17 悲しみの時にも、信仰を失わない人は、本当に美しい。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
伊勢支部にて映画『ドラゴン・ハート』を15:00~映画上映会を開催いたします。
是非この機会に入会・三帰へと導いてまいりましょう。
7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/6(日)と7/7(月)は、両日とも13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、主の御教えを世界へと広げるために、教典『大川隆法
東京ドーム講演集』から第10章の「未来への選択」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、一九九五年に、未来は、仏教の縁起の理法の寄る辺に従い、私たちの心と行動を変えることによって、世界を変えることができること。宗教は公器であり、正しい宗教である「幸福の科学」の教えが世界に広がることによって、人類は真なる幸福を得ることができることを、全世界に伝えるべく、獅子吼されました。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1800円】
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■未来への選択
1 智慧を得て、苦しみに打ち勝つ
○「執着すべき自分も、自分のものもない」と言いきれるか(諸法無我)
二番目の旗印、諸法無我とは、いかなる意味でしょうか。「諸々の法は無我である」―この無我とは、そして、無我であるところの諸々の法とは、何でしょうか。これは「教え」という意味ではありません。「一切の存在」という意味でのダルマ、法です。
この世の中には、ありとあらゆる存在がありますが、それぞれは独自の存在のようにも見えます。しかし、はたして、それに実体があるか。それを釈迦仏教は探究したのであります。そして、その結論として、「すべての存在は無我である」「われなるものはなし」と言いきったのです。
それは、どういうことでしょうか。あなたがた一人ひとりに分かるように言うとするならば、「われという存在はない。わがものという存在もない」ということです。これは、しかし、「真なる認識において」という意味ではあります。
あなたがたが「自分だ」と思っているその自分は、本当に、自(おの)ずからなる性質を有し、宇宙において唯一独自の、無比の、常なる存在であるかどうか。「これが私だ」と言いきれる存在であるかどうか。「これが変わらない私である」と言いきれるかどうか。
しかし、すでに諸行無常の教えで説いたように、あなたがたは、生まれ、成長し、老い、病に罹(かか)り、そして、死んでいきます。この肉体の変化一つを取っても、誰も止めることはできません。老いを止めることができる人はいないのです。
今、あなたがたが「わがもの」と思っているものでさえ、自分のものにしておくことはできません。
あなたがたが「わが家だ」と思っている家も、いずれ朽ち、地上のものではなくなります。あるいは人手に渡っていきます。
楽しい学校生活をしていても、その学校もいつまでもありません。やがては、建物が消えたり、あるいは新しくなったり、よそに移ったりします。そして、先生も生徒も別の人たちになっていきます。
「このまま幸福な状態をじっと抱きしめていたい。時間を止め、空間を止め、このままの私、このままの世界で止めておきたい」と思っても、残念ながら、一切の現象は滅びに向かって変化しています。
この世に存在するもので、その内に滅びの性質を持っていないものは、何一つないのです。この世におけるありとしあらゆるものは、すべて滅びに至ることが、その誕生より決まっているのです。
したがって、「これが私である」と執着すべき自分も、そう、あなたもなければ、「これが私のものである」と執着すべきものはありません。
お金も、建物も、人間関係も、どれ一つとして、永遠にそのままで置いておくことはできないのです。親しい人も、やがては別れ、死んでいきます。そのような、常なるもののない世界に、あなたがたは生きているのです。
すべては流れ、すべては滅びていく世界のなかで、欲望に執(とら)われ、執着に苦しんでいます。われならぬ肉体が発するところのさまざまな欲望によって、苦しんでいます。我ならぬ肉体が発するところのさまざまな欲望によって、苦しんでいます。物質欲、金銭欲、情欲、名誉欲など、いろいろな欲望によって、支配されているはずです。
しかし、そのほとんどは、この世において、自分というものを永遠不滅の存在であるかのように錯覚していることから始まっているところの「迷い」なのです。
政治の世界においても、そうです。自民党、新進党、社民党、共産党と、いろいろな政党がありますが(1995年説法当時)、すべての政党は、二十一世紀には地上から消えてなくなります。その、やがてはなくなるものの運命と、自らの運命とを一つのものと見て、闘い、苦しみ、疲れ、人々は死んでいきます。
すべては泡沫(うたかた)のごとき、存在であるのです。執(とら)われより苦しみは生まれてくるのです。
【大川隆法『大川隆法 東京ドーム講演集』第10章「未来への選択」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第六の経文である『無限の言葉「仏説・伝道経」』についてです。
『無限の言葉「仏説・伝道経」』は、仏陀の伝道宣言にあたる経文です。私たちが日々、主の教えを学び、主への信仰を深めているのは、伝道のためであるといっても過言ではありません。この経文を毎日読誦することで、私たちの使命が伝道であることを確認することができます。主の願いは、主の言葉、教えが日本中に、そして世界中に広がることです。
それでは、この経文の主の解説を主の経典『仏陀の証明』から以下ご紹介いたします。
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■『仏陀の証明』
本章では『仏説・正心法語』のなかの「無限の言葉『仏説・伝道経』」を解説したいと思います。
これは、短いけれども非常に格調の高いお経であり、今後このお経が全国各地で読誦されることによって、このお経自体が大きな仕事をするであろうと思います。
伝道に関するお経、つまり伝道経というのは、仏教で伝わっている経文のなかに直接にはないのです。伝道は行動の原理であって、お経としてはなかなか明文化されていないのですが、今回、こうしたかたちで明確に経文としたことよって、日々、唱和し、それを力と変えていくことが可能になったと思います。
さて、この伝道経のよって立つところである、仏教における伝道とは、いかなる位置づけがあるのか。一部の学者が言うように、釈迦(釈尊)というのは、学者のごとく、教学、教えのみ説いて、大乗運動的なものは何もしなかったのか。それは後世の産物なのか。あるいは、伝道に熱心なのは、昨今のいわゆる新宗教のみであって、伝統的な仏教においては、そうしたことはないのか。
こうした疑問は、宗教あるいは仏教に対してそれほど詳しくなく、先入観で考える人にとっては、当然出てくる疑問ではあります。
実は、この伝道自体は、釈尊自身も明確に意識していたことであり、弟子に支持していたことでもあるのです。その根拠として、経文のなかにある、釈迦の「伝道宣言」について、少し説明してみたいと思います。
釈尊は、菩提樹の下で悟り、それから鹿野苑(サールナート)に赴き、かつて一緒に修行していた五人の修行者に、「初転法輪」(しょてんぼうりん)といわれている最初の説法をします。そして釈尊を含めて六人が阿羅漢となります。
「阿羅漢」といっても、初期の基準は、そう難しいのであるとは思えません。四諦・八正道の教え、縁起の理法、無常観―こうしたものを理解して悟った、この世からの解脱をなしたという段階です。
そのあと、ベナレス(ヴァーラーナシー)の有名な富豪の息子だったヤサが、早朝から河原で悶々と悩んでいるのを、朝の経行(きんひん・合掌して歩き回る修行)をしていた釈尊が見つけて、「ヤサよ、こちらへ来なさい。あなたは何を悩んでいるのか」と声を掛けました。そして、釈尊はヤサが女性のことで悶々としているのを見て、それが実につまらない執着であるということを、ヤサに説いて聴かせます。釈尊はこのヤサに対しても、第三章で述べた「次第説法」(しだいせっぽう・「正心法語」第四の経文)を当然しています。それは「施論・戒論・生天論」と、だんだんに高めていく説法です。
ヤサは、富裕な豪族、あるいは貴族と言える立場の子弟であって、金でつくったサンダルを履いていたというのですから、その豊かさがわかると思います。そのヤサを、釈尊は説法で出家させます。ヤサが出家してしまったので、ヤサの両親が釈尊を訪ねてきて、「跡継ぎがなくなるので困ります」と言ったのですが、釈尊の説法を聴いて、ヤサの両親まで帰依してしまったのです。このヤサの両親が、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)といわれる在家信者の第一号、第二号ということになります。ヤサは交友関係がかなり広かったようで、そのあと、ヤサの友人たち五十人あまりが、続々と釈尊に帰依して出家をしています。
こうして、釈尊自身を含めて修行者が六十一人になり、弟子たちにひと通りの教えを説いて、彼らが一定のレベルの解脱を得た時に、釈尊は「伝道宣言」をなしたのです。
自分自身を含めて六十一人の時です。この時に、もうすでに「伝道宣言」を発しているのですから、教団のかなり初期の段階から伝道宣言が出ています。初転法輪で最初の五人の阿羅漢への説法をなしてまもなく、修行者が六十一人の時に、伝道宣言をなしているのです。
その時の伝道宣言を、渡辺照宏氏の訳で紹介してみます。
「修行僧たちよ。私は神々および人間たちのあらゆる束縛から自由になった。
修行僧たちよ。汝もまた神々および人間たちのあらゆる束縛から自由になった。
修行僧たちよ。遍歴に出るがよい。衆生の利益のために、安楽のため、世をいつくしむため、人々と神々との利益、安楽のためである。同じ道を二人でいっしょに行くな。
修行僧たちよ。はじめよく、なかほどよく、おわりもよい法、内容も言葉もそなわっている法を説け。安全で清らかな修行生活を示すがよい。世の中にはけがれの少ないものがいる。彼らは法を聞かなければ退歩するが、聞けば法を悟ることができるはずである」
(渡辺照宏著『新釈尊伝』〔大法輪閣〕より)
これは伝道宣言です。こうしたことを言って、六十一人が各地に散ったのです。そして仏陀(釈尊)の教えをもとにして伝道を開始したのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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今回、仏典のヤサの物語を聞いて、ピンと来たのがキリスト教の『新約聖書』との対比でした。聖書では、同じように大金持ちの息子の青年がイエス様を慕ってやってきて、(モーセの)戒律を守っているので一緒についていきたいというのですが、イエス様は「全財産を貧しいものに分け与えてからついてきなさい」といったので、その青年がしょんぼりして帰ったという話です。その時に有名な「富めるものが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るほどに難しい」という聖句が残されています。(マタイ19章・16節)
聖書が翻訳された際、イエス様が当時使っていたアラム語からギリシャ語に変換する際に「ラクダ(カメーロス)」と「綱(カミロス)」が似ているため、翻訳の間違いであるとも言われていますが、金持ちの息子ヤサを弟子にした釈尊と、それをしなかったイエス様との対比がはっきり出ています。
また、聖書では、イエス様は72人の弟子に、奇跡の力を授け、二人一組で伝道の旅に送り出しています。当時のイスラエルは治安が相当悪かったので、二人一組にしたともいわれています。61人の仏陀の伝道師、72人36組のイエスの伝道師、何かつながりを感じるエピソードでした。
主におかれましては、「無限の言葉『仏説・伝道経』」にこのような思いを寄せていることが大変印象的でした。
『短いけれども非常に格調の高いお経であり、今後このお経が全国各地で読誦されることによって、このお経自体が大きな仕事をするであろうと思います。
伝道に関するお経、つまり伝道経というのは、仏教で伝わっている経文のなかに直接にはないのです。伝道は行動の原理であって、お経としてはなかなか明文化されていないのですが、今回、こうしたかたちで明確に経文としたことよって、日々、唱和し、それを力と変えていくことが可能になったと思います』
私たちの持つ、仏を信じることができる幸福、悟りによってあらゆる苦難・困難を幸福に変える力を伝道経を毎日読誦することによって、より一層高めて、隣人をすくい助ける伝道の力、主の御名と御教えを宣べ伝える力にしてまいりましょう。
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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第4章「霊界案内」
〇研ぎ澄まされた感覚
さらに、あの世に還ったときの大きな特徴は、自分の感覚器官とでも言うべきものが、非常に研ぎ澄まされてくることです。ものすごく敏感になってきます。
たとえば、犬などは人間の何千倍もの嗅覚を持っていると言われます。それと一緒とは言いませんが、あの世にゆくと非常に感度がよくなってくるのです。美醜についての感度もよくなるし、香りについて感度もよくなるし、いろいろな人の念いについての感度も非常に強くなります。好き嫌いというものが、この世にいるとき以上に本当に増大してくるのです。
あの世に還りますと、嫌いな人に対する嫌悪の感情はものすごく増大してきて、一方、好きな人に対する好意の気持ちはものすごく増幅されてきます。この世ではなんとなく一緒に暮らしていられたとでも、嫌いな人とはあまり近くに寄りたくないという気持が、非常に強くなってきます。反対に、魂的によく似通っていると思う人に対しては、来たときはそれほど思わなくとも、やがて親近性が非常に強くなってきます。
このように、あの世では、この世の感覚より遥かに研ぎ澄ませた感覚を持つことがあります。これが霊界の特徴の一つと言ってよいでしょう。
【大川隆法『宗教の挑戦』第4章「霊界案内」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■御生誕祭の宗教的意義について
〇御生誕祭は、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生のご降臨への感謝と、報恩としての伝道の誓いを捧げる、幸福の科学における二大祭典の一つです。
主のご降誕に対し、心からの感謝を捧げ、主への信仰を深める日
――根本仏にして地球神エル・カンターレの御降臨は、慈悲であり奇跡そのものです――
〇御生誕祭は、主と魂の契りを結ぶ霊的な場です。そして、主への報恩として、弟子としての使命を果たす誓いを捧げる場でもあります。誓いを立てることで、信仰は本物となります。
〇主エル・カンターレ大川隆法総裁先生は、1956年7月7日朝7時頃にご生誕されました。「7」という数字は、天上界において、「勝利」と「完成」を意味します。ご生誕の「777」の数字には、悪魔を象徴する「666」にすべての面で凌駕する「勝利の宣言」が込められています。主は、この世の一切の悪なる勢力に勝利し、地球ユートピアを建設されるために、ご降臨されたのです。
〇主エル・カンターレのご本体の御降臨は、3億年前のアルファ様、1億5千万年前のエローヒム様に続き、地球の歴史上3度目に当たります。地球神であり、根本仏でもあられる主は、天上界では光そのものであり、本来、肉体を持たれてはならないご存在です。
・今世は、大川隆法総裁先生というお姿を通して、エル・カンターレのお姿をかいま見ることができる、歴史上ほんの一瞬の、稀な機会なのです。
〇本仏が下生される時代は、人類にとって危機の時代であり、同時に、新時代の幕開けとなる希望の時代です。主のご降臨そのものが、人類に対する最大のご慈悲なのです。
〇御生誕祭は、主がご降臨された奇跡の時代に、主と共に生まれ、主と共に救世活動ができることへの感謝を捧げ、エル・カンターレ信仰を深める大切な日なのです。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(6/18-1)169『無限の言葉「仏説・伝道経」』を読む ①釈迦の伝道宣言―「執着すべき自分も、自分のものもない」と言いきれるか(諸法無我)
