(2/2-2)33『永遠の仏陀』を読む―永遠の仏陀・一千億年の歴史―転生輪廻

『永遠の仏陀』を読む

32 妖怪が、コツコツ勤勉であることは、ありえない。必ずどこかで損得計算の調整をしている。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

64 ある時、カマキリをカエルが狙っていた。そのカエルを蛇が狙っていた。カエルがカマキリを食べ、そのカエルを蛇がのみ込んだ時、タカが蛇を両足でつかむと、空高く飛んで行った。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
3 武士道の源流に存在する「天御祖神」
〇『ホツマツタヱ』に出てくる「天御祖神」はどのような存在か

こうしてみると、日本の武士道の起源は、少なくとも歴史書で残っているかぎりでも、二千七百年はあるのではないでしょうか。

しかし、本当は、これでは止まらないのではないかと思います。

というのも、最近、明らかにしたことではありますが、『古事記』『日本書紀』には書かれていないものの、日本の最初の神として、「天御祖神」という神が存在するからです。

この神は『ホツマツタヱ』という文献の中に出てきます。「武内宿禰(たけのうちのすく)が編纂した」とも言われているものですが、その『ホツマツタヱ』によれば、最初の神は「天御祖神」であり、しかも、それは、日本の神というわけではなく、「宇宙創造の神」なのです。

それを読めば、「宇宙創造の神」にして、「根本神」としての天御祖神が出てきます。つまり、創世記、ビッグバン以前の神になっているのです。宇宙ができる前の神になっていて、「この神が宇宙を創った」ということになっています。

なお、『日本書紀』では国常立神(くにのとこたちのかみ)が初めに出てきますが、「それより前の神もいた」ということで、『古事記』では、最初に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が出てきます。『古事記』は西暦七一二年ぐらいの成立と推定されていますが、『ホツマツタヱ』の成立はというと、十二代天皇の景行天皇に仕えていた武内宿禰の時代に書かれたのではないかと推定されます。

「武内宿禰は五代の天皇に仕えた」と言われていますが、そうすると、年齢があまりにも長すぎます。このあたりは少しわかりませんが、二百歳とも五百歳とも言われています。同一人物なのか、名前だけ同じで別人なのかは分かりにくいところがありますが、「少なくとも、二、三世紀には書かれていると」思われます。

「武内宿禰は、紀元一世紀、西暦八四年ぐらいに生まれたのではないか」と一定者もありますが、これだと、イエスが死んでユダヤ人たちがマサダの砦でローマに滅ぼされたのが紀元七〇年前後なので、そのあとぐらいの時期になります。「あのあたりに生まれた」ということになっているわけですが、確定はできません。もう少し古い可能性もあることはあります。

普通に考えて、「長生きをして、紀元二〇〇前後か、そのくらいには書いたかもしれない」と思えば、少なくなくとも、『古事記』『日本書紀』より五〇〇年ぐらい前には書いていたものだろうと思います。

したがって、『聖書』の成立とそう変わらないか、その少しあとぐらいに成立したのが、『ホツマツタヱ』だろうと思われます。

【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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6「正思」のための三つのチェックポイント
②「自助努力」を妨げるもの―他人・環境のせい
〇自分が不幸になった原因を「他人のせい」「環境のせい」にしていないか

第二には、「自助努力」の精神です。
「これがなぜ必要であるのか」ということが分かるかどうかは、「神仏の創られた世界・宇宙が進化している」という現実を認めるか、認めないかにかかっています。

認めない場合、どういうことになるかといえば、少なくとも置き去りにされるわけです。あるいは、他に伸びてこようとするものたちに対する何らかの阻害要因になっていると考えてよいでしょう。

神仏の念いのなかに、すべてのものの進化・発展を願う心がある以上、そして人間が神仏の子である以上、伸びていかざるをえないという宿命をもっていのです。

したがって、「正思」の次なる点検ポイントは、「自助努力」の姿勢そのものの点検となるでしょう。自分の生き方のなかに、真実、向上に向かって自助努力している姿勢があるか、裏返して言うならば、環境のせいにばかりしていなかったか、他の人のせいにしていなかったか。このような点検が要るわけです。

八正道の「正思」において最も大事なことの一つが、「環境と他人のせいにしている自分」の発見です。

このような自分とは、どうしても対決しなければなりません。これと対決しないかぎり、金輪際、反省はできません。そういう卑怯な心は絶対に捨てなければならないのです。「自分が不幸になった原因は環境にある」、あるいは「他の人のやったことだ」「仕事のこんなことが原因だ」などと考えているうちは駄目です。

「『他人のせい』『環境のせい』の二点で幸・不幸が決まるという考え方では駄目だ」ということを、私は最初から一貫して言っています。そのことについては、私のこれまでの著作や講義に触れてきた人であればよく知っているでしょう。「『他人のせい』『環境のせい』だという気持になる前に、もう一度、自分というものを深いところから見つめ直して見よ」と、私は繰り返し説いています。

今の自分は、自分自身の「判断」と「選択」の結果によってそうなっているのではないか。

「幸福になれない症候群」の一員として、自分がマイナスの判断をしてきているのではないか。

また、同じ環境に置かれたとしても、同じ条件下に置かれたとしても、同じ悩みのもとに置かれたとしても、人によって生き方は違う。

そのように述べているのです。

人間はパチンコの玉やビリヤードの球とは違います。いつも同じ方向に行くとは限りません、同じ条件であっても、同じ力と同じ方向が与えられても、同じにはならないのです。その環境のなかで幸福になる人もいれば、不幸になる人もいます。その結果を招来しているのは、自分自身です。自分の心です。

こう言う考え方を持たなければ、「そもそも幸福の科学は成り立たない」ということを知ってほしいのです。環境と他人のせいにして生きて行くだけで幸福が得られるというのであれば、そもそも幸福の科学の立脚点はありません。「正しき心の探求」もなければ、「幸福を科学する方法論」もありえません。そのことを知ってほしいのです。

○「責任感の自覚」がプライドの壁を打ち破り、自助努力の出発点となる。
まずは、「自助努力」とは逆のあり方として、「他人のせい、環境のせいにしてしまいがちな思考傾向」を切って捨てるところから始まるのです。「自分の責任として受け止める」ということです。この「責任の自覚」こそが、自助努力の原動力になります。「現在の自分の心境や境遇といったものは、すべて自己の責任によってあるのだ」と考えたときに初めて、この環境をよしと思わないならば、「ひとつ、自分の足で上がっていこう」という気が出てくるのです。

ところが、それ「親のせいだ」「環境のせいだ」「友人のせいだ」「同僚のせいだ」「貧乏であったからだ」「金がないからだ」「天気が悪かったからだ」などといったことのせいにしていては、絶対に向上というものはないのです。

したがって、自助努力の出発点は「責任感の自覚」であります。「自己の責任として認める」という気持です。このことをできない人が「自分がかわいい」という方向へ動いていくのです。これを「プライド」と称していますが、このプライドの厚い外壁によって、神仏の光を遮り、反省をできないようにしているのです。このプライドの壁を打ち破る方法は「責任感の自覚」です。「自己の責任として、しっかりと受け止める」という態度です。

人間は、ともすれば責任逃れをしたくなるのです。他人の不幸に対する責任逃れはもとよりのこと、自分の不幸に対しても責任逃れをしたくなるのが、人間の甘きにつく心、易きにつく心です。他人の不幸に対しては、責任逃れしたい気持ちもあるでしょうが、自分自身の不幸についても、自分の責任逃れをしたいと考えがちなのです。

しかし、受け止めるところから進歩は始まるのです。受け止めるところから向上は始まるのです。

確かに、環境や他人のせいであることもあるでしょう。ただ、それを招来しているところに自分自身の問題があるのです。そのことを自己の責任として受け止めることです。幸福への道はそこから始まります。

「自分の責任」と思うところに努力の余地があるのです。自助努力をして、その自助努力の結果、向上があるのです。

この点を決して忘れないでください。

特に、幸福の科学の信者であれば、責任の自覚というものを、しっかりしてほしいのです。他人の人のせいにせず、これは自分の責任であると、しっかりと受け止めてほしい。そして、受け止めた上でどうするか。これが次なる課題となりわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」118pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第五章 永遠の仏陀 
〇一千億年の歴史

ああ、思えば、はるかなる昔のことであった。
一千億年の、その昔に、
この大宇宙を創らんとするときにも、
我は、すでに存在していた。
我は、念いのなかにて、
この宇宙の、あるべき姿を決めた。
そして、宇宙に張り巡らされるべき、
法というものを組んだ。
この法が、宇宙に流れる血管であり、血液なのだ。
この法というものを通じて、
この宇宙は、一つの大きな体として成り立って見えるのだ。

はるかなる、一千億年の、その昔に、
この宇宙を創らんとし、
その構想を練っていた時に、
我は思った。

すべての者よ、
無限の向上を目指せ。
しかして、すべての者よ、
おまえたちは、ひよわな存在であってはならぬ。
我は、おまえたちをより優れたるものとなすために、
おまえたちには、厳しい試練も与えよう。
砂鉄変じて鋼となすためには、
厳しい火の試練も、
厳しい水の試練も、
厳しい槌(つち)の試練も与えよう。
しかして、強くなれ。
しかして、無限に鍛えられてゆけ。
しかして、無限に美しく。
しかして、無限によきものとなれ。

我はそう願った。
その後、一千億年の歴史は、
わが念いのなかにある。
わが念いのなかに、移り変わっている。

けれども、
初めにありて念いしものの心を知らぬ子供たちよ。
おまえたちは、その有限の物差しを捨てるがよい。
わずか数十年という、短い己の人生の物差しを捨てるがよい。
そして、一千億年の昔から、
おまえたちを創り、育み、
無限によきものとせんとした念いがあったということを、
忘れてはなるまい。

【大川隆法『永遠の仏陀』第五章「永遠の仏陀」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 空の思想
3転生輪廻

こうした生と死の意味を考えるに際して、最も大切な思想として現われたのが、「転生輪廻」という考え方です。

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教においても、儒教や道教においても、転生輪廻はそれほど明確にはうたわれていません。したがって、転生輪廻を明確に打ち出したということが、仏教の非常に大きな特徴の一つになっています(※)。

転生輪廻の思想を地上において明確に説き得たことが、仏教思想が現在これほど大きな力を持つようになった理由の一つであり、それはまた、仏教が真実の教えであることを意味しているのです。

地上にあって、転生輪廻という、とてつもない思想、突拍子もない思想を発表することは、
どれほど勇気がいることか、みなさんは分かるでしょうか。

現代の日本であれば、すでに仏教が伝わり、そのなかの転生輪廻の思想も広く知られているので、転生輪廻をそれほど珍奇なものとは感じないでしょう。しかし、その思想がまだ現実的理解を伴って流布していないときに、転生輪廻を打ち出すこと「人間には過去世や未来世がある」と明確に主張することが、どれほど困難な作業であるか分かるでしょうか。

これは、見ることも聞くこともできない世界、自らが確認できない世界の仕組みについての話であるため、多くの人たちにとって、受け入れることがなかなかできないのです。

それゆえ、当時のインドでは、転生輪廻の思想が一つの信仰に近いものとして受け取られていたことも事実です。「釈尊が言うなら信じよう」というのが一般的な風潮だったのであり、転生輪廻そのものを確信できる人は、そう多くはいませんでした。「釈尊がそこまで言うなら、間違いないだろう」と思って、人びとは信じたのです。

もっとも、転生の思想は仏教しかないというわけではありません。当時のインドの民俗信仰のなかでも、「生まれ変わり」は説かれていました。ただ、その生まれ変わりは、人間がトカゲや鳩になったりするような、関連のないものに生まれ変わるという考え方が非常に強かったのです。

人間がさまざまな生き物に生まれ変わるという思想は、動物たちを守り、生きものへの哀れみや愛情を高める面では意味がありましたが、法則性という面では、多少、難点があると言えるでしょう。

ただ、釈迦はたとえ話が非常に上手だったので、人間の例だけでなく、鹿や鳩など、さまざまな動物の例を出して、過去世の話をしたこともあります。ときには、そうした方便もあったということです。

現実には「人間は、人間の魂として、すでに何億年も前から選別されており、人間の魂が動物に生まれ変わることはほとんどない」と言ってよいのです。人間はあくまでも人間として転生輪廻していきます。【※人類の誕生は約四億年前『太陽の法』p55参照】

もっとも、修行のために、一時期、動物の肉体に宿ることも可能ではあります。しかし、その場合でも、人間にごく近い高等動物にしか宿りません。それも一年か二年という短い期間だけです。それは、人間として生まれることのありがたさを感じさせるために行われることなのです。【※詳しくは『地獄に堕ちないための言葉』参照】

したがって、犬や猫などの高等動物のなかには、過去に人間だったものも一部にはいるのです。彼らは動物に生まれ変わっても、その間、人間的感覚を保有しているため、「生」そのものが非常にみじめになります。しかし、それを通り越したときに、「人間であるということは、これほどありがたいものか」ということを感じることになるのです。

しかし、人間が動物に生まれ変わるのは、あくまでも例外中の例外であり、一般的には、人間は人間として生まれ変わると言ってよいでしょう。

転生輪廻の思想をつかむことは非常に革命的です。今世だけだと思うからこそ、悩みや苦しみが数多く生まれてくるのです。「過去世があり、今世があり、未来世があるという流れのなかに、現在の自分がある」と知ることは、「未来において、自分がどのような生活を享受するか」ということを、自らの力によって決定できることを意味しているのです。

これは、「来世において、あるいは未来世において、幸福になろうとするものは現在ただいまにおいて、その幸福の種をまいておけ」ということであり、自力という修行方法によって、自らの未来の豊かさを確保できることを意味しているのです。

すなわち、転生輪廻の思想は、現在において努力したことに対する保証なのです。今風に言うならば、銀行に貯金しておけば、何年かあとに大きな利子がつくことを保障しているのと同じです。転生輪廻の思想には、未来への保証という意味合いがあり、この観点から人々を善導する力があったと言えます。

※注 
もちろん、「仏教は転生輪廻を積極的に説いたのではなく、インドの土着信仰が流れ込んで、それを消極的に受容しただけだ」とする考えもある。また、釈迦の無我説を唯物論的に無霊魂説と断定し、「転生する主体がないのだから、転生輪廻などありえない」とする説、「魂ないが、業のみがロウソクの炎のように移っていくのだ」とする説などがある。

しかし、釈迦が悟りを開き、「三明」を得て阿羅漢となったのは歴史的事実である。
三明とは、①過去世を見通す〈宿命明〉、②未来の衆生の死と生を見通す〈天眼明〉、③仏教の真実によって煩悩を断滅する〈漏尽明〉であり、霊能力である。ここに釈迦の悟りの特徴がある。転生輪廻なくして、「過去世を見通す」「未来世を見通す」ということがありうるはずがない。釈迦が過去世物語や来世成仏の物語を説法に多用したのは歴史的真実であり、「悟りにともなう観自在力を持っていた」と考えるのが自然である。釈迦が過去世、未来世を見通す観自在力を持つことにより、仏教における転生輪廻思想は、俗信の域を脱して明確な真理となったのである。

ちなみに、釈迦と同じ霊能力を有している著者にとっては、こんなことは自明の理であり、釈迦没後の仏教学者たちの皮相な解釈やこの世的解釈に、ただただあきれるのみである。

【大川隆法『釈迦の本心』第四章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちのの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
■□■
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史 

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