(10/9-2)10『永遠の仏陀』を読む―真実の人となれ―努力に比例した世界―大いなる第一歩

『永遠の仏陀』を読む

9 妖怪は悟ったふりが好きだが、実態は、精進が嫌いで、人の目をごまかす。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

91 救世主や、仏陀を殺した者が、許されることはない。国法も、政治信条も、マスコミ世論も通用しない。 

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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2神仏の業(わざ)を見る【正見】

〇目は「霊的な進化と目覚め」に大いに貢献している
こうしてみると、八正道の初めに出した「正見」は、人間の器官のなかで、世界を認識するためにいちばん大きな働きをしている器官に結びついているわけです。

いろいろな「肌の感覚」という触覚によっても、世界認識は不十分です。「目がある」ということが、どれだけみなさんの「霊的な進化と目覚め」に貢献しているか、これに改めて気づくのではないでしょうか。

「器官をいつだけ選べ」「感覚を一つだけ選びなさい」と言われたときには、「目がある」ということが、人間として生きていることを認識する上においてどれほど役に立つか、考えてみてください。

口が動かなくても、耳が聞こえなくても、社会的にハンディはあっても、「世の中がどうなっているか」は分かります。しかし、生まれつき目が見えない方は、この世界を理解するのに困難を極めます。「人間とは何か」が分からない。「動物とは何か」が分からない。「植物とは何か」も分からない。「目が見えない」ということは、そういう困難を伴うのです。

〇正見の「見」は「see」ではなく、「look」の意味
真実の「正見」とは何であるかというと、実は、「見るという行為をもっと高める」ということです。「映像としてのみ見、映像としてのみ受け取るのではなくて、もっと、その奥にあるものを見よ。神仏の動きを見よ」と言われているのです。「神仏の手がなした業(わさ)を見よ。その業の結果を見よ」と、ここまで言われているわけです。

それを見抜くことができない者は、少なくとも、「神の子、仏の子として地上に生きて、見た」とは言えません。それは「目が開いていた」ということのみであって、「見た」とは言わないのです。

それを見抜くことができない者は、少なくとも、「神の子、仏の子として知事ように生きて、見た」とは言えません。それは「目が開いていた」ということのみであって、「見た」とは言わないのです。

これは、英語で言うならば、「see」と「look」の違いに似ているかもしれません。正見の「見」は「look」のほうです。「see」のように「漫然と目に映る」というのではなく、「意志を集めて見る」ということです。意図的に、積極的に見なければならないのです。

3「正見」の出発点
「見る」という行為の反省の入り口は「他人の姿」【正見】

この「見る」という行為をさらに分析してみたいと思います。「見る」という行為を分析したときに、問題点として、いったい何があるでしょうか。

「見る」という行為の反省で、出発点としてまず考えてよいことは「他人の姿」です。これが入り口としてはいちばん分かりやすいのです。

それは、人間が過ちを起こしやすい理由、心に間違いを起こしやすい理由の一つが、「他人の存在を理解できない」ということであるからです。「理解できない」というという言葉が不十分であるとするならば、「理解尽くせない」と言いかえてもよいでしょう。

いくら見ても見ても、その人の真実の姿はそう簡単に見えてきません。十年付き合っても二十年付き合っても、見えないものは見えないのです。

しかしながら、私たちは、目を通し、映像として見ているその人の姿のなかに、その人の人格を見ていることは明らかです。そのどこを見ているのか、それは定かではないけれども、目に映じてくるその人の姿、そこからその「人となり」を判断しています。すべての人が、世界七十七億の人が、こうしたかたちで、それぞれ判断をしているのです。

それは、一見、無責任な判断です。「自分が他人をどう見たか」ということに関して責任を問われたことは、かつてほとんどなかったはずです。自分自身を振り返ってみて、そうではないでしょうか。「ある人を自分はこう見た」ということに対して責任を問われたことは、ほとんどないはずです。

問われたことがあるとするならば、「それを語ることによって」です。後に述べる「正語」においては、これが問題となります。「語ること」「表現すること」によって責任を問われることはありますが、「見る」ということのみにおいて責任を問われることはないのです。

【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」52p】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 真実の人となれ
〇努力に比例した世界

この中道から外れる生き方を起こさせるものに、
他の者への嫉妬心がある。
この嫉妬は、嫉妬する心は、
決しておまえたちを幸福にすることはない。
このことを知らねばならぬ。
嫉妬は、毒牙を持った一匹の蛇である。
この蛇が、心のなかに忍び込むや、
おまえたちは夜も眠れなくなる。
常に、他の人間がうらやましくて、
その心、落ち着く時がない。

心せよ。
かくのごとき毒蛇を、みずからのうちに引き入れてはならぬ。
嫉妬は、その芽のうちに摘んでしまわねばならない。
嫉妬の芽を摘むための考え方は、
これは、他の人に対する公平な評価にあると言ってよいだろう。

自分も、他人も、はるかなる昔に、
仏の子として、人間の生命を得たものであるが、
その時より、今日に至るまで、
幾千回、幾万回、
あるいは、それ以上の転生輪廻を重ねてきたのだ。
それだけ多くの回数を、地上生活として送ってきたのだ。
ある者は、他の人々の幸福のために生き、
ある者は、他の人々を多く害して生きてきた。
その両者が、もし同じ扱いを受けるとするならば、
仏の創った世界は、
なんと不公平に満ち満ちていることであろうか。
やはり、それだけ多くの転生を経てきて、
人間には、
それぞれの魂の器というものが、
でき上ってきているのだ。
そうした、転生の過程を経てかたちづくられたる、
魂の器というものを認めない考えは、
これは、他人の努力を認めない考え方であり、
暴君のような、暗い心に支配されていると言わざるをえない。

おまえたちも、
アリとキリギリスの話を聞いたことがあるであろう。
夏のあいだに、汗水を垂らして、
アリは、せっせせっせと、えさを運び、蓄えた。
そして、キリギリスに対して、
「キリギリスさん、あなたは歌ばかり歌っているが、
将来への備えはしなくてもよいのですか」と問うても、
キリギリスは、その日暮らしの楽しみのなかに生きて、
「先のことは先のことだ」と考えた。
やがて、木の葉が落ち、秋風が吹き、
冬将軍が訪れた時に、
夏のあいだに、せっせと働いたアリは、
そのえさを食べて、冬を過ごすことができたが、
夏のあいだ、遊び暮らしたキリギリスは、
その食料も尽き果てて、
惨(みじ)めに死んでゆくこととなったのだ。

このような話を、
単なる戯(ざ)れ言(ごと)と思ってはならない。
単なる比喩と思ってはならない。
これが人生の真実の姿であるのだ。
一生懸命に働いて蓄えたものとは、本当は食糧ではない。
それは、天の蔵に積まれた宝であるのだ。
それぞれの人が、一生を生きるたびに、
いくばくかの宝を手にすることができる。
その宝が天の蔵に積まれてゆくのだ。
そうして、幾転生、幾十転生、幾百転生をくり返して、
宝を山のように持っている者もあれば、
生まれ変わりの時、
いつもその宝をすり減らしてゆくものもある。
しかし、やはり、各人の努力に比例した世界が天界してこそ、
仏の慈悲は成就されると言わざるをえないのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第二章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
10 大いなる第一歩

ゴータマは菩提樹下において最初の悟りを得ました。悟りというものは、いったん最高のものを味わうと、そのままでいたいと思うわけですが、どうしても、再び平凡な生活のなかに取り紛れていくことが多いのです。ゴータマもまた、そうしたことが多かったと言えましょう。

それゆえに、ピッバラの樹の下で悟り、仏陀となったゴータマは、「この悟りを一日も早く、多くの者たちに伝えていかねばならない。これを語らずにいて、自分ひとりの心の奥に秘めておくだけならば、私の今世の生の意味がないだろう」と考え、だれかに伝えようとしたのです。

そこで、単に托鉢するだけではなく、だれかれなしにつかまえては、「私は悟りを開いた。私は覚者となった。私はこういう体験をした」と言ってまわったのですが、人びとは取り合ってくれませんでした。

「修行者よ、おまえは頭がおかしくなったのだ。あまりうぬぼれるものではない。おまえはだれのもとで修行して、そんなに偉くなったのか。独学で悟りが得られるものではないのだ」
という言葉が返ってきたのです。

しかし、この感動をなんとか人びとに伝えたいと思った仏陀は、「私がルドラ・ラーマプトラのもとに入門し、すぐさま師と同じレベルの悟りに達したのを見て驚き、その後、一緒に苦行した五人の修行者たちに、私の悟りを伝えることが出発点だ」と考え、彼らを探す旅に出ました。こうして、伝道の最初の一歩が始まったのです。

結局、伝道の第一歩は「伝えようとする思い」にあったということです。自分自身が体験したことを、だれかに伝えんとする行為、同じく道を歩む者、同じく悟りを求める者に伝えようとする行為があったのです。ここに、次なるステップが隠されていました。

「これが伝道の始まりだ。のちの世に初転法輪と呼ばれることになるだろう」と思うと、仏陀の胸は高鳴り、熱い血潮を抑えることができませんでした。「人に伝えたい」という気持と、「もっと悟りを深めたい」という気持が交互になりながら、「一日もじっとしていられない」という思いがつのってくるのでした。

【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史 

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