(10/19-2)20『永遠の仏陀』を読む―仏の本願―正定

『永遠の仏陀』を読む

19 妖怪は、他人(ひと)をこき下ろしたり、千本ノックするのが大好きである。しかし、自分がそうされるのは、大嫌いである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

79 仏陀を誹謗中傷した者と、正しい法を迫害した者は、基本的仏性が凍結される。つまり、天上界、極楽に往く資格がなくなるのだ。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
8 優しさと厳しさをブレンドして人を見る
〇イエス・キリストの最期に学ぶ『人生正しく見ることの難しさ』

この自己の責任の生じる、「正しく見たかどうかの最期の結論」を出すときには、勇気が要ります。どのような人であっても勇気が要ると思います。

イエス・キリストといわれる方であっても、そうです。ゴルゴタの丘で最後に十字架につながれ、磔(はりつけ)になったとき、彼は、周りの罪人たちにも祝福を贈りました。また、自分に対して害を与える人に対しても、「彼らは何も知らないのです。神よ、彼らの罪を許したまえ」と言っています。このイエスの見方について、「百パーセントか、九十九・九パーセントか、九十九パーセントか、いたいどれだけの正しい見方を彼は最後にしたか」と問うたときに、これはなかなか難しいところがあるのです。

というのは、置かれた状況を状況として判定する場合、彼の見方はおそらく最高限度に近いものであったでしょう。彼の教えのなかには、「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」「上着を取られたら下着も与えよ」「百里行こうと言われたら千里行け」というような教えがあります。その教えの実践の結果がどうなったか。それが、あの最後の結末になっているわけです。

「暴力を与えんとする者には与えさせよ」「ということを言っているわけですが、その結果があの最期になったわけです。十字架での最期は、他の罪人への祝福と、自分を迫害するものへの愛において終わったけれども、最後におけるその見方はよいが、それに至る途中において、「そうした行為を許した」という点で、彼自身、はたして正しく見ていたかと問うたときに、「イエス」とは言いかねるのです。

そこにいたるまでの間の見方、分析、考え方、思いを正当に評価しうるかといえば、必ずしもそうとは言えないところがあります。そこまで来るには来るだけの理由があり、過程があったはずです。要するに、「その過程において、『人をどう見るか』ということについて、もう少し上手な、あるいはレベルの高い見方ができたのではないか」ということです。

〇ユダの問題は、イエスの優しさゆえに招いた悲劇とも言える
ここで、私たちは、ユダの問題を考えなければならないと思います。「イエスはユダをどう見たのか」という問題です。これは、『大川隆法霊言全集 第五巻 イエス・キリストの霊言』(宗教法人幸福の科学刊)のなかにも書かれている内容ですが、「ユダをどう見たか」「ユダの動きをどう見たか」「ユダの結末をどう見たか」ということです。

ひとことで言えば、「なぜあそこまでやらせたか」ということです。真に正しく見たのであるならば、なぜあそこまでやらせたか。あそこまでやらせる前に、なぜ一喝を与えなかったか、なぜもっと智慧を持って見てやらなかったか。なぜ智慧を持った愛をもっと与えてやらなかったか。これは考えなければならないところです。

イエスは、ユダの傾向性を見ていたでしょう。ユダの傾向性から、「結果としてこうなるであろう」ということは見えていたでしょう。しかしながら、自分のかつて愛した弟子であるがゆえに、自分の伝道の初期の頃に愛下弟子であるがゆえに、厳しさを出すことができなかったのでしょう。

イエスは、ユダについて、「現在、魂的にはよくなくなってきている。また、霊道も開きかかって、悪霊もよく入り始めている」ということは十分に知っていました。そして、他の者からも不満は出ていました。「先生、あのユダをどうにかしてください」と、他の弟子たちは言っていたのです。現実に言っていたのですが、しかし、「ユダは自分の最期の頃の弟子であって、最初のころにいろいろとずいぶん骨を折ってくれた。その愛を思うときに厳しくはできない」という遠慮があったのです。

そして、結果かあのようになりました。運命と言えば、それまでです。しかし、運命ではないと言えば、それもそのとおりです。まだ選択の余地はあったのです。

これは、あのような大指導霊であっても、「正しく見る」というところにおいて、究極までは行かない部分がまだあるということなのです。イエスの魂は、過去幾転生する過程において、何ゆえに何度も悲劇の死を遂げたか。これは、「そうした運命を担っていた。役割だ」と思えば、それまでです。

彼の魂は、過去幾転生のなかで、何度もあのような最期を遂げています。アガシャーのときもそうでした。それ以外のときにも、同じようなことがずいぶんありました。アガシャーのときは、最期は処刑されて生き埋めにされるところまで行っています。そこまでさせているのです。させているのであって、されたのではないのです。その愛の見方ゆえに、させたのです。愛ゆえに、多くの人々への愛のためには、自分の命を捨てるということが最大の愛だと思うがゆえにです。

それは、一つの方法論でしょう。しかし、その甘さゆえに、優しさゆえに、あるいは増長させたがゆえに、あのような悲劇は起きているのです。

〇釈尊は、「人を見る」ことにおいて、イエスと違いがある
これと対照的なのが釈尊です。過去幾転生を見ても殺されたことはほとんどありません。

それはなぜか。
この「見る」というところにおいて、イエスと釈尊には違いがあるのです。究極的に人を生かすというところにおいて、どれだけ優しさと厳しさをブレンドできるか。ここに、本当はいちばん難しいところがあるのです。コーヒーのブレンドではありませんが、人を見る際には、優しさと厳しさのブレンドの仕方がいちばん難しいのです。そして、それによって”香り”が出てくるのです。

【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」76p】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第三章 不滅の力 
〇仏の本願
仏が地上に降りているあいだに、
その仏の教えをくまなく伝えうること、
それが僧の使命である。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちの使命は、
これ以外にはないのだ。
そして、その、法を伝えるという仕事をしているなかにこそ、
おまえたちの真実の悟りは、また、高まってゆくのだ。
わが弟子であるならば、
おまえたちの目指すところは菩薩である。
菩薩となるということである。
菩薩の仕事で一番大切なことは、
法を布施するということなのだ。
これは、与える愛のなかで最大のものであるのだ。

おまえたちは菩薩を願う者たちであり、
いや、本来、菩薩であるならば、
本願を成就せよ。
仏の念いを成就せよ。
仏の願いを成就せよ。
仏の願いとは、一つだ。
一切の衆生を救いたいと念(おも)う心であり、
縁ありて集いたる一切の衆生に、
仏法真理を学びつくしてほしいという願いなのだ。
この宝の山を、ごちそうの山を、
一人ひとりに届けたいということなのだ。
これが仏の本願である。
この本願を遂行することが、
弟子としての最高の使命である。
これ以外に、弟子としてなすべきことも、さまざまにあろう。
それを別願という。
別願として、たとえば、
政治家になるとか、
よき医者になるとか、
あるいは学者になるとか。
あるいは芸術家になるとか、
そのような己の使命を果たして、
人類に貢献せんとする思いもある。
しかし、これはあくまでも別願である。

本願はただ一つ。
この、仏の説く教えを弘めることだ。
そして、仏法真理の縁ができた人々に、
この教えを学びつくしてもらうことなのだ。
さすれば、彼らは、この地上界を縁として、
仏国土をつくり出すことができるであろう。
そう、仏の願いもまたここにある。

かつて、この地上は、光に満ちた地であった。
そして、この地上を去った世界も、
光に満ちた、調和ある世界であった。
しかし、この地上での魂修行をくり返すうちに、
しだいに本来の魂の在り方を忘れ、
地上のなかで、「己かわいし」とする心が、
他の者を虐(しいた)げ、己の栄華を求める心となり、
そして、この地上界特有の欲望というものを生み出していった。
そのような欲望が生まれた時、人間の堕落が始まった。
ある者は、欲望のままに、
己を拡大し、己の力を広め、
そして、他の多くの人々を不幸に陥れた。
ある者は、その欲望がかなわぬがゆえに、
己の不幸の思いをまき散らし、
そして、暗い淵に沈んでいった。
このようにして、
欲望を限りなく追い求める者と、
欲望が成就できずして、
苦しみのうちに地上生命を終えたる者とが、
この地上界を縁として、地獄世界を創ったのだ。

さすれば、彼らは、その始めに戻り、
この地上世界を縁として、仏国土建設をなさねばならぬ。
地獄を創ったものが人間であるならば、
人間は、みずからの思いと行いを通して、
その地獄を解消する必要があるのだ。
これは尊い義務であるのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第三章「不滅の力」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第二章 八正道の発見
10 正定

最後に、「正しく定に入る」ということを簡単に説明しておきましょう。

結局、これは宗教の根本にかかわるものなのです。すなわち、「どのようにして精神を統一するか。いかにして、異次元世界にある高級諸霊や、その奥にある仏の心を感じ取るか。いかにして、仏の心と自分の心とを同通させるか」ということに関係しているのです。

「正定」の部分を通過させなくては、ほんとうの意味で「精神的に目覚めた」とは言えません。また、ほんとうの意味で、「世界を実感した」とも言いかねるのです。

人間は、自分の過去世や未来世を知ることはなかなかできません。しかし、正しく定に入ることによって、高級霊たちの感応を得て、自らの心の偉大さに気づいたときには、一つの大いなる体験をするようになります。

結局、正定の最終目的は、真実の智慧の獲得と、智慧の力による、この世的束縛からの解脱にあります。

正定のもう一つの目的は、自己の内部を掘り下げていくことです。自己をどこまでも深く掘り下げていくことによって、内なる守護・指導霊たちと交流できるような境地に達するのです。

知識というものは、霊的な裏打ち、仏法真理の裏打ちがなければ、ほんとうのものとは言えません。それゆえ、さまざまなことを霊的に学んできた人であっても、正定をともなわなければ、人格が完成することはありません。また、霊的に偉大な人物となることもありえないのです。

一方、必ずしも宗教に没頭した人でなくても、偉人と言われる人は、みずからの心を見つめるための時間を、どこかでとっていたことが多いのです。ある人は散歩、ある人は思索というように、なんらかのかたちで正定に入っています。それは、大宇宙に遍満するエネルギーと交流していたということなのです。

正定に至って初めて、人間の可能性は無限となるのです。生きている人間の知力には限界がありますが、正定に至るとその限界は突破され、全宇宙の叡智を自分のものとすることができるようになっていきます。

それゆえ、正定に基づく反省の観点は、結局、「宇宙的自己、宇宙の一員としての自己、仏の創られた世界の一部としての自己を、どれほど確認しえたか」というものとなるのです。正定まで至って初めて、みなさんの修行も完成に至ると言えます。

「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」のすべてが完成されたときには、少なくとも阿羅漢の境地に達することができます。そして、次なる高度の段階において、菩薩へと進化していくことが可能となるのです。

そうした修行方法として、また、希望の原理、進化の原則として、八正道があるということを知っていただきたいと思いします。

【大川隆法『釈迦の本心』第二章「八正道の発見」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史 

タイトルとURLをコピーしました