(1/5-2)5『永遠の仏陀』を読む―目覚めよ―心の窓を開く―村娘

『永遠の仏陀』を読む

4 妖怪は、根本的にうぬぼれており、自分をどう変えるかではなく、自分がどう変わったように見えるかに関心がある。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

96 エル・カンターレのために、自己犠牲を払って、この世的に不幸に生きたように思われた者も、来世では、天使や菩薩の救済は確実に来る。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、『天御祖神の経済学』の教えを確認します。
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■『天御祖神の経済学』
1お金が存在しない実在界における経済学とは
〇大きな考え方の流れをつくり、世の中を善導した指導者の行く「八次元」

天御祖神
八次元の如来界に入りますと、やはりもう一段、大きな精神的な指導者としての資格が必要になってきます。宗教家や哲学者、思想家、その他いろいろいございますけれど、何らかの大きな考え方の流れをつくって、世の中をよい方向に善導した方々がいらっしゃいます。

これが八次元の世界ですけれども、同じく大きな思想をつくって人々を導いたつもりが、間違った方向に影響力を行使して、この地上を毒し、害悪を垂れ流した者は、正反対の地獄のなかでも最も厳しい地獄の一つである、「無間地獄」という所で、孤立して生きていくことになります。

他の霊たちも存在はしているのですけれども、会話をすることもできず、触れあうこともできない、そういう漆黒のコールタールのなかのような地獄、あるいは深い深い井戸の底のような所に、如来と誤りし思想家たちが数多くいます。

【大川隆法 『減量の経済学』第2章「天御祖神の経済学」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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3 反省の出発点とは
〇信仰から「「正しき心の探究」は始まる

みなさんは、今、「幸福の原理」として、「愛・知・反省・発展」という四つの基準があることを勉強しているはずです。したがって、その基準から言うならば、今、語ろうとしている「反省」というものは、「幸福の原理」のなかの一つということになるわけです。

しかし、「その奥に、その基底に、もっと深いものがあるのではないか。もっとしっかりとした土台が必要なのではないか」ということを考えなければならないのです。

ここで、みなさんに強調しておきたいことがあります。それは、いったい何かというと、「愛・知・反省・発展という四つの考え方は、それぞれを独自に、バラバラに探究すればよいものではない。また、それぞれが海の上に点在する氷山のように、バラバラに浮かんでいるものでもない」ということです。

さすれば、この「幸福の原理」は、どのような土台の上にあるのでしょうか。そうした土台をなすものがあるはずです。その土台をなすものが、実は「信仰」と言われているものなのです。

「信仰」というと、みなさんは、どこか遠いところにある神仏を拝んだり、他力を頼んだりするイメージが強いかもしれません。

しかし、「信仰の原点」はいったいどこにあるかというと、「みなさんが神仏によって創られた」という創造の秘密にあるのです。「みなさんが神仏によって創られた」ということを信じるか、そして、「神仏によって創られたみなさんが、永遠の生命のなかを無限の転生輪廻を繰り返しながら魂修行をしている」という説を信じるかということです。まずこれを問われているわけです。

これを信じるとき、そこに「信仰」が始まります。この信仰がない場合には、何も始まらないのです。信仰という土台の上に、「愛」も「知」も「反省」も「発展」もあるわけです。「正しき心の探求」もそうです。すべてに、信仰という土台があるのです。

したがって、信仰心というものを安易なものに思ってはなりません。あるいは、手垢のついたものとして考えてはならないのです。そうではなく、もっと深い根源的なものです。

【大川隆法『真説・八正道』第一章「序章」34p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第一章 目覚めよ
〇心の窓を開く
師というものは、弟子を観て法を説く、
弟子たちは、死から数多くの教えを学ぶために、
謙虚に心を開かねばならぬ。
謙虚に心の窓を開くことなくば、
仏法真理の光は、射してくることはない。
射してこないことは、光の罪ではない。
戸を閉ざしている己自身の迷いが、その罪なのである。
その迷いを取り去らねばならぬ。
生れ落ちてよりのち、
思想や教育、信条、家庭環境によってつくられたる、
その迷いを取り去らねば、
仏の声が素直にあなたがたの心に射しこむことはあるまい。
心を開き、素直な態度にて、教えを学ぶことだ。
そうすることによって、
あなたがたは初めて、
みずからの魂が、いかなる方向に求めているのかということを、
知ることができるのだ。

この魂の悦びは、何物にもかえがたいものだ。
仏法真理を知った悦びは、
どのような金銀財宝にもかえることができないほど
尊いものであるのだ。
たとえ、目の前に、山のごとく金銀財宝を積まれたとしても、
そのようなものに、目を奪われてはならぬ。
たとえ、いかなる地位にあなたを就けようと言われたとしても、
そのような言葉に、心揺れてはならぬ。
たとえ、世間の人々があなたがたをあざ笑うとしても、
そのようなことで心揺れてはならぬ。

私はあなたがたに、繰り返し繰り返し説いているはずだ。
あなたがたにとって、いちばん大切なものは、
魂を高めるということなのだ。
魂の糧になるものを選び取るということなのだ。
魂の悦びをもって、人生最大の悦びとせねばならんのだ。
魂の糧となり、魂の栄養分となるもの以外に対して、
心奪われてはならないのだ。

あなたがたは、名声から遠ざかっているがよい。
あなたがたは、
さまざまなる、この世的な評価から遠ざかっているがよい。
そのようなことに心を奪われて、
真実の教えを聞かないならば、
河原に生えた葦のごとく、
無常の風のなかで震えている以外の人生はないということを、
知らねばならない。
生命(いのち)ある人間であるならば、
尊き人間であるならば、
法を知ることの悦びを、すべてのものの上に置け。

【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
5 村娘

ゴータマはやがて、ガヤーの近くにある象頭山(ぞうずせん・ガヤーシーサ)の洞窟を出ました。丘の麓(ふもと)を下りていくと、そう遠くない距離にナイランジャナー河があります。川のほとりの、ウルヴェーラの森があるセーナーニ村で、心機一転して新しい修行の日々を送りました。

現在、スジャータ―村とも呼ばれているその村は、土地は美しく、林は清らかで、さわやかな風が渡り、流れは澄んでおり、修行に最適の環境でした。河で沐浴をしていると、やせた体が流れに足を取られることさえありました。

そうしたある日、河の向こうから、村娘の歌声が聞こえてきたのです。その歌は、懐かしい人間世界の歌のようでもあり、また、ある意味では、天上の世界の歌のようでもありました。

それはインドに昔から伝わる民謡の一つでしたが、当時の楽器で、現在で言うならば琵琶にあたるようなものについての歌でした。

「琵琶の弦は、強く締めれば切れてしまう。弱く締めれば音色が悪い。
琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい。
厳に合わせて、踊れや踊れ。現に合わせて、躍ろや踊ろ―」

そのときにゴータマが感じたことは、わが身とその村娘との対比でした。その村娘は、修行にやつれたゴータマにとっては、まるで天女のように見えました。美しい目の輝き、亜麻色(あまいろ)の髪、生命力にあふれた身体―。その全身からは、村娘という身分に似つかわしくない、素晴らしい香りが漂っていました。

それに引き比べ、わが身は骨と皮ばかり、目は落ちくぼみ、あばらは浮き出し、誰が見ても、いつ死んでもおかしくないような肉体でした。「三十五で、もう人生を終えてしまうのか」というような姿だったのです。

その村娘はゴータマの姿を見ると、橋を渡り、駆け寄ってきました。そしてスジャータ―と名乗ると、ひと椀のミルク粥を差し出しました。

その粥をひと口すすったとき、なんともいえない熱い涙が、ゴータマの両ほおを伝って流れ落ちていきました。そのミルク粥は、当時の食べ物としては決して高価なものではありませんでしたが、木の実や草の根を食べていたゴータマにとっては、天上の者とも思われるようなおいしさをふくんでいたのです。

そのときに流した涙の意味は、生命の喜びを捨てて苦行に生きている自分の姿の恥ずかしさ、虚しさだったと思います。

「修行することが、骸骨のような肉体となり、この地上の生命を断ってしまうということならば、それはいったい、いかほどの美をふくんでいるのか。いかほどの値打ちをふくんでいるのか。

このスジャータ―という村娘は何の悟りも得ていないだろう。法を学んだことも、修行をしたこともないだろう。そのスジャータ―が、なぜこれほど光り輝いているのか。まるで天から来た者のように輝いているではないか」

その違いは、結局、生きていこうとする者と、死んでいこうとする者とのちがいもあったと言えましょう。

思わず知らず、両眼からあふれ、ほおをぬらした涙―。ゴータマは「自分にはまだ、流す涙があったのか」と驚く半面、「生命を捨て、死につこうとする心は、いかに惨めでわびしいことか」ということを知りました。

この村娘との出会いが、ゴータマに次なるきっかけを与えることになったのです。それき、三十六歳になる前、三十五歳と数か月のころのことでした。

【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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