31 「善人」のフリをしている妖怪は、その人が見ていないところで、「へッ」と舌を出している。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
65 万引きを常習としていた人が死んだ、あの世では、手術台に乗せられて、臓器移植のドナーとして、いろんな臓器を取り出された。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇「正思」のための三つのチェックポイント
したがって、「正思」の探求においては、前節で挙げた三つの点について、その思いをチェックすればよいということになります。【※①素直さ ②自助努力 ③謙虚さ】
正しい思いというものを一覧表にして考えるのは非常に難しいことですが、真に神仏に近づいていくための心構えとして、「素直さ」「自助努力」「謙虚さ」というものが必要だとするならば、これに反する思いが「正思」を妨げているというように考えてもよいわけです。
①「素直さ」を妨げるもの―自我の殻
では、第一に挙げた「素直さ」を阻害しているものはいったい何でしょうか。素直に取り組もうとする姿勢、教えを受け、学び、向上していこうとする素直な気持ちを阻害するものは何であるか、ということについて考えてみる必要があります。
そこに出てくるものは、自分が過去何十年かの間につくってきた、”殻”です。「自我の殻」がこれを妨げるのです。それまでに自分が「よし」と思って生きていた、「これでいい」と思って生きてきた生き方のなかに、自分を枠に入れている”殻”が何か付いているのです。この”殻”の部分が、自分を素直になることを妨げているのです。
それゆえに、まず、「自分は自分固有の匂い、見方、生き方といったもので、なんらかの”殻”をつくってはいないかどうか」ということを点検しなければなりません。これも、反省においては非常に大事な点です。
過去の自分の生き方を見てみると、おそらく、普通の人と違った部分、特殊な部分があるでしょう。その特殊な部分については、プラス評価できる面とマイナス評価となる面の両方があるでしょう。いずれにせよ、そうした特殊な部分があったということ自体が、すなわち、自分のものの考え方、生き方において、何らかの”殻”をつくっていることは間違いないと思ってよいのです。
したがって、過去の自分を振り返るときに、最初に取りかかるとよいことは、それまでの三十年、四十年、五十年、六十年の人生のなかで、自分と他の人とを比べてみて、いちばん変わっていたところはどこであったかを点検することです。
いちばん変わっていたところはどこであったか、その生き方がどのように自分に方向付けをしているかを考えてみると、思い当たることは必ずあります。もし、その生き方がマイナスの生き方であって、それを自力によって克服してきたとしても、それなりのものを必ずつくっているはずです。
それには、いろいろなものがあると思います。
【参究・過去の自分を振り返り、素直さを妨げる自我の殻を発見しましょう】
☆肉体的なハンディが自分の殻をつくっていないか?
☆家庭環境が極端に裕福だったり、貧しかったりすることで自分の殻をつくっていないか?
☆肉親にかかわる不幸によって、自分の殻をつくっていないか?
☆才能や勉学、学歴等に偏りがあることで自分の殻をつくっていないか?
【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」111pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。
今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 永遠の仏陀
〇仏は法なり、仏は教えなり
くり返し、おまえたちに告げる。
このわが教えは、
単に、おまえたちの心を救うがためにのみ、
説かれているのではない。
この教えを本として、全宇宙は統べられているのだ。
この教えを実現すべく、
人類の過去・現在・未来があり、
人類なき過去にも、
この教えは厳然としてあり、
人類なき未来にも、
また、あるであろうということを。
私は明言しておく。
このわが説く法は、
人間の出現に先立ち、
人間の消滅におくれて、
なおもあるものである。
教えとは、姿を変えたる仏そのものであるということを、
おまえたちは知らなくてはならない。
わが教えを読むは、仏を見ると同じなのである。
仏を知らんと欲せば、わが教えを見よ。
その教えこそが、姿形なき仏の実体なのである。
おまえたちは、空を見上げて、仏を見んとするか。
おまえたちは、目を閉じて、仏を見んとするか。
おまえたちは、想像のなかで、仏を見んとするか。
それとも、
おまえたちは、霊的なる目を開いて、仏の姿を見んとするか。
いずれの試みも、虚しく終わるであろう。
そう、真実の仏とは、姿形なきものである。
真実の仏とは、
この地上を超えた実在世界にある高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたものが、真実の仏であり、
真実の仏の姿は、教えに表れているのだ。
よくよく聴くがよい。
手で仏をさわらんとして、目で仏の姿を見んとし、
その体の大きさに合わせて仏を測ろうとする者たちよ。
仏とは、
おまえたちの五官によって捉えられるものではない。
おまえたちの想像するようなものではない。
仏とは、法であり、
仏とは、教えであるのだ。
わが説く、この法こそが、
わが説く、この教えこそが、
仏の実体の本質であるのだ。
わが教えを学ぶ時、
おまえたちは仏の姿を見たのである。
わが教えを聴く時、
おまえたちは仏の声を聴いたのである。
わが教えを理解する時、
おまえたちは仏の心を理解したのである。
くり返し、くり返し、言う。
仏とは、姿形なきもの。
仏とは、人間を超えたるもの。
しかして、霊を超えたるものでもある。
仏とは、人間的なる感覚を超越し、
この宇宙を統べるところの、
教えそのものとなっている存在なのだ。
おまえたちは、
その手にしているページの一枚、一枚に、
仏の姿を見ているのである。
仏とは、何であるかを知りたくば、
わが説く教えを、深く深く、理解せんとせよ。
そこに、
仏とは何であるかという、その問いに対する答えが、
明らかに現れてくるであろう。
【大川隆法『永遠の仏陀』第五章「永遠の仏陀」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 空の思想
2 生と死の意味
次に、仏教における「生と死」の意味、死生観を考えてみましょう。
当時のインドは、戦乱が続き、隣国がいつ攻めてくるか分からない時代だったので、人びと自分の生命がどうなるかわからない状況にありした。釈迦が育った城であるカピラヴァストゥも、やがて滅び去りました。釈迦という九次元大霊が出ても、みずからが育った国や、そこに住む人びとを守りえなかったのです。そうした無常の世の中でした。
当時、「生」を保つというものは、戦に勝つことを意味していました。生きて行くためには他を犠牲にしなければならず、他を打ち倒してでも生きていく意欲のある者だけが生き残り、そうでないものは死んでいくしかありませんでした。無力であること、平和主義者であることは、すなわち「死」を意味したのです。
そうした世の中であったため、「生」への虚しさと、死後の世界へのあこがれが蔓延したとしても、不思議はないかもしれません。当時においては「生」はむしろ否定され、嫌われる傾向にあったと言えます。
実際、仏道を求める人びとのなかにも、地上で仏になろうと思うのではなく、来世における幸福を願う人が多かったことは事実です。「今世は苦しみの連続だったが、せめて来世では幸福な世界に還りたい」と願う風潮が強かったのです。
それゆえに、釈迦の思想のかなにも、来世への福音がかなり盛り込まれていました。「生」そのもののなかに、醜さや見苦しさ、悲しさがつきまとう時代には、来世への信仰を説く必要もあったのです。
これも一つの方便であることは事実です。当時の人びとに死後の世界へのあこがれを持たせることは、一時的な麻酔剤にすぎなかったかもしれませんが、地上の人々の心を、一時期、どうしようもない悩みや苦しみから遊離させるという点において、非常に役に立った面もあるのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第四章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。 その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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