(4/8-1)98真理の言葉『正心法語』を読む ㊴仏国土という奇跡―霊言集は「霊界や神仏が存在する」ことの証明

『正心法語』を読む

64 敵にも愛されるぐらいの「美学」を身につけたいものだ。
65 「実るほど頭を垂れる稲穂かな。」地位が上がるほどに、腰の低い人間となれ。

【大川隆法 箴言集『仕事への言葉』より】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

4月21日は主の伊勢支部御巡錫記念日です。2013年4月21日大川隆法総裁先生が伊勢支部に御巡錫されて御法話『信仰心と国を愛する心について』を賜りました。この御法話は経典『日本建国の原点―この国に誇りと自信を』の第一章に所収されています。経典をお持ちでない方は支部や精舎、書店にてぜひとも拝受ください。【1800円(税抜)】

この聖なる日に向けて、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

ここからは、伊勢支部御巡錫御法話―『信仰心と国を愛する心について』を振り返ります。そののち、『仏説・正心法語』をともに読んでまいります。
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■『信仰心と国を愛する心について』
2神や偉人の歴史を消し去ろうとする左翼史観
〇霊言集は「霊界や神仏が存在する」ことの証明

そういう考え方からすれば、「数百人に上る霊人が登場する霊言集が、現在、シリーズで百五十九冊もでている(説法当時・2024年時点で600冊以上)」などというような広告を見た場合、「これは、どうせ詐欺でしょう。手分けして書いたのでしょう」ということになるわけです。

ところが、こうした霊言には、いまのところ、全部、私が話した証拠が残っています。その映像は、すべて幸福の科学の支部や精舎等で公開しており、髪型やネクタイぐらいは変わっていますが、それを語っているのが私であることは間違いありません。

また、原稿を読んでいるわけでもないですし、もし、そうした霊言を、全部、原稿に書いたものを暗記してやっているのであれば、私の頭脳はものすごく強力で優秀な頭脳ということになるでしょう(会場笑)。

私も、そのような頭脳になりたいとは思います。「違った内容の本をすべて丸暗記して、ひと言も間違わずにそのまま再現できる。誰かが書いてくれた原稿を丸暗記して、毎日のようにでも”霊言”ができる」というような頭脳には憧れますし、「そんな頭があれば、これほど苦労はしないだろう」と思います。

しかし、それは無理です。そのようなことはできないし、また、それほどの名優でもありません。日本一の俳優として認められるほど、演技力が豊かでもないのです。

やはり、真理は簡単なところにあります。結論は簡単で、「実際に、この通りのことが起きている」というだけのことなのです。

これまで、三十年近くいろいろと活動してきて、いろいろな取材を受けたり、いろいろなことを裏からたくさん探られたりしました。また、元信者や元職員なども数多く取材を受けていますが、いまだに「霊言なるものがインチキだった」という証拠は、一度も出たことがないのです。そもそも、インチキをしていないので出るわけがないのですが、そうしたものは一度も出ていません。

つまり、大きな力が働いているわけです。「このようなことができる」ということは、「天上界がある。霊界がある。神仏が存在する。ということでしょう。西洋的に言えば、「天使が存在する」ということであるし、東洋的に言えば、「如来や菩薩が存在する」ということに、ほかならないわけです。

【大川隆法『日本建国の原点―この国に誇りと自信を』第一章「信仰心と国を愛する心について」より抜粋】
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本日も、『正心法語』についての思慧を共に、深めてまいります。
さて、
真理の言葉『正心法語』は、「光」にはじまり、菩薩の誓願にて終えています。

主が「正心法語」で私たち、400億人(『太陽の法』に依る)といわれる地球系霊団の魂に共通して教えたかった、地球人として根本的に大切な教えとは、このように、宇宙創造のはじまりが「光」であったこと、光がこの地球を統治して菩薩と共に「仏国土」を建設していること。そのために、地上と天上の闇を打ち払うために「光の菩薩」が、太陽のように仏の光を広げていること。この光の菩薩になることを誓願するために、「正しき心の探求」によって仏の御教えを手本として、仏の生命である光と愛と仏法真理(悟り)を語り伝える伝道師になることを誓願しています。

「幸福の科学」の教えの中心と理念は「愛と悟りとユートピア建設」ですが、この理念がしっかりと『正心法語』のなかに埋め込まれています。だから、この経文を読誦することで、救済の仏の助力者としての菩薩になる決意を固めるとともに、その救済業を展開するための力を、仏からいただくことができるようになります。この点において読経の習慣化はとても大切なものです。

このように正心法語では、仏国土ユートピアがメインテーマの一つになっています。仏国土
については、大乗経典の『維摩経』において、大黒天であり、熱心な仏弟子である宝積という名の菩薩が天蓋(てんがい・様々な宝飾を施した日傘)をお布施したのち仏陀を賛美したのち、仏陀が宝積を祝福して、仏国土について説く場面があります。本日は武者小路実篤さんの『維摩経』からその対話を抜粋いたします。
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〇宝積が仏を賛美し奉る歌
宝積の賛美の歌はさすがに美しい。

「目はきよくして長大なること青蓮のごとく、
心はきよくしてすでにもろもろの禅定をわたり、
久しく浄業を積んで弥無量なり、
衆を導くに寂を持てしたまう。
かるがゆえに稽首(けいしゅ)してたてまつる」

かくして宝積は仏陀の教えを讃嘆する。
少し長いが仏陀の賛美は同時に理想人の賛美である。仏教でどんな人間を理想人と見ているか、それを知ることは、この経を知るのに大事なことと思うから、かくことにする。

「大聖の神変力をもって、十方無量の世界を現わし、
その中のもろもろの仏法を演説したまいて、いっさいをすべて見聞させたまう。
法王の法力は群生を超え、常に法の財(たから)をもっていっさいに施し、
よくもろもろの法相を分別し、第一義において動かず。
既に諸の法において自在を得たまえり、
このゆえにこの法王を稽首(けいしゅ)してたてまつる。

万有は有にあらず、無にあらず、
因縁のゆえに万有は生ず、
我もなく、つくるものもなく、受けるものもなけれども、
善悪の業また亡びずと説きたまう。

始め仏の菩提樹のもとにあって、
力よく魔を下し、
甘露の滅を得て覚道を得たまえり。
すでに心意なく果報を受くるなく、
ことごとくもろもろの外道を摧伏して、三度法輪を転じたまい、
その輪常に清浄、
天と人と、道を得、これを証し
仏と法と僧と、世間に現わる。
この妙法をもって群生を救い、
一度受くれば退かず、常に寂然、

老、病、死を度する大医王、
法海の徳、広大無辺、礼すべし、
毀誉に動ぜざること須弥山(しゅみせん)のごとく、
善と不善とに平等に慈しみを与え、
心の平等なること虚空のごとし、
誰か人宝を聞いて敬承せざらん。

今世尊にこのささやかな天蓋をたてまつるに、
世尊憐れみて、
全世界、ことごとくその蓋(がい・ふた)にておおいたまう。
人々その稀有なるを見てみな仏を讃嘆したてまつる。
今われも三界の尊者に稽首(けいしゅ)してたてまつる。

大聖法王は衆人の帰する所、心きよくして仏を観たてまつるによろこばざるはなし。
各々世尊のその前に在すのを見る
これすなわち神変不共(じんぺんふぐう)の法なり。
仏は一音にて法を説きたまえども、衆生はその身に応じて各々悟りを得、
皆謂えらく世尊その語を同じくしたまうと。
これすなわち神変不共の法なり。
仏一音をもって法を説きたまども、衆生各々その力に応じて受けとって利を得る。
これすなわち神変不共(じんぺんふぐう)の法なり。
仏一音をもって法をときたまう。
ある者は恐畏(くい)し、ある者は歓喜す。ある者は厭離(おんり)を生じ、ある者は疑を断ず。
これすなわち神変不共の法なり。

十力(十種のすぐれた力の主、仏のこと)の大精進を稽首し、
すでに無所畏を得たまえるを稽首しまつる。
不共の法に住したまえるを稽首し、いっさいの大導師たるを稽首しまつる。
よくもろもろの結縛を断じたまえるを稽首し、すでに彼岸(さとり)に到りたまえるを稽首しまつる。
よく世間を度したまえるを稽首し、永く生死の道を離れたまえるを稽首しまつる。
ことごとく衆生来去のすがたを知り、善く諸法において解脱を得たまい、世間を著せざること蓮華のごとく、常に善く空寂の行に入る。
諸法の相に達してさわり無し、空(みそら)のごとく所依なきを稽首したてまつる」

この仏陀の境地にすべての人を導き入れたいためにこの経はかかれたと言ってもいいように思われる。

〇仏陀、宝積の請いにより説教される
だんだん話は佳境に入るわけだ。しかし本文はまだまだ先だ。それだけ楽しみなわけだ。この作者はどこまで深く、こまかく真理の山をわけのぼることができたか、われらはそれを知ることを楽しみにしても、損はしないと思う。
宝積は仏陀を讃嘆したあとで仏陀におたのみした。

「私たちは仏様の御心のような、無上智を得たいとおもいます。そして仏国土の清浄を得たいと思います。どうぞもろもろの菩薩の行についてお話しください」

仏陀は喜んで承知され、そして、
あきらかに聴け、あきらかに聴け、善くこれを思念せよ、まさに汝の為に説くべし」と言われた。こう言われては宝積始め、皆、注意して聞かないわけにはゆかない。
自信の強い作者でなければ、こういうきっかけをつくって、仏にしゃべらすことはできなまい。仏に下手にしゃべらしたら、もの笑われだから。しかしこの作者にそんな心配は無用であろう。

仏は言うのだ。
「宝積よ。衆生―いっさいの生物は菩薩にとって仏土である。なぜなら菩薩は衆生を感化して衆生の内から仏土をとり出し、もろもろの衆生を調伏して仏土を取り出す。もろもろの衆生がその仏の智慧をうる国によって仏土を取り出し、もろもろの衆生がどこの国で菩薩の根を起こすかによって仏土をとる。なぜと言えば菩薩が浄国を取るというのは、もろもろの衆生を饒益(にょうやく)するからだ」

衆生を救うことがつまり仏土だというのだ。天国に入れるものは残らず天国に入れようとするのが菩薩の道でもあるのだ。衆生の心の内に仏土があるのだ。キリストは言う「神の国は汝らの内にあり」と、それと暗合していると見ても、そうたいしたちがいはない。人心―他の動物のことは他の動物に任せるとして―人心の内から仏土を取り出し、そこに菩薩はすむのだ。だから仏陀はつづけて言う。

「たとえば人有りて空地に空室を造立せんと欲すれば、意(こころ)に随いて無碍(むげ)なるももし虚空に造立しようとしてもつくることができないようなものだ。菩薩も格のごとく、衆生を成就せんがために仏土を取らんと願う」

衆生―僕は人間だから人と言おう―人間の生命を完成するために、菩薩は人間の心の内の仏土を取ろうと願うのだ。

よく見ている。感心する。
「だから仏土を取ろうと願うは空においてするにあらざるなり」
同感。そこで仏陀も調子にのって言う。
「宝積!まさにしるべし、直心(じきしん)はこれ菩薩の浄土なり!」
そう来なくてはならない所だ。思った通りに実にきもちよく言葉は流れてゆく、嬉しくなる。

「菩薩の浄土は人間の直心、本心、真実の心である」

仏陀は言う。
「直心はこれ菩薩の浄土なり、菩薩成仏の時、へつらわざる衆生来たってその国に生ぜん。

深心はこれ菩薩の浄土なり、菩薩成仏の時、功徳を具足する衆生来たってその国に生ぜん。

菩提心はこれ菩薩の浄土なり、菩薩成仏の時、大乗の衆生来たってその国に生ぜん」

こうなってくると、この経の作者は、余すところなくしゃべらないとおさまらない。性急な僕はもう少し遠慮してもらう方が、余韻があっていいようにも思うが、しかし余すところなく説いてくれるのは、感謝していいと思う。こっちがおちついて教えを受ける気になれば、くわしく、こまかいところまで説いてもらう方が、わかりいいから。真理をもとめるものは性急では駄目である。

菩薩の浄土は人心である。しかし人心全部が菩薩の浄土ではない。人心は悪魔の濁土にもなり得るのだ。・・・(この後、六波羅蜜多、四無量心、四摂法、方便、三十七道品、廻向、八難除、十善が菩薩の浄土であることが順に説かれる)

かく仏陀は説いてきて、言葉を換えて言った。

「かくのごとく宝積、
菩薩その直心に随いてすなわち能く行を発し、
その発行に随いて意(こころ)調伏し、
意の調伏に随いてすなわち説のごとく行じ、
説のごとく行ずるに随いてすなわち能く廻向し、(己が善根功徳を他に施与すること)
その廻向に随いてすなわち方便あり、
その方便に随いてすなわち衆生を成就し、
衆生を成就するに随いてすなわち仏土浄く、
仏土の浄きに随いてすなわち説法浄く、
説法浄きに随いてすなわち智慧浄く、
智慧浄きに随いてすなわち心浄く、
心浄きに随いて一切功徳浄し、
このゆえに宝積、
もし菩薩浄土を得んと欲せばまさにその心浄くすべし、
この心の浄きに随いて仏土も浄かるべし」

これで仏の第一の説教は終わっている。
【武者小路実篤『維摩経』角川文庫より抜粋】
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このように、仏陀は、いっさいの衆生が菩薩にとっての仏土=仏国土であると在家の仏弟子に教え伝えています。仏国土があって、衆生があるのではなく。衆生有りてこその仏国土であると伝えるあたりに、お釈迦様が衆生を愛し、いとしく思うがゆえに、その御教えを菩薩と共に広げることで、仏国土を完成させようとされていることが分かります。これは、2600年経った今現在において主の御心とも通じていると思います。お釈迦様におかれましては、人の心の中にある仏国土ユートピアを発見するために、光の菩薩を地上に派遣しているということです。

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このように、真理の言葉『正心法語』は、「光」にはじまり、菩薩の誓願にて終えています。

地球で魂の修業をしているすべての霊に対して共通する一番大事な教えが「真理の言葉『正心法語』」にて説かれています。九次元意識で説かれて言葉であるので、この地上にあるどの言葉よりも一番尊い波動を持っています。これが仏と私たち仏子である仏弟子との魂の絆であり、母と子をつなぐ紐帯ともいえる経文です。

私たちサンガ・幸福の科学の活動は多岐にわたっていますが、あらゆる活動の力の源泉は「仏説・正心法語」から生まれています。だから、この経文を毎日、読誦することを繰り返すことで、私たちは主より法力という名の力を授かることができるようになります。

また、経文の前半にありました。大黒天・宝積の仏陀への賛辞は、美しい言魂でありながら、仏への限りない感謝と御仏に法をお説き頂きたいという情熱にあふれています。その賛辞の中では、

『仏は一音にて法を説きたまえども、衆生はその身に応じて各々悟りを得、
皆謂えらく世尊その語を同じくしたまうと。
これすなわち神変不共(じんぺんふぐう)の法なり。
仏一音をもって法を説きたまども、衆生各々その力に応じて受けとって利を得る。
これすなわち神変不共(じんぺんふぐう)の法なり。
仏一音をもって法をときたまう。
ある者は恐畏(くい)し、ある者は歓喜す。ある者は厭離(おんり)を生じ、ある者は疑を断ず。
これすなわち神変不共の法なり。』

とあり、同じ説法を聴いても、弟子の受け取りは、弟子の実力に応じて千差万別であることが明らかにされています。仏陀の教えは一つであっても、仏陀の思いにどれだけ迫れるかどうかは、弟子の悟りの力に委ねられています。
ですから、こうした経文は繰り返し、読み込むことによって、仏の御心を深く受け取ることが必要となります。決して一回読むだけで理解できるものでないからです。

「仏説・正心法語」は毎日、必ず読むことで、仏との縁を結びながら、仏の光をいただきましょう。そして光の力を愛の力に変えて、私たち仏弟子の使命を果たしてまいりましょう。

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第4章 般若と許す愛
1 般若の境地とは

「般若の智慧」という言葉があります。これは『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版刊)第五章「智慧とは何か」で述べたのですが、この「般若」という言葉は、仏教の悟りを理解得る上では、とても大切な言葉です。

そこで本章では、この「般若」という言葉について、さらに深い解説を加えるとともに、一方、「悟り」とは対置されながらも、悟りの段階に対応する「愛」について、般若とはいったいどのような関係があるのか、ということを述べてみたいと思います。

一般に、「般若の智慧を得る」ということは、「悟りを得る」ということと同義のように言われています。いったい、いかなる理由において、そのように言われるのでしょうか。

般若の智慧を得るためには、まず、日々の修行態度を正しくしていかねばなりません。いわゆる三学という「戒・定・慧」を丹念に修練していかねばなりません。日々、自らを戒め、また禅定の体験をし、そして智慧を蓄えていく。その過程で、やがて解脱という体験をし、解脱の結果、涅槃の境地を得る。この涅槃の境地を得たときに得られる、透明感あふれる深い深い智慧、これを「般若」と呼んでいるのです。

それは永らく、仏教の修行をしてきた人にとっては、”永遠の憧れ”ともいうべき言葉でした。般若の智慧を得るとは、どういうことなのか。それを得たら、いったいどのようになるのか。それは永らく、修行をしてきた人たちの共通のテーマでもあったと思います。

この「般若の智慧を得たら、どのようになるか」ということを、ひと言で言い表すとするならば、結局、「自己が見え(観え)、他人が見え(観え)、世界が見える(観える)」ということです。すなわち、この三次元世界に生きている人間でありながら、「いかなる世界に、いかなる意味において、他者とのいかなる関わり合いにおいて、いま自らが生かされているのか」ということがわかってくる境地になるのです。

さらに、言葉を換えていうならば、般若の境地というのは、「生きている自分」ではなく、「生かされている自分」というものを、しみじみと悟る境地であると言えましょう。

前者の「生きている自分」、つまり、「積極的に、能動的に、力強く選びとって生きていく自分」をかたちづくっていく自意識を「識(しき)」の立場とすると、「般若」というのは、「生きている自分」ではなくて、「生かされている自分」というものを深く感じとっていく境地です。

もちろん、前者も充分に立派な生き方ではあるのですが、それを一段超えた境地として、「生かされている自分というものを知る」、あるいは「生かされているということを知る」―そういう智慧があるわけです。これを「般若」といいます。

『沈黙の仏陀』の第5章「智慧とは何か」でも、「識」と「般若」について、識は、他のものを分析することはできる、人やいろいろな社会事象を分析することはできるけれども、自分自身を見ることにおいて不得手である、と述べました。

ちょうど、人差し指が人を指すことができても自分自身を指せないように、ちょうど、刀が
他のものを切ることはできても自分自身を切ることはできないように、識の立場というのは、自我がしっかりしていて、いろいろなものを分析的に見ることが得意であるが、自分自身を見ることは難しいのです。

しかしながら、般若の立場になると、無我の立場になってくるので、自分も他人も、すべての世界が、ありありと如実にわかるようになってくる―『沈黙の仏陀』でそう述べましたが、まさにその通りです。

それは、生かされているということを、しみじみと感じる境地です。「ありとあらゆる現象―喜びも悲しみも、苦しみも憂いも、いろいろなことが、この世にはあるけれど、すべてのものが、実は、私の生命というものを生かしめるためにある大いなる教材なのだ。そういう大いなる教育の場なのだ」ということを知る。この世ということの意味を知る。この世がなぜあるのか、私がなぜ今ここに生きているのか。いかにして生まれ、いかにしてこの世を去っていくのか―これを知った智慧が般若です。

識の立場というものは、もう少し狭いのです。この世の中で、より優れたるものをつかみ取っていく、優れたる自己となっていくための修行に必要な知恵、それが識です。これは、人間としての自己確立、自己形成、自己発展にとっては非常に大事なものですが、あくまでもまだ視野の狭いところがあります。

般若の悟りを得てきますと、霊界をも含んだすべての世界のなかで、生まれ、生き、死に、あの世に還り、また生まれ、生き、死ぬ―そういう転生輪廻の流れのなかで、自己というものをつかみ、さらに他の人の人生というものをつかみ、自己と他人とが同時代の同期生として魂修行をしながら生きている、という現実を知ります。

そして、この世的には、いろいろと辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあったとしても、そうしたものは、すべて実体のあるものではなく、あくまでも物質世界という教室で、実験として、自らの魂修行のために行われている、ということを知るようになります。

すなわち、般若の智慧の段階においては、「一切が無常である」ということを知っています。また、「一切が無我である」ということを知っています。

この世のすべての事物が、肉体が、諸現象がすべて、無常なるもの、実ならず変転していくものであることを知り、また、存在しているように見えるすべてのもの、森羅万象が、実は無我中道、すなわち、「本来の存在ではなく、大宇宙の意思によって、一時期、仮に現象として現わされているものであって、それはあくまでも魂修行のための教材にしかすぎないのだ」ということを知る―こういう境地が、実は悟りの境地であり、般若の智慧ということでもあるのです。

【大川隆法『心の挑戦』第4章「般若と許す愛」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」映画伝道について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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