10 妖怪は、自分の実力以上に自分を見せることができれば、大成功だと考える。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
90 正しい言葉を使い、正しい行為をなし、だだしい生活をし、正しい仕事をし、日々、世を照らすことを考えよ。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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3「正見」の出発点
〇不幸の根源は自他の「理解のギャップ」にある
ところが、実は私たちが見ている「人の姿」あるいは「世界の姿」というものは、ちょうど、いろいろな角度から見ている人間によって捉えられるものに似ています。
「キュービズム」という芸術があって、いろいろなところに目があるようなかたちで立体的に物体を見ています。それが何を暗示しているのか、私にも十分には分かりかねますが、ピカソは、おそらく、「霊的な目で見た視覚世界は違う」ということを実は言いたかったのだと思います。
私たちが見ている二次元平面的な視覚像、この画像には満足ができない。神仏が創った世界は、そういう二次元平面的に捉えてはならない。それは、もっと霊的に、直覚的に、全てを包括するかたちで、見なければならない。そう考えて努力した結果が、おそらくキュービズムの芸術となったのであろうと私は考えます。
私たちはいろいろな人を見ていますが、しかし、必ずしも全方位から見尽くすことができないでいます。もしすべての人を心底分かりえるとしたならば、そこに何の理解のギャップが生じましょうか。そこに何の混乱が起こりましょうか。そこに何の不幸が生まれましょうか。
不幸の根源は「理解のギャップ」ではないでしょうか。「自分自身の自己理解」と「自分に対する他人の理解」との懸隔(けんかく)、あるいは、「自分の、他人に対する理解」と「その人の、その人自身についての解釈」との違い、こうしたことから人間関係の不幸は生まれてきているように思えるのです。
こう考えてみたときに、「実は、これは大変なことだ」ということが分かってきます。恐ろしくて目を開けていられない。そこまでの責任感が出てこなければならないのです。
自分の目に映じている人たちの姿は本当に納得いく姿なのか。自分はその人の印象というものを目を通して受けるが、それをそのままに受け取ってよいのか。その印象は確かか。
「印象に基づく、他人への評価」をその重大さを知ってか知らずか、誰もが必ずしています。印象を通しての人を評価しているが、それははたして正しいのか、これが問われるのです。
こうして考えると、「人を見る」という一つのことでさえ、大変なことになってきます。
【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」55p】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 真実の人となれ
〇自分の人生を生き切る
おまえたちは、いたずらに他の人をうらやんではならない。
その人が、たまたま、いい家(うち)に生まれたとか、
その人の両親が、たまたま優秀であったとか、
その人が、たまたま都会に生まれたとか、
その人の兄弟が、恵まれた経歴を持っているとか、
その人の肉体が、たぐいまれなる美しいものであるとか、
このようなもので、心を嫉妬で曇らせてはならない。
人には、それぞれの過去があり、
過去、積み上げてきたものがある。
そのすべての結果が、現在というものに表れているのだ。
他の人の人生にとってかわることはできないのだ。
自分は、自分の人生を生きなければならないのだ。
おまえたちが心しなければならぬことは、
自分の名前で他人の人生を生きるのではなく、
自分の名前で自分の人生を生き切るということなのだ。
自分の人生は、自分以外には、生きてくれる人はいないのだ。
それを大切にしなくてはならない。
自分の名前を大切にするように、
自分の人生を大切にしなくてはならない。
他の人とその身を置きかえたところで、
いかばかりの幸福感があるであろうか。
人には、それぞれの悩み、苦しみもあるのだ。
それらの人々の幸福なる点のみを見て、
悩みや苦しみを見ていないのが、
自分の、その迷いの姿であるのだ。
他の人のよいところのみを見て、
それを、おのが惨(みじ)めさと引き比べてはならない。
あなたが、あなた自身をいかに低く評価しているとも、
他の人のなかには、それを高く考えている者もいる。
このように、すべて、お互いの目からは、
物事は相対的に見えるということを忘れてはならない。
【大川隆法『永遠の仏陀』第二章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 八正道の発見
1 八正道とは何か
本章では、釈迦の思想のなかで最も有名なものの一つである「八正道」について、説明をしていきましょう。なお、本書での記述は、一般向けの入門レベルのものとし、仏教的に専門的な解釈は、拙著『仏陀の証明』(幸福の科学出版刊)に譲ります。
さて、菩提樹下において釈迦が悟りを開いたとき、八正道の原型にあたるものはすでにあったのですが、方法論としてはまだ確立しておらず、八正道として人びとに説かれるようになるには、その後、約一年の歳月を要しました。
菩提樹下で禅定し、悟りを開いてより一年―。仏陀は、身近な弟子たちや出会った人たちと話をしながら、次第に悟りを深めていきました。
そして、「この悟りを人びとに伝えるためには、ある種の方便、つまり、ひとの心に訴えるための方法論を持たねばならない」と感じていました。また、当時は、「六師外道」といって、さまざまな法を説く人たちがいたのですが、「彼らの教えとは違う独自のものを編み出さねばならない」という気持も強くありました。
こうして、考えに考えた結果、「自分の教えのいちばんの根本は、心を正すという点にある」という結論に達したのです。
それでは、いかにして心を正せばよいのでしょうか。いかにして、自らの心を調律していけばよいのでしょうか。結局、心を調律するためには、自らの心を、より澄み切った心、すなわち、仏に近い心でもって見つめ直す必要があるのです。そして、仏に近い心のことを、釈迦は「仏性」とか「真我」とか呼んでいたのです。
人間は、人びとのあいだで生きていると、さまざまな思いが去来して、「何が自分の本心であり、本領なのか。何が心の奥にあるものなのか」ということが、なかなかつかめないものです。
しかし、だれしも、人びとの目を去り、人びとの波動を受けない所に引き下がって、静かに己の心と対面したときには、うそをつけない心、真実なる心に至ることができます。
虚栄心や劣等感の裏返しなどから、人前で自分を取りつくろってみても、ひとりで静かに坐したときには、深く思いあたるものがあるはずです。それが真実なる心なのです。それはまた、仏の心、白紙の心と言ってもよいし、あるいは、自分自身のなかの本当に純粋な部分、うそがつけない部分だと言ってもよいでしょう。
この真実なる心でもって、みずからの思いと行いを振り返って見ることが、八正道の出発点です。
思いと行いをふり返る方法として、仏陀は八つの点検箇所を考えました。それが有名な八つの徳目、すなわち、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」なのです。
「見る」「思う」「語る」「行う」「生きていく」「精進をする」「念う」「定に入る」という、八つの心の方向性、あるいは肉体の行動に、「正しい」という言葉がついていますが、この場合の正しさとは、単なるマルバツの正しさではなく、内を深く見つめていくこと言う意味での正しさです。この八項目を一つひとつ静かに点検していくことが、反省の主な方法でした。
釈迦の反省は、夕方もしくは明け方に行われることが多かったようです。その際、八つの徳目について、それぞれ二十分程度の反省を行っていました。こうした反省を行うにつれて、みずからの心が軽くなり、浄化されていくという現象を感じ取っていたのです。
以上が八正道についてのあらましです。
【大川隆法『釈迦の本心』第二章「八正道の発見」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について
・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。
・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。
日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。
・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。
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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)
(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)
・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。
(『現代の武士道』)
・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
(「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史
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