41 妖怪の代表格は「天狗」である。日本霊界には、日本オリジナルの「天狗」が存在している。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
58 ある時、生前、仏陀の悪口を言っていた者が、両手を木の枝に縛られ、黒いカラスに生皮をはがされ、狼にその肉を食われるところを見た。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
4 武士道とフォースの関係について
〇塚原卜伝や宮本武蔵に見る「神仏へとつながる剣」
新渡戸稲造の仕事等により、『武士道』という本が一九〇〇年前後に書かれ、「禅宗との結びつき」や「剣の道との結びつき」が言われています。
しかし、それだけではなく、「もっと宗教的なもの」「神に結びつくもの」が、武士道にはあったのではないかと思うのです。
剣豪として名を遺した者のなかには、例えば、室町時代末期の塚原卜伝などがいますが、彼は「鹿島の太刀」を継承していました。【※塚原卜伝は現在に、元プロ野球選手のイチローに転生しています】
剣道の道場に行くと、たいてい、天照大神と一緒に鹿島大明神の掛け軸などもかかっていることが多いのですが、塚原卜伝は、鹿島の神の道を伝えるために剣豪修行に出て諸国を行脚し、「鹿島の太刀は負けない」ということをしています。
また、鹿島を出る前に、電撃一閃風に、ご新規としての太刀に雷が落ちるところなども目撃はしているようですが、その神の宿った剣で戦い続け、「天下無双の剣」ということで、剣の強さによって、「神の正しさ」を実証しようとして、諸国行脚をしていたのです。
こういうところを見れば、「武士道」というものが、単なる禅の気合だけで成り立っているわけではないことがわかります。もちろん、それも関係はありますが、それだけではないことがわかるわけです。
「神様の直流を引いてやっている」といいますか、神から剣の動きまでご指導いただいているために、一瞬の間に勝負は決まるわけだけれども、「負けない剣」というもがあったということです。これは、一つあると思うのです。
宮本武蔵も、剣の試合では六十試合ぐらいしたでしょうか。二十九歳頃までしか戦ってはいないと思うのですが、十歳ぐらいから戦い初め、いろいろな流派の人と戦って、一度も負け知らずということです。それが、三十歳を過ぎてからは、仏門修行に入り、仏様を彫ったり絵を描いたりと、いろいろとしています。そうした仏道修行に励んでいっています。
ですから、単なる人殺しの剣ではなく、「やはり、神仏へとつながる剣ではなければいけない」という気持ちは持っていたのではないかと思います。
ちなみに、小説『宮本武蔵』を書いた吉川英治は、毎日、一万一千回ぐらい剣を抜く抜刀術の練習をしていたそうです。「世の中にこれほど練習しているやつはいないだろう」と自分では思っていたというですか、その後、一晩に一万八千回も抜刀の練習をやっていたという人を知り、「上には上がいるものだな」と思って、少し謙虚になったということでありました。
【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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2自他を損なう不用意な言葉
〇「正しく語る」ということの探求には終わりがない
言葉を整えるということは、勇気を持って努力していくしかありません。これは一つの格闘です。自分との闘いです。
「正しく語る」ということの探求には終わりがありません。永遠に終わることがないのです。だた、少なくとも、一日を終わるときに、その日に話したことを音声で聞かされたとしても、何とか安らかな眠りに就ける状態まで努力すればよいのです。その音声を聞いてしまったら眠れなくなるような言葉を語っていたら、これは大変です。それを聞いても、「ああ、まあまあのことを言っている」と思って眠れるようであれば、それでよいのです。そこまでは努力しなければなりません。
さて、ここで問題になるのは、言葉で特に他人を傷つけた場合です。相手の心に何年も何十年も残っているようなことで、言った本人も、実は反省していることがよくあります。その場、あるいは翌日、または一週間以上たってから、反省していることは多くあるのですが、自分が心を改めた、考え方を変えたということを、どうしても語れない人がほとんどです。悲しいことに、九割以上の人がそうなのです。
コンピューターのデータ入力の際にも、間違えれば、「アカ・クロ」と言って、修正伝票を入れます。もし、この修正伝票が間違っていれば、またその入れ直しをしなければなりません。大変な作業が要ります。
同じように、間違ったものを心にインプットしてしまったと思ったら、差し替えしなければ、きれいなものは出ないのです。いつまでたっても心の帳尻は合いません。頑張って、差し替えしなければならないのです。
【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」142pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第一章 我、再誕す
○三宝帰依
縁生の弟子たちよ。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
わが声を聞け。
かつて、我はあなたがたに教えたはずだ。
三宝に帰依せよと。
三宝とは、これ仏・法・僧なりと。
「仏」とは、ほとけ。現成せる仏を意味す。
これ、悟りたる人、覚者なり。
「法」とは、これ仏の説く法なり。仏の説く教えなり。
仏の説く教えは、
過去・現在・未来を通して、一乗なり。
一つの乗り物、一つの教え方、一つの内容なり。
過去、幾百万年、幾千万年、
あるいはそれを超える歳月のなかで、
人間は、さまざまな社会をつくり、
さまざまな時代をつくり、
さまざまな文化をつくってきた。
その時代、時代に、
その地域、地域に、
その文化に、文化に、
異なった色彩はあれど、
されど、仏法は一乗なり。
すべての時代を貫いて、
真実なる仏の教えがあったということだ。
わが声を聞く、あなたがたの多くは、
かつて、幾転生のおのが人生の途次で、
さまざまなかたちで、わが教えを聞いたであろう。
それらの教えは、いつも唯一のことを教えていたはずである。
大宇宙には、その大宇宙の統べるところの偉大なる大霊がある。
この偉大なる大霊が、その分身を地上に遣わした時、
これが、現成の仏陀となる。
現状の仏陀は、その使命、立場のゆえに、
偉大なる大霊の法を説く。
偉大なる大霊の法は、仏陀を通して説かれ、
仏陀を通して説かれたその教えが、
弟子たちの力によって、
法典として編纂(へんさん)されてゆく。
その法典のなかを流れている教えを、永遠(くおん)の法という。
この法に基づき、この法のもとに、人々は生きねばならない。
この久遠の法は、仏陀が地上に下生しているかどうかを問わず、
仏陀が地上を去ったのちも、多くの人々を導く光となるであろう。
多くの人々を導く灯台の灯火となろう。
人びとよ。
仏陀ある時に生まれしは幸いなり。
仏陀なき時に生まれし人びとは、法を拠りどころとせよ。
法に依拠(いきょ)せよ。
法のもとに生き、法のために生きよ。
そうして、この仏法を育て、守り、広げてゆくものが、僧である。
すなわち、これ弟子たちの集団、サンガなり。
仏法がいかに、広く、多くの人々に伝わるか否かは、
この僧団の力による。
○久遠の価値
縁生の弟子たちよ。
今世、ただいまの、この時代の価値観に、迎合することなかれ。
現在ただいま、数多くの魅力的なる職業があるであろう。
この世的に、花形と言われるような職業があるであろう。
されど、あなたがたは、そのようなものに心をとらわれてはならない。
あなたがたは、人の噂に心をとらわれてはならない。
あなたがたは、人の言葉に、心をぐらつかせてはならない。
あなたがたは、永い永い転生のなかで、
いつも、わが言葉を聞き、
わが言葉に従ってきたはずである。
あなたがたの心の奥の奥なる真実の真心は、
久遠の価値とは何であるかを、知っているはずである。
久遠の価値とは、仏陀の説く法につながること。
仏陀の説く法のもとに生きること。
仏陀の説く法をおしすすめること、おし広げること。
仏陀の説く法を、一人ひとりの心に伝えること。
あたたかき血液となって、一人ひとり心に、
その法を流し込んでゆくこと。
これがいつもいつも
あなたがたが価値あることと思ってきたことではなかったろうか。
諸人よ、この世的なる値打ちに迷ってはならない。
諸人よ、この世的なる価値観に迷ってはならない。
諸人よ、あなたがたの生命の真なる意味を考えよ。
人間には永遠の生命があると、いつもいつも私は説いてきたはずだ。
永遠の生命のなかを生きる時に、いちばん大切なことは、
永遠の生命を、人々に保証しているその大いなる力に気づき、
大いなる力に感謝し、
大いなる力のために生きんとすることではないのか。
さすれば、この大いなる法輪のなかに、
自らの転生を回転させよ。
自らの人生を回転させよ。
仏・法・僧は、それぞれに尊く、
それぞれに独立しているようでありながら、三位一体である。
仏ありても、その法伝える僧なくば、その法は死せるなり。
僧ありても、仏なくば、心に拠りどころはない。
このように、仏・法・僧は、たがいに生かし合う関係にあり、
仏・法・僧は、まとまりて一つの力となる。
その通り。
法とは何かを考える時に、
それは人間の生命を離れたものではないということなのだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 空の思想
9 「空」と「無」
「空」の思想と非常によく似た考え方に、「無」の思想があります。「無」の思想自体は非常に大きなものであり、「無」ということを考察するだけで、一冊の書物が出来上がるだろうと思いますが、本節では、「無」とは何かということを簡単に説明しておきましょう。
「空」は「空っぽ」と書き、「無」は「無い」と書きます。これらは同じことのようにも思えますし、違うことのようにも思えます。
しかし、すでに述べたように、「空」は何もないという意味ではありせん。「空」とは、あるものが変化していくことを意味しています。仏のエネルギーがさまざまに変化していく姿をいいます。形あるものが形なきものへと変わり、形なきものがまた形あるものへと変わる―こうしたプロセスを、「空」という言葉で読んでいるのです。
したがって、「空」は一つの循環の法、宇宙の運動法則を意味するものだと言えます。「生成・発展・衰退・枯死(消滅)」という宇宙の運動プロセスを、「空」という言葉で表しているのです。
これに対し、「無」という言葉は、宇宙の運動法則を表しているわけではありません。「無」は否定であり、「無い」という意味です。
これ観点から見ると、「空」と「無」という言葉は、実はそれぞれ、「時間」と「存在」を暗示していると考えられるのです。
「空」という言葉の意味を説く鍵は「時間」にあります。時間の本質を、「空」という言葉で表しているのです。
時間の概念のなかには、「変転していく」という意味があります。何ものも変化しない空間においては、時間は存在しません。それは、静止している状態、停止している状態と言ってよいでしょう。万物が変転し、流転することによって、初めて時間が発生するのです。
「空」の思想は、実は時間論にほかなりません。時間というものは、「生成・発展・衰退・枯死(消滅)」という循環プロセスを意味しているのです。
一方、「無」の思想は存在論であり、時間と対比される「存在」に鍵があると考えてよいのです。
それでは、存在論としての「無」とは何なのでしょうか。何をもって、存在論としての「無」の思想と言いうるのでしょうか。
これは結局、「この宇宙を創っている意志をいかに見るか」ということと、かかわってくるのです。
人間は、存在というものを、固定化したもの、固形化したもの、動かないもの、しっかりとしたものといった観点からとらえがちですが、そうした観点がはたして正しいのかということを、禅のごとく問うのが、「無」の思想なのです。
「あなたがたが住んでいる家は、ほんとうに存在しているのか。地球は本当に存在しているのか。自分自身は本当に存在しているのか。
大地はどうだ。石はどうだ。動物はどうだ」
要するに、「時間の変化をなくしたとき、時間を止めたとき、万物が存在しうるのか」ということについての考え方が「無」の思想なのです。
「空」の思想において時間が流れていますが、「無」の思想においては時間は静止しており、それは、「時系列の一点において時間を止めたとき、世界は存在するのか、大宇宙は存在するのか」という問い掛けをしているのです。
こうしてみると、人びとが「確固たる世界だ」と思っているものが、実は、根源なる仏の意念(いねん)、念いの、反映、投影にすぎないことが分かります。
すなわち、九次元世界、八次元世界、七次元世界、六次元世界、五次元世界、四次元世界、三次元世界といっても、それらの世界は、実は仏の意志がそれぞれの次元という”スクリーン”に投影されているだけなのです。「それらの世界は、いわば映画のスクリーンに映った景色や人物にしかすぎない」ということを知らなければなりません。
そのスクリーンに、如来たちが映ったり、菩薩たちが映ったり、六次元光明界の住人たちが映ったり、地獄界の姿が映ったりしますが、それはあくまでもスクリーンに映った姿であって、映写機から発せられる光を止めたときには、そうした世界は忽然と消えてなくなるのです。これが、宇宙を創っているものの真相です。
すなわち、「存在は、忽然として現われ、忽然として消えるごときものであり、仏の意念、仏の意志のみによって投影されているものである」という見方が、実は「無」の思想なのです。
「空」と「無」は非常に似た思想のようにも見えますが、その裏には時間論と空間論をふくんでいて、時間論から考えた思想が「空」であり、存在論、あるいは空間論から考えた思想が「無」です。「空」と「無」は、時間と空間、時間と存在を立脚点とした世界観だと考えてよいのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第四章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
■□■
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(2/8-2)39『仏陀再誕』を読む―我、再誕す―三宝帰依―「空」と「無」
