(10/23-2)24『永遠の仏陀』を読む―跳躍の時―奇蹟の時―布施波羅蜜多

『永遠の仏陀』を読む

23 妖怪は、容姿、学歴、身のこなし、セクシーさ、金満家であることで、貴族性を誇示する。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

73 ウクライナの狐とロシアの熊が戦っている。地獄に堕ちている先住民が、狐料理と熊料理の準備をして、堕ちてくるのを待っていた。

74 北朝鮮の地獄の底では、「大将軍」と称される毒蜘蛛が、洞窟に大きな巣を張っていた。地上の指導者たちにも、毒蜘蛛の糸がからみついていた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋
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1正思の基準は神の心
〇幸福の科学の「正しき心の探求」は「正思」のあたりに照準がある

「正思」の部分は、そう簡単には卒業できません。何回転生しても、それほど簡単には卒業できない部分です。幸福の科学の「正しき心の探求」というものも、このあたりに照準があることもお分かりになると思いますが、修行としては容易には終わらないところであります。

まず、正思の根本はどこにあるのでしょうか。それは神仏の心です。
人間は、「正しき心」というものについて、いくら考えても、追いかけても、なかなか分かるものではありません。それが現実であろうかと思います。
なぜならば、「正しき心」の根本というものは、人間に求めるべきではないからです。それは神仏に求めるべきことなのです。この尺度こそ、神仏に求めなければ、求めるところがないのです。ここにあるのです。

もし、神のお心は違ったところに基準があるとしたら、人間の考え方、行動のパターンも違ったものになるはずなのです。ただ、北極星に向かうがごとく一定の方向へと向か数ことを義務づけられている理由は、この「正しい思い」というものが神の側から規定されているいためです。そう考えてよいでしょう。

【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」90pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 跳躍の時 
〇奇蹟の時
さて、
おまえたちにとって、とても大切な話をすることとしよう。
おまえたちの魂が飛躍するために、
どうしても必要な事柄を述べたいと思うのだ。

おまえたちは、常に、平凡な毎日のなかに生きることを、
飽き飽きと感じることだろう。
私は、そういうおまえたちに対して、
「いや、人生とは、
そのような飽き飽きするもののみではない」と語りたいのだ。
「その様に平々凡々とした毎日ばかりではない」と告げたいのだ。

そう、おまえたちも、若いころに、
「世の中には、さまざまな体験をする人がいる」という話を聞き、
「いつかは、自分にも、
そのような体験のときが来るのではないか」と思ったことだろう。
そのとおり、
平凡に生きていたと思われる人間が、
ある日を境にして、まったく変わった人間となることは、
充分にありうることなのだ。
「そんなばかな。自分に限って、
そんなことがあるはずはない」と思う人もいるだろう。
けれども、よくよく心を落ち着けて、
私の話を聞いてほしいのだ。
少なくとも、おまえたちは、
この、私の書いた書物を、
いま、手に取って読んでいるはずなのだ。
私が書いた、この書物を、
手に取って読むということ自体が、
大変なことであるのだ。
それは、まさしく、おまえたちにとって、
過去と未来を分ける、
一つの事件であると言ってもよいであろう。

人類の長い歴史のなかでも、
今という時ほど重要な時はない。
私は、それを、くり返しくり返し、
おまえたちに告げているのだが、
おまえたちの多くは、なかなか、そのことに気がつかない。
というのも、自分自身が、
平凡性のなかから抜け出すことができないからであろう。
しかし、私は言っておく、
仏の再誕する時に生まれ合わせ、
その教えにふれるということは、
大きなことであるのだ。
しかも、仏の教えにふれて、
みずからの人生がまったく違ったものになるということは、
それはまさしく、奇跡の時であるということなのだ。

人類の歴史をひもといてみるならば、
過去、偉大な如来が数多く地上に肉体を持ち、
そして、尊い仕事を成し遂げてゆく過程において、
数多くの人々の魂が、
今までにない輝きに包まれたということは、
おまえたちの想像に難くないことであろう。
人間は、何度も何度も、くり返し地上に生まれ変わり、
新たな魂修行をしているのであるが、
こうした偉大な如来が地上に降りる時に、
その教えを学ぶということは、
おまえたちにとって、魂が跳躍するときでもあるのだ。
そう、ちょうど、
わずか一回のその転生が、十回分にも相当する、
そのような魂修行に値すると言っても、過言ではない。
いや、それ以上の価値ある時を魂に刻む者も、
なかにはいるのだ。

それは、そのとおりだ。
あの太陽のような光が、
おまえたちの胸を、
その、閉じられた胸の扉を開けて、
差し込んでくるというのだから、
いままで暗闇に閉ざされていた、その心の内が、
くまなく、明るく照らされるのだ。
その時に、
はるか昔に忘れ去った、あの懐かしい感動が、
呼び起こされるに違いない。

おまえたちは、
目の見えぬ者を見て、気の毒に思い、
においをかぐことができぬ者を見て、気の毒に思い、
足の動かぬ者を見て、気の毒に思い、
手を使うことができぬ者を見て、気の毒に思う。
しかし、魂の目が開かず、
魂の耳が閉じており、
魂の鼻がにおいをかげず、
魂の口が物を食べることができず、
魂の手が縛られ、
魂の足が、歩くことを許されないときにも、
おまえたちはその不自由を感じないでいる。
それは、永い永い年月のあいだ、
忘却のなかにいたからなのだ。
しかし、真実を知った時に、
おまえたちは変わってゆかざるをえないのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第四章「跳躍の時」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 六波羅蜜多の思想
4 布施波羅蜜多

六波羅蜜多の最初には「布施波羅蜜多」があります。これは、別名「施しの完成」とも呼ばれています。

釈迦の思想では、「施し」が非常に重要視されています。「施し」という言葉は、いかにも仏教的な響きを有していますが、その根本は愛の思想であると言ってよいでしょう。キリスト教における愛の思想が、仏教では、布施の考え方、「施す」という考え方のなかに流れているのです。

六波羅蜜多の筆頭に布施波羅蜜多があるということは、釈迦が慈悲的な意味合いでの愛をいかに重要視していたかを示す証左と言えるでしょう。

ここで、「波羅蜜多」という言葉について、説明を加えておきましょう。

漢訳の「波羅蜜多」というのは、インドの言葉パーラミター(paramita)の音写で、到彼岸、つまり「理想状態に達すること」という意味ですが、「波羅蜜多」は意訳もよくできています。「波羅」を「内在する」、あるいは「心の奥底の」という意味にとり、「蜜」は「非常に価値のあるもの、値打ちのあるもの」、「多」は「こんこんと湧いてくるさま」に意訳すると、筋が通ります。
すなわち、「心の井戸を深く掘ると、こんこんと叡智が湧いてくる」という意味で、「波羅蜜多」という漢語訳を使っているのです。

したがって、「布施波羅蜜多」というのは、布施という行を通じて、こんこんと湧いてくる叡智を味わい、それを見につけるための修行方法なのです。

布施にもさまざまなものがあります。

最も一般的なものとして、出家修行者、仏教教団、貧窮者などに、衣食、田宅、財物などの物質的な財を施す「財施」があります。他の人に物をあたえることも愛の行為です。(たとえ、貧しくて物を与えることができない場合でも、笑顔を与える「顔施」があります。笑顔を与えることも立派な布施です。顔施によって、世の中が素晴らしくなっていきます)。

また、「法施」というものがあります。これは精神的でさらに高度な施しだと言えます。心が飢えていて道を求めている者、砂地が水を求めるがごとくに法を求めている者に対して、
法を施してあげること、教えを説いてあげること、その悩みに答えてあげることは、最大の布施なのです。

釈迦の時代には、人々が修行僧に対して物品を布施していたのですが、そうした物施よりもさらに多くのものを、修行僧たちは人びとに与えていたのです。すなわち、法施という愛行によって、感謝、報恩を成していたのです。もちろん、在家信者が、まだ信仰の開けていない人に対して教えを説明することも、法施でした。これも布施です。

さらに、「無畏施・むいせ」があります。悩み、苦しみ、恐怖している人に対して、恐れを取り除いてあげることです。心を安らかにし、人を厄難から救うことです。

以上の、財施、法施、無畏施のことを、「三施」と言います。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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