24 妖怪は、時に、超能力や幻術を駆使する。しかし、自分のためであって、人助けのためではない。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
72 日本の神々は、戦争責任を取らなかった。高天原は、妖怪の巣窟と化し、国民と軍人は、何十年と、火炎と飢餓のなかを逃げまどった。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
1 歴史上の偉人たちに見る「武士道精神」
〇徳の人・劉備玄徳の母が教えた「武士としての生き方」
それから、「三国志」でも、劉備玄徳(りゅうび・げんとく)が筵(むしろ)売りをして、草鞋(わらじ)を編んで商売をしていたころに、厳しいお母さんに叱られた話がありましたが、これにも武士道を感じます。
当時、薬として売られていたお茶の葉は高価だったのですが、川を上ってきた洛陽の船で売っているということで、劉備はお茶の葉を「先祖伝来の刀」と引き換えにして買って帰って、病気をしていたお母さんに親孝行をしようとするのです。
これを聞いたお母さんが、「刀はどうした!」と言うので、劉備が「刀を売り払って、そのお金でお茶を買いました」と言うと、お母さんは、「出ていけ!」という感じで、泣きながら怒るわけです。
「先祖伝来のその刀は、お前が漢の王室の末裔であることを証明する大事な刀だったのだ。その”武士の志”を売り飛ばしてお茶の葉っぱを買ってきて、母親孝行のためだけに、『お母さん、どうぞ』とお茶を出すような息子に育てた覚えはない」ということで、家から蹴り出すぐらいの勢いで劉備は追い出されたのです。
これは、はっきり言えば、「武士としての生き方を教えた」と言うべきでしょう。このお母さんが津田梅子として生まれ変わったという説もあるのですが、そうかもしれないと思うこともあります。日本の女性としても鑑(かがみ)のような方であろうかと思いますので、そういう方がいて、武士道のもとが出てくるところもあります。
それから、劉備玄徳が武将になってからは、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が軍師について戦い、小さな戦いで勝つのですが、領民たちが劉備を慕って十万人以上ついてくるのです。領民を連れては逃げられないけれども、「敵軍はあまり評判がよくないため、どうしても劉備さんのところについていきたい」と言うので、「民を捨ててはいけない」ということで、民と共に山越えをして逃げようとします。ただ、やはり逃げ足が遅いので、とうとう敵に追いつかれて、さんざんに蹴散らされることになるのです。
初めて勝ち戦をしたあとに、軍師の言うことを聞かないで、また大敗をするわけですが、このようなときにも、「徳を中心に据えたものの考え方」のようなもの、つまり、「領民あってこその君主、皇帝であって、領民が慕う声を無視して、そういうものは成り立たない」というような気持ちはあったのでしょう。
こうしたところにも、武士道につながるものはあったような気がしますので、そういうものは連綿とあるのではないでしょうか。
【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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1正思の基準は神の心【正思】
〇「正しき思い」の根源にあるエル・カンターレ意識
では、この「正しき思い」という神の側の規定は、いったいどこに求めていけばよいのでしょうか。そのことについて考えてみたいと思います。
さて、八正道については、通常、人間のほうから出発して述べていますが、ここで、逆のほうから考えてみたいと思います。
地球系霊団には救世主の住む九次元宇宙界があり、その下に、魂の境涯に応じて八次元、七次元、・・・といった階層に分かれています。
九次元には十体の大霊が存在し、その中心にはエル・カンターレ意識があります。地球系霊団ではエル・カンターレが最高の立場におり、エル・カンターレを中心にした意思決定がなされています。
したがって、私たちが今、この正しき心の探求、あるいは正思の部分を突き詰めていくときに、いちばん関係があるのは、やはりエル・カンターレ意識であるのです。
エル・カンターレは、「大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ・法身として仏陀)と「大救世主」の側面を併せ持った存在です。要するに、「仏」と「神」とを合一させた偉大なる霊存在がエル・カンターレなのです。
エル・カンターレの名を地上ではいまだかつて知られたことがありません。これが、いわゆる「地球神」なのです。地球神とは「エル・カンターレ」と呼んでいる存在のことをいうのです。イエス・キリストに「天なる父」と呼ばれ、イスラム教では「アラー」とも呼ばれ、日本神道的には、「天御祖神」と呼ばれ、中国では「天帝」といわれた存在なのです。地球系霊団全体へ霊光線を発している大きな光です。
そして、それがある意味で「大日信仰」と言われたりしていたわけですが、それが、実はエル・カンターレと呼ばれる存在なのです。これまでの歴史の中で明確に説かれてはいませんでしたが、そのような存在が実在するのです。
このことが、これまでに明らかにされることがなかったのは、地球系霊団の歴史のなかで、エル・カンターレの本体としての下生は過去二度だけだからです。だだ、エル・カンターレの魂の分身が何度も地上に下りて人類を指導してきたため、そうした存在があるということは、いろいろなかたちで過去、推定はされていました。【※エル・カンターレの本体意は、約三億三千万年前に「アルファ」、約一億五千万年前に「エローヒム」として、過去に二度、地上に降臨している。『信仰の法』等参照。】
そして、現代、三度目の下生をし、「エル・カンターレ」の名を明らかにしたわけです。
【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」92pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第四章 跳躍の時
〇真の平等と自由
人間とは、まことにまことに不思議なものであることよ。
成熟した魂であったものが、母の胎内に宿り、
数か月、暗闇のなかで、魂の修行に耐え、
赤ん坊として、地上に生まれ出る時に、
ああ、過去の記憶は、一切、消し去られ、
どのような魂であっても、
平等に、ゼロからのスタートを切るのだ。
それを不合理だという者もあるであろう。
「それぞれの魂は、進化の速度が違うのであるから、
まったく同じように、ゼロからのスタートを切るということは、
不合理である」という人間がいても、
おかしくはあるまい。
けれども、考えてほしいのだ。
おまえたちがよく耳にする、
平等、そして自由ということの意味を。
真の平等とは何であるか。
いかなる境涯にある魂であっても、
母の胎内に宿り、
そうして、赤ん坊として、いったん生まれたならば、
すべて過去の事実を忘れて、
ゼロからのスタートを切るという点においてのみ、
人間は平等を享受できるということなのだ。
そして、自由とは何であるか。
ゼロからのスタートを切った赤ん坊が、
その個性を発揮し、
その思いによって、行いによって、
みずからの人格を形成し、
仕事をなしてゆく時に、
いかなる評価を受けるような人間になるかは、
各人の責任に委ねられているということを意味するのだ。
これが、平等と自由の本当の意味であるのだ。
さすれば、おまえたちは、
この事実を尊び、
また、この事実を恐れなければならない。
過去、いかなる人生を生きてきたとしても、
今世のスタートにおいては、いったん、
同じスタートラインに並ぶことができるということ、
これは尊いことだ。
「仏は、このような機会を与えられた」と、
おまえたちは悦ぶがよい。
たとえば、ある人間が、如来の境地を持って、
如来の心でもって生まれ来たったとするならば、
その仕事に、さらに拍車がかかることになり、
ある者が、凡夫の悟りを得て生まれ、
そのままに生きてゆくとするならば、
如来と凡夫の魂の境涯は、さらに開くことになるであろう。
ところが、同じくスタートを切ることによって、
お互いに、相手を別のものとは思わず、同じ人間だと思って、
魂の修行をなし、共に切磋琢磨してゆくうちに、
お互いの魂の輝きが違ってくることを見、
なぜであるかを考える。
そこに大いなるチャンスがあるということなのだ。
また、考えてもみよ。
地上に生まれてくる前の魂たちが、
いかに生き生きとしているかということを。
いかに悦びに満ち満ちているかということを。
この魂たちは、まさしく歓喜のなかにある。
もう一度、まったく白紙の状態で、
地上に生まれ変わることができるというのだ。
この悦びは、いかばかりであろうか。
それは、天にも舞いあがらんばかりの気持ちであるのだ。
「よし、いままでの過去と決別し、
そして、もう一度、やり直そう」と思う心の、
どれほどに尊いことであろうか。
しかし、やがて、成長と共に、
それぞれの人間は、
その魂の性質の赴く方向に、その成長をとげる。
ある者は、責任感強く、自分の心を律し、
他の人々を導くことをもって悦びとし、
ある者は、他の人々を害してでも、
何一つ恥と思うことなく生きてゆくようになる。
ここに、魂の大きな分かれ道があると言ってよいであろう。
しかし、私は思うのだ。
本来の平等と自由というものが、
このようなものであるならば、
この事実を知るということによって、
逆に、己の人生を設計することができるのではないかと。
己の人生は、再設計することが可能なのではないかと。
そうであってこそ、
また新たなチャンスが生まれるのではないかと。
この地上に赤ん坊として生まれる時が、
最初のチャンスであるとするならば、
仏法真理に気づき、人生を再設計することが可能になった時が、
第二のチャンスであると言ってよいだろう。
これが、魂の跳躍の時なのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第四章「跳躍の時」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 六波羅蜜多の思想
5 持戒波羅蜜多
次なる修行方法、修行目的として、「持戒波羅蜜多」があります。これは「戒めを保つ完成」とも呼ばれています。
修業というものに関して人びとがよく感じるのは、「戒律を必ずともなうのではないか。なんらかのストイックな生き方を意味するのではないか」ということです。こうした考えは、仏教だけでなく他の教えにもあります。
戒律で有名な宗教としては、イスラム教やキリスト教があります。イスラム教は非常に厳しい戒律が与えられています。
こうした戒律は何のために与えられるのかと言えば、修行者には地上的な誘惑が多いので、それから身を守るために一定のガイドラインを設けておくということなのです。
「正しい思い」「正しい行い」と言われても、凡人の頭ではなかなか理解できません。そのため、「少なくとも、こうしたことを守りなさい」この掟は破られないように」といった防波堤として、戒律があったのです。
釈迦は戒律を非常に大切なものと考えましたが、その理由の一つは教育効果という面にあります。ある程度のルールが与えられなければ、修行者たちは毎日の修行において、みずからを律していくことが困難なのです。
持戒波羅蜜多では、主として五つの戒が与えられます。それは「不殺生」「不偸盗」「不邪婬」「不妄語」「不飲酒」の五つです。「殺すなかれ」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「うそをつくなかれ」「酒におぼれるなかれ。誘惑に溺れるなかれ」と言い換えることもできます。
当時は人びとが殺し合うことが多かったので、まず、「不殺生」「殺すなかれ。殺生は罪である」ということを教えました。
次に、「不偸盗」「盗むなかれ」ということを教えました。盗みというのは、他人のものを略奪すること、あるいは与えられていないものをとることです。これは自分にとっては利益になることですが、その反面、他の人々を害し、その心を不安に陥れ、社会の規律を乱します。したがって、「盗むなかれ」という教えがどうしても必要だったのです。
次は「不邪婬」です。邪淫とは、結婚して祝福された相手以外の異性と交わることをいいます。邪淫がなぜいけないかと言えば、二つの観点があげられます。
一つは、家庭生活の維持という社会の規律を乱すことです。もう一つは、欲望に心がとらわれて修行ができなくなることです。こうした観点から、不邪婬という徳目を掲げたのです。
もちろん、国王やマハーラージャ(大王)が社会的に認められて多妃(たひ)を持つこと自体は、身分上必要とされて、邪淫の対象にはなっていません。
仏教は伝統的に、キリスト教の一夫一婦制をとっておらず、妻妾(さいしょう)というかたちで、歴代の王族を帰依させたこととも関連があります。
さらには「不妄語」です。不妄語には虚言、悪口をふくみます。一つは「うそをつくなかれ」ということです。また、他人の悪口や他人を中傷する言葉も、言ってはいけないとされていました。さらには、他人を陥れるような罠をかけることも禁じられていました。
釈迦教団で修行していた者たちのなかにも、他人の悪口を言うものが絶えませんでした。また、修行が進んだ人に対する嫉妬もありました。そうしたことへの反省もかねて、「悪しき言葉を発してはならない」という不妄語の規律を課したのです。
最後は「不飲酒」です。これは「酒を飲むなかれ」ということですが、酒を飲むこと自体が悪いかどうかは、また別の観点からの判断があります。実在界の高級霊たちも気分的に酒を飲むことがあるので、それ自体が悪いとは言えません。
また、インドの地酒には悪酔いするような悪質のものしかなかったことも、事実として指摘できます。さりには、酒飲みは怠け者というのが当時の通念でした。
ただ、飲酒は少なくとも精神統一を著しく妨げますし、向上心を失わせる面も、あります。そこで集団の規律のために、飲酒を禁止するという措置がとられたのです。すなわち、「己に克て」「誘惑や欲望に負けるな」という趣旨をともなった戒律だったと言えます。
以上が釈迦時代の代表的な戒律ですが、現代では法律に規定されているものも多く、現代的にはもっと違った戒めも必要でしょう。
【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2025年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ 大好き!
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文責:蒲原宏史
(1/25-2)25『永遠の仏陀』を読む―跳躍の時―真の平等と自由―持戒波羅蜜多
