(10/4-2)5『永遠の仏陀』を読む―目覚めよ―心の窓を開く―村娘

『永遠の仏陀』を読む

4 妖怪は、根本的にうぬぼれており、自分をどう変えるかではなく、自分がどう変わったように見えるかに関心がある。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

96 エル・カンターレのために、自己犠牲を払って、この世的に不幸に生きたように思われた者も、来世では、天使や菩薩の救済は確実に来る。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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3 反省の出発点とは
〇信仰から「「正しき心の探究」は始まる

みなさんは、今、「幸福の原理」として、「愛・知・反省・発展」という四つの基準があることを勉強しているはずです。したがって、その基準から言うならば、今、語ろうとしている「反省」というものは、「幸福の原理」のなかの一つということになるわけです。

しかし、「その奥に、その基底に、もっと深いものがあるのではないか。もっとしっかりとした土台が必要なのではないか」ということを考えなければならないのです。

ここで、みなさんに強調しておきたいことがあります。それは、いったい何かというと、「愛・知・反省・発展という四つの考え方は、それぞれを独自に、バラバラに探究すればよいものではない。また、それぞれが海の上に点在する氷山のように、バラバラに浮かんでいるものでもない」ということです。

さすれば、この「幸福の原理」は、どのような土台の上にあるのでしょうか。そうした土台をなすものがあるはずです。その土台をなすものが、実は「信仰」と言われているものなのです。

「信仰」というと、みなさんは、どこか遠いところにある神仏を拝んだり、他力を頼んだりするイメージが強いかもしれません。

しかし、「信仰の原点」はいったいどこにあるかというと、「みなさんが神仏によって創られた」という創造の秘密にあるのです。「みなさんが神仏によって創られた」ということを信じるか、そして、「神仏によって創られたみなさんが、永遠の生命のなかを無限の転生輪廻を繰り返しながら魂修行をしている」という説を信じるかということです。まずこれを問われているわけです。

これを信じるとき、そこに「信仰」が始まります。この信仰がない場合には、何も始まらないのです。信仰という土台の上に、「愛」も「知」も「反省」も「発展」もあるわけです。「正しき心の探求」もそうです。すべてに、信仰という土台があるのです。

したがって、信仰心というものを安易なものに思ってはなりません。あるいは、手垢のついたものとして考えてはならないのです。そうではなく、もっと深い根源的なものです。

【大川隆法『真説・八正道』第一章「序章」34p】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

10/6は幸福の科学の「立宗記念日」です。立宗38周年にあたり、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、すべてを捨てて空手にして「幸福の科学」を立宗されたお心に思いを馳せ、心からの感謝を捧げ、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、立宗記念式典版「復活の祈り」を執り行います。

10/6(日)~10/8(火)まで連日、立宗記念式典を執り行います。

立宗へと到る主のお心を表した楽曲「たとえ世界を敵に回しても」を通して、主の愛や信念の強さを学び、私たち信仰者にとっての理想としてまいります。主の夢の実現に向けて、この世の壁を突破すべく、強さ、勇気、潔さ、気概を深め、ご復活された主と共に、地球ユートピアを実現していく誓いを捧げます。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 目覚めよ
〇心の窓を開く
師というものは、弟子を観て法を説く、
弟子たちは、死から数多くの教えを学ぶために、
謙虚に心を開かねばならぬ。
謙虚に心の窓を開くことなくば、
仏法真理の光は、射してくることはない。
射してこないことは、光の罪ではない。
戸を閉ざしている己自身の迷いが、その罪なのである。
その迷いを取り去らねばならぬ。
生れ落ちてよりのち、
思想や教育、信条、家庭環境によってつくられたる、
その迷いを取り去らねば、
仏の声が素直にあなたがたの心に射しこむことはあるまい。
心を開き、素直な態度にて、教えを学ぶことだ。
そうすることによって、
あなたがたは初めて、
みずからの魂が、いかなる方向に求めているのかということを、
知ることができるのだ。

この魂の悦びは、何物にもかえがたいものだ。
仏法真理を知った悦びは、
どのような金銀財宝にもかえることができないほど
尊いものであるのだ。
たとえ、目の前に、山のごとく金銀財宝を積まれたとしても、
そのようなものに、目を奪われてはならぬ。
たとえ、いかなる地位にあなたを就けようと言われたとしても、
そのような言葉に、心揺れてはならぬ。
たとえ、世間の人々があなたがたをあざ笑うとしても、
そのようなことで心揺れてはならぬ。

私はあなたがたに、繰り返し繰り返し説いているはずだ。
あなたがたにとって、いちばん大切なものは、
魂を高めるということなのだ。
魂の糧になるものを選び取るということなのだ。
魂の悦びをもって、人生最大の悦びとせねばならんのだ。
魂の糧となり、魂の栄養分となるもの以外に対して、
心奪われてはならないのだ。

あなたがたは、名声から遠ざかっているがよい。
あなたがたは、
さまざまなる、この世的な評価から遠ざかっているがよい。
そのようなことに心を奪われて、
真実の教えを聞かないならば、
河原に生えた葦のごとく、
無常の風のなかで震えている以外の人生はないということを、
知らねばならない。
生命(いのち)ある人間であるならば、
尊き人間であるならば、
法を知ることの悦びを、すべてのものの上に置け。

【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
5 村娘

ゴータマはやがて、ガヤーの近くにある象頭山(ぞうずせん・ガヤーシーサ)の洞窟を出ました。丘の麓(ふもと)を下りていくと、そう遠くない距離にナイランジャナー河があります。川のほとりの、ウルヴェーラの森があるセーナーニ村で、心機一転して新しい修行の日々を送りました。

現在、スジャータ―村とも呼ばれているその村は、土地は美しく、林は清らかで、さわやかな風が渡り、流れは澄んでおり、修行に最適の環境でした。河で沐浴をしていると、やせた体が流れに足を取られることさえありました。

そうしたある日、河の向こうから、村娘の歌声が聞こえてきたのです。その歌は、懐かしい人間世界の歌のようでもあり、また、ある意味では、天上の世界の歌のようでもありました。

それはインドに昔から伝わる民謡の一つでしたが、当時の楽器で、現在で言うならば琵琶にあたるようなものについての歌でした。

「琵琶の弦は、強く締めれば切れてしまう。弱く締めれば音色が悪い。
琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい。
厳に合わせて、踊れや踊れ。現に合わせて、躍ろや踊ろ―」

そのときにゴータマが感じたことは、わが身とその村娘との対比でした。その村娘は、修行にやつれたゴータマにとっては、まるで天女のように見えました。美しい目の輝き、亜麻色(あまいろ)の髪、生命力にあふれた身体―。その全身からは、村娘という身分に似つかわしくない、素晴らしい香りが漂っていました。

それに引き比べ、わが身は骨と皮ばかり、目は落ちくぼみ、あばらは浮き出し、誰が見ても、いつ死んでもおかしくないような肉体でした。「三十五で、もう人生を終えてしまうのか」というような姿だったのです。

その村娘はゴータマの姿を見ると、橋を渡り、駆け寄ってきました。そしてスジャーターと名乗ると、ひと椀のミルク粥を差し出しました。

その粥をひと口すすったとき、なんともいえない熱い涙が、ゴータマの両ほおを伝って流れ落ちていきました。そのミルク粥は、当時の食べ物としては決して高価なものではありませんでしたが、木の実や草の根を食べていたゴータマにとっては、天上の者とも思われるようなおいしさをふくんでいたのです。

そのときに流した涙の意味は、生命の喜びを捨てて苦行に生きている自分の姿の恥ずかしさ、虚しさだったと思います。

「修行することが、骸骨のような肉体となり、この地上の生命を断ってしまうということならば、それはいったい、いかほどの美をふくんでいるのか。いかほどの値打ちをふくんでいるのか。

このスジャータ―という村娘は何の悟りも得ていないだろう。法を学んだことも、修行をしたこともないだろう。そのスジャータ―が、なぜこれほど光り輝いているのか。まるで天から来た者のように輝いているではないか」

その違いは、結局、生きていこうとする者と、死んでいこうとする者とのちがいもあったと言えましょう。

思わず知らず、両眼からあふれ、ほおをぬらした涙―。ゴータマは「自分にはまだ、流す涙があったのか」と驚く半面、「生命を捨て、死につこうとする心は、いかに惨めでわびしいことか」ということを知りました。

この村娘との出会いが、ゴータマに次なるきっかけを与えることになったのです。それき、三十六歳になる前、三十五歳と数か月のころのことでした。

【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史 

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