(4/17-1)107『菩提心の言葉「修行の誓い」』を読む ⑧法力によって、自他共に救う―日本の源流は「ムー帝国」にある

『菩提心の言葉「修行の誓い」』を読む

82 今、勉強を続けていることが、十年後のあなたの仕事をつくる。
83 仕事に成功すればするほど、大きな敵が出てくる。自分を磨くヤスリと思え。
【箴言集『仕事への言葉』より】

おはようございます。
本日4月17日七の日です。また、本日、中部正心館の落慶記念日を迎えます。皆様誠におめでとうございます。日頃大変お世話になっています中部正心館をこれからもサンガ一同支えさせていただきます。

この聖なる日に、支部に相集い、主への感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきます。
『精舎霊域護持植福』など各種植福を本日承っています。
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「七」は勝利の日 「七」は目覚めの日 「七はあなたの生誕の日」
私たちは 主エル・カンターレ御降臨という
奇跡の時代に 仏弟子として 主と共に歩ませて
いただけますことを 心より感謝いたします

そして 主への報恩として 
日本に 全世界に エル・カンターレ信仰を弘め
地球ユートピアを実現してまいります

私たちは これからも 仏弟子の使命である 伝道に邁進し
必ずや 「七の月」の「七の日」を
主の勝利の記念日とすることを お誓いいたします
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

4月21日は主の伊勢支部御巡錫記念日です。2013年4月21日大川隆法総裁先生が伊勢支部に御巡錫されて御法話『信仰心と国を愛する心について』を賜りました。この御法話は経典『日本建国の原点―この国に誇りと自信を』の第一章に所収されています。経典をお持ちでない方は支部や精舎、書店にてぜひとも拝受ください。【1800円(税抜)】

この聖なる日に向けて、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

本日も、御法話『信仰心と国を愛する心について』でいただきました質疑応答を振り返ります。そののち、『仏説・正心法語』をともに読んでまいります。
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〇神道に従事する人々へのメッセージ
【質問】
伊勢では、神道に従事する神職の方々や神道を旨とする人々も多くいますが、そうした方々に、エル・カンターレ信仰へとつながるよきメッセージを頂けたらと思います。

〇日本の源流は「ムー帝国」にある
(前回の続き)
さて、日本神道の特色のなかで、彼らに勇気を与えるようなことがあるとすれば、その源流のところでしょう。

通常、日本人は、日本を中心にした世界地図を見ているので、ここが世界の中心のように考えているかもしれません。しかし、ロシアや中国の地図を見たら、日本というのは”隅っこ”のほうで、何か邪魔をするように、へばり付いている感じなのだと思います。

つまり、カリフォルニア半島の切れっ端のような小さな国が、ロシアや中国が太平洋へ出入りするのを邪魔しているように見えるわけです。「日本は、実に小うるさく、強く、悩ましい国だ。これさえなければ、自由に、いろいろなところへ行けるのに」という感じに見えていることでしょう。

ただ、日本に神々が集われている理由としては、「この国の源流に、直前のムー帝国の文化があるからだ」と思います。

ムー大陸が海中に没したあと、その文化を継承させるべく、アジアの地のいろいろなところが開拓されているのですが、ムーの流れが今一番結晶して出ているのは、この日本という国でしょう。これが、日本の文明の高さの理由です。

それは中国

と比べてみても分かります。あの国の人口が「十三億人」というのは嘘で、おそらく十四億人に近いと思われますが、中国は、人口一億二千万人あまりの日本にGDP(国内総生産)であっと追いついて、「とうとう追い越した」と言っているわけです。(説法当時※2013年)。

ところが、中国人が日本に来たら、日本人はそんなに働いているようには見えません。それなのに、なぜか、中国の十分の一の人数で豊かに暮らしています。これは信じられないことだろうと思うのです。

さらに、彼らの歴史観から見れば、「日本は悪いことばかりした悪党どもの塊のような国」であるにもかかわらず、それが繫栄しています。原爆を落とされても、まだ繫栄しているという、このしぶとさは、何とも言えないでしょう。

その上、「日本は悪魔の国だ」と思って自信満々で原爆を落としたアメリカも、日本と友人になってしまって、その後は互恵関係で発展しています。

要するに、日本は、「柔(やわら)」のように攻撃も防御もしていく、不思議な不思議な国だと思うのです。

【大川隆法『日本建国の原点―この国に誇りと自信を』第四章「質疑応答」より抜粋】
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このメールマガジンでは、日々の活動で「仏説・正心法語」からどのように活動のエネルギーを引き出していくかという視点で、お届けしたいと考えています。この経文に関する主の御解説は経典『信仰論』に説かれています。また、信仰についてさらに重要な経典が『本物の信仰』です。これらは「法力」という名の悟りと救済力と得るために必要な経典です。お持ちでない方は、絶対にいただいてください。お勧めしています。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第二の経文である『菩提心の言葉「修行の誓い」』についてです。

『正心法語』を読んだあとに、私たちが読む経文がこの「菩提心の言葉『修行の誓い』」です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、三宝帰依の精神を日々新たにして、信仰の原点に立ち返ることができます。

私は、個人的に「菩提心の言葉『修行の誓い』」は「第二の降魔経でもある」と認識して毎日何回も読んでいます。悪魔や悪霊、不成仏霊にとって一番苦手なのが三宝帰依や仏への信仰心、そして仏への精進の誓いだからです。また、いろいろなお祈りを毎日捧げている中で、仏から霊指導を頂くうえで最も大切なことは、「信仰心」である点においても、「菩提心の言葉『修行の誓い』」は個人的にもよく読誦する経文です。

それでは、『菩提心の言葉「修行の誓い」』の全文をご紹介したのち、解説を加えます。
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「三宝というのは、三つの宝と書いてあります。三つの宝とは何であるか。「仏宝」「法宝」「僧宝」―この三つが三宝である、と言われています。なぜ宝であるかというと、これは世を照らす光だからです。世の人々を救う光、そういう尊いものであるという意味において、これが三宝と言われているのです。

参考経典【大川隆法 『三法帰依とは何か』】
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それでは、『菩提心の言葉「修行の誓い」』の全文をご紹介します。
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菩提心の言葉『修行の誓い』

仏弟子 ここに 集えるは
三宝帰依を 誓うため
三宝 すなわち 仏・法・僧
仏とは 仏 仏陀なり
法とは 仏の 教えなり
僧とは 仏の 御弟子なり
仏陀ありてこそ 法はあり
法ありてこそ 僧団(さんが)あり
僧団(さんが)は 理想の 担い手なり
仏国土への 導きなり
仏弟子 ここに 誓えるは
三宝を 篤く 敬いて
帰依の心を 示すため
仏・法・僧は 光なり
心を 照らす 鏡なり
帰依は 仏を 頼りとし
法の 力を 信ずるなり
僧団(さんが)の 規律を 守るなり
われら 仏陀の 教団は
三宝帰依を 最初とし
三宝帰依を 守り抜き
永遠なる 誓いと するものなり
ああ
生命は 永遠なり
仏陀と ともに 永遠なり
仏陀と ともに 下生して
久遠の 法を 伝えるなり
地上を 去りても 永遠に
仏陀の 法を 学ぶなり
師弟の 契りは 永遠に
来来世まで 続くなり
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菩提心の言葉『修行の誓い』は英語経文ではこのように訳されています。
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■Words of Aspiration for Enlightenment■
―The Pledge of Discipline―

We, Buddha’s disciples, have gathered here
To pledge our devotion
To the Three Treasures
The Three Treasures are Buddha
Dharma and Sangha
Buddha is the Enlightened One
Dharma is Buddha’s teachings
Sangha is a group of Buddha’s disciples
Only when there is Buddha
Can there be Dharma
Only when there is Dharma
Can there be Sangha
Sangha is the vehicle of our ideals
The guide to the Land of Buddha
We, Buddha’ disciples. Have so pledged
To sincerely respect the Three Treasures
And to show our true devotion
Buddha, Dharma and Sangha are the light
The mirror that reflects in our minds
Devotion is trusting in Buddha
Believing in the power of Dharma
And following the ways of Sangha
We, In Buddha’s order
Begin with devotion to the Three Treasures
Abide by this devotion the end
And embrace it as an eternal pledge
O, life is eternal
With Buddha, our life is eternal
With Buddha we descend to earth
And convey to others the eternal law
We will continue to learn Buddha’s law
For ever
Even when we have left this earth
The bond between master and disciple
Lives on for ever
Through all our future lives

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〇同時代・同地域には仏陀は一人しか存在しない
そして、その仏陀というものは、「三千世界に一人」です。三千世界、これは昔の言葉ですけれども、同じ時代、同じ地域には、仏陀は一人しか存在しない―これが法則になっているのです。二人は出ないことになっています。・・・(中略)

(2600年前の釈尊の時代)飢饉や疫病が流行ったときにも、呪術を使って、それを鎮めるようなこともしています。ですから、霊能力そのものは、使ったことは何度もあるのですが、一定の段階から、それはもう使わなくなって、弟子たちにも、「霊能力ではなくて、法に基づいて人を救済せよ」「私は法を説く。おまえたちは、その法を学び、私の法を伝えなさい。法による救済に切り替えていきなさい」ということを言ったのです。

これはなぜかというと、多くの人の本当の幸福のためには、法による救済のほうが、その同時代にも、その後の時代にも、やはりふさわしいからです。

たとえば、除霊その他の霊能力による救済というのは、どうしても限られた範囲しかできないのです。身近な人の範囲しかできないし、除霊しても、その人の心が悪ければ、翌日になると、また悪霊に憑かれてしまいます。あるいは当日のうちにも、また悪霊が戻ってきます。何度とっても同じです。霊力による幸福というのは限界があります。

しかし、本人自身が法による悟りを得て、心自体を変えた場合には、それを維持することが可能になります。この功徳は非常に尊いものなのです。これが仏陀の原点であったことを、あなたがたにも知っていただきたいと思います。

【大川隆法 『三法帰依とは何か』会内経典より 引用】
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主におかれましては、2600年の時を越えて、現代においても、霊能力で救済をするのではなく、主の教えを学ぶことで得られる法力によって、自分の人生の問題集である、人生の課題【カルマの解消】に、仏が望むような解決方法を、守護・指導霊や、法友(サンガ)の力を借りながら、の自らの力で見つけること求められています。そして、その経験から生まれる悟りの力が、さらなる法力となって、自分と同じような人生の問題に苦しむ人に手を差し伸べて、他の方を救い助ける救済力とすることができます。主が私たち弟子に臨んでいるのは常に、「悟りの力」による、すべての人の魂の救済です。

そして、この救済力としての法力、悟りの力の源泉が何であるのか、それが「三宝帰依」であるのです。三宝帰依は、私たち一人ひとりが光と一体であること、つまり、「私たちが、主なる仏陀と一体となること」「仏陀の教える法と一体となること」「サンガ(幸福の科学)と一体となること」を誓う信仰心を形有らしめたものであり、私たち人間にとって最も尊いものです。それを『菩提心の言葉「修行の誓い」』を毎日読誦することで、主に毎日、誓願を立てさせていただいています。

このように確認すると、なんだかありがたくて、毎日、何度でも読みたくなりますね。とても尊い経文であると改めて思いました。

主なるメシアと、メシアの教えと、メシアの愛を届けるサンガは一体です。

奇跡の時代を生きる私たちです。仏弟子の使命は伝道ですが、伝道の生命となるのは主の御説法です。主の説法壇を御護りするのが私たち仏弟子の使命です。

『仏説・正心法語』は光であり、仏の生命です。今日も『仏説・正心法語』の全編読誦を通して仏の生命を日々、心の糧として、主からいただく奇跡の一日一日を大切に生きてまいりましょう。そして現代に生まれた、史上最大のメシアを信じ、メシアの教えを信じ、サンガの力を合わせて、日本中に、そして世界中に救世主からのメッセージを、『太陽の法』や『地獄の法』の経典と共に届けてまいりましょう。

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今、幸福の科学は「始原の仏陀」の教えに迫ろうとしているわけです。

今まで、三十数年間(説法当時)、私は教えを説いてきました。「霊界の存在を実証するための方便としての意味も持っている、さまざまな霊言集も出してきましたし、教えとして、いろいろな生き方も説いてきています。

しかし、これからは、いよいよ、「エル・カンターレの法」の完成のほうに持っていかなくてはなりません。「宇宙の法」を説きつつ、「エル・カンターレの法」の完成を、だんだんに目指していかなければならない時点に、今、立っているのです。

あなたがたに説く「本物の信仰」とは何かというと、それは、すべての宇宙の秘密に迫りつつ、みなさんが現在ある理由、そして、「今どこにいるのか」ということを知らしめるところまで行く教えです。

その教えを説けるのは一人しかいません。それを、今、「エル・カンターレ」という名で呼んでいます。「エル・カンターレの法」は、ただ一人しか説けないのです。

「エル・カンターレ」と「エル・カンターレの法」と、「エル・カンターレの法を、まっとうに護持していこうとしている集団、僧団」に対する帰依の心をお持ちください。

その法は、帰依しないかぎり学ぶことができないものなのです。この世の学校では、まったく教えてくれません。この世の学者は教えてくれないのです。また、他の宗教でも学ぶことはできません。

ましてや、テクノロジーの進化によってそれが解明されることは、絶対にありえないのです。テクノロジーには限界があり、この世の利便性を増すことはできても、宇宙の理法にまで絶対に届きません。

これは「信仰のみ」によって知ることができるものなのです。学問は最後には信仰によって乗り越えられなくてはいけないものであるわけです。

【大川隆法『本物の信仰』第二章「本物の信仰」より】

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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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第5章 無我観の効用
4 天国・地獄を分ける無我

この地上世界を去った世界を実際に見て、この無我の教えがどれほど大切なものであるかということを、私は痛感しております。

自分自身が霊的な能力を持つ前であったならば、無我の教えというものを本で思想的に学んだとしても、「まあ、我を抑えればよいのだな。自己主張の強い人というのは、やはり嫌なものだな」というように受け取ったかもしれませんが、私は、霊的能力を持って、この世を去った世界を現実に知った人間として、これほど大切な教えはない」ということを、ほんとうに感じました。

地上を去った世界においては、大きく分けて二つの世界があります。天国と地獄です。

私は地獄という世界にいる人に数多く会って、話を聞いてきました。すべての人が苦しみのなかにあります。それが自覚的であるかどうかは別として、少なくとも普通の人間から見たら、苦しみのなかにあります。闘争と破壊、執着、混乱、惑乱、嫉妬、羨望、戦い―それも悪い戦いであって、自己欲のための戦い、醜い争いです―そうしたものに満ち満ちた世界です。

そして、どのような霊もみな、「自分がかわいい」という気持でやっているのです。自分がかわいいのに、自分が苦しんでいる。このギャップが埋められないので、ますます不満感が増大する。人のせいにし、環境のせいにする。自分がかわいいがゆえに、自分を苦しめている。こんな、まったく正反対の現象が現実に起きているのです。

この地獄霊たちのかわいそうなところは、みんな自分中心だということです。「俺が、俺が」「私が、私が」と言っています。その自分を捨てさえすれば幸福になれるのに、捨てることができないのです。

そして、その「自分」というのは、ほんとうの意味での霊的な自己、仏の光を受けた自分、仏の光から岐(わか)れた自分ではなくて、三次元的な意識のなかで熏習され、飼いならされた自分なのです。どこそこに生まれて、どんな家柄に生まれて、どんな教育を受けて、どんな就職をして、どんな地位について、どんな収入があって、どんな奥さんがあって・・・という、要するに、今世、赤ちゃんとして生まれて育った過程で得られた環境や、思想や教育や信条によってできてきた自分なのです。この自分から離れられないのです。

「私は大臣である。その私がこんな扱いを受けるのは納得がいかない」「私は大企業の社長である。大企業の社長がここにいるのに、車が迎えに来ない」―こんなことを地獄で言っている人がいます。ほんとうに恐るべきことです。「私は総理大臣である。それなのに、なんだ、この扱いは、おかしいではないか。誰か来ないか。誰かいないか」と怒鳴っている方もいます。すべて自分中心で、何が本当に間違っているのかが、さっぱり分からないのです。

一方、天国に還ってみますと、人びとが調和しています。一人ひとりを見ると、他人に対して非常に親切に生きています。他の人に対して、お互いに親切に生きています。愛を与え合って生きているのです。そして、そのなかの人は幸福です。自分へ取り込もう、取り込もうという「奪う愛」を抑えて、人のために親切に生きようという人が集まると、お互いにニコニコと幸福に生きています。

さらに高い菩薩の世界に行ってみると、ほんとうに人のために献身的に生きています。まさしく与えきりであって、与えるいっぽうの方が、そこでは現実に活動をしているのです。

ところが普通の人間は、「与えたら損をする。もらったら得をする」と、すぐ思ってしまうのです。その考え方が根本的に間違っているのです。

物質の世界では、確かに、何かを与えたらその分だけ減ります。もらった人は、それだけ多くなります。お金でもそうです。ある人から別の人に十万円渡されたら、別の人は十万円儲かるけれども、渡した人はなくなる。現実に、与えた人が損をして、もらった人は得をするというのが三次元の世界です。

しかし、霊界世界は、このまったく逆のことが起きるのです。与えたら与えただけ幸福になる、人のために尽くせば尽くすほど幸福になるのです。

それはなぜかというと、仏の子としての自分、仏の分身としての自分が拡大するからです。自分自身がそれだけ仏に近づいて、仏の子として光が出てくるからなのです。この光が出てくることが、幸福感の増大と自己拡大を、実は意味しているのです。自分自身が仏に近づいていく成長感があるのです。これが幸福なのです。

要するに、あの世の幸福とは何かというと、霊的な幸福です。霊的な幸福とは何かというと、仏に近づいていくことなのです。仏に近づいていくときの成長感が、幸福のもとなのです。

子供でも、毎年毎年大きくなっていくことが幸福でしょう。背が伸びる。体重も増える。勉強もできるようになる。いろいろなことを知る。友達ができる。そういう成長の幸福
というのがありますけれども、霊界においても成長の幸福があります。

それは、身体がおおきくなる幸福ではないのです。仏に近づいていく、光の源に近づいていく幸福なのです。それは、重くなっていくのではなくて、身軽になっていくことであって、身軽な、爽やかな五月の風のような幸福感なのです。そのように身軽になるためには、「自分が、自分が」「自分のもの」という気持を捨てなければ、どうしても駄目なのです。

地上で生きているうちには、愛というのは、非常に大きな魂の修行の場になります。恋人同士の愛、夫婦の愛、親子の愛、隣人の愛など、いろいろなものがあります。しかし、この愛にも両面があります。愛も、間違えば人を縛ってしまうことになる。また、人に優しくすることもできれば、人を苦しめることもある。この両面の愛があって、天国と地獄をつくっていきます。

子供に対する親の愛は、無所得の愛、無償の愛ですけれども、この子供に対する愛でも、子供を縛り、子供を独占物として、「自分自身のために働かせよう。子供の幸福ではなくて、自分の幸福のためだけに子供を使おう」という、親の我欲が強くなっていきますと、この愛がまた、間違った地獄的な愛に変わっていくのです。

ほんとうに子供のために与えきりであれば、子供も喜び、その喜んだ子供が、また親のために何かをお返ししたいと思うのです。ところが、親が自分のためにしてほしくて、一生懸命、子供の面倒をみますと、それが必ずまた「奪う愛」になって、子供を離反させていくようになるのです。

そういうもので、まことに不思議ですが、愛については、この世においても、あの世で起きるようなことが、まず先に現われてきます。

この世的には「与えた人は損をし、もらった人は得をする」と言いますけれども、さまざまな企業活動のなかにおいても、究極においては、「顧客のために、買う人のために、いいものをお届けしましょう」という気持ちを持ってやっていれば、社業は繁栄します。しかし、「人を騙してでも、出し抜いてでも、誤魔化してもでも、なんとかして儲けよう」などという感じでやっている人は、一時期は成功するかもしれませんが、人は必ず、その心を離反させていきます。客が離れていきます。そして食べていけなくなると、またどこかを奪いにかかります。そういう、奪うことを専門にする人がいます。

宗教でもそうです。多くの人の幸福のために、一生懸命、日夜活動をしているところもあれば、私利私欲、独占欲や支配欲のために、多くのものを取り込んでいき、自分の自由にしようとする、乗っ取り屋のような宗教だってあります。

どちらかというと、この世では、そちらの宗教が今繁盛してきているかもしれませんが、そのなかにおいて、与える心というのは、どれほど大事か―。それは、「その宗教を推し進めている人のなかに、ほんとうに人々のための幸福を願う心がどれだけあるか。自分たちの権勢欲や支配欲ではなくて、そういう気持ちがどれだけあるか」という、まさしくその方向性そのものなのです。これが、天国・地獄を分ける大きな柱なのです。

こうして考えてみると、なぜ口を酸っぱくして仏教が無我を説いたかが、わかります。無我に基づいて、「自分というものを空しくしなさい」「自分のものという考えにこだわらないようにしなさい」ということを、なぜ繰り返し繰り返し言ったかというと、結局、その人自身を救うことだからであり、また、その人を中心として地獄ができていくことを、何とかして防ごうとしているからでもあるのです。

【大川隆法『心の挑戦』第5章「無我観の効用」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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