(7/6-2)6『永遠の仏陀』を読む―目覚めよ―信仰という命綱―生命への意欲

『永遠の仏陀』を読む

〇信仰から「正しき心の探求」は始まる

この「信仰心」というべきものは、従来使われている「信仰心」という言葉で表現される内容ではありません。ここで言う信仰とは、「事実の確認」そのもの、「真実の確認」そのものであるということです。そうした「大いなる叡智の断片を見た」ということであり、「仕組みを見た」ということの確認なのです。

「見た」という以上、それを「知る」ということ、それを「受け取る」ということ、「了解する」ということ、そして、それを「信ずる」ということ、そうした行為を信仰というのです。

信仰というのは、決して”摩訶不思議なものに対して祈ること”でも何でもないわけです。それは、「この宇宙の創造の秘密」を知り、「人間創造の秘密」を知って、それを納得のいくものとして理解することです。これが信仰というものの前提です。

この前提がない人は、このあと、いくら仏法真理の書物を読んだところで、いくら法話を聞いたところで、いくら勉強したところで、何の役にも立たないのです。

「まず、その土台を押さえよ」ということを述べておきたいと思います。

【大川隆法『真説・八正道』第一章「序章」36p】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と共にありましょう。

7月7日は主の御生誕日です。7月7日13時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館より中継します。当日の本会場の別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館に全国・海外支部の代表者が参集し、全国・海外の中継会場を結んで、主への御生誕への感謝と「復活の祈り」を捧げる最大の式典とさせていただきます。7/7(日)~7/15(月・祝)まで、「御生誕祭」を開催致します。

この聖なる日に向けて、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 目覚めよ
〇信仰という命綱

そして、
法を説く仏陀への、
信仰と帰依の姿勢を忘れてはならない。

帰依とは、
教えを受けとるために、
弟子としての道を知ることだ。
弟子としての態度を確立することだ。
師に対する態度を示し、弟子の道を行ずることだ。
これを帰依という。

そして、信仰とは、
師より流れ出してくる仏法真理の大河を敬い、
その法を恭(うやうや)しく受け、
究極なる仏に対して、誓いを立てることを言う。
仏弟子として、仏法真理の縁にふれて、生まれ変わったならば、
必ずや、その報恩のために生きるということを、
必ずや、その教えを人生の指針として生きるということを。
こうした誓い、誓願を立てることをもって、
あなたがたの信仰は本物となるのだ。

たとえ、千貫(せんがん)の重き岩が、
汝らの頭上より転げ落ち、その身を撃ち砕かんとしても、
仏法真理のために、その岩壁をよじ登ろうとする努力を
忘れてはならぬ。
その岩壁に垂らされたるところの一本の命綱を、
決して手放してはならぬ。
この命綱こそ、信仰と呼ばれているものなのだ。
たとえ、岩に、その身、打ち砕かるるとも、
たとえ、千頭の獅子に、その身、食われ、
たとえ、万羽の鷲に、その目、えぐられるるとも、
この信仰という名の命綱を決して手放してはならぬ。
あなたがたは、その肉体を失うとも、
その名声や、地位や、金銭を失うとも、
この信仰という命綱で、仏陀につながっているかぎり、
永遠の生命を失うことはないのだ。

しかし、この命綱を放した時、
ああ、あなたがたが落ちてゆく先は、決して地面ではない。
それは無限に近い深い深い闇なのだ。
その闇にそこなく、
あなたがたは、
どこまでもどこまでも落ちてゆくことになるのだ。
これを地獄という。
信仰を失いて、地獄の底に落ちるぐらいならば、
目の前に、獅子が現れて、
内臓を食い破られるほうが、ましではないか。
鷲が現れて、その目をえぐられる痛みに耐えることのほうが、
まだましといってもよい。
地獄は、魂の死である。
魂は、生かしてこそ、仏への感謝、報恩となるのだ。
尊きダイヤモンドのごとき生命をいただいておきながら、
それを、汚泥のなかに投げ捨てんとするのか。
そのようなことは、決してしてはならない。

あなたがたは、強くならねばならない。
信ずるということを通して、強くならねばならない。
信仰は、あなたがたを強くするものなのだ。
信仰は、あなたがたを弱くするということなど、

過去、あったためしがないのだ。
真に信ずる者は強くなる。
信じても信じても、みずからが弱いというならば、
その信仰はまだ本物ではない。

あなたがたが、つかんでいる、
その命綱は、そのロープは、
私の袈裟衣であるということを知らねばならぬ。
その命綱をつかんでいるかぎり、
仏陀と仏弟子とは一つであるのだ。
仏陀がいまだ地上において、
敗れたることがないように、
あなたがたも、敗れることはないであろう。
仏陀が、いまだ地上において、
その誓願を成就せぬことなかりしがごとく、
あなたがたも、あなたがたの立てたる誓願を、
成就せぬことはない。

【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
6 生命への意欲

村娘スジャーターと出会ったゴーダマは、「自分を立て直していかねばならない」と強く感じました。ほおを伝う涙は、ある意味で、過去への惜別(せきべつ)だったかもしれません。

ゴーダマは、ミルク粥が胃のなかを伝っていくとき、なんともいえない力強さ、おいしさを感じ、「食物を否定することは、必ずしも真理に至る道ではない」ということを知ったのです。そして、「人間に食べられ、震源の高度な活動に昇華されていくことは、食物にとって喜びとなるのではないだろうか。人間に食べられることは、食物によって無駄ではないのではないか」と考えました。

「結局、この世のありとあらゆるものは、より偉大なるものへの奉仕の材料として存在しているのではないのか。その材料を、材料だけでは意味がないと見捨ててしまうことは、修行者の名において、傲慢の罪を犯しているのではないだろうか。確かに材料だけではどうにもならないが、材料があって初めて料理ができるのであり、素晴らしい料理をつくることを、仏神は願っておられるのではないのか」

こうしたことをゴーダマは感じたのです。「よし、もう一度、生まれ変わって生きてみよう。新生してみよう」と思い立つことができたのは、みずからのほおを伝う涙、内臓にしみわたっていく食物のありがたさ、スジャーターの歌にある、「琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい」という文句でした。

「なるほど、中ほどに締めればよいのか。確かに、強く締めれば、弦を弾くと切れてしまうことがある。反対に、ゆるみすぎては音色がよくないし、音が出ないかもしれない。現在の自分は強く張った弦であり、少し触っても切れてしまいそうだ。こんなことでは、よい音はでないのだ。

自分は、悟りだとか修行だとか言って肩をいからせていたが、それは、ごく自然なふるまいのなかで生きていく少女にも見劣りするのではないか。

いま天国の門が開くとして、スジャーターと私と、どちらを迎え入れるかといえば、天国の門は間違いなくスジャーターのほうに開くだろう。私の姿は、おそらく地獄的なる容貌となっているだろう。こうしたみすぼらしい姿でもっては、天国の門は開かないだろう。

さすれば、あと数年でよい、私にいま少しの生命があるならば、もう一度、肉体を作り直し、この世について、消極的なる意味のみならず、積極的なる意味をも見いだしていこう」

こうした生命への意欲が湧き上がってきましたが、この瞬間こそが、実は悟りへの道の第一歩だったのかもしれません。「極端な修行をするだけでは悟れない。このままでは死んでいくだけであり、死んでいくために生まれてきたのならば、今世に生命を持ったことの意味がないではないか」という思いを否定することが、ゴータマにはどうしてもできなかったのです。

ゴータマはスジャーターに合掌して拝礼すると、彼女と別れました。

そして、さまざまな風景を眺めていくと、そこにもかしこにも生命があふれている姿がありました。草花も木々もすべてが生命にあふれているのに、自分ひとりだけが、「修行、修行」と言いながら、そうした生命の存在に気づいていなかったことを感じ取ったのです。

「たとえ道端に咲いている一本の花であったとしても、その花が、自分が枯れていくこと、その世から消えていくことばかりを願っていたならば、その世はどうなるのか。

また、動物たちがみな、この世で生きることを厭(いと)い、一日も早く死ぬことばかり願っていたならば、どうなるだろうか、牛や馬が、やせることばかりを願って、えさを食べなければ、どうなるのか。子供を産まなければ、どうなるのか」

そうした思いが心をかすめていったのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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