8 妖怪は、正義とか、悪とかを、決めつけられるのを嫌い、天来の才能が、すべてに優先すると考える。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
92 悪魔は、救世主や仏陀の、家族や側近を、攻撃するのが常套手段である。真理の流布を妨害した者は、人であれ、霊であれ、さらに重い罪に問われることになる。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、『天御祖神の経済学』の教えを確認します。
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■『天御祖神の経済学』
2 富の源泉と考えられているもの
〇民主主義や修正社会主義の善悪について
天御祖神
また、もう一つは、そうした独裁国家に対立するものとしての民主主義国家もございますけれども、これもまた、「民主主義」という形態自体がすべて善とは必ずしも言えないものがあります。それは、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等の見解にも出てくるとおり、どちらかといえば、「最悪を防止する」という意味においては歴史的に役に立った、要するに、「暴虐な悪王が出てくるときに、その悪王を追放し、別な王を立てる」という、そういう機能を果たすという意味において、民主主義は機能していたことがある。
あるいは、別の現代的な人に言わせれば、「民主主義は永久革命なのだ」と言われることもありますが、主として機能する場合は、そうした「悪王を追放することができる」というところが一つのメリットではある。
しかし、「最善のものを選べるかどうか」というと、これは非常に難しいところがあるかと思います。だから、既成の権力などを倒すときに、その規制の権力を倒す側が善であるか悪であるかということの判定は、歴史的にはとても難しいことであります。
そして、既成の権力を倒す場合、出てくるものは、最初は少数であることの方が多い、それで、少数の間に倒されてしまうこともあるし、それ以上大きくなっていって、多数を形成するところまで持ち堪えたならば、民主主義的にも「善」とされることもあるが、その前に大きな被害を出して終わることもあります。
それは、例えば中国で言えば、「太平天国の乱」のようなもので、一八五〇年代に洪秀全(こうしゅうぜん※魂のきょうだいにゾロアスターがいます)によって起こされておりますが、「五千万人もの人が死んだ」と言われています。
あるいは、その後の毛沢東革命とかもありましたけれども、あれも、何十年かの間、「善」のようにずっと言われてきているし、今の中国でもそのように言われている。”現人神”としての毛沢東ということで、民主主義とも合致しているような言われ方はされているとは思いますけれども、現実には「同志たちを数多く殺戮した」ということは残っています。また、「大躍進政策」等でも何千万の人が死んでいますし、文化大革命でも一定のイデオロギーの下に、自分たちの敵になる者を追放し抹殺していったことで、大きな悲劇を生んだことは知るとおりです。
その後、鄧小平(とうしょうへい)以下で資本主義的な面を導入して、「修正社会主義」として、表向き、看板は「共産主義」をあげなから、実際にやっていることは「自由主義」の「資本主義経済」と似たかたちのものを取り入れて、金銭的に豊かになることはいいことだということでやっておりますが、これもまた、これだけで「善」と言えるものではありません。
“猫がネズミを捕る”ことは本能かもしれませんけれども、”ネズミが発生するには理由があるし、猫が増えすぎてもいけない”こともあるでしょうから、このへんの調和のところには難しい問題はあるであろうというふうに考えます。
【大川隆法 『減量の経済学』第2章「天御祖神の経済学」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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1見ることに伴う責任【正見】
〇「見る」ということに関し、心の改革が必要となる
八正道の最初には「正しく見る」ということを掲げてあります。
この「正しく見る」という立場には、極めて難しいところがあります。それは、みなさんが、「見る」ということを、能動的所作あるいは能動的行為として、ほとんど考えていないからです。
みなさんは、「見る」ということを、「朝起きて眼を開けば、網膜に映像が映ってくる」というように捉えているのです。そのため、網膜に移ってくる映像を漫然と追い続ける一日を過ごします。そうして一日が終わったときには、いったい何が網膜に映っていたか、これすらも忘れ果てているのです。
そこで、まず、そういう心の改革が必要となるわけです。
「目というものをもらっておりながら、すなわち、二個の目を神仏より、あるいは神仏から約束された両親より受けておりながら、目の働きというものをしかと確かめたことがあるか。その二つの目は何のために付いているのか」ということが問われているのです。
目というものは、単に道で転ばないためにあるのか。道を歩くためだけにあるのか。玄関のドアを開けるためだけにあるのか。そんなことのためだけにあると本当に思っているのか。これが問われているのです。
そうしてみると、「みなさんは、今まで、目の役割というものをあまりにも漫然と考えてきていたのではないか。目が目として機能しながら、しかし、真実の機能を果たしてこなかったのではないか」と思われるわけです。
〇視覚的映像を通して「神仏の意図」を発見する
みなさんの目に映されているものは神仏の創られた世界なのです。この神仏の創られた世界を、どのように判断するのか。どのように見るのか。これは自己責任の問題です。
世界は創られています。ただ、その世界をどう見るか、その世界のなかに生きている人をどう見るか、これは一人ひとりに完全に委ねられています。そして、「その目に映じた光景をどう判断しているか」について、現在ただいま、みなさんに責任を問う人は誰もいないのです。
「あなたが、あなたの目に映っている映像を、どう判断しているか」について、誰も何も言いません。それぞれの自由です。花を美しいと思おうが思うまいが、外の景色をどう感じようが、それについて何の責任も問われていないかに見えます。
しかしながら、この世の中はそれほど無責任な世界ではないのです。
目というものが付いて機能している以上、ここに何らかの目的があります。それでは、その目的とは何であるか。それは「視覚的映像を通して神仏の意図を発見する」ということです。
そして、目が非常に大事である理由は、さまざまな器官のなかにおいては、目と鋳物が世界認識に最適であり、役に立つ器官だからです。・・・
それから、聴覚というものがあります。これは比較的重要です。
「聴く」ということは八正道のなかでは明らかにはされていませんが、「聴く」ということをあえて八正道のなかに入れるとするならば、これは、後に語る「正思」のなかに入れれば良いでしょう。「聞き取った情報をどのように分析するか。聞き取った情報をもとに、思いというものをどう組み立てるか」ということですから、「正思」の一部と考えてよいでしょう。
【大川隆法『真説・八正道』第二章「正見」46p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第二章 真実の人となれ
〇正しき価値基準
しかし、考えてもみよ。
おまえたちも、
思ったことを振り返って、
恥ずかしく感じることがあるだろう。
自分の思ったことを振り返って、
誇らしく思うこともあるだろう。
なぜ、あるものを恥ずかしく思い、
なぜ、あるものを誇らしく思うか。
その判断の根拠こそが、
おまえたちのなかに宿りたる良心の存在であるのだ。
この良心があることが、
おまえたちが仏の子であることの証明にほかならない。
仏の子であるから、
善そのものの価値基準が、そのなかにあるのだ。
ゆえに、おまえたちは、
己の心のなかにある「正しき心の探究」基準を
常に知っていなくてはならない。
他人を欺くことはできても、
自分自身を欺くことはできないであろう。
すなわち、自分自身が、
自分の思いと行いをすべて知っているのだから、
その、生地のままの、ありのままの、
思いと行いを自己点検して、
そうして、恥ずかしくない生き方をするということなのだ。
たとえ、その外に現れたる姿が、
良き言葉を発し、よき行動に満ちているように見えたとしても、
その心のなかに思いたる言葉悪(あ)しく、
その真実の願いが、
相手を堕落せしめ、詐術に陥れんとするものであるならば、
それらは、相手が感謝をするかどうかにかかわりなく、
少なくとも、天国の住人のなすべき業(わざ)ではないということになる。
おまえたちは、いち早く、
この正しき習慣を身につけることだ。
やがて来る来世においては、
一切の偽りが通じないのであるならば、
いち早く、今世において、
一切の偽りを排し、正直に生きてゆくことだ。
私の目には、
苦しみながら生きている。
数多くの人たちの生きざまが見える。
私は語りかけたいのだ。
なぜ、そんなに背伸びをして生きるか。
なぜ、そんな上げ底の人生を生きようとするのか。
そんなに上げ底をして生きて、
それでほんとうに、おまえたちは心楽しいのか。
そんなことであってはならない。
自分の真実の姿に誇りを得てこそ、
人間は真に幸福であるのだ。
劣等感を持っていない人間はいないであろう。
しかし、それを隠すためには、
ことさらに自分を偉しと表現するために、
上げ底の人生を歩んではならない。
このような上げ底人生は、
やがて、つまずきを招くことになるのだ。
人には、それぞれ、
自然なる生き方というものがある。
自然体の人生というものがある。
そのなかに生きてこそ、
幸福に、伸びやかに、日々を過ごすことができるのだ。
それぞれの人に、それぞれの中道がある。
その中道を見いだすことこそ、
大切なことであるのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第二章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
9 偉大なる悟り
悪魔・波旬(マーラ・パーピーヤス)との対決を通じて、「どうやら、欲心を持つことが魔を呼ぶらしい」ということをゴータマは知りました。
「心の奥の世界、深層心理の世界には、守護霊や指導霊といった偉大な者だけでなく、魔も跳梁(ちょうりょう)しており、心のなかに巣くう暗い想念を目掛けて魔は寄ってくる。その暗い想念を食物とし、あわよくば、心の隙に乗じて、その人間の心を手中に収め、自由に操りたいという征服欲を持っている者がいる」ということを知ったのです。
こうして、反省的瞑想がその精度をますます深めていきました。
「どのような思いであったとしても、思いが一点にとどまり、心がその思いに集中して、粘着質のごとく離れなくなると、それは苦しみの原因となる。
それゆえ、心はいつも執(とら)われずに自由でありたい。春の小川のように、サラサラと流れていく心でありたい。無執着の境地でありたい。
善念であれ、悪念であれ、その思いにあまり集中しすぎると、心の自由性をなくし、幼子のごとき自由な心を失ってしまう。その結果、思いが一点にとどまったところを魔に狙われやすい。
しかし、そうであってはいけない。努力しなければならないという気負いを捨てて、もっと伸びやかにで、もっと開放的な、豊かで安らかな境地に入っていかねばならない」
このようにゴーダマは悟ったのです。
過去の三十五年数ヵ月、すなわち三十六年近い歳月をふり返り、一通りの反省を終え、しかも、単に反省するだけではなく、現に心に引っ掛かっているものを捨てて、無執着の境地、執われのない境地に達したとき、大いなる安らぎがゴータマの身にしみてきました。
それは先日マーラが現れたときとは大違いであり、天上界から暖かい光がサーッと胸に入ってくるのをゴータマは感じました。そのとき、梵天の声が聞こえてきたのです。
「ゴータマよ、よく悟りました。あなたがその悟りを得るのを、私たちはいままで待っていたのです。長いあいだ、私たちはあなたを見守ってきました。よくぞ、そこまで悟りました。これがあなたの悟りの第一歩なのです。この悟りを得なくては、今世のあなたの使命は果たせないのです。
あなたが歓楽の世界のなかにいたとき、私たちはずいぶん心配しましたし、あなたが出家した当初も、『苦行のあまり、栄養失調で死んでしまうのではないか。あるいは自殺するのではないか』と、ずいぶん心配していました。しかし、あなたが私たちの声を聞ける段階にまで達したことを、うれしく思います」
このような声を伝えていたのは、釈尊の過去世であり、魂の兄弟でもある、リエント・アール・クラウドやヘルメスたちでした。こうした高級霊たちが、「梵天」を名乗ってインド的に現れたのです。
このあと、ゴータマは、宇宙の起源、地球の誕生とその歴史、文明の興亡、そのなかでの幾転生、幾十転生の自分の人生の姿、人類の未来についての予見などを、三世を見通す目でもって洞察しました。また、心が穏やかで、執われがなくなったとき、ピッバラの樹の下に自分の肉体を置きながら、霊体が宇宙大に広がっていくという体験もしたのです。
これが、心の王国の鍵を開いた人の特徴であり、自由自在になった魂の存在を、霊的実感としてつかんだ証拠でもあります。
このときのことは、また改めて話すこともあるでしょう。
結局、「肉体と魂は違う」ということをしっかりとつかむことが、大いなる悟りの第一歩ともなっていったのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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