(1/13-2)13『永遠の仏陀』を読む―真実の人となれ―無償のなかの悦び―正見

『永遠の仏陀』を読む

12 妖怪は、相手の恐怖心を見て悦び、優越感にひたる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

88 うぬぼれは天狗の心であり、修行者としては転落への道である。知識や情報は、悟りとは違う。だから、「疑い」のジャーナリズムが「仏国土ユートピア」を創ることはない。 

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、『天御祖神の経済学』の教えを確認します。
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■『天御祖神の経済学』
3 大きな力を持つ富の両面性
〇富の再配分によって中流階級をつくるという考えは正しいのか
天御祖神

さすれば、すべてのものが、いつも共産主義のように「平等な財産しかない」、あるいは個人財産、私有財産を否定して「もう国有財産しかない」というかたちで、また「子供までも、国家が面倒を見る。個人財産なるものはない」というふうな考え方をとる。

あるいは、そういう考え方は取らないけれども、「自由に経済活動はするが、それによって貧富の差は開いてくるので、これを再配分する」という思想によって、結果的には同じようなことを起こす。

そのように、「富める者から多く取って下に撒き、止めない者からは取らないで、そしてだんだんに中流階級というか、真ん中へんを増やす」という考え方は極めて出やすい考え方で、多くの納得を得やすい考えであるのです。

これは、選挙の投票などにおいては非常に支持を得やすいかたちではあると思うのですが、もう一つ、問題としては、中流階級は”一瞬つくる”ことはできますが、それを維持するのは簡単なことではないということです。少なくとも、先ほど言いました「希少価値のある仕事」というようなことになってくると、「それがみんなと同じ経済的効果を持つということが、果たして正しいのかどうか」という観点も一つあるわけです。

私自身は、(プロ野球選手が)大リーグに行って、ホームランを何本打とうが、あるいは、投手として何勝上げようが、何の関心もございません。ただ、それが記録的にも珍しいことであるならば、それを一生懸命やっている間に、何らかの本人の満足になるような効果はあってもよいのではないかなとは思っております。

その意味で、「弾を何球投げようとも、投げなくとも、給料が一緒」ということであれば、例えば、プロ野球のようなものは成り立たないだろうし、マラソンであろうがバスケットであろうがゴルフであろうが、ちょっと成り立たない。

将棋では、今は、まだ十九さんの方が三冠を取って、四冠を目指してやっているところでありますけれども(2021年説法当時)、このへんの確率になってくると、もう百万人に一人もなかなか行かない確率になってきます。

ですから、彼がそれだけ強いということに対して、それは、「将棋界、プロに登録している人は、名人であろうが、竜王であろうが、四弾であろうが、給料を全部一律二十万でやる」ということは、やはり、何らかおかしいということは感じられると思うのです。

それだけ賞を取って、何冠かを得ようとするなら、それはまた維持すること自体が難しいことですので、勝っている間に、何らかの本人の達成感があるということ自体は、私は決して地獄的なことであるとは思えません。

だから、「そんな十九歳に何千万円もの賞金は必要がない」という考え方で、バッサリ「一千万円を超えたものは全部没収する」というようなことをすることも可能ではありましょう。

ただ、全国の将棋人口は百万人を超えてたぶんいるのではないかと思いますし、将棋に関心ある人は百万人以上あって、アマもいっぱいいるとは思うけれども、そういうふうにはなれないのが普通であるので、何らかの意味で顕彰されることが、そうしたアマも含めて、将棋熱に入っている人のやる気を起こすという意味での善なる効果であるならば、一定の範囲での富の配分はあってもよいのではないかなというふうに思っています。

その反面、今度は負け始めたときには、その地位を譲ることは大変なことになります。

まあ、相撲でも、三十代ぐらいまでやれたらいいほうで、普通は三十歳ぐらいで引退だし、ボクシングでも三十歳ぐらいで引退です。

アメリカなどであれば、ボクシングのチャンピオンなんかになったら、豪邸に住んで運転手付きです。立派なところに住んで贅沢できますけれども、「タイトルマッチで負けたら、とたんにその自宅を売らなければいけない」というようなことは、よく映画でも描かれているとおりです。やはり、リスクを冒して成果を上げても、それをまた失うリスクも同じくらいあるような場合は、そういう社会主義的な、機械的な配分の平等というのは、必ずしも正しいわけではないのではないかと思います。

【大川隆法 『減量の経済学』第2章「天御祖神の経済学」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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5正しく人を見るための判断基準

では、「他人を見る」「自分を見る」ということの正しさは、いったい、どこに力点を置いて捉えなければいけないのでしょうか。どういうところに注意してみなければならないのでしょうか。

①映像を客観的に捉える
他の人を見る際の判断基準を述べると、第一段階においては、「目に映った他人の姿」を情報として客観的に捉えることが大事です。

第一段階においては、主観で交え、それを判定しようとしてはなりません。まず客観的に見ることです。どういう人となりであるか。どういう行為であるか。どういう表現の仕方であるか。どんな表情であるか。これをまず客観的に捉える必要があります。

このときには、できるだけ「無私」であることが大事です。私心を入れないで、まず観察をする。これが観察の第一段階です。

【大川隆法『真説・八正道』第二章「正見」59p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第二章 真実の人となれ
〇無償のなかの悦び

いま、りんごの実のたとえを示した。
そう、その言葉を、もう一度、
深く、心のなかで味わってもらいたいのだ。
人生は、このリンゴの木が、
他の人々に食べられるために、
味のよいりんごをつくっていることに似ているかもしれない。
りんごをつくった農家の人は、
その対価としての金銭を受け取るかもしれない。
けれども、その実そのものをならせた、肝心のリンゴの木は、
何一つ、金銭を受け取るわけではない。
何一つ、褒美をもらうわけではない。
「よく、こんなに実らせたね」という、
感謝の言葉を受けることもない。
しかし、彼らは、彼らの人生を歩み続けているのだ。
りんごの木として、生命(いのち)のあるかぎり、
毎年、毎年、見事なりんごの実をたわわに実らせてこそ、
悦びがあるということを知っているのだ。
彼らは、他の者からほめられないからといって、
その翌年に実を実らせないということはない。
彼らは、たとえ虫に喰われようとも、
風に吹かれようとも、
嵐に打たれようとも、
自分の力の範囲で、最高度のものをつくろうと、
日々、努力しているではないか。

そうであるならば、おまえたちにも言っておきたい。
「一生懸命に生きているのに、他の人がほめてくれない」と言うな。
りんごの木であっても、称讃など求めていないであろう。
ましてや、おまえたちは、人間として、
りんごの木以上の存在ではないか。
そうであるならば、
他の人の称讃を求めるな。
他の人から褒美をもらうことを求めるな。
たとえ認められなくとも、その使命を果たしてゆくのだ。
りんごが、その時期を過(あやま)たずに、その実をつけるように、
毎年、毎年、人間としての、その使命を果たすために、
一年、一年に、その実りを収穫してゆかねばならないのだ。
あのような木であっても、
一年に一度は、たわわな実りをつけるのだ。
ましてや、優れた存在である人間であるならば、
毎年、毎年、たわわな実りをもたらさねばならない。

そして、それがたとえ、他の人によって、もぎ取られ、
一円の価値を生むこともなく、食べられるとしても、
その人たちの悦びを、わが悦びとしなさい。
他の人々が自分の実を食べて悦んでいる姿を見て、
それを自分の悦びとしなさい。
無償のなかに、真の悦びを感じなさい。
一年のうちに、どれだけ多く、
他の人々を喜ばせるだけの果実を、実らせることができたか。
それが、
あなたがたが優秀な木であるかどうかを示しているのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第二章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 八正道の発見
3正見

それでは、八正道の最初の項目である「正しく見る」「正しい見解」ということについて、深く考えてみましょう。これは、先入観を排除し、白紙の状態にものごとを置いて、智慧の眼で見るということでもあります。

人間の営みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。

したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるいに分けていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。

そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、自らの内に深く深く入っていく必要があります。そしいて、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。

この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。

ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。

その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。

しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語(たいげんそうご)し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。

ここが見方のわかれるところなのです。

この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。

その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。

正見には、ここまでの作業プロセスが入っていると考えるべきです。

もちろん、仏教的には、「苦」「集」「滅」「道」の四諦のプロセスで観察するとか、縁起の理法を通して、ものごとを「原因」「結果」の連鎖でとらえるといった専門的な解説も可能です。

【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2025年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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