苦しみならば、その欲の部分を根元からバシッと切らなければいけません』

そして、自らの今世の人生を見渡したうえで、ある意味での諦めも肝心という点では、このようにありました。

『「何もかも自分の思い通りになる」ということが、必ずしもよいことではありません。

「思い通りにならなくて、よかった」ということもあるのです。思いどおりにならなかったことに関しては、「それでよかったのだ」と思っていけ入れる心、そうした気持ちも大事だと思います。

このように、縁起の理法でもって正しい観察をなすことが、正見です。すなわち、きっちりとした真理の法則に基づいて、心の目で見て、正しい観察をするのが正見なのです』
このように「正見」とは、霊的人生観に必要な執着を去るという意味においても、分をわきまえて、足ることを知って人生を生きることを勧める仏の智慧ではないかと思いました。

幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。それが、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つからなる仏へ道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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