98 おそらく今は、河童が生息しているとすれば、高知県の四万十川ぐらいだろう。近くの徳島県の穴吹川に、妖怪「小豆洗い」の発祥地があるが、おそらく、平家の落人(おちうど)たちが隠れていたので、人が近づかぬよう、妖怪話を流していたのだろう。私の生まれた川島町では、聖地エル・カンターレ生誕館のすぐ下の山道を、夜、平家の落人の幽霊が、首無し馬に乗って歩くので、「夜行(やぎょう)さん」と呼ばれていた。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
3 霊を否定する者こそ、金の亡者だ。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇大乗仏教の中心は六波羅蜜多―④精進波羅蜜多
釈迦の教えの四番目の柱は、利自即利他の教えです。これは、いわゆる六つの完成といわれる六波羅蜜多(サス・パーラミター)の思想です。波羅蜜(パーラミター)とは、内在する叡智という意味であり、多とは、その叡智があふれ出てくるさまをいいます。
四 精進波羅蜜多(ヴィールヤ・パーラミター)
いわゆる努力の完成です。この努力、精進とは、もちろん、修行者として真理を体得するための磨きであり、日々の積み重ねにあります。
【大川隆法『黄金の法』より抜粋】
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○精進波羅蜜多
「精進波羅蜜多」は、別名「努力の完成」とも言われます。
これは「努力する」という徳を説いているのです。
努力に関しては、八正道にも「正精進」という項目があり、意味するところは同じですが、精進波羅蜜多の場合は、具体的な行動目標を明確に打ち出して実践することであり、より実践に重きがかかっていると言えます。すなわち、不言実行ではなく、自分の努力目標を設定し、それに向けて実践行を行っていくのです。
たとえば、布施や禅定、説法について一定の目標を持ち、それを実行に移して、その成果を他の人にも確認してもらうということを、日々、努力していくことです。また、学びについても、どれだけの学びをしたかという蓄積を確認していくことです。こうした具体的努力のことを「精進波羅蜜多」といい、釈迦の弟子たちはこれを実践していたのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」から抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
そして、主から頂いた奇跡の一年も残りわずかとなっています。
主から本年一年に賜りましたご指導に対して、心からの感謝を捧げます。「エル・カンターレへの感謝・報恩研修」は年末まで開催しています。個別対応もいたしますので、ぜひ受講ください。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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今日の一日を振り返り、反省を実践するために『真説・八正道』から禅定について学びます。
お持ちでない方は、ぜひご拝受ください。【税抜き1700円】
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第9章 正定
4 神仏と一体となる
○正定とは、限りなく神仏と一体になろうとする行為
次に、「正定」の具体的方法に入っていきたいと思います。「幸福の科学の信者として、具体的にどうすればよいのか。どうすれば、正定に入れるのか」ということです。
まず、心構えとして言っておきたいことは、「これは、限りなく神仏と一体になろうとする行為なのだ」ということです。よいですか。
「正定とは、自分独りが孤立される世界を目指すのではない。正定とは、限りなく神仏と一体の境地を目指すことである。限りなく神仏と一体の境地を目指すということは、実は如来の境地を目指しているのだ」ということです。これが、正定の目標としてあるものなのです。
○坐り方や手の合わせ方は、精神統一がしやすいスタイルで
では、「神仏と一体になる」ということを念頭に置いて、具体的にはどうすればよいのでしょうか。
私は、坐り方とか、手の合わせ方とかについてあまり難しいことは言いたくありません。というのは、かたちをあまりに重視すると、そちらのほうにとらわれてしまい、中身のほうがおろそかになってくるからです。問題は、やはり心の問題であり、かたちはその支えににしかすぎないのです。補助にしかすぎないので、その人にとって取りにくいような姿勢やスタイルを要求して、そのことばかりが気になってしまっては、元も子もないわけです。
ですから、人によっては多少の違いはあるでしょうが、背筋を伸ばすことぐらいだけは言っておきたいと思います。
あとは、呼吸がスーッと落ちてくるような姿勢です。息を吸い込めば、呼吸がスーッと極楽にお腹に下りてきて、また自然に出ていくような姿勢です。
脚のほうは、正座でもよいのですが、長く持たないのであれば、胡坐(あぐら)をかいてもよいし、女性は、横に脚を出しても結構です。
だだ、「猫背のような格好をつくると、精神統一は非常にしにくい」ということだけは言っておきたいと思います。
手のかたちについては、幾通りも流派があり、それぞれの意味があります。ただ、いちばんポピュラーなのは、やはり合掌のスタイルです。合掌のスタイルというのは、アンテナのかたちでもありますが、霊が非常に感応してきやすいスタイルなのです。というのは、手からも、かなり霊的な光が出ているのです。手は、霊的な光が非常に出てくるところで、「手当て」と言って、手を当てて病気を治したりしますけれども、特に右手のほうが強く、霊流が出るところがあるのです。手は、霊的な電気がいつも出ているところなのです。
したがって、合掌をすることによって、ここに一つの「磁場」ができます。合掌をして指先を上に向けることによって、放送電波を出していることと同じになるのです。これによって一つの誘い水が出てくるので、この誘い水に感応してくるわけです。これが最もポピュラーなスタイルです。
手の位置はどうするか。これも流派によって違います。口のところまで上げるところもありますが、その難点は、長持ちしないことです。あまり長続きしないという難点があるので、私はやはり、胸の前で十分だろうと思います。
これは、交霊、霊との交流を中心とするやり方ですが、単なる反省だけであるならば、手を挙げているということだけでも少し難点があると思います。やはり、出が上がっているということに意識が行ってしまうので、十分に考えが進まないのです。
そういう場合には、これ以外の方法として、合掌を解いていただいても結構です。合掌を解き、「膝の上に軽く置く」というかたちでもよいでしょう。ヨガをやっている人のなかには、手のひらを上にする人もいますが、普通の人は上にするとボケーッとして頭が抜けてしまうので、下にしても結構です。あまり無理をしない形でよいと思います。
結局は、「自分が精神統一をしやすいスタイルをつくる」ということです。本当はかたちはないのです。寝ていても、本当は大丈夫です。逆立ちしていても、本当は大丈夫です。お風呂のなかでも、本当は大丈夫なのです。ただ、やはり外見を整えないと、なかなかそういう気持ちになれないので、そうした仕切りをつくるわけです。「日常性から遊離した」という仕切りをつくるために、そういう方法をとるわけです。
【大川隆法『真説・八正道』第九章「正定」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第七章 『漏尽通力』講義
1 漏尽通力とは
本書『漏尽通力』は、一つのテーマに絞り込んで話をしたものです。そのテーマとは、釈迦の神通力のなかでも最大の力と言われたものの一つである漏尽通力です。これを紹介したわけです。
この漏尽通力というテーマに関しては、いまだ、これほど徹底した文献が出たことはありません。また、これを考えるに際しての補強資料となるべきものも、地上には見当たりません。すべて、私自身の経験と霊的体験に基づいてつくられた書物であると言ってよいでしょう。
本書の副題には「現代的霊能力の極致」という題を付けてみましたが、霊能力がさまざまなかたちで百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の様相を呈している現在、まさしく、今、求められているものこそ、釈迦の時代における漏尽通力の現代的展開であると、私は思うのです。
まず、何ゆえに、今、この漏尽通力ということが必要とされるのでしょうか。そのことを述べておきます。
前章までに語られているように、霊能力のなかには、「霊視」や「霊言」、「霊聴」、あるいは「他心通力」、「予知能力」、「幽体離脱能力」など、さまざまなものがあるわけですが、漏尽通力とは、実は、そうした霊能力を足場にして、さらにその上に屋根をつくるための力でもあるのです。すなわち、さまざまな霊能力は、それ自体は一つの”武器”として有用ではあるのですが、残念ながら、その剣の使い方を誤った際には両刃の剣となり、使う人自身を傷つけるだけでなく、周りにいる人をも傷つけることになります。
そのため、「これらの霊的能力をひとまとめにして統御する能力」というものが必要になってくるわけです。
したがって、漏尽通力という霊的能力は、その基礎に二つの内容を含んでいると言えます。
第一の能力は、さまざまなる霊能力をすべて十分に使いこなせるという「操縦能力」「切り替え能力」です。さまざまな霊能力を使い分けられ、またそれをどの程度の強さで、どのように使用するか、これらをまとめうる力です。
漏尽通力の第二の面とは、実は、地上に降りた人間にとって、本来の世界にある思想及び行動能力を三次元的に展開していくための最大の方法論であるということです。
今、幸福の科学では、私の説く仏法真理を中心に、さまざまな霊言・霊示集等を通して地上に仏国土ユートピアをつくることを目指していますが、地上に仏国土ユートピアをつくるためには、「霊的世界の法則性」と「地上界の法則性」の違いを違いとして認めた上で、これらに架橋(かきょう)するだけの理論が必要になります。この架橋理論が、実は漏尽通力に当たるわけです。
ここでは一般的には見慣れない「漏尽」という非常に古い言葉を使っていますが、これを別な言葉で言うとするならば「架橋能力」とも言うべきものなのです。すなわち、現代的には、実在界とこの現象界との間に橋を渡す「架橋能力」であると言い換えてもよいでしょう。
2 漏尽通力の現実への適用
「実在界と地上界との間に橋を架ける能力としての漏尽通力」という話をしました。
では、この漏尽通力の現実への適用面ではいかなる問題があるのか、また、いかなる課題があるのかということについて語っておきたいと思います。これを現実に適用する場合に起きる問題としては、次の三つが考えられます。
①霊的世界の感覚と肉体感覚との調和
第一は、「霊的世界の感覚と現実的な五感とをどう調和させるか」という問題です。
すなわち、例えば、霊視能力というものがあると、さまざまな霊の姿、霊姿(れいし)が見えます。また、霊姿のみならず、オーラが視えたり、いろいろな霊的雰囲気を感じ取る能力が得られます。こうした五感ならざる感覚が発達したときに、現実の肉体的感覚においてもかなりの不快感が出てくるのです。
さあ、これをいったいどのように断ち切るべきでしょうか。そこが大事になるわけですが、肝心な点としては、まず、「霊的知識をしっかりと持っている」ということが挙げられます。
さまざまな霊現象を見て心が動揺する理由は、それを異様なものと感じ取り、自分の経験の範疇(はんちゅう)にないことだと驚くところによるのです。
それゆえに、「霊的現象の説明が自分の心に納得のいく方法で理解できる」ということが、実は最初の段階にあるわけです。さまざまな霊の姿が見えたり、声が聞こえたりといったことがあったとしても、その現象を自分なりに説明し尽くせるかどうか、一瞬にして納得がいくような説明をしうるかどうかが大事なのです。
このような能力がなかったり、霊的知識がない人であるならば、たとえば「墓場で幽霊を見た」とか「夜中に自分の枕元に立った」といったことで非常に狼狽したりするのかもしれませんが、霊的世界の真相を知ってしまうと、幽霊を見たところで何も感じなくなります。不思議でも何でもないのです。
むしろ、彼らが今、何ゆえにそうした状態になっているかということが一瞬にして分かわけです。もう少し勉強するならば、どこが間違っているのか、心の誤りが一体どこにあるのかなどが分かるようになります。幽霊を見たとしても、一瞬にして、彼らの過ちが分かり、彼らに何を諭せばよいのかが分かってくるのです。したがって、そうした霊姿、霊的な姿が見えたとしても、何ら怖れることはないわけです。
それゆえに、漏尽通力を現実において適用する能力としては、第一に「霊的知識の充実、仏法真理知識の充実」ということを挙げておきたいと思います。
【大川隆法 『漏尽通力』第7章「漏尽通力」講義 より抜粋】
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ここで、反省の基礎を学ぶべく経典『信仰告白の時代』より第3章『反省の原点』を学びます。経典をお持ちでない方はこの機会にぜひご拝受ください。【税込み1800円】
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■『反省の原点』
5 宗教の本質
人間であるからには、間違ったことを思うことも当然あるでしょう。間違った行いをすることも当然あるでしょう。しかし、そのときに、みずからの魂の奥なる声に、よく耳を傾けてほしいのです。
青少年に関わる問題として、先ほどの情欲の問題についていえば、人間には全員、羞恥心(しゅうちしん)というものがあるはずです。一万人の人がいれば、一万人全員が、恥ずかしいという気持を持っているはずです。
なぜ羞恥心があるのでしょうか。それは、仏が人間に対して「畜生道に堕ちるな」という警告のために与えている感情なのです。これがあるから、罪の意識というものが起きてくるのです。
このように、人間は間違いを犯す存在ではありますが、それを悔い改め、考え直すチャンスは、いたるところにあります。まず、自分の心のなかに、それを感じとるものがあります。悪いことをすれば、うしろめたさを必ず感じるでしょう。他人を騙して商売をしたあとは、夜、苦しくて眠れないでしょう。そのとおりです。嘘はつけないようになっているのです。他人は騙せても、自分自身は騙せません。自分自身の良心は騙せないのです。自分自身の良心が通じている「仏の心」は、決して騙すことができないのです。
それが、人間として当然感じるべきことです。間違った思いが出たり、間違った行いをしたりすることもあるでしょう。しかし、そのときには、良心というもの、心の奥なるよき心というものと、よく相談していただきたいのです。そして、踏みとどまることが大事です。
反省というもの、そのような時のためにあるものなのです。人間は、この世で自由自在に生きているようでありながら、実は、六根に惑わされ、感性のままに流されていきます。それが、多くの人のありふれた普通の姿なのです。
悪を想い、悪をなしたのであるならば、反省によって、悔い改めによって、まずそれを断つことです。みずからのなした悪しき行いについて、深く反省をすることです。自分自身の良心に対して自分自身の真心に対して、自分自身の心の奥なる守護霊に対して、そして仏に対して、「申し訳なかった」と詫びることです。そして、「今後、悪はなすまい、思うまい」と誓うことです。さらには、「善をなそう、善きことをなそう」と思い、実際に善をなしていくことです。
宗教の本質は、難しいところにはありません。「悪を押し止(とど)め、善を推し進める」―これが宗教のすべてなのです。
それを、薄っぺらな道徳だと思う人もいるかもしれません。しかし、紙の上の活字だけで、そうした言葉が飛び交っているのではなく、みなさんが生きている真実の世界は、そのような世界なのです。
善悪は、この世を去った世界において、その姿を明確に現わすようになります。善を思い、善を行じて生きる人との違いは、生きているあいだにも現われてくるでしょうが、地上における現われ方は、まだ個人個人に差があるでしょう。しかし、地上を去った世界においては、その人間の人となり、思いと行いは、寸分の違いもなく、確実に測られることになります。そして、ほんとうの意味での「完全な自由」というものが、どれほどまでに恐ろしいものであるかということを、みなさんは知るようになっていきます。
すべては、本来の世界における魂の尊さ、高貴さというものを忘れ去り、六根という六つの感覚器官から発生する感情を自分自身だと思い、また、その対象によって迷わされてきた結果なのです。
人間である以上、地上では肉体を去った生活はできません。いくら断食をして食欲を断とうとしたところで、死んでしまえば、肉体を持つ人間としての修行は、それで終わってしまいます。過去には、異性に惑わされないよう目をえぐり取った修業者もいますが、そんなことをしたところで、煩悩そのものがおさまるわけではありません。
生きている人間であるかぎり、どのようなことをしても、その生命に付随して欲望というものが必ず出てきます。生きていこう、伸びていこうといる思いに付随して、欲望は出てきます。
しかし、欲望というものは、氾濫する河にも似て、田や畑を水びたしにしてしまうものなのです。したがって、川の水そのものをなくしてしまうことはできませんが、堤(つつみ)、堤防をつくって、川の水を反乱させないで流していくことが大事なのです。川の水を氾濫させてはいけないのです。よくそれを防ぐことです。そして、まっすぐに流してこそ、人のためとなり、世のためとなっていきます。まっすぐに流した川であってこそ、人びとのためになり、世の中の役に立っていくのです。
そのように、「己を調える」ということが、限りなく大切なことなのです。
【大川隆法『信仰告白の時代』第3章『反省の原点』より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き
(3/30-2)89『真説・八正道』を読む―正定―神仏と一体となる―漏尽通力とは
