(1/1-2)1『永遠の仏陀』を読む―目覚めよ―仏弟子の証明―出家

『永遠の仏陀』を読む

妖怪「お多福」とは、天照大神の恐怖の変化身がそうなる場合がある。巨大な「お多福」化して、恐怖の変化心をつくることがあるようだ。この本を校了するにあたり、激しく襲われて、生命の危険を感じたほどだった。

二〇二三年二月一八日

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

100 信仰は三世を貫くものである。たとえ、宇宙時代が到来しても、エル・カンターレの法は、全宇宙を網羅していることを信ぜよ。

・地獄へ往(ゆ)くかもしれず、あるいは既に往(い)っている人にとっては、本書を読誦(どくじゅ)してもらうことで、お経のかわりにもなるだろう。(あとがきより抜粋)

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、『天御祖神の経済学』の教えを確認します。
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■『天御祖神の経済学』
1お金が存在しない実在界における経済学とは
〇金銭に執着するものが多い「四次元」、「感謝の経済学」の「五次元」

天御祖神
本章では、今、日本の国と世界のおいて大きな問題にもなりつつある経済のあり方に指針を与えるべく、その根本的理念・考え方を語りつつ、向かうべき方途について語りたいと思っております。

まず、この世に生きている人間というのは、お金という存在を当然のものだと思って、すべてを、それを中心に組み立てることに慣れ過ぎているのではないかというふうに思います。しかしながら、これも、「間違えば、ある意味において唯物論的な世界観である」ということを忘れてはならないというふうに思うのです。

この地上を去った実在界においては、現実にお金というものは使われておりません。無くなくとも、少なくとも、ある程度の霊的な覚醒を終えている者にとっては、お金は必要ではありません。

それを求めているのは、この地上・三次元世界とほぼ同居している四次元以降における、地獄界と幽界といわれる低位霊界のみにおいて、貨幣や紙幣あるいは金貨、それに準ずるもの等が存在するように思って、それを欲しいと思い、また、それを利用し、自らの地位や権力や、あるいは野心や虚栄心を満たさんとして、うごめいている人たちです。実際は唯物論的な意味における貨幣や紙幣等はないにもかかわらず、そういうものがあるかのごとく、それを求め、求め、求めている亡者のごとき存在や、あるいは、地獄的亡者ではないにしても、その世の延長としての、そうした貨幣経済・金銭に執着している者は、数多く生きてはいます。

しかしながら、ある程度の霊的な悟りを得た、五次元以降の世界といわれる所においては、人間は「自分の本体が霊的存在である」ということを悟っているため、そうした金銭とか、それに類似するものに執着する心は失われていきます。

それに代わりて存在する経済学は、「感謝の経済学です」そこでは、「人に対する感謝の思い・お礼の思い」、それから、「自分自身に対する、これだけの仕事をやったということに対する満足感」、あるいは、「ある種の、正しい意味における自己肯定感」、こうした情念的なるものが、貨幣に変わるものとなっています。

それゆえ、この世界においては、より多くの人びとの役に立った人は、数多く人たちから感謝・報恩の気持ちを受けるようになり、それがその人の心の豊かさになっています。

ですから、多くの人びとに感謝されるような生き方を日々重ねている人たちには、それなりの尊敬や敬意、人々の取り扱い方というものが現われてきて、「それらの行為が神仏の心に適ったものである」ということを示すようになります。これが五次元という世界です。

【大川隆法 『減量の経済学』第2章「天御祖神の経済学」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、反省の原点を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指します。
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■反省の原点■
〇反省即発展
反省とは、結局、そうしたことなのです。人間として生きている以上、どうしても、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根に支配され、振り回されていきます。したがって、肉体中心の発想を取り去り、本来の魂としての自分を見直すこと―これが反省の原点なのです。これが反省の出発点であり、反省はここから始まっていくのです。

そして、魂としての自己、自らの良心に基づいて、自分がいったい何に惑わされているかを見つめるのです。食べ物、お金、肩書、家柄、学歴、名刺などは、この世的なものであって、あの世には持っていけないのです。こうしたものに執着して、どれほど苦しみをつくったかを考えなければいけません。

来世に持って還れるものは「心」しかないのです。預金通帳であろうとなんだろうと、心以外のものは何も持って還れないのです。

もちろん、財産は大事です。財産があるがゆえに、地上での生活は便利になるでしょう。それを否定しているのではありません。「そうした財産にとらわれる心を否定しなさい」と言っているのです。また、異性が悪いわけではありません。男性があり女性があってこそ、人間は種族の保存ができ、この人間世界は成り立っていくことができます。したがって、異性がいけないと言っているのではないのです。「異性に執(とら)われて、本来の自己、本来の姿、本来の魂の自由を失うことを恐れよ」と言っているのです。

六根は便利なものです。この感覚器官があればこそ、この世の修行をしていくことができます。しかし、それに振り回されてはならないのです。ちょうど、包丁というものが、料理には便利であっても、同時に、人を傷つけようと思えば傷つけることができるように、人間の感覚器官を喜ばせること自体が目的になっていったときには、不幸を呼びこむことになります。そして来世、それぞれの心の趣(おもむ)くままに、その心にふさわしい世界へ行くことになるのです。

たとえば、この世では、自分の好きな人間にばかり会うことはできません。嫌いな人にも会うでしょう。菩薩であろうと、そうでない人であろうと、どのよう人にも好き嫌いの気持ちはあるでしょう。

ただし、菩薩であるならば、嫌いな人に会って、「この人が憎い、殺してしまいたい」というような思いが出たとしても、「いや待て、これは本来の私の心ではない。人間はすべて、仏の子としてダイヤモンドの光を宿しているはずだ。彼のなかにも、よきものがあるのではないか。それをよく見よう」と考えることができるのです。

あるいは、「この人はいま間違っていけれども、この人を正しく導くことができるのではないか。この人に憎まれるかもしれないが、この人を叱って、正しい道に入らせよう」「この人をそのように憎く思う自分自身のなかに問題はないのか。自分自身の見方に間違いがあるのではないか」と考えられるのです。

しかし、「この人は憎いから殺してしまいたい」とストレートに思い、なかには、ほんとうに殺してしまうところまでいく人もいます。これは地獄への道なのです。

このように、同じ人、同じ事件といった、同じ対象に対しても、人の心はさまざまな反応をします。そのことを、※「一念三千」と言いました。人の心は、三千の針を持っているかのごとく、あちらを指したり、こちらを指したりします。すへては本人の心の現われです。世界はすべて、そのように現われてくるものなのです。

このような話を聞く、みなさんは、「ああ、自分は天国に行く資格がない」と思うかもしれません。しかし、嘆くことはありません。みずからの愚かさに涙を流した人間であってこそ、立ち直ることができます。みずからの愚かさを涙をもって知ればこそ、人間は賢い存在へと変わっていくことができるのです。みずからを愚かであると知った人間は、もはや愚かではなく、みずからを賢い人間だと思って愚かさに気づかない人間こそが、真に愚かな人間なのです。

この世には、魂修行の材料が山のようにあります。すべての人に、それぞれ何らかの人生修行の材料が与えられています。

しかし、私の言葉をよく心に留めておいてください。

「同じ水を飲んで、蛇はそれから毒をつくり、
同じ水を飲んで、牛はそれからミルクをつくる。
同じ水を飲んで、蛇は毒をつくり、
同じ水を飲んで、牛は乳を出す」

同じ水であっても、蛇の身体、牛の身体という肉体を通して出てきたものは、それぞれ全く違ったものになっていきます。

魂学習において、同じような材料を与えられたとしても、それをミルクとし、バターとし、チーズとすることのできる人もいれば、それを、蛇のように毒としてつくっている人もいます。それほど、この地上生活というものは極端に分かれていくものなのです。

幸福の科学には、「反省」の教えも「発展」の教えもあります。反省をとるか、発展をとるか、ということで迷う人もいれば、自分は反省向きである。あるいは、自分は発展向きである、というように選択する人もいます。

しかし、私はみなさんに、こう言いましょう。「反省即発展」であると―。

己の過ちを、間違いを、愚かさを正すことは、すなわち、人間としての発展なのです。そこに、発展の道も、向上の道も、また開けてくるのです。

限りなく仏法真理を学んでいきましよう。そして、この地上のあらゆる物質的な材料をとおしての魂修行のなかから、珠玉の真珠を、黄金を、ダイヤモンドをつくりあげましょう。それが、みなさんの人生修行の最終の意味であってほしいと思います。

【大川隆法『信仰告白の時代』第3章「反省の原点」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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改訂新版・まえがき

仏陀の教えには、深遠な真理が、平易な言葉で述べられている。
これをもって「最高」という。
また、投網を打つかのように、すべての人の機根に合わせた心の法が説かれる。
これをもって「最大」という。
さらに、揺るがない静かなる自信に裏打ちされた言葉で語られる。
これをもって「最強」という。
永遠の仏陀の法は、限りない神秘性と、冴え渡る合理性とを融合しつつ、ガンジス河のように、滔滔と流れてゆく。
二千五百年前の真理は、現在(いま)もまだ真理であり、三千年の後にも、真理であり続けるだろう。
これをもって、「最勝」と称するのである。

一九九九年 盛夏
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法
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まえがき(旧版)
『仏陀再誕』(幸福の科学出版刊)に引き続き、この『永遠の仏陀』という書物を世に送る。
これは、最高、最大、最強の教えであるがゆえに、また最勝の教えでもある。
本書を手にし、そして読み進むならば、あなたがたは、確かなる勝利を手にするであろう。本書を読み、味わい、理解し、かつ実践して、人生に敗れるということはありえない。あなたがたは、いま、最高の瞬間を手にしているのだ。
この書を欲と読み進むがよい。さすれば、あなたがたが単なる物質の塊ではなくて、黄金色に光る永遠の存在であることが分かるであろう。

一九九一年 七月 
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法
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第一章 目覚めよ
〇仏弟子の証明
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
ふたたび、あなたがたに、大切な話をすることとしよう。

あなたがたの多くは、地上に数十年の人生を生きてきて、
かつてみずからが続けてきた、魂の修行を忘れているに違いない。
しかし、私は言っておく。
あなたがたは、過去、幾転生のなかを、
仏弟子として生きてきたのだ。
永い長い転生の過程を、
わが弟子として生きてきたのだ。
自分の心の内に、よくよく問うてみるがよい。
さすれば、深く、深く、求めるものがあるであろう。
道を求める気持ちがあるであろう。
何か崇高なるもののために、
たとえ、その道、厳しくとも、
力強く生きたいという願いがあるであろう。
その強い願いこそ、菩提心というべきものであるのだ。
かつてわが弟子であった証明は、
あなたがたの心に菩提心があることだ。
みずからの内を振り返りみて、
あるいは、かすかなりといえども、
深い、深いところまで求めている、ただならぬ心があるならば、
その人は必ずや、
かつて仏弟子であったと言って間違いないはない。
そう、そのようなあなたがたに、
私は、大切な話をしておくこととしよう。

【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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釈迦の本心
第一章 菩提樹下の悟り
1出家
本書では、『釈迦の本心』と題して、ゴーダマ・シッダールタ、いわゆる釈迦(釈尊、釈迦牟尼仏、仏陀)の悟りと、悟りを得てからのちの行動について、主としてその本心を探っていきたいと考えています。

したがって、背景説明はごく簡単なものとなりますが、「釈迦は出家してよりのち、いかにして悟りを開いたか。そして、数十年の伝道期間をいかに生き、いかに考えたか」ということを、その内面からとらえていきたいと思います。

釈迦の出家に関しては、すでに数多くの仏教書に書かれており、その内容も、八割がたはそのとおりと言ってよいでしょう。

釈迦の出家の理由は主として三つありました。

第一の理由は、内なるささやき、心の内からのうずきです。それは「王宮での安楽な生活のなかでは、どうしても自己の本懐を遂げることができない。何かもっと大きなものが、未知なるものが、自分を待っている」という、内からの強い衝動でした。

現代風に言うならば、野心家の青年が郷里を出るときに「何か大きな仕事をして名をあげよう」と思う気持にも、ある意味では似ているかもしれません。あるいは、将来の資質、天命の予感と言ってもよいでしょう。

それでは、第二の理由は何でしょうか。仏伝ではよく、「生老病死」に対する疑問の探究があげられています。これについては現在では、象徴的、寓話的に語られているようです。

「カピラヴァストゥに東西南北の門があり、東門より出づれば、年老いて老醜(ろうしゅう)をさらしている人あり。南門より出づれば、病の人あり。西門より出ずれば、病の結果、死んでいく人あり、北門より出づれば、出家者あり」

このように、「生老病死」で苦しんでいる人を見て初めて、「なぜ、そうしたことがあるのだろうか」と疑問を持ったと仏伝などには出ています。

しかし、そうしたことを二十九歳で初めて知るというのは、ありえない話です。本当の理由は別にあったのです。

ゴーダマが住んでいたカピラヴァストゥでは、月に一度ほど、出家修行者を呼び、その話を聞くという習慣がありました。現在、日本の皇室に御進講(ごしんこう)というものがあるように、当時のインドの王宮でも、月に一回は、出家して悟りを深めている人を招き、その話を聴いて学ぶということが、習慣として行われていたのです。

ゴータマは宮中の者たちと一緒に、そうした師匠の話を聴いていました。しかし、宮中の他の人びとは、出家者たちの話に心を打たれ、心を動かされていたのですが、ゴーダマだけは、彼らの話だけではどうしても納得がいかず、「彼らがやっていることは、実際、何なのか。ほんとうの悟りとは何なのか」ということに対して、強い哲学的衝動を持ったのです。

これが出家の根本の理由です。すなわち、王宮に来ていた僧侶たち、修行者たちの言葉に対する疑問の追究、探求ということです。

第三の理由は、「ひとりになって自分を見つめたい」という気持が強かったことです。

ゴータマは非常に瞑想的な体質であって、十代前半より、ひとりでもの思いにふけり、考えごとをするのが好きでした。しかし、当時のインドの王族の習慣にならって、納妃(のうひ)の儀がとりおこなわれ、第一妃ヤショーダラーをはじめ、第二妃ゴーパーや第三妃マノーダラー、侍女出身の側室である美女ムリガジャーの四人の妃がいました。

当時、妃が複数であった理由は、①王家の子孫を確実に残すため、②別々の宮殿に妃を住まわせ、王(王子)の居所を一定とせず、敵の夜襲を避けるため、③国政がただひとりの妃の意見で左右されないため、④王としての威厳を保つためなどでした。

ゴータマは美貌のゴーパーと最初に結婚し、次に身分も高く、誇り高いヤショーダラーを第一妃としました。のちにヤショーダラーは一子ラーフラのあとを追って出家し、尼僧となります。【※ヤショーダラーは現代に大川家長女、ラーフラは大川家三男に転生しています】

ゴータマは、毎日、そうした妃たちとの会話を重ねるにつけ、現代風に言うならば、「女性というものは、どうしてこれほどまでに、現実的でゴシップが好きなのか」と考えこんでしまったのです。女性たちの嫉妬心や独占欲にほとほと疲れたのも事実です。

こうした環境のなかでは、瞑想や哲学的思索にふけることが非常に困難でした。それゆえ、「なんとかして、ひとりになりたい」という気持ちがつのってきたのです。

また、自分のまわりには、妃たちだけではなく、さまざまな侍従や侍女がいて、ものごとを何か一つ決めるにしても、あるいは、なんらかの行動を起こすにしても、彼らの許可を得たり、伴の者を同伴したりしなければなりませんでした。そのために、「ひとりになって自分自身を見つめたい」という気持が強かったのです。

しかも、当時のインドの文化風土では、跡継ぎができて、残した妻子が十分に生活できるだけの経済的余裕がある人は、出家して山林修行者となってもよいことになっていたのです。今日の留学の考え方や、郷里から上京して勉強することなどに相当すると言ってよいでしょう。

このように、釈迦の出家には、主として三つの動機があったと言えます。

【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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