(1/26-2)26『永遠の仏陀』を読む―跳躍の時―魂の根っこ―羼提(せんだい)波羅蜜多

『永遠の仏陀』を読む

25 妖怪は、現代的には、個人主義・多様性・少数者の保護の美名に隠れやすい。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

71 ヒットラーとスターリンが地獄で、ピストルで決闘した。弾丸が発射された後、二人とも、さらに深い井戸の底に落ちた。近所にはサダム・フセイン用の井戸がもう掘られていた。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】

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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
1 歴史上の偉人たちに見る「武士道精神」
〇武士道精神に則った最期を迎えた英雄・シーザー

あるいは、古代ローマのシーザー(カエサル)も、先ほどのリンカンではありませんが、自分が暗殺される夢を何度も見ていました。妻からも、「議会に行くのはやめてください」と言われるのですが、それで、やはり三月十五日に行くわけです。

そして、階段のところで伏兵に囲まれて暗殺されるわけですけれども、そのなかには親友のブルータスまで入っていて、「ブルータス、おまえもか」という有名な言葉が遺されています。

「親友に刺されるなら、俺はそれだけ徳がない人間なのだろう。死ぬべき人間なのだろう」と思い、シーザーが死んでいくところなどは、やはり、武士道のようなものを感じるのです。「自分の命を生き長らえる」というよりは、何か、死に際を知っている者のような気がします。

シーザーは、ガリア戦争で、今のフランスやドイツあたりを中心に戦い、勝って勝って、連戦連勝の後に帰ってくわけですが、彼がいない間に元老院がローマを牛耳っていて、「シーザーをこのままローマに返すべきではない」というようなことを言っているのを聞くわけです。そこで、どうするかということですが、ローマには、「ローマの領土に、軍を率いて入るべからず」というような法律があったにもかかわらず、シーザーは軍を率いて国境のルビコン川を渡るのです。

ルビコン川というのは狭い川で、用水のような、ほんのちょっとした川なのですが、そのルビコン川を渡るのには、勇気が要ったはずです。ローマでは、法律というのは、けっこう厳格なものだったからです。そのような法律があり、「シーザー軍は入るべからず」という感じだったところを、シーザーは「ルビコン川を渡れ」と言って、一気に攻め込みます。そして、事実上の皇帝となりました。

それだけ戦いに強いシーザーが、最期は親友の手にかかって死んでいくところなどを見ても、私は何となく、武士道を感じるのです。先ほどの項羽の最期と似たようなものがあり、「自分の死ぬべきときが来た」「使命が終わった」といいますか、「ローマによる帝国づくりは終わった。使命が終わったので死んでいく」という感じがあるのです。

【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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2多様なる教えの統合【正思】
〇幸福の科学が多様な霊人の意見を紹介している理由

これまでに、私はいろいろな霊言集を出し、菩薩や如来をはじめとする多様な意識というものを紹介してきました。みなさんのなかにはそれを学んだ人も多いでしょう。ただ、多様さを多様さのままで放置しておいては、人間はいったいどの方向にむかっていけばよいのかが分かりません。

幸福の科学でさまざまな霊人の意見を紹介している理由は、一つには「個性の証明」という観点があり、そのために多様性を出している面があります。そして、そのような意味では、今後も「多様性」としていろいろな人のいろいろな考えが紹介されていくことはあるでしょう。

だた、一つの問題点として、九次元霊や八次元霊といわれる方でもさまざまな意見があるため、地上にいる人間にとっては意見の統一が難しく、なかには「どんな考え方を出してもよいではないか」といった意見も出てくるはずです。これは、「正思」という観点から見ると、どこかが危険なのです。

〇多様な意識の高下を平面的にしかとらえない地上人の限界

では、何が違っているのでしょうか。これを考えなければいけないわけです。なぜ、多様性を多様性のままで置いておくと問題があるのか、また、多様性の認識が出てくるのか。この点をもっと探る必要があるのです。なぜ、こうした教えや考え方が多様に見えるのかといえば、それは、私の意識の認識によるわけです。

私は、他の救世主や如来あるいは菩薩といった方々が、何らかの教えを説こうとして語りかけていることに関し、コメントすることはできますし、意識の上下の違いを説明することも可能です。また、彼らを教える仕事もしています。しかし、そのように意識の段階差があるものであっても、それを見た地上の人がそのまま模倣したらどうなるでしょうか。地上ではその違いがまったく認識できず、平面的にしか見えないわけです。平面的に広がった意識の違いでしかなくなるのです。

私は、それぞれの意識に横の空間的な違いがあるだけでなく、上下にも前後にも違いがあることもはっきりと分かっているので、「この人の考えは、霊界の座標軸に照らし、縦・横・高さで見るとどの位置にある考え方なのか」ということも分かります。

ところが、普通の人間には、平面的にしか捉えることができません。そのため、自分たちが座っている、あるいは立っている平面のどこかに割りあてようとします。すなわち、高級霊の意見の相違を、自分とは違う考え方を持っている人との意見の相違というように考えてしまうのです。これは、三次元以降の多次元空間の座標軸を、二元的、平面的に焼き直して理解しているということです。そのように翻訳の仕方に違いがあるということの意味を知らなければなりません。ここを間違うと、「正思」は絶対にできないのです。ここは根本であります。

〇多様な教えを統一する「エル・カンターレの法」

そこで、その次なる段階の教えとして、多様であったものを統一していく必要があるわけです。そういう教え方をしないと、人間は理解できず、混乱してしまうのではないでしょうか。

この統一をしようとしている意識がエル・カンターレなのです。九次元以下の考えをまとめようと、今、エル・カンターレの法を中心に説いています。

今後も、さまざまな霊言集が出るとしても、それらを、上位にある存在の考えで統合していきます。この意味において、考え方がまとまっていると言えるでしょう。

【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」94pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第四章 跳躍の時 
〇魂の根っこ
さて、では、
仏法真理を知った第二の跳躍の時、
第二の誕生の時、
心すべきことは、いったい何であるのか。

まず第一に心がけなければならないことは、
過去の自分を見つめるということなのだ。
過去、どのように生きてきた自分であるのか。
それを再確認せねばなるまい。
過去、己の生きてきた道筋をたどって、
一つひとつ、丹念に反省してみることだ。

この反省の時に、
仏法真理をよく心に描いて、
仏法真理に基づいて反省することができ者は、幸いである。
何が思ってよいことで、
何が思っては悪いことか、
何がしてよいことで、
何がしてはいけないことであるかは、
仏法真理の陽(ひ)の下に、
仏法真理の太陽の下には、
明らかである。
その時に、
過去、自分が間違って心に描いたこと、
間違って他の人々になしたこと、
そのようなことがあるならば、
深く深く、己自身を反省するがよい。

しかし、この反省は
己の思いと行いのみを反省するのみであっては、
まだ、充分とは言いかねる。
そうではない。
もっともっと奥深いところまで反省せねばならぬ。
それは、
己の魂の性質が、いかなるものであるかというところまで、
確かめねばならんということなのだ。
ある思いが出、ある行動が出るということは、
魂の根っこ、心根(しんこん)、心根(こころね)というべきもののなかに、
何らかの原因があるのである。
おまえたちは、
過去、自分が思ったこと、行ったことを振り返って、
そして、自分の魂の性質に、
いかなる根っこがあるかいうことを、
考えねばなるまい。
深く、深く、それを見つめるのだ。
その時に、
今世の己の魂修行が、いったい何であるかということが、
明らかになるであろう。
その努力を怠って、
単に、悪しきことを思ったならば、それを反省し、
悪しきことを行ったならば、
「もう、すまい」と誓うだけであっては、
まだまだ十分ではないのだ。
魂の根っこに、そのような傾向があるとするならば、
時間の経過と共に、
また、おまえたちは、
まったく同じことをなしてしまうのだ。
しかし、考えてみるならば、
魂には傾向性というものがあって、
この傾向性を切り替えることは、
非常に難しいことであるのだ。
ちょうど、まっしぐらに走る、あの新幹線が、
急ブレーキを踏んでも、すぐには止まらないように、
おまえたちの魂の傾向性も、
一種の慣性の法則のなかにあって、
急にブレーキをかけることもできなくば、
急にハンドルを右に切り、左に切ることも、困難であるのだ。

さすれば、私はおまえたちに言おう。
比較的早い時期に、
この己の魂の根っこに気づいた者は、幸いである。
残された時間、充分に努力し、
だんだん、だんだんに、
己の魂の性質を変えてゆくことに努力せよ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第四章「跳躍の時」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 六波羅蜜多の思想
6  羼提(せんだい)波羅蜜多

「羼提(せんだい)波羅蜜多」は、別名「耐え忍びの完成」ともいわれています。布施、持戒ときて、次に「耐え忍びの徳」が説かれているのです。

釈迦の人生を振り返ってみたとき、ここにも一つの特徴があるように感じられます。長い年月をかけて、みずからの心を開拓し、魂を向上させていくためには、どうしても「耐え忍び」ということが必要です。それゆえ、修行者の大切な徳目として、羼提(せんだい)波羅蜜多が与えられているのです。

考えてみれば、地上に生きている人間の焦りは、ほとんどが忍耐力のなさに起因しています。そして、その焦りが結果的にイライラを呼び、心を波立たせ、他人との不調和へと続いていきます。

人生に勝利していくためには、耐え忍ぶことがどれほど大切であるかを知ったとき、人間は一段高いところにいる自分を知るに至るのです。

羼提(せんだい)波羅蜜多は主に四つの内容から成っています。

第一は、焦りに対する警戒です。修行者は「修行者である」という理由によって長い時間、悟れないことに耐えていく必要があるのです。その耐え忍びを失ったときには転落が始まります。

第二は「忍耐」です。忍耐とは単に我慢することではなく、悔しい思いを心にとどめずに流していくことです。

釈迦の時代のみならず、現代でもあることですが、仏法真理を行じている過程で、他の団体から批判や非難が起きることがあります。その教えが本物のであればあるほど、そうした非難が強く巻き起こってきます。なぜなら、世の中には、は違ったもの、邪悪なものが数多く横行しており、真実のものが出ると、それは彼から目の敵にされるからです。

こうしたときには、彼らの攻撃によって毒を食らうのでなく、それに平然として打ち克ち、修行の姿勢を崩さないことです。この考え方も、修行者にとって大事な心がけの一つです。

第三には、身内の者の反対に対する耐え忍びがあります。三次元世界において、修行者は一種の前後際断を実行することになるので、修行に入る以前と以後とでは、自分の人生がまったく異質なものとなります。そのため、身内からさまざまな苦情や惑わしの言葉が出ることがあります。

彼らの言葉は愛から出ているのですが、それは、より高次な真理を知らないがゆえの三次元的愛なのです。彼らの常識論が修行者の前に立ちはだかったとき、いかに心の平静を保つかそして耐えていくかが大事になるのです。

第四には、魔に対する耐え忍びがあります。修行者は悟りに到る過程で、さまざまな悪霊や悪魔の惑わしを受けます。釈迦にしても悪魔・波旬(マーラ・パーピヤス)の惑わしを受けていますし、イエスもベルゼベフという悪魔の惑わしを受けています。

修行者にとって、魔による妨害は避けがたい面があります。悟りたる人が出ると、悪魔たちは地上の人間に憑依することが難しくなって、彼らの生活領域が奪われていきます。そのため、できるだけ早いうちに、そうした光をつぶしておきたいという防御本能が働くのです。

そこで、魔の妨害に耐え、打ち勝っていくことが、どうしても必要になります。心を光らせていく修行は、非常に消極的に見えるかもしれず、彼らを一刀両断にしたい気持ちも出てくるでしょうが、忍耐に忍耐を重ねて、なんとか乗り切っていく努力が大切です。

芯に光に至るためには、真に悟りに至るためには、どうしても魔の試練を受けざるをえません。そのとき、修行者にとって、耐え忍びということがとても大切な徳目となるのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2025年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ 大好き!

文責:蒲原宏史

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