(2/6-2)37『永遠の仏陀』を読む―永遠の仏陀―永遠の仏陀の光、いまここに―「空」はなぜ重要なのか

『永遠の仏陀』を読む

36 妖怪はまっとうな信仰心を持っていない。
37 妖怪は、他人を騙すために、信仰心を悪用する。
38 ゆえに、妖怪は、「仏・法・僧」に「三宝帰依」できない。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

60 ある時、仏像盗んで、売り飛ばした男が、ワニの姿に変えられて、その皮からハンドバックが作られるところを目撃した。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
3 武士道の源流に存在する「天御祖神」
〇「塩や水、結界による禊祓(みそぎはら)い」も古代からあった

同時に、「結界の思想」もあったと思います。

相撲でも、塩をなめたり、塩を撒(ま)いたり、力水をつけて土俵に上がったりしますけれども、「塩」と「水」、それから「縄による結界」のようなものがあり、土俵の上には結界が張られました。上からも垂らしものがあったと思います。

ですから、「結界の思想」があり、「そうした神聖な場には、魔を一切近づけない」という結界はあったと思うのです。

塩は高価なものでもありましたし、確かに、塩をなめると顔が赤くカッとなり、力が入ります。古代の貴重品でもありますけれども、塩なくしては動物は生きていけないところもあるので、貴重品であり、現金の代わりにもなるようものでもあったのでしょう。塩というのは、比較的早いうちにつくらなければいけなかったであろうとは思いますが、それを、妻子にも使っていたということだろうと思うのです。

それから、「撒き水」「打ち水」等をしますが、これは、今のいろいろな作法、茶道や華道にも使います。お客人を茶室等に迎える前に、そこに続く石畳にひしゃくで水を打ったりしていたりしますが、そうした、「水で清め、祓う」というような「禊祓(みそぎばらい)い」の気持ち自体は、決して、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)から始まったわけではなく、もっと昔から、おそらくあったと思うのです。

塩や水、あるいは結界などで禊祓いをすること自体は、天御祖神の時代から、すでにあったのではないかと思います。

【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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1言葉の影響力【正語】
〇口に出した言葉が自分と他人の幸・不幸をつくり出す

次に、「正しく語る」ということを話してみたいと思います。これは正見と並んで、共に非常に大切な修行の目標です。しかし、この正語はかなり難しいことです。それは、「八正道」の教えに基づいて自己の心をチェックしている人が、その難しさを感じているのではないでしょうか。

もし、一日が終わる時点において、自分がその日一日に語ったことを録音されていて、就寝前にもう一度それを聞かされたらどう思うか。これが「正語的発想」の出発点です。
一日を過ごし、もし、その日に自分が語ってきたことが録音されていて、それを寝る前に聞かされたとしたら、どう判断するか。自分が語ってきたことを、もう一度、他人の目で見よ。第三者の目で見てみよ。

こう言っているのです。これは、極めて難しいことです。正見も難しいことですが、正語はさらに難しいことです。

自分の語っていることが、他人にどういう影響を与えているのか。そして、その言葉を出すことによって、自分自身がどう影響されているのか。自分が出す言葉によって、自分がどう影響されているか。このことについて分からないとがほとんどです。九割以上の人がそうでしょう。そして、不幸をつくっているのは、自分自身が出している言葉に問題であることのほうが多いのです。

幸福の科学の信者であれば、いろいろな相談を受けることもあるでしょう。例えば「自分は他人から被害を受けている」というような相談です。「いつも上司に怒られている」「いつも夫の暴力で悩まされている」「いつも妻の悪口雑言で苦しんでいる。四六時中、苦しんでいる」という苦情が出されるわけですが、「本当に四六時中ですか」と訊くと、そんなことはないのです。

「よく怒る上司」というのは、実は年に二回ぐらい怒るだけとか、「一日中、朝からベットの中まで小言を言う」という妻は、実際に時間を計ってみると一日に、三十分も言っていなかったとか、そのようなことはよくあるのです。ところが、自分を害するような言葉がエンドレスで頭の中を回っている感じがするのです。

なぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは、その事実を自分が口に出して確認していることが多いということです。「おまえは一日中、小言を言い続ける」「いつもいつも聞かされて、自分は参っている」などと自分で口に出して言うと、言葉に出すことによって、その事実が客観化してくるわけです。そうして、自分が出した言葉によって、その事実が客観化してくるわけです。そうして、自分が出した言葉によって、今度は縛られます。いったん、そういうことを言った以上、毎日毎日、妻から責められていないと気が済まなくなるのです。そのように思わないと気が済まなくなるのです。自分が言ったから、その言葉を信じる以上、そうなってくるのです。こういうことは、実に多くあります。

心に留め置かなければ、翌日には忘れられるようなことであっても、それを言葉として表現してしまった場合には、その言葉は自分の心のなかに残り、他人の心のなかに残るのです。

【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」136pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第五章 永遠の仏陀 
〇永遠の仏陀の光、いまここに

行け、
行きて、わが言葉を伝えよ。
永遠の仏陀の言葉を伝えよ。
永遠の真理を伝えよ。
永遠の法を宣べ伝えよ。
永遠の仏陀、東の国にてよみがえり、その声発するを、
この日本に、くまなく伝えよ。
全世界の人々に伝えよ。
億万の民に伝えよ。
幾十億の民に伝えよ。
来世の人々に向かっても伝えよ。
地下にある者たちにも伝えよ。
「おまえたちは、魂の牢獄から、魂の煉獄から、
いま、解き放たれたる時が来たのだ」と、
告げ知らせるのだ。
永遠の仏陀の光が、
ここに、
いまここに、
臨んでいるのだ。

信ぜよ。
見よ。
聴け。
そして、
知るのだ、この言葉の力を。
知るのだ。この言葉の意味を。
知るのだ。この希望の福音を。
すべては、ここに始まり、
すべては、ここに終わる。

永遠の仏陀を信じる時に、
あなたがたもまた、
永遠の生命として
生き続けることとなるのだ。
(完)
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あとがき(旧版)

『永遠の仏陀』とは、永遠の真理であり、永遠の法でもある。

仏陀とは、人にして、法なり。法にして、人なり。しかして、地域を超え、時代を超えた、最大の愛の顕現でもある。

本書は人類の宝である。至宝である。

これを決して無駄にしてはなるまい。あなたがたは、このダイヤモンドの山を無駄にしてはなるまい。それをまた、自分ひとりのものにしてもなるまい。

すべては、ここにある。すべての教えの本が、ここにある。すべての悟りの本が、ここにある。

今、永遠の仏陀、あなたの前に現れ、あなたと共に歩んでいるを知ることだ。

一九九一年 七月
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法
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改訂新版・あとがき

ある時には、静かに淡々と語られ、ある時には、厳かに胸を打つ言葉がつづられ、仏陀の説法とはどのようなものであるかが、本書によって、あまねく人々に伝えられたと思う。

言葉の流れは、第五章『永遠の仏陀』に入って、激しく、かつ、急となる。読者は、仏陀の奥にある「エル・カンターレ」の意識と姿を、一瞬、垣間見ることができる。しかし、深くは理解しなくてよい。釈迦とキリストの奥に存在(あ)る「光体」の煌きを、かすかに、感じ取るだけでよい。それから後は、実在界の神秘のままでよいのだ。

この十数年の活動で、何かと世紀末の闇を打ち砕くことに成功を収めつつあると思う。外には、ある時には華々しく見えたことであろうが、内にあっては、真剣かつ、緻密かつ、着実な毎日の積み重ねであった。

一九九一年に語られた私の本書での呼びかけに馳せ参じ、地涌の菩薩として身命を惜しまず活躍された、幾万、幾十万の光の子たちに、心からの感謝を捧げる。

一九九七年 7月末 
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法

【大川隆法『永遠の仏陀』より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 空の思想
7 「空」はなぜ重要なのか

それでは、「空」の思想はなぜ重要なのでしょう。仏教は「空」の思想をなぜ持ち出してきたのか。なぜ、目に見えぬ世界の話をするのか。なぜ、目に見えぬものが現われたり、現われたものが目に見えぬものになったりするのか。そうしたことについて考えてみましょう。

実はこの領域に、後代において禅宗が発生する源流があると考えられるのです。禅では、「禅問答」といわれる奇抜な問答をすることによって、相手に仏性や実相世界を悟らしめることが、往々にしてあります。「まったく別のものを持ってくることによって、現在の自分の立場や考え方を、鏡に映すように悟らしめる」という方法が、禅にはあるのです。

その意味で、「空」の思想は禅の源流をなしていると言えます。ただ、禅の思想そのものは、釈迦の思想から少しそれていった面があります。

結局、目に見える世界を実在だと思うからこそ、それに執(とら)われるのです。人びとは、肉体を見れば肉体に執われ、異性を見れば異性に執われ、食物を見れば食物に執われますが、執われのなかには、決して心の安らぎはありません。

心の安らぎは、執われを取り去ったときに現われます。無執着の境地にこそ、幸福感はほとばしり出てくるのです。釈迦はそれを知っていました。

それゆえ、釈迦は第一段階の否定として、「諸々の比丘、比丘尼たちよ。おまえたちの目に見え、当然のごとく実在だと思われる、おまえたちの肉体やさまざまな物質、山川草木(さんせんそうもく)などは、ほんとうは『空』であり、仮の姿にしかすぎないのだ」と、「色即是空(しきそくぜくう)」を説いたのです。そのときの仏弟子たちのショックは、どれほど大きいものだったでしょうか。

物質を電子顕微鏡で見たことがある人ならば、それが事実であることが分かります。物質という固形化したものであっても、拡大して見れば、隙間だらけの小さな粒子の集まりにかすぎません。人間の目の前に実在しているように見えているのは、目の錯覚にしかすぎないのです。

このように、釈迦はまず、この地上にしばられる心を地上世界から遊離させ、真実の価値世界に目覚めさせるために、「空」を説いたのです。この第一段階の否定は、禅の根本と相通じています。

しかし、「色即是空」を説くだけではまだ不十分であり、次に「空即是色」を説かなければなりません。そこで、釈迦は次のように説明したのです。

「地上のありとあらゆるものは、実は仏の念いによってできているのだ。仏の念いは、目に見えるものでも、手に触れることのできるものでもない。しかし、仏の念いが言葉となったとき、それはやがて具象化し、現われてきたのである。

この地球という星も、そこで生きるさまざまな動植物も、仏の念いがあってできてきたものである。そうした仏の念い、また、その念いを伝えるための高級諸霊の活動があって初めて、この世界ができてきたのだ」

ここには、釈迦の思想の特徴である、バランスのとれたところ、偏らないところが、明らかに表れています。

結局、「空」の思想とは何かと言えば、一つには、執着を取り去るための修行方法であり、もう一つには、世界や人生の成り立ちを教え、天地創造の秘密を解明するものなのです。この二つの意味合いがあるために、「空」は大切な思想とされていたのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第四章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史 

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