(7/13-2)13『永遠の仏陀』を読む―真実の人となれ―無償のなかの悦び―正見

『永遠の仏陀』を読む

〇【正見】自と他の姿は合わせ鏡
また、他人のなかに神仏の心に反する姿を見ることのできない人もまた、自分のなかに神仏の心に反する姿を見ることが手来ません。自分が神仏の心に反した姿をしていること、そうした振る舞い、行動をしていること、そうした生き方をしていることを発見することができないのです。

逆も真です。自分自身の生き方、行い方、これが神仏の目から見て真実の在り方に反していることが分からない人は、他人のそれもなかなかわかりません。程度の違いはもちろんあるでしょうが、そうしたものです。

したがって、「他を見る」ということと「自己を見る」ということは、合わせ鏡を見ているようなものであり、自と他の両方を見て初めて、本当の姿が見えてくるのです。自と他はまさに合わせ鏡なのです。

「他人だけが見えて自分が見えない人」もいなければ、「自分だけが見えて他人が見えない人」もいません。両方が見えなければ、「本当の自己像」「本当の他人像」「本当の世界像」は決して浮かんでこないのです。

【大川隆法『真説・八正道』第二章「正見」58p】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

7/14(日)は、津支部にて御生誕祭期間の後半における信仰心の結集の機会として、「『地球を包む愛』セミナー」を開催し、全国・海外の主要な精舎・支部にて、導師団を結成し、一同にて御生誕祭版「復活の祈り」を捧げると共に、「主の願われる夢の実現」に向けて救世運動を前進させ、全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てる誓いを捧げてまいります。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。

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第二章 真実の人となれ
〇無償のなかの悦び

いま、りんごの実のたとえを示した。
そう、その言葉を、もう一度、
深く、心のなかで味わってもらいたいのだ。
人生は、このリンゴの木が、
他の人々に食べられるために、
味のよいりんごをつくっていることに似ているかもしれない。
りんごをつくった農家の人は、
その対価としての金銭を受け取るかもしれない。
けれども、その実そのものをならせた、肝心のリンゴの木は、
何一つ、金銭を受け取るわけではない。
何一つ、褒美をもらうわけではない。
「よく、こんなに実らせたね」という、
感謝の言葉を受けることもない。
しかし、彼らは、彼らの人生を歩み続けているのだ。
りんごの木として、生命(いのち)のあるかぎり、
毎年、毎年、見事なりんごの実をたわわに実らせてこそ、
悦びがあるということを知っているのだ。
彼らは、他の者からほめられないからといって、
その翌年に実を実らせないということはない。
彼らは、たとえ虫に喰われようとも、
風に吹かれようとも、
嵐に打たれようとも、
自分の力の範囲で、最高度のものをつくろうと、
日々、努力しているではないか。

そうであるならば、おまえたちにも言っておきたい。
「一生懸命に生きているのに、他の人がほめてくれない」と言うな。
りんごの木であっても、称讃など求めていないであろう。
ましてや、おまえたちは、人間として、
りんごの木以上の存在ではないか。
そうであるならば、
他の人の称讃を求めるな。
他の人から褒美をもらうことを求めるな。
たとえ認められなくとも、その使命を果たしてゆくのだ。
りんごが、その時期を過(あやま)たずに、その実をつけるように、
毎年、毎年、人間としての、その使命を果たすために、
一年、一年に、その実りを収穫してゆかねばならないのだ。
あのような木であっても、
一年に一度は、たわわな実りをつけるのだ。
ましてや、優れた存在である人間であるならば、
毎年、毎年、たわわな実りをもたらさねばならない。

そして、それがたとえ、他の人によって、もぎ取られ、
一円の価値を生むこともなく、食べられるとしても、
その人たちの悦びを、わが悦びとしなさい。
他の人々が自分の実を食べて悦んでいる姿を見て、
それを自分の悦びとしなさい。
無償のなかに、真の悦びを感じなさい。
一年のうちに、どれだけ多く、
他の人々を喜ばせるだけの果実を、実らせることができたか。
それが、
あなたがたが優秀な木であるかどうかを示しているのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第二章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 八正道の発見
3正見

それでは、八正道の最初の項目である「正しく見る」「正しい見解」ということについて、深く考えてみましょう。これは、先入観を排除し、白紙の状態にものごとを置いて、智慧の眼で見るということでもあります。

人間の営みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。

したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるいに分けていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。

そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、自らの内に深く深く入っていく必要があります。そしいて、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。

この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。

ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。

その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。

しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語(たいげんそうご)し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。

ここが見方のわかれるところなのです。

この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。

その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。

正見には、ここまでの作業プロセスが入っていると考えるべきです。

もちろん、仏教的には、「苦」「集」「滅」「道」の四諦のプロセスで観察するとか、縁起の理法を通して、ものごとを「原因」「結果」の連鎖でとらえるといった専門的な解説も可能です。

【大川隆法『釈迦の本心』第二章「八正道の発見」より抜粋】

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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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