(3/6-1)65『仏説・正心法語』を読む ⑥光分かれて七色の虹―宗教修行者に訪れる魔境とは

『正心法語』を読む

94 大局観のない秀才が国を滅ぼす。
【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

明日、3月7日は「宗教法人設立記念日」です。34年前の1991年3月7日に「幸福の科学が永遠に続くことになった始まりの日」です。明日は伊勢支部にて11時と19時より「宗教法人設立記念式典」を開催します。皆様、主への感謝と報恩の誓いを捧げてまいりましょう。

「宗教法人設立記念日」は「幸福の科学」が宗教法人として、世に誕生したことを記念する日です。この日をはじまりとして、幸福の科学は永遠の法灯がともされることになりました。
「宗教法人設立記念式典」では、大宇宙の根本仏であられる主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生に、永遠の法灯を灯して下さったことへの感謝を捧げます。
そして、発祥の時において、いかに盤石なエル・カンターレ信仰を打ち立て、
揺るぎない形で主の法を後世に伝えることができるかが重要な使命であることを心に刻み、
真理の法灯を子々孫々に継承していく決意を固めてまいりましょう。

おすすめの精舎限定経典&御法話CDは『真理の法灯は永遠に』が一万円目安と『信仰を守る勇気を』経典とCD各5000円目安です。是非お求めください。

もうあと三十年以上戦い続けられるか。
 体を鍛え、頭を鍛え、心を鍛え続ける。
 無神論国家を信仰国家に変え、
 世界に真実と愛と平和を取り戻す。
 弟子たちが成長し、組織が一層大ならんとすることを欲す。
 されど「自助論」の限界まで、私は戦いをやめない。
 その頃、コロナ禍の時代など、
 はるか昔の話になっていることだろう。

 (『真理の法灯は永遠に』あとがき より)

始めに、2017年3月7日に説かれました「魔境からの脱出」を引用して振り返ります。
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4宗教修行者に訪れる「魔境」とは
〇「霊的目覚め」のときに通過する「魔境」
さて、幸福の科学の教えを通して、「人生の挫折への対処法」をいろいろと勉強している人は多いでしょう。当会には、人から批判を受けたとき、経営的に破綻したとき、家族・親族に不調和が起きたとき、病気になったとき、あるいは職業等を失ったときなど、さまざまな失敗や挫折についての教えが数多くあります。

それは、人間として生きていく上での「力強さ」というか、「強靭さ」のようなものをつくっていくために説かれた教えです。

例えば、「光明思想」的な教えや「勇気の法」的な教え、あるいは「忍耐の法」的な教えもあれば、霊界の存在を説くことによって、「この世的なものに、あまりとらわれすぎないようにしよう」というような教えをもあります。そのように、失敗や挫折の切り抜け方については、何かと教えてはいると思うのです。

ただ、本章のタイトルは「魔境からの脱出」なので、「逆境からの脱出」とはちがった、もう一段、難しい問題についても触れてみたいと思っています。これは、いわゆる宗教修行にすでに入っている人たちにとってのテーマになるでしょう。

要するに、普通の段階の問題ではありません。例えば、「泥棒に入って、金銭を持って逃げたところ、すぐに捕まえられて非難の対象になった」というような問題ではないわけです。それがこの世的に悪いのは、誰にでも分るでしょう。ここでは、そのようなことを言っているわけではないのです。

やはり、宗教的な修行に入って、修行が進んでいくと、「自分も少しは人を教えられるような身分になったかな」と思えるときが来ます。また、霊的な感覚などが芽生えてきて、いろいろなものを視たり感じたり、あるいは、直感が働いたり、ときどきは奇跡が起きたりするようにもなります。修行が進んでくれば、そういうことは、当然、起きてくるわけです。

ただ、そのように修行が進んできて、ある程度、霊的な覚醒を得るレベルに達したあとに、「魔境」というものがあります。これは、現在の常識というか、学校での勉強や本、新聞、テレビ等では知ることができないものなのですが、「魔境」には、たいていの人が引っ掛かるのです。

もちろん、その人が人間的に駄目なわけではなく、一定以上に人格も練れていて、宗教的にも修行が進み、霊的にも目覚めてきている状況ではありましょう。人を、ある程度教えたり導いたりできるレベル、あるいは、善悪の判断などができるレベルにまでは来ているわけです。

しかし、そのように、霊的に視えたり、聞こえたり、感じたりできるようなレベルに達したとしても、実は最終の悟りのではありません。これはまだその前の段階であって、ここには必ず通過しなければならない「魔境」があるのです。

〇霊の声が聞こえ、病気を治せたとき、気をつけるべきこと。
例えば、この段階では、「霊の声」だからといって、単純にありがたがったりするような人もいるでしょう。あるいは、自尊心やプライドが正当なものならよいのですが、高くなりすぎていて、不当なレベルになっているような人もいるわけです。こういう場合、霊のほうが騙してきたり、嘘を言ってきたりしても、それにまんまと乗せられるようなことがあるので、このあたりが怖いところかもしれません。

また、病気直しについても似たようなことがあります。

ちなみに、キリスト教の『聖書』を読むと、病気直しをしたイエスそれを見た人から、「あれは、悪魔の頭が来て、悪霊を追い出しているんだ。悪魔の頭(かしら)の一人のベルゼベフがきて、悪霊を追い出しているに違いない」というようなことを言われているシーンがあります。イエスはそれに対して、「そのように仲間割れをしていたら、悪魔の国だってなりたないだろう」と、遠回しに言っていたように思います。ただ、現実に、そうしたことがないわけではありません。幾つかの宗教を見てみると、霊能系の宗教のなかではよく起きています。

例えば、病人でも病気で亡くなった人の霊や、亡くなってまもない人の例に取り憑かれることで病気になっている場合があります。憑いている霊を叱ると病人から出ていくので、一時期、病気が治ったように見えるのです。

要するに、「病気が治る」といっても、高級霊の指導を受けている宗教ばかりではありません。やや大きめの悪魔系のものが来た場合には、ついている霊を外すことができるので、病気の人が一時的に楽になったように見えることがあるのです。

そのため、ここで騙されて、「病気が治ったから、これは神から受けた力だ」と思ってしまうことがあります。このあたりにも、まだ一つ、狙われるスポットはあるわけです。

〇詐欺師とほとんど同じ手口を使ってくる悪魔たち
やはり、そういう特殊な能力を持てば、人は自惚れてもくるでしょう。

ただ、「自分は特別だ」と思って自惚れていると、悪魔にその自惚れた鼻の下をくすぐって入ってこられます。うやって、やられてしまうことがあるので、これが難しいところです。

たとえ、「反省の教え」を勉強し、人に教える立場にあっても、いざ、自分がそういうところでくすぐられれば、それをにわか信じて増長してしまうことはあります。そのとき、隙間に入ってこられるわけです。

例えば、悪魔は、最初のうちは、自分にとって有利なことを言ってくれたりもします。物当てをしてくれたり、いいことを言ってくれたりするのです。そのようにして信用させ、そのあと、だんだんに引きずり込んでいくのが、悪魔の通常のやり方なのです。

これは、詐欺の師の手口とほとんど同じでしょう。トランプゲームのポーカー等でお金を巻き上げるにしても、最初は相手に勝たせて、その気にさせます。そして、乗ってきたところをだんだんに引きずり込んでいき、最後には、「あら!?もうちょっとだったのに、あっという間にやられた」という感じで、大きな負けにするのです。パチンコや競馬・競輪なども、だいたいそのようなものかもしれません。まったく勝てないと、お客さん来なくなるので、ときどきは勝たせてもらえるのですが、長引いたら、だんだん引きずり込まれていって、やられるというパターンなのです。彼らは、こういう手を使います。

ともかく、悪魔系の者やその手下どもは、「ずる賢いこと」を考えているわけです。最初は、多少、手伝いをしているように見えるのですが、ここで騙されることが多いので、気をつけなければいけません。

ただ、こういう話は、街の小さな教祖などのところではよくあるものなのです。信者がだいたい百人もいれば宗教はできますし、日本では、一教団当たりの平均信者数は三百人と言われています。そして、信者が三百人と言われています。そして、三百人ぐらいの宗教であれば、最初のころに、物当てができたり、予知ができたり、行方不明の人の居場所を当てたり、いろいろするのです。ところが、そうしているうちに、だんだん、”大きいもの”がやってくるようになります。やがて、相談する人が増えてきて、教団が大きくなろうとするときには、魔境が訪れて、まんまと罠にはまることがあるわけです。このトラップ(罠)から抜けるのは、そう簡単ではありません。

平凡人だと、「信者三百人ぐらいの教祖」あたりで、けっこう慢心して出来上がってきます。そういうレベルなので、ここを狙い撃ちされるとたいていコロッと騙されて引きずり込まれていくのです。そして、「気がつけば、信者のなかに集団憑依がたくさん起きている」というようなことが、いつのまにか起きています。そういう宗教もあるわけです。

【大川隆法『悪魔からの防衛術』第二章「魔境からの脱出」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。

教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。たくさんの仏法真理を主よりいただいていますが、数多の経典は「正心法語」を正しく理解するためにあるといっても、けっして過言ではありません。
「仏説・正心法語」は仏の光であり、仏の生命であり、私たちの力であり、仏弟子の生きていく寄る辺です。

七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。理屈抜きで、毎日、正心法語を読むと元気になるからです。

経文にも、「ああ 七色が 相集い 仏の御国を 照らし出す」とあるように、「仏説・正心法語」は本来、七つの経文が合わさって一つの法身を表現しています。私が全編読誦を強くお勧めするのには理由があります。

正心法語は法華経・般若心経の一万倍の力があると教えていただいていますが、私たちサンガは正心法語の威力を十分に使いこなせていないのではないかと思います。
私も含めて皆様の中で、今日からさかのぼって一日のうち、正心法語の全編読んだ人がどれだけいるでしょうか。読経の習慣化が法力を生むことを私たちは主から教えていただき知りながら、なかなか実践できずにいます。実にもったいないことです。

私たちサンガ・幸福の科学の活動は多岐にわたっていますが、あらゆる活動の力の源泉は「仏説・正心法語」から生まれています。だから、この経文を毎日、読誦することを繰り返すことで、私たちは主より法力という名の力を授かることができるようになります。

このメールマガジンでは、日々の活動で「仏説・正心法語」からどのように活動のエネルギーを引き出していくかという視点で、お届けしたいと考えています。この経文に関する主の御解説は経典『信仰論』に説かれていますので、伊勢支部にてぜひご拝受ください。「法力」という名の悟りと救済力と得るために必要な経典です。

それでは、「真理の言葉 正心法語」から始めましょう。「正心法語」はこのように続きます。
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光 分かれて 七色の
虹は 天空 地に架かる
仏の慈悲は 広がりて

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本日の引用部分は英語版の「正心法語」-The True Words Spoken By Buddha-では、このようになっています。
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Through the Prism of Buddha,
There appeared the Seven Colors of Rainbow,
Arching over in the Sky.
Here you can see Buddha’merchy.

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ところで、私は、在家時代に、絵画の販売・接客業や、メガネの商品開発やデザインなどをしていました。在家時代に色や光の勉強をしていたんですね。ですので、この分野に関しては、少し知識があります。

光は、電磁波の一種で、エネルギーであり、本来無色透明です。しかし、この無色透明な光は、様々な色の光が組み合わさり透明になっています。

色の三原色というと、マゼンダ(赤)、シアン(青)、イエロー(黄色)ですが、絵具では、この三色を混ぜると黒に近い色になってしまいます。絵具は、他の色を次々に足して混ぜていくと、限りなく黒色に近い色になってしまいます。絵を描く人でしたらよくご存じなはずです。

絵具は物質ですから、ある光を吸収して、ある色を反射します。例えば、青色の絵具は、青色の光だけを反射して、青色以外の色をすべて吸収しているから青色に見えるというわけです。私たちの目が近くする様々な色は、反射した物質の色を見ているということです。そもそも光がなければ色をみることができません。これは、部屋の明かりを真っ暗にすれは、色がすべて失われることからも明らかですね。黒色は、すべての色を吸収して反射しないから黒に見えます。黒色が、宗教の世界で、地獄や闇を象徴するのも神の光(エネルギー)を反射しないからであると言えます。

また、絵具の色が肉体的人生観、唯物論的人生観を象徴すると仮定するならば、私たちは、人生という名のキャンパスに様々な色【欲・煩悩】を塗り重ねていくことで、心の絵が真っ黒になっていくことを象徴することができます。煩悩をいくら重ねても色は透明になることは決してありません。

ですが一方、光は、違う色が重なると、どんどん透明になり、どんどん明るくなります。最終的にすべての色が加わると、限りなく明るく、限りなく透明になります。私は色と光の勉強をしているとき一番不思議に思ったのがこの点でした。

これを同じように、光の色が霊的人生観・唯心的人生観を象徴するものと仮定するならば、私は、人生というドラマに様々な色の光【仏の生命・エネルギー】を加えることで、限りなく透明で、限りなく明るい過去・現在・未来の映像をありありと思い描くことができます。この点からも、光と愛はとても似ているのではないかとひそかに感動しています。

光は霊天上界から降り注ぐエネルギーであり、力です。無色透明な光は、あらゆる色の光が一つの束になったものです。その天国世界では太陽の霊体である霊太陽から降り注ぐ光が、地上に降り注いでいます。

繰り返し確認ですが、高次元にある光源を失しなえば、つまり、根本仏が光を創造するのをやめてしまえば、大宇宙は一瞬にして消滅してしまいます。いま地上に光が降り注いでいること自体が根本仏の慈悲なのです。その慈悲の光が地上に降り注ぎ、広がっています。

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仏に三身ありと言われており、仏のお姿には「応身」「報身」「法身」の三種類あります。そのなかの最も尊いのが「法身です。これは、肉体存在や目に見えるものではなく、宇宙を統治する法則としての存在です。たとえば、「原因・結果の法則」「波長同通の法則」「生々流転の法則」など、仏教で言えば「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の「三法印」も仏の法身です。また幸福の科学の基本教義である「愛」「知」「反省」「発展」の四正道もエル・カンターレの法身仏にあたります。
そして、何よりも「光とは何か」を教える『仏説・正心法語』こそが、私たちの主、エル・カンターレの法身そのものなのです。

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最後に、経典から抜粋いたします。
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仏神は光です。
光は、あるときは粒子として顕われ、あるときは波として顕われます。
光が粒子として顕われたとき、そこに物質が出現します。
光が波として顕われたとき、それは想念、念いの作用としてのみ存在します。
仏神の心というものは、
凝集されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心というものは、
凝縮されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心が、
凝集された粒子というかたちではなく、波として顕われたときには、
想念の波動として、念いとして、宇宙を飛び交う電波としてのみ存在します。
これが大宇宙の秘密なのです。

【大川隆法 『不滅の法』序章「心のなかの宇宙」より抜粋】
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■「『般若心経』や『法華経』の一万倍ぐらいの力がある、地上最強の経文です!」

この経文は、いま幸福の科学の三帰誓願者(仏・法・僧の三宝に帰依することを誓った者)にのみ授与されている『仏説・正心法語』という経典のなかの経文のひとつですが、たとえば、いま尊いお経と言われている「般若心経」や「法華経」の一万倍ぐらいの力があります。

・『仏説・正心法語』という経典は、九次元霊界、最高霊界のなかの仏陀意識からストレートに降りているものです。ゆえに、地上にはこれ以上の経文はないのです。過去もなく、今もないのです。ですから、これは実際に一万倍ぐらい効くと思ってください。「般若心経」を一万回唱えるのと、「正心法語」を一回唱えるのとは同じぐらいです。そのぐらいの力なのです。それだけの力を持っています。三帰誓願者はそういう経文を使うことが可能です。                         【大川隆法『信仰と愛』p.153~154より抜粋】

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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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第5章 智慧とは何か
4 この世的観点とあの世的観点
①煩悩を断ち切る力としての般若の智慧の智慧

最後に、「この世的観点とあの世的観点」ということについて述べておきたいと思います。

「無常」「苦」「無我」「空」という言葉があります。これは仏教の大事な言葉なのですが、どれを捉えてみても、この世的な知識や情報として理解するには、やはり無理があります。この悟りの言葉というのは、この世的な知識だけでは、どうしても理解させることが無理なのです。これを知るためには、やはり宗教的境地を拓かなければ、いけないのです。そうした洞察力を持たなければ理解できない、あるいは霊的なものを信じていないと、どうしてもつかむことができないものなのです。

結局、般若の智慧によって何を得ようといているのかというと、「無常」「苦」「無我」「空」、こうした宗教的悟りの言葉の意味をつかもうとしているのです。

では、何のために、そうした無常や苦などを知らなければいけないのでしょうか。

確かに、この世的に観れば、「無常である」と言われても、わかりません。机は机で確固としてあるように思う。自分は自分で確固としてあるように思う。他人は他人で確固としてあるように思う。それがなぜ無常なのか、「常らなず」なのか―。

ものごとができるには原因がありますが、滅びていくには原因は要りません。ほうっておけば必ず滅びていく性質を持っています。存在自体に滅びを含んでいるものなのです。

机ひとつとっても、それが永久に存在することはありません。いつかの時点で、必ずこの地上から姿を消すものです。机というものは、ノートや本を乗せ、読んだり書いたりして使用しているときには机なのですが、その使用が終わった段階では、机ではなくなるのです。材木になってしまったり、薪(たきぎ)にされてしまうこともあるのです。

小学校などの古い木造の校舎が、いつか壊されて鉄筋に建て直されることがあります。その際に、机と椅子を組み合わせたような古い木の机が、すべて壊されて校庭に出されます。そうすると、小学生たちが「あれは机だ」と認識していたものが、焚火の材料に変わってしまいます。

そのように、この世のすべて、恒常なるものではなく無常なるものなのですが、この世的な目で観るかぎりは、それがわからないのです。机は机、椅子は椅子、黒板は黒板、ライトはライトにしか見えません。しかし、そのなかには、変化し、移り変わっていって、必ず消滅していく要素を持っているのです。このようなことは、この世的な知識では、なかなかわかるものではありません。やはり霊的な洞察が必要なのです。般若の立場に立って初めて分かるのです。

あるいは、「人間は、この世に生まれてくる時に、あの世から出てくる」というようなことは、いくらこの世的に言われても分かりません。医学部で勉強しても、はやり理解できないのです。医者というものは、人間がお腹に宿った時、赤ちゃんができた時からなら理解できますが、その前のことについては、いくら言葉で説明されても理解できません。説明もできませんし、わかることができません。やはり、般若の立場が必要です。

また、「この世は苦しみである」ということについても同じです。多くの人びとは、この世はよろこびだと思ったり、楽しみだと思ったりしていますが、聖なる立場、霊的な世界から観れば、実は苦しみにすぎないことがあります。「苦」という立場も、やはり般若の智慧を持たないとわかりません。「酒を飲めば楽しいじゃないか。若者同士で遊んでいれば楽しいじゃないか。こんな楽しいことをしているのに、なぜ、それがいけないというのか、それを苦しみだというのか」と、まったく理解できないのです。「欲しいものを手に入れて何が悪い。追いかけて何が悪い。快楽を求めていれば幸福じゃないか」と思う人もいるでしょうが、霊的な目から観れば、間違いであることがあるのです。

たとえば男性であれば、本能のままに行くと、美しい女性を見れば手に入れたいと思います。ところが実際は、それによって家庭が崩壊したり、苦しみをつくることになります。そして、思いもしないような不幸があとで来ることがあります。

その立場になって初めて、「いったい何が悪かったのかな」と思うのですが、智慧の立場から言えば、そうしたことは最初から分かっているのです。「こうしたら、あなたはこうなります」ということがわかっているのに、そういう洞察、ものの道理を見吹く力がない人にとっては、それが楽しみだと思っているわけです。「苦しみになりますよ」と言っているのに、どうしてもそれがわからないのです。この世的な楽しみで人生を終えたとしても、来世、霊界に還ってからの苦しみになることも、もちろんあるわけです。そういうことを何度言っても、わからないのです。

「無我」がわからない方もそうです。「空」についても、やはりなかなかわかるものではありません。

このように、般若というのは、悟りの言葉を理解するためにも大事です。なぜそれを理解する必要があるかというと、悟りの言葉を知り、その意味を知ることによって、煩悩を断ち切る力が生まれてくるからです。般若の智慧というのは、この煩悩を断ちる力として現れてくるのです。

この世的な欲望は、「自分がある」と思う。自我の思いから出てきます。自分という思いから、自分のものが欲しくなり、自己拡張欲が出てきます。そして、そこに苦しみが出てくるのです。その結果、悩みが出て、たいへんなことになるわけですが、この般若の立場に立つと、それが消えていきます。そのように、煩悩を断つ力が現れてくるのです。

【大川隆法『沈黙の仏陀』第5章「智慧とは何か」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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