(3/31)90真理の言葉『正心法語』を読む ㉛これより後 地上に 不和 不信 あるべからず―宗教の使命 

『正心法語』を読む

45 すべてに台本や原稿を要求する人の頭は、中程度を超えない。

46 自分ならどうするかが分からない人は、他人を使えない。

【箴言集『仕事への言葉』より】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

421は主の伊勢支部御巡錫記念日です。2013421日大川隆法総裁先生が伊勢支部に御巡錫されて御法話『信仰心と国を愛する心について』を賜りました。この御法話は経典『日本建国の原点―この国に誇りと自信を』の第一章に所収されています。経典をお持ちでない方は支部や精舎、書店にてぜひとも拝受ください。【1800円(税抜)】

この聖なる日に向けて、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

さて、ここからは200277日に説かれました御生誕祭御法話『大悟の瞬間―大いなる悟りが明かす多次元空間の神秘』を振り返ります。本日最終回です。そののち、『仏説・正心法語』をともに読んでまいります。

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4宗教の使命

釈尊の悟りを一つのテーマにして、「大悟とは何であったか」ということを語ってきました。

それは、分かりやすく言うならば、世界のさまざまな宗教が述べていることとそう大きな違いはありません。真理というものは、いちばん単純なものなのです。複雑なものではなく、単純なものです。

みなさんの目には、この世とあの世があるように見えたならば、それはあると見てよいのです。霊的存在としての自分があるように見えたならば、そう見てよいのです。また、自分以外の霊的存在と、いつも、つながることができるように思えたならば、そのように思ってよいのです。

そして、仏の創った、神の創った芸術空間である宇宙のなかで、自己の使命を果たさんとするならば、すべての輝きを増す方向に努力する必要があります。

この世の人生を無駄にしないことです。また、他の人々が、間違った無駄な人生をいきているならば、それを輝く人生に変えるべく努力することです。それが、自覚したる者の使命です。

そういう自覚を持った仲間を数多くつくっていくことが、宗教の使命であり、宗教団体、教団としての仕事なのです。

こうした根本的な使命から見て、その活動に限界や終わりがあってはなりません。それは、永続するものでなければならず、空間的にも、限りのあるものであってはならないのです。

そのような強い念いを持って、日々、努力・精進し、教えを押し広げていくことが大事です。

【大川隆法『大悟の法』第4章「大悟の瞬間―大いなる悟りが明かす多次元空間の神秘」より抜粋】

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。

教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。たくさんの仏法真理を主よりいただいていますが、数多の経典は「正心法語」を正しく理解するためにあるといっても、けっして過言ではありません。

「仏説・正心法語」は仏の光であり、仏の生命であり、私たちの力であり、仏弟子の生きていく寄る辺です。

七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。理屈抜きで、毎日、正心法語を読むと元気になるからです。

経文にも、「ああ 七色が 相集い 仏の御国を 照らし出す」とあるように、「仏説・正心法語」は本来、七つの経文が合わさって一つの法身を表現しています

正心法語は法華経・般若心経の一万倍の力があると教えていただいていますが、私たちサンガは正心法語の威力を十分に使いこなせていないのではないかと思います。

私も含めて皆様の中で、今日からさかのぼって一日のうち、正心法語の全編読んだ人がどれだけいるでしょうか。読経の習慣化が法力を生むことを私たちは主から教えていただき知りながら、なかなか実践できずにいます。実にもったいないことです。

私たちサンガ・幸福の科学の活動は多岐にわたっていますが、あらゆる活動の力の源泉は「仏説・正心法語」から生まれています。だから、この経文を毎日、読誦することを繰り返すことで、私たちは主より法力という名の力を授かることができるようになります。

このメールマガジンでは、日々の活動で「仏説・正心法語」からどのように活動のエネルギーを引き出していくかという視点で、お届けしたいと考えています。この経文に関する主の御解説は経典『信仰論』に説かれていますので、伊勢支部にてぜひご拝受ください。「法力」という名の悟りと救済力と得るために必要な経典です。

それでは、「真理の言葉 正心法語」から始めましょう。「正心法語」はこのように続きます。

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これより後

地上に 不和は あるべからず

地上に 不信 あるべからず

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本日の引用部分は英語版の「正心法語」-The True Words Spoken By Buddha-では、このようになっています。

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Now, here, I command,

There shall not be Conflict in this world.

There shall not be Distrust in this world.

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本日の解説は、経典『信仰論』から引用させていただきます。

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「不和」とは、仏法真理にもとづいて調和を目指すという観点から見て、それに反するもののことです。和合僧破壊など、調和した教団を乱すようなことも不和に含まれます。

要するに、「唯一の仏法真理、仏陀の教えにもとづいて和合すべきである」ということなのです。

次の「不信」には、「人間不信」という意味もありますが、より根本的にいえば、「不信仰」「信心をしないこと」という意味と考えてよいでしょう。神仏を信じない心、信仰心を理解しない心、あの世を信じない心です。

そうした不信を、これ以上、地上に放置することができないのは当然のことです。そのようなことを許しておいてはいけません。・・・(中略)

地上に生きているすべての人に、仏神への尊崇の念を持ってもらいたいのです。

【大川隆法 『信仰論』 より抜粋】

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本日の抜粋個所でふと思い浮かんだのが、聖徳太子の十七条憲法でした。

その第一条は、有名な格言にもなっています。「一にいわく、和をもって貴しとし、忤(さからう)ことなきを宗とせよ」で始まります。現代語訳にすると

「おたがいの心が和らいで協力することが尊いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところがひとにはそれぞれ党派心があり、対局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが飢えも下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何事も成しとげられないことはない」

また、第二条も有名です、「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧なり」です。現代語に訳すると

「真心をこめて三宝を敬いなさい。三宝とは悟れる仏陀(ブッダ)と、仏の御教え(ダルマ)と、仏の教えを伝える僧侶の集い(サンガ)のことである。それは生きとし生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国々が仰ぎ尊ぶ究極の規範である。いずれの時代でも、いかなる人でも、この御教えを尊重しないということがあろうか。人間には極悪のものはまれである。教えられたらば、道理に従うものである。それゆえに、三宝にたよるのでなければ、よこしまな心や行いを何によって正しくすることができようか(いやできない)」

このように、『仏説・正心法語』の本日の引用部分は、聖徳太子の十七条憲法を想起させます。エル・カンターレから仏陀、そして聖徳太子へと、はなるかなる高次元から日本に根本仏の光が現代において『仏説・正心法語』に流れていることを感じると、御仏の慈悲に心が震えます。

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仏の国への導きについて、経典『大悟の法』より抜粋いたします。

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〇自主的に守る「戒」と気共同生活のルールである「律」

心というものは自由性を持っており、その方向性は自由自在です。それが一定のよい方向に向かうことによって、いっそう集中度が高まり、念いの実現性が高くなります。

たとえば、念いを繁栄という方向に絞り込めば繁栄が現れ、智慧という方向に絞り込めば智慧が現れ、精進という方向に絞り込めば精進が現れます。一つの方向に向かって絞り込めば、それが実現してくるのです。

したがって、各人がそれぞれ、「自分はこういうことをしよう。しかし、こういうことはすまい」という、自分に合わせた戒めを持つことが大切なのです。

仏教には「戒」というものがあります。これは、交通ルールのようなものとは違って、各人が自分で「これを守ろう」と設定するものです。

たとえば、「今年は、毎月一冊、仏法真理の本を読もう」という誓いを立てれば、それはその人にとっての戒になります。

そして、毎月読むことにしていたのに、「今月読みそこねた」ということになれば、それは破戒、すなわち戒を破ったことになります。ただ、それに対する罰則は何もありません。戒には罰則はないのです。

しかし、戒めを破ったことに対して、自分自身が深い慙愧の念、後悔の念を味わい、「こんなことではいけない。もってもっと自分を強くしなければいけない。自分を鍛えなくてはならない」と思うわけです。それによって、修行が進んでいくのです。

戒と聞くと、普通は「不自由なもの」と考えがちですが、ほんとうはそうではなく、各人が自分の修行レベルに合わせてつくっていくものなのです。・・・・

これに対して、罰則のあるルールとして、「律」というものがあります。これは出家教団における共同生活のためのルールです。・・・共同生活のなかで、お互いの修業の邪魔をしないようにするために、「このルールを守る範囲内においては、お互いに相手の権益を侵害することなく、自由を満喫できる」という共通項を定め、それを律と呼んだのです。「この律を待っていれば、共同生活が可能である。律に定めがない範囲では、自由にこうどうしてかまわない」ということだったわけです。

そして、律に反した場合には、その程度に応じて、いろいろな罰則がありました。(たとえば、一週間の反省行とか、教団追放など)。このように、仏教には戒と律があり、戒は自由なものだったのですが、律は共同生活に即したルールであり、違反すると罰則があったのです。・・・

自由には、放縦、すなわち、「ほしいままに何でもできる」という意味での自由ももちろんありますが、もう一つ、「自分で自分をコントロールする。自分で目的性を持ち、方向性を決める自分で一定の範囲を定め、そのなかで生活していこうと決める」という意味での、意志を含んだ自由もあります。

この意志を含んだ自由は、責任を伴う自由であり、非常に責任感あふれる自由です。このような、責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのです。

「お互いに迷惑をかけずに、思う存分修業をして、心の法則をマスターしよう。自分自身の心の奥にある、宇宙につながっているものを手に入れよう」というスタイルであったわけです。

【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より】

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「釈迦如来の意識で書かれた経典です!」

『仏説・正心法語』は、全編を私の潜在意識である釈迦如来の意識で書いた経典です。古い伝統的な仏教教団では、毎日、さまざまなお経を読んだり、題目を唱えたりしていますが、『仏説・正心法語』という経典が出されたということは、そうした古い経典類はもう要らなくなることを意味しています。

【大川隆法『信仰論』p.114より抜粋】

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。

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