3 傷つくまで人を愛したことがあるか。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
7月7日は主の御生誕日です。7月7日13時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館より中継します。当日の本会場の別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館に全国・海外支部の代表者が参集し、全国・海外の中継会場を結んで、主への御生誕への感謝と「復活の祈り」を捧げる最大の式典とさせていただきます。7/7(日)~7/15(月・祝)まで、「御生誕祭」を開催致します。
7/14(日)は、御生誕祭期間の後半における信仰心の結集の機会として、「『地球を包む愛』セミナー」を開催し、全国・海外の主要な精舎・支部にて、導師団を結成し、一同にて御生誕祭版「復活の祈り」を捧げると共に、「主の願われる夢の実現」に向けて救世運動を前進させ、全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てる誓いを捧げてまいります。
御生誕祭に合わせて発刊予定の『地球を包む愛』ならびに、楽曲CD「天御祖神の夢/天御祖神の降臨―Renewal
ver.」を通して、すべての人の心を救済されようとしている主の大いなる愛を学び取り、エル・カンターレ信仰を深めると共に、天御祖神様の御名を全国・全世界に伝える決意を固めます。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
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さて、ここからは、常に主と共にあるために、教典『大悟の法』から第5章の「常に仏陀と共に歩め」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。主の御生誕祭に向けて、さらに神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■常に仏陀と共に歩め
1真実の自分とは
○霊界では心の特徴で自分を認識する
人間は、死んで霊体になると、最初のうちは肉体と同じような姿をとっていますが、何年かたつうちに、それが自分の本当の姿ではないことが分かってきて、むしろ、心としてのみ存在するようになります。
霊体とか魂とかいうものは形状を意味していますが、心というものは必ずしも形を意味していません。心とは、人間の意識の動き精神作用のことです。
霊界に還って、ある程度以上の時間がたつと、形状で自分を判断しようとするのではなく、「自分というものは心なのだ。心の作用が自分なのだ」と理解するようになります。
たとえば、みなさんは、「自分はハートの温かい人間だ」「自分は非常に理性的な人間だ」「自分は熱しやすく冷めやすい人間だ。すぐカーッと熱くなったり、また冷めたりするような人間だ」「自分は非常に温和な人間だ」など、さまざまな自己認識をし、自己定義をしているでしょうが、そういう定義によく似たかたちです。
みなさんは、「あなたはどのような人間ですか」と訊かれたときに、自分の心の作用について、「私の心には、このような特徴があります」という説明ができるでしょう。そのような特徴でもって説明できるものが、みなさんの個性は判断するための、通し番号というか、背番号、バーコードのようなものなのです。
「こういう心の特徴、心の傾向性を持った存在があります。こういう特徴を持った心です」と言えば、「それは、〇〇に住んでいる××さんですね」と判明するわけです。それがその人のアイデンティティー(自己同一性)になるのです。
形はどのようにでも変化していくものなので、形状だけでは、だれなのか判断できません。それが霊界の実態です。
この世に生きているあいだは、親から頂いた肉体に宿り、この世で摂取した栄養素をもとに生活し、そのようなかたちで自分を認識しています。目の作用、耳の作用、鼻の作用、口の作用、手の作用などを通して感じられる自分、あるいは他の人から見た自分というもので、自己認識をしているわけです。
しかし、本来の自分の姿とは、「私は温和で、とても寛容な人間です」「私は非常に熱心な人間です」「私は知的なものにあこがれる、非常に知性的な人間です」「私はとてものんびり屋です」といった、さまざまな形容詞で語られるものなのです。それが本来の自分であり、霊界に還ると、そのようなあり方に戻っていくので、自己認識を変えなければならないのです。
【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。
『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。
『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
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まず第一は
『正見』なり
縁起の 理法を 信じては
己れの 道を 正すなり
原因 必ず 結果あり
因・縁・生・起が 縁起なり
自己も 世界も 原因の
種が 蒔かれて 【因】
水を やり 【縁】
果実が 実り 【果】
報いあり 【報】
果実の 甘さ 苦さにも
種と 育ちに 理由あり
己れ 自身の 幸・不幸
過去に 必ず 原因あり
振り返りみて 反省の
心 起こすは 正見なり
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正見―縁起の理法に基づく正しい観察【親子における縁起】
ものごとには原因・結果が必ずあり、その原因・結果の法則が、実は「縁起」なのです。・・・
「因・縁・果・報」―「因」(直接原因)があり、それに「縁」(間接原因・補助因)が加わって、「果」(結果)が出、そして「報」(報い)が来ます。・・・
① 親子における縁起の理法
たとえば、賢い男女が結婚するという「因」があれば、賢い子供が生まれます。しかし、賢い子供が生まれても、その子がほんとうに賢くなるためには、「縁」のところが大切です。すなわち、学校教育をきっちりと受けて勉強しないと、その子は本当には賢くなりません。
また、賢い子であっても、家庭が乱れることで、だめになることもあります。・・・
ですから、「因」のところがよくても、「縁」のところが充分でないと、思わぬ人生が展開することがあります。そして「果」が出ます。
たとえば、優秀な両親から優秀な子供が生まれて、良い教育を受ければ、確かに、良い学校を出て、良い会社に就職する、という結果が出かもしれません。しかし、途中で両親の状況が変わることもありますし、あるいは、もともと頭の良い子だったとしても、自分自身が怠け心を起こして勉強しなくなれば、だんだん学校の授業についていけなくなり、途中から方向がそれていきます。その結果、良い会社に就職できなくなったりすることがあります。そのように分かれてきます。
そのあとに、報いが来るのです。原因があって、途中経過があり、そして結果が出て、そのあとの報いが来ます。・・・
ですから、もとはそれほどではなくても、途中から良くなってきて、結果として、それなりに全然別の世界に入っていくこともあるのです。逆に、上がりすぎて慢心してしまい、悪いことをしでかすということだってありますし、出世が害をもたらすこともあります。
このように、「因・縁・果・報」によって、人生のコースがそれぞれ変わってくるのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
この経典は、もともと会内経典でしたが、HSU開学を前に、一般書として書店でも頒布されている大変ありがたい経典です。
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八正道の第一 「正見」
① 正しい信仰
八正道の最初は「正見」です。
これは、「正しく見る」ということです。
正見をつかむのは意外に難しいのですが、その正反対のものを考えると理解は簡単になります。正見の反対は「邪見」です。邪見を考えると、分かってきます。正見はなかなかわからないのですが、邪見は分かりやすいのです。
邪見の人はたくさんいるので、みなさんは、あったことがあるはずです。仏法真理の伝道をしたら、すぐに会います。仏法真理が、自分の思想、信条、考え方と合わなくて、真っ向から弾いてしまうような人、何を言っても全然通じない人は、たくさんいるでしょう。それが邪見の人たちです。
その人たちが、精神的に異常であったり、この世的に見て極端に悪人であったりするわけではありません。しかし、仏法真理に関しては、必ず弾いてしまって、まったく話が通じないのです。
友達であっても、そういうことはあります。学校の友達に仏法真理の話をしたら、完全に弾かれてしまうということがあります。
また、夫婦や親子であっても、そうなることはあります。
兄弟でも、信仰心のある人とない人とが、やはり出てきます。兄弟であっても魂は別々であり過去にどういう魂であったかは、それぞれ違うからです。
真理の世界になると、兄弟でも、学校の友達でも、まったく合わなくなることがあるのです。その人の考え方の基礎に入っているものが違うし、真理を理解するためには、やはり、宗教的な素質というものが影響するのです。
したがって、正見とは何かを知りたかったら、邪見を考えればよくわかります。邪見を否定したときに残るものが正見なのです。「何が真理を弾いているか」ということです。
同じ信仰を持っている者同士なら、すっと話が通じるのに、邪見を持っている人とは、まったく話の通じないことがあります。
邪見のなかには、唯物思想もあれば、唯物思想まで行かない、この世的な考え方もあります。例えば、新聞や雑誌に出てくる考え、学校の先生が言う考え、隣近所の人が言う考え、信仰心を持っていない親の言う価値観など、いろいろなものがあるでしょう。そういうものを点検すればよいのです。
真理の道に入って、まだ日の浅い人は、正見の反省はなかなかできないので、まずは、「正しい信仰を持っているかどうか」ということを反省していただきたいと思います。「自分の信仰は正しいか。自分は正しい信仰心を持っているか」ということです。
邪教に長くいた人も、邪見がなかなか抜けません。
邪教を二十年も三十年も信仰していた人が、親の代からやっていた人などは、「幸福の価格に来て三年ぐらいになるから、もう大丈夫だろう」というように本人は思っていても、やはり、考え方にずれているところがあります。そのため、前の宗教にいたときに起きたことと似た局面が現れると、「前の宗教では、こうした」というような動きや考え方をすることがあるのです。
それを取り去ろうとしても、なかなか取れません。なぜなら、それは、その人自身の過去の集積であり、その人が大事にして集めたものだからです。自分が学んできたものを捨てるのは難しいのです。「過去に自分はこれを学んできた」というものを、「取り去りなさい。捨てなさい」と言われても、なかなか捨てられないのです。
「宗教的な知識がまったく入っていない人よりは、仏法真理が入りやすい」という面がありますが、「似たものであっても、別のものが入っていたら、違うものを入れるのは難しい」という面もあるわけです。
釈迦教団も、他の教団の信者だった人は、ストレートには教団に入れず、しばらく試しの期間を置いています。人にもよりますが、他の宗教を長くやっていた人は、それが抜けるまでに時間がかかるので、三ヵ月ぐらいの期間を置いています。人にもよりますが、他の宗教を長くやっていた人は、それが抜けるまでに時間がかかるので、三ヵ月ぐらいの期間を置いて、信仰が確かなものかどうかを見ていたのです。信仰が確かでない人を教団に入れると、かく乱要因になり、混乱が起きることがあるからです。・・・
宗教は、みな、どこか似たところがあるので、「前と同じかな」と思うこともあるでしょうが、やはり違うところが出てきます。そのため、どこかで、正しい宗教選択をしなければいけない時期が来るのです。
それをしないと、以後、勉強が進まなくなります。「前の宗教では、ああだった、こうだった」ということが、いつも出てきて、そのたびに悩んでいるようでは、やはり駄目なのです。
いわゆる宗教天狗になっている人は、「自分は、これだけやってきた」ということを自慢したがります。・・・したがって、捨てなければいけないことがあります。
こういう作業が正見の作業なのです
【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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繰り返しの確認となりますが、正見の前提は「正しい信仰―正信」でした。そして八正道は「三宝帰依」による仏への帰依がないと正見が取れないことは、何度となく強調しておきたい重要なことです。
本日の学びで注目したい点は、
『正見とは何かを知りたかったら、邪見を考えればよくわかります。邪見を否定したときに残るものが正見なのです。「何が真理を弾いているか」ということです』
という教えに加えて、
『真理の道に入って、まだ日の浅い人は、正見の反省はなかなかできないので、まずは、「正しい信仰を持っているかどうか」ということを反省していただきたいと思います。「自分の信仰は正しいか。自分は正しい信仰心を持っているか」ということです』
この教えでした。正見を得るために、逆に自分の邪見を知ることで正見を理解するという手法です。そして正見を得るためには、正しい信仰が大前提であることも、繰り返しではありますが、八正道を実践する上で抑えなければならない点です。
正しい信仰がなければ、正しいものの見方ができないということですから、「正見」そのものがとても奥が深いものとなっています。物事をありのままに見ることを仏教の言葉で如実知見(にょじつちけん)といいますが、考え方に先入観がある、もしくは、自我に偏る者のみ方であれば、色眼鏡がかかったようになり、正しく「因縁」を見ることができません。
「因・縁・生・起」は「因・縁・果・報」であり、この世とあの世で起こる出来事のすべては、原因と結果の法則のもとで現象化しています。
だから、「法を観る者は仏陀を観る」「縁起を観る者は仏陀を観る」とも言われています。縁起を観ることが正見であり、正見は仏を心から信じる最初の第一歩です。
仏の視点で物事を見ることができるようになるためには、日ごろの宗教的修行が必要になります。少しずつですがともに精進を重ねてまいりましょう。
幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。それが、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つからなる仏へ道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。 その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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