(4/24-1)114『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読む ①この肉体は有限なり―正しい宗教による価値観の戦い

『智慧の言葉「仏陀の悟り』」

1 人間は、本来無一物である。

【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

430日は幸福実現党の立党記念日です。2009430日、大川隆法総裁先生がこの国の国難を救うべく、幸福実現党宣言をなされて、「幸福実現党」を立党しました。主に心よりの感謝を捧げます。

427日には、伊勢支部や精舎を衛星中継にてつないで、11:00より幸福実現党立党周年記念大会を開催いたします。皆様、万難を排して伊勢支部にご参集ください。

この聖なる日に向けて、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そこで、本日からは、幸福実現党立党の精神を振り返るべく、教典『宗教立国の精神』より第一章『天命を信じよ』を振り返ります。そののち、『仏説・正心法語』をともに読んでまいります。経典をお持ちでない方は、全国の書店、支部や精舎にて拝受ください。【2000円(税抜)】

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2正しい宗教による価値観の戦い

〇「地上の支配権を神仏の手に取り戻す」という革命を

二〇〇九年の衆院選において、幸福実現党の得票率は1パーセントから二パーセントでしたが、これは価値観の戦いであり、非常に力の要る戦いでもありました。

今の日本では、新宗教を信じている人は国民の一割から二割しかいないとも言われていますし、伝統宗教を含めても、特定の宗教を信じている人は半分もいないと言われています。こうした、いわゆる無宗教層を自認する人が多数占めている国において、「宗教政党を標榜するものが指導的立場に立つ」ということは、本当の意味において、真なる革命であると思うのです。

言葉を換えるならば、私たちは、「この地上の支配権を、悪魔の手から、神の手、仏の手に戻す」という運動を行っているのです。無くなくとも、今の日本においては、「神仏の力が現実的な政治・経済勢力において多数を占めている」とは言えない現状です。

それは、人々に真なる信仰心が根付いていないからです。幸福の科学は、本筋としては、宗教を教えていますが、教育や政治、経営、経済など、他の分野にも、神仏の心は流れていかねばなりません。この国の発展・繁栄を願う、神仏の熱い念いを受け止めねばならないのです。

何よりも、神仏を信じ、信仰心を持っている人たちを、軽んじ、軽蔑し、そして、「遅れた迷信家だ」と思っている人たちに対して、その常識が間違っていることを示さねばなりません。

二〇〇九年には、幸福の科学の映画「仏陀再誕」(製作総指揮・大川隆法)が全国で上映されましたが、インドの地においては、「試写会に三千五百人が集まり、そのうちの千二百人もが映画を観ただけで信者になる」という現象が起きています。インドがどれほど信仰深い国であるかが、よく分かります。

ところが、日本においては、「疑い」のほうが非常に強く、信ずる者は非常に少ないのが現状です。それは、一つには、マスコミの原理のなかに、「疑いをもって真理とする」という部分があるからだと思います。

あるいは、近代司法の原理、法律の原理のなかにも、「疑い」というものが根深く入っています。「単純に純粋に信じる」という行為が、「美しく、徳のある行為である」と思われずに、「愚かな行為である」と思われているのが、先進国の実体です。

そして、宗教を説く人たちから、騙された利害を受けたりしないように、警鐘を鳴らすのが、知識人や、啓蒙家の仕事であると思われています。

したがって、私は、本当の意味での「革命」を成し遂げねばならないと思うのです。「神のものは神の手にかえしなさい」と訴えたいのです。この世の人間の政治的な技術、多数派工作や資金集めのうまさ、宣伝のうまさなどによって、この国が動かされていくようであっては相成りません。

「政治家というものは、嘘をつくのが本筋である」と思われているため、マスコミも、疑いを武器として戦っていて、「真実を暴露する」ということを中心的な行動原理としています。

しかし、私たちは、正直をもって、真実をもって、堂々と立ち向かっていきたいと考えています。「真実をしっかりと述べる」ということ、「節を曲げない」という子が大事です。

【大川隆法『宗教立国の精神』第一章『天命を信じよ』より抜粋】

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、『正心法語』のなかで、「菩提心の言葉『修行の誓い』」を読んで、三宝帰依の精神を確認して、仏道修行の誓いを主に捧げたのち、読む経文が『智慧の言葉「仏陀の悟り」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、2600年前の仏陀の悟りか何であったかを学ぶことができます。

私は、個人的に『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を、伝道の中心に据えています。主エル・カンターレの名を知らず、無明の闇に苦しむ人に仏法真理を伝道するときに伝えるべき内容がここに集約されているからです。また生きている方のみならず、お亡くなりになった方への伝道という意味においても、葬儀での法話で、お亡くなりになった方への引導を渡すときに、この経文を題材に法話をしています。

さて、本日は、『仏説・正心法語』第三の経文である『智慧の言葉「仏陀の悟り」』について共に考えを深めてまいります。

私たちは、この経文を毎日読むことによって、私たちが日々つかむべき『霊的人生観』を知り、自分が肉体存在ではなく、「霊」であるという原点に立ち返ることができます。

『智慧の言葉「仏陀の悟り」はこのように始まります。

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この肉体は 有限なり

生・老・病・死の 四苦ありて

逃るる ことは 難かりき

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最初に肉体の問題から入っています。肉体というのは有限なのです。有限とは文字通り、「限りがある」ということです。限りがあるということは、それに執われ、こだわり、心を縛りつけても、結局は無常のものであるということです。

無常とは、「常ならず」ということです。「肉体は常なるものではない。肉体に執着して、これが自分だと思っても、それは無常のものなのである」―これは簡単なようでありながら、結局、仏教の基本であり中心なのです。まず、ここから入っているのです。

釈尊の悟りからいうと、結局、人間の悩みや苦しみのもとは肉体なのです。肉体的生存こそが自分だと思っているところに、最大の迷いがあり、その「無明」ゆえに、不幸が来るのです。実は、これが大きな出発点なのです。簡単なようでありながら、よくよく考えてみると、確かにそのとおりです。・・・

肉体に宿りながら肉体を越えるというのは、非常に難しいことです。肉体に宿っていきながら、「肉体的生存を越えた存在が自分である」といいうことを知ることは非常に難しいことですが、実は、これが悟りの第一歩なのです。

宗教的信条を持たない人はというのは、「物質的な自分」という第一関門がどうしても越えられないのです。そうした唯物的な人に対して、唯物的に信じられるような証拠を出すのは、なかなか難しいものです。・・・

「この肉体は有限なり」とは、当たり前のことを言っているようですが、ここから悟りが出発しているのです。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より引用】

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肉体にこだわらず、心の調律が大事であることを、教典『仏陀再誕』より引用します。

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〇肉体に悩むな

さらに、私はあなたがたに言っておこう。

あなたがたは、愚かであるということを、

まだまだ知らないでいるということを。

あなたがたの多くは、肉体的外形にとらわれすぎる。

あなたがたの多くは、肉体の悩みにとらわれすぎる。

自分の体を見、背が高いとか低いとか、

太っているとか痩せているとか、

美人であるとか、そうでないとか、

いろいろなことを苦にし、日々それを話題にしているであろう。

しかし、これなども愚かな人々の考えであると、私は思うのだ。

肉体というものは、ひとつの乗り物であるのだ。

ひとつの乗り物であって、

魂が今世において修行をすることができれば、それでよいのだと思う。

それ以上を願うな。

魂の修行のために、十二分に役に立ってくれるのであるならば、

それでよいではないか。

それ以上のことを願ってはならない。

それ以上のことで、思い煩ってはならない。

心に誓って、

肉体のみのために、肉体のことのために、

悩み過ぎないことが大事だ。

悩まなければならないことは、もっとほかにある。

その心だ。

その心をこそ、悩め。

その心の悪しきことを、

間違いに満ち満ちていることをこそ、悩め。

心が美しくないかどうかを悩め。

心が美しくなければ、それは自然とまわりに表れる。

心美しくなければ、その人の目は美しいものとはならない。

心が乱れているならば、

心が澱(よど)んでいるならば、

その人の目は曇ってゆくであろう。

その人の目は、邪悪な光で満ちることになろう。

その人の目は、陰険な思いをたたえるようになるであろう。

心高慢とならば、その人の鼻は実際以上に高く見えるであろう。

いつも、ツンとした高い鼻のようにも見えてくるであろう。

心正しくなくば、その人の口は曲がって見えるであろう。

常に、他の人に皮肉を言い、

常に、他の人を批判する人の口は、とんがり、また曲がるであろう。

そのようないやな口となって、あらわれてくるであろう。

また、心穏やかならざる人は、

その身のこなしにおいて、表れてくるであろう。

常に、他の人を責め、他の人をさいなむ人には、

それなりの身のこなしがあるであろう。

しかし、心穏やかなる人は、

時間のなかにあって、時間を忘れさせる。

地域のなかにおいて、地域を忘れさせる。

人びとのなかにあって、人びとの存在を忘れさせる。

それは、常に柔和で穏やかであるからだ。

柔和で穏やかである、そういう心の持ち主の肉体は、

決してまわりの人に不愉快を感じさせない。

人びとよ、肉体を調律する前に、

まず心をこそ調律をせよ。

肉体を素晴らしいものとする前に、

まず心をこそ素晴らしいものとせよ。

日々、柔和となれ。

怒ってはならない。

誹(そし)ってはならいない。

愚痴ってはならない。

以上のことをよく心に刻め。

【大川隆法 『仏陀再誕』第三章 「愚か者となるな」より抜粋】

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霊的人生観をつかむために必要な悟りの第一歩は、人間の肉体的存在を否定して、「自分とは、肉体ではなく霊である」という事実を確信するところから始まるということでした。宏大無辺な仏陀の悟りの比較的初期の悟りと教えていただいています。

「肉体」の反対は「霊」です。宗教的信条を持たない人は、自分が霊的存在であることを理解することができないで苦しみを自ら生みます。私たちの身の回りにもたくさんいらっしゃいますね。その方々は、肉体が自分だと勘違いすることが人生の苦しみの原因であることが全く理解できていないのです。その苦しみの元凶となるのが「生・老・病・死」の四つの苦しみ【四苦】といわれるものです。私たちの悟りは、四苦を乗り越えるところから始まります。そして、それは、正しき霊的人生観を理解する始まりでもあるのです。

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ここで、渡邊照宏さんの著作、大乗経典の『維摩経講話』から、『肉体と法身』について抜粋をお届けします。

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〇病床における説法(肉体と法身)

維摩居士(お経の主人公)が病気になったというので国王、大臣、王子、バラモン・市民・富豪・村民・地方人、ありとおらゆる人が見舞いにやって来ます。ところが見舞客がかえって、維摩から説教をされるのです。

この機会を捉えて、人間の肉体のもろいことを教えます。肉体は物質の諸要素からなり立つもので無上なもの、もろいもの、頼りにならないもの、弱いもの、実のないもの、滅びゆくもの、長続きしないもの、苦痛あるもの、病多きもの、移り変わるものです。賢者は肉体を頼みになるものとは思わないのです。

たとえてみれば水沫(みずあわ)のかたまり、水の泡、陽炎の如くはかないもので、芭蕉の茎と同じく芯がありません。骨を筋肉でつないだ機械のようなものです。幻や夢や鏡像やこだまのように実体のないものであり、雲のようにうわついたもの、電光のようにはかないものです。

地・水・火・風・空と同じように自主性のないものです。草木瓦礫と同じように無感覚です。肉体のなかには汚物が一杯に詰まっています。四百四病に苦しめられ、老いて古井戸のように捨てられてしまいます。そして終には死ぬのに決まっています。感覚や対象などのいろいろの要素からできあがっています。死刑執行人、毒蛇、人なき里にたとえられましょう。

こんな肉体に執着すべきではありません。むしろ如来(仏陀)の身を喜ぶべきです。それは法身のことです。

〇永遠なるもの―法身

維摩居士はこのように、人間の肉体よりも法身の尊重すべきことを教えるのです。

ここで法身のことを説明しておきましょう。最も本来の用法としては「真実の具現者」という意味でで、釈尊の徳をたたえる言葉でありましたが、釈尊の滅後はその遺徳を慕い、肉体(生身・しょうしん)は僅か八十年でこの世から去ったが、仏陀の本体は永久不滅なものであるとしてこれを法身と呼ぶようになりました。つまり実体の肉体と区別される理想的存在ということで、むしろそれが仏陀の真の姿であると考えられるのです。

マハーヤーナ(大乗)の世界観においては仏陀と真理と宇宙との三つは根本的に見て同一なのであります。その場合に仏陀を法身、真理を真如、宇宙全体を如来蔵(仏陀の現実化)と名づけます。この意味において法身は仏陀の本体であるばかりではなく、宇宙そのもの(そのうちにはわれわれ人間をすべて含めて)が法身なのです。

逆に言えば、宇宙は仏陀という理想態の実現ししたものにほかならないのであります。このような絶対的な一元論がマハーヤーナ(大乗)の哲学の根拠であります。したがってわれわれ個々の人間の存在もまたその根源においては宇宙の大生命である法身に連なるのであります。

いま維摩居士を病気見舞いの客をつかまえて、「肉体を超越せよ、法身に喜びを求めよ」と教えるのは、この物質的、植物的ないし、動物的な肉体に捉われることなく、大宇宙の真生命に直参せよということなのであります。仏陀の身とか法身とかいうのは他に向かって求めるべきものではなく、自己の内面を掘り下げることによって見出されるべきものであります。

【渡邊照光 『維摩経講話』 河出書房より抜粋】

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。

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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について

2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。

本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  

奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。

この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】

また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。

神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】

「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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天御祖神とともに―

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TEL0596-31-1777

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FAX0596-31-1778

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文責:蒲原宏史 

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