95 嘘をつかない政治家、嘘をつかない経営者。百歳でも、そう言われたいものだ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。本年も残すところわずかとなりました。
主から本年一年に賜りましたご指導に対して、心からの感謝を捧げます。「エル・カンターレへの感謝・報恩研修」は年末まで開催しています。個別対応もいたしますので、ぜひ受講ください。
「エル・カンターレの感謝・報恩研修」の趣旨は以下のとおりです。
①「エル・カンターレの感謝・報恩研修」では、本年の「大川隆法総裁先生
復活の祈り」や、信仰の純粋化シリーズの公案研修、御法話研修、御法話セミナー、原曲研修等の学びを振り返り、改めて、主への感謝を深め、報恩の思いを共に固めます。
②仏法真理をお説きくださる主への感謝を深め、3500 回を超える御説法や、3150 書を超える経典、450
曲を超える楽曲、さらに祈願、精舎修行等の価値をあらためて実感していただくことで、御法話拝聴者や経典・楽曲普及、精舎修行参加者の増大につなげます。
③「大川隆法総裁先生
復活の祈り」において、主が根本仏であられ、造物主であられることへの理解を深める。そして、純粋な信仰心によって、主のご復活への祈りを捧げ、主が願われる信仰者へと新生することを誓います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日は経典『太陽のメッセージ』part2を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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太陽のメッセージPart2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
17 神通力
①狭義の観自在力
この一即多に入る前に、もう少し観自在についてお話いたします。狭義の観自在力、あるいは、代表的な観自在力の部分はどこかといえば、梵天界のところがいちおう代表的な部分になっています。大きな意味での観自在はもちろんもっと幅広い領域からあるのですが、代表的なものはこのあたりです。
なぜかといいますと、梵天のあたりにこの六大神通力がいちおうのかたちでそろってくるのです。だいたいこのあたりがわかってくるのです。ここについては、『漏尽通力』のなかでも説明はされてあると思います。
まず、天眼(てんげん・てんがん)という霊視能力です。それから天耳(てんじ・てんに)、霊たちの声を聞く能力です。霊言能力もこれに入れてもよいでしょう。他心(たしん)、いわゆる読心能力のことを言います。
宿命(すくめい・しゅくめい)、想念帯を読み取ったりして、その人の過去・現在・未来を見通す能力です。これもレベルによってそうとう差がありますし、はずれることもやはりあるように思います。
②過去世と方便
はずれると言うのでは問題があるかもしれないので、方便と考えたほうがよいかもしれません。釈迦もこの宿命通力にひじょうにたけていました。そして過去世物語をそうとう語っています。これは仏教の物語で、読まれた方も結構いらっしゃると思いますが、ではそれが本当にすべて当たっているかどうかということを考えてみますと、はっきり言って当たっていないのです。
釈迦自身も自分は過去七回生まれ変わって過去七仏といわれていると語っております。そしてその前世物語を話していて、そのときは自分はベナレスに生まれてどうこうだったというように説いているのですが、すべてインドのなかでの話なのです。認識がインドを出ることがないからこのようになるのです。もちろんその当時に、自分はアトランティスに生まれ、ムー大陸に生まれたなどと説いても、わかる人はだれもいませんし、自分もわからなかったのかもしれません。ですから全部インドのなかでの話になっています。
これははたして釈尊が真実を知らなかったのか、あるいは、知っていてそういったのかどうか、このあたりはミソの部分で言えませんが、事実として見ればこれは当たっていないのです。そういうことが言えます。
それからジャータカ物語なのでも、動物がたくさん登場してまいります。釈迦の過去世をずっとたどっていくと、鹿になったり、うさぎになったりするのです。それが自分の過去世であったという話も出てくるのです。しかし、このようなことが当たっているはずもありません。これは人を教化するためにそのような話をして、動物を大事にしなければいけないということを、人間にはそういう立場になる可能性があるという話で諭しているのです。鹿の王様であったときの話など、いろいろと語っています。これには多少の方便があったと思います。
②過去世と指導霊
このように、過去世を見通すといってもそうした問題はありますし、特に指導霊がこのあたりは、ある意味で適当なことを言うことがありうるということです。指導霊の認識と、地上の人間の認識とのあいだに、ものすごいズレがあるためなのです。向こうがわかっていても、この地らの人間はもうだいたい自分の生活圏で物事を考えておりますから、地上側ではこのように考えているから、強くこうあるべきだと思っているようあるとしますと、「まあどちらでもいいことは、難しいことを説明するよりも、そのように答えておこう。」ということがありうるのです。そのようなことがあったと、※よく言われています。・・・やはり地上の人間というものは見る範囲が狭いですから、どうしてもその範囲のなかで引きあてをしようとす・
・わけなのです。ところが自分が過去に知っている人の名前の範囲で超えて全然知らない人と引き当てられても何をしているかさっぱりわからないので困るであろうからということで、その人が知っている名前を言ってくことはあります。
ですからこのあたりはそれほど重視していないと見ていないと見てもよいのでしょう。指導霊たちも、過去世があるということがある程度わかればそれで役は終わっていると言っています。実際、そうであろうとも、また違ったものだとしても、それを証明する手立ては何もありませんから、その程度にしか重きを置いていないこともあるようです。ただ、これは指導霊がおおざっぱな指導霊の場合です。
神経の細やかな指導霊の場合、そうではありません。前者の例としては、具体的な名前を出すと問題があると思いますが、赤色光線の指導霊などが指導しているとそういうこともあったということを聞いています。あまり深く追求するのはよしたほうがいいでしょう。身体が大きくなると、人間はだいたい鷹揚(おうよう)になってきます。
④幽体離脱型の霊視
神足(しんそく)というのは幽体離脱、テレポーテーションだということです。これもいろいろなかたちがあります。ですから霊視能力なども発達してゆき、霊視能力とこの観自在能力、あるいは如心であれば、離れている人のことが千里眼のようにわかってくるという感じも、実は幽体離脱と多少関係があるようです。それは、けっきょくまるごと魂が出ないにしても、魂の一部分がアンテナのように抜けていくのです。そのようにして分かることがよくあります。
今はもう個人相談はしておりませんが、最初の一年目のうちはしていました。(※立宗1986年~1987年頃)ところが私は具体的に人と会って相談したりしますと一時間も二時間も時間がとられてしまうため、相談者に相談内容を紙に書いてもらって対応させていただいていたのです。読者のなかにも何人か相談された方もいらっしゃるかもしれませんが、名前と相談事項を紙に書いて送っていただいて、直接本人には会わないでもそれを見ると、いろいろなことがわかるのです。
九州のある方でありましたが、ものすごく体の具合が悪いと訴えてこられたことがありました。それで見ますと、この人に憑いているものがわかってきたのであります。その須田を写生して、このようなものが憑いているよと教えてさしあげたのですが、やはりそのとおりであったそうです。九州のほうで、ある教団の幹部になっていて、たしかに、私が書いたようなものに憑かれているのです。先生方も自覚症状があってか、わかりましたと言っていましたが、すぐにいなくなりますよと返事をさしあげたところ、いなくなったとの報告を受けたことがありました。そのようにかなりのところまではわかるのです。
どうして九州にいる人のことが見えるかといいますと、やはりこの神足に少し近いのです。たんなる霊視というよりも、むしろ幽体離脱型の霊視に近いと思います。一部分が、かたつむりの角のように、相手のところにシューッと伸びていく感じでわかってくるのです。そのような感じがします。肉体を離れると、あそらくそれがもっとはっきりとしてくると思います。
⑤漏尽
漏尽(ろじん)というのは、「漏尽通力」という本もすでに出しておりますが、「己の欲するところに従いて、矩(のり)をこえず」と喝破した孔子の境地で、高度な神霊能力を持ちながら、通常人とまったく変わらない生活をする能力です。「山にかくれたる小聖の境地ではなく、町に住む大聖の境地です。」と説明することもできます。この漏尽は、やはり霊道を開くとこの意味がよくわかってまいりますが、開かなければなかなかわからないようです。霊道を開きますと、この漏尽通力がどれほど偉大なものであり、貴重なものであるかということがよくわかります。
霊道が開いた当初はやはり霊のほうに翻弄されるようにだんだんなってまいります。これをしっかりとフィルターにかけて判断し、三次元についている自分のこの足を失わないようにするには、やはりそうとう魂的な足腰が強くないと難しいのです。この意味が分かってくる方もいると思います。
以上が狭義の代表的な観自在力で、だいたい梵天界ぐらいからこのような感じになってくるということです。ですから、霊といっても四次元・五次元の霊ぐらいであっては、ほんとうは全部はわからないのです。たとえば五次元ぐらいにいるご先祖を呼んで、「私の将来はどうなるのでしょうか。」などと聞いても、ほんとうはボヤーッとしかわからないのです。特にそうしたことに興味があって研究している霊であれば知っている場合もあるけれども、霊だから何を聞いてもわかるかといいますと、それほどわからないというのが現状です。やはりそこにも、わかるわからないの差がそうとうあるのです。関心を持っている人でありますとわかることもあるけれども、全然わからないことも多いのです。このあたりがやはり違いなのです・
・
18 如来界の如心(一即多、多即一)
①複眼的霊能力
それから一即多、多即一、これも高い意味での如心であるといってもいいでしょう。『観自在力』のほうではこうした如心のことを、複眼的霊能力という説明でしていると思います。
この前提の梵天界の観自在力というのは、ある程度このように人間的な感じでいろいろなものが見えるという感じでありますが、この高いほうの如心であります。如来界の如心になってきますと、目があっちもこっちもあるかのような感じになってくるということです。
ですから、みなさん方の目には二つしかありませんが、この目がたとえばたくさんあって部屋中に散らばって存在していたとすればどうかというと、自分自身のいろいろな角度の姿が見えるわけです。そういうことなのです。そして目が天上・壁・床に散らばっていて、テレビのカメラのように映していてたくさん姿が映っているのです。このいろいろな映像を見ながら全体のことを感じ取るような能力、これが如来界の如心の感じとなっているのです。まさしくこの感じで、感覚器官が複数ある感じになってきます。ですから一人でも一人ではないような感じがします。
これは受け取る情報でありますが、逆にアクション、活動のほうをみても、これもまた複数に動き始めるのです。ひじょうに多様な展開をはじめます。これを地上的にいうならば、前節で述べたような感じです。千分の一秒で仕事を片づけてしまえば、どうなるかということです。一時間かかることを千分の一秒ですませ、無限に縮めていけばどうなるのでしょうか。この動きはもう見えないぐらいの動きです。いわゆる千手観音のように、手が千本あるくらいの感じになってまいります。
したがって、この如来界の如心、ここでは一即多、多即一という言葉で語っておりますが、これはけっきょく、どういうことかと申しますと、数の概念がだいぶ変わってくるということです。これは別な言い方をしますと、自己イメージというのがはっきりと変革することを意味しています。みなさんが自分は一人であると思っているイメージが、一人ではなくていけるという感じです。
みなさんは手が二本しかありませんから、手としては二本の手で感じるものしか感じませんが、もし自分がタコやイカであったらどうかと考えてみてください。タコの足は八本で、以下は十本あります。八本か十本かの手足があると考えてみていただきたいのです。そしてそれぞれがいろいろなものを感じている。目もそのようにたくさんある感じです。このようにして自分が生きている人間という意識で生活すれば、どのような感じがするでしょうか。後ろにも目があるという感じで、足は上にも下にも左右にも自由自在という感じで天井を歩くことができるでしょう。そのような感じになってくるのです。
②拡大・分化する如来の意識作用
このようになってきますと、人間としてのまとまりの部分がけっきょくなくなってくるのです。なぜそのようになってくるかといいますと、これは意識の数だけ、あるいは作用の数だけ分化するからなのです。思っただけの数に分かれてくるのでありますから、まことに不思議です。意識体として、もう少し具体的にかたちをつけて説明すれば、私がたとえばパッと見て天上のライトが面白いなと思ったとしますと、思った瞬間にどうなるかいえば、私の胴体がキューッとくびれてくるわけです。そして見る間に細くなって、餅のようにパッと切れます。そして頭の上からシューッと足が生えてきて、天上をペタペタッと歩いて、また、そうかと思えば玄関に行きたいと意識しますと、スーッとそちらへ今度は別れていく感じです。また、・
・と駅前に行ってみたいと思えば、いきなり分身が駅前に出てきて通りを歩いている。
あるいは晩ごはんを食べずに夢中になっているうちにおなかがすいたので、あの食堂にしようかななどと思っていますと、そこにスッと分身が現われて食べているという感じになるわけです。このようなことは、人間としているときはできませんが、このかたちになってきますと、もう自由自在になってくるということです。このような感じでありますが、わかっていただければ幸いです。
一つの参考としてはカントの霊訓(『ソクラテスの霊言』所収)のなかで彼が言っておりますが、そのようなことが自己認識として、はたしてみなさんはできるかどうかということです。思いついた数だけの自分が、ようするに分光していって仕事ができるのです。このようにして統一できる自己認識がもしあれば、大したものです。これができるようになれば如来の世界なのです。それをどういうように自己の分光を出しながら仕事をするか。この総合仕事率です。いろいろなことをあちこちでやっているのを、中央でキュッとくくってトータルでまとめて管理する能力です。けっきょくはこのあたりが如来の核になってくるのです。
③梵天如来の自己認識
低い段階の如来、いわゆる梵天の上段階で、梵天如来の場合はどうかといいますと、まだこのあたりの意識のばらつきがありまして、まだじゅうぶんに収拾がついていないということがいえます。いろいろなことができるのはわかるのだけれども、まだ経験の段階があって、いろいろな経験を積むことが中心になっているのです。「不思議だな、ここで乳を搾るカントあり、あそこでコーヒーを飲むカントあり、そういうことができるのだな、不思議だな。」というような感じです。フッと思うと自分が二人になっている、オャッと思うともっと増えていて、ほかの仕事をこなしている。そのように活動しているのが、この梵天如来の段階なのです。
19 如来界の悟りとは
さらに上のほうになってきますと、これがはっきりしてまいります。自由自在になってくるわけです。このようになりますと、すごい仕事ができるのはみなさんもお分かりだと思います。如来界には五百名弱しかいないといいますが、このようなタイプの人がいれば、それはすごいのです。その下に何十億人いても、ものすごい量の仕事をこなすことができるのがわかるはずです。
もしこのような存在形態でなければ、たとえば如来というより九次元如来になりますが、イエス様などもあのような仕事をこなせるはずがありません。十億人もいるクリスチャンが、毎日イエス様の名前を呼んでいるのです。そしてさらに霊言集を見れば「わが名を呼べ」などと言われているくらいですから、普通の人にはとうていできるはずがありません。
ですから、こういうかたちの仕事に熟達しているのです。中心から放射された糸のように、いくらでもダーッと分かれて仕事ができるのです。そしてシューッと戻って意識が統一できているのです。これができなければ、そうしたことが成り立つはずはありません。
では、このようなところまで行くためには、どうすればよいかということです。そうして考えてみますと、まず経験の量ということではそうとうな幅と量の経験がなければまず無理でしょう。たとえば一つのことしかできないようなタイプ、いわゆる神界にいる学者肌で、一つの専門分野だけの専門家ではこのようなことができるはずがありません。やはりオールマイティなものが要求されています。ですからスペシャリストではだめなのです。スペシャリストは如来にはなれないのです。ここは大切なところですので、記憶にとどめておいてください。スペシャリストは途中で行きづまってしまうのです。
六次元ではスペシャリストが多いのですが、だいたい七次元菩薩界に行くにしたがって鍛えられるのです。いろいろな実務をやらされ、一生懸命働かされて、働く能力が増えてくるのです。そしてここでしごかれて、ゼネラリストになってきた人がだいたい如来に入ってゆくのです。ですから如来になりますと、いろいろな仕事ができて、才能も多方面になってきます。レオナルド・ダ・ヴィンチのように何にでも才能を発揮するような人がたくさんいるのです。
何でもできるというのは、けっきょく身体でいえば前述のタコやクラゲではないけれども、手足が何本もあってできるのと同じことです。いろいろな仕事のできるタイプの人というのはこういうことです。それだけ才能があるということは、それだけの魂修行が同時にできるということになってきます。ですから、幅広い経験が必要ですし、それと真理知識としてもそうとうな広範囲にわたっての真理知識の結集が必要です。それから行動力においても無限です。無限の行動力を持っていることがいえます。そしてエネルギーの供給においても、無限のエネルギーを受けられるような器を作っていかなければならないわけです。
このような感じと思っていただければいいのです。こうしたところに、将来の目標を置きますと、まだまだ向上の余地があることはみなさんもわかると思います。どうでしょうか。今のところ、このようになれる自信がありましょうか。日々の仕事に追われ、わずかのレジャーを楽しむくらいが精一杯という方も多いのではないでしょうか。なかなかそれ以上はいかないのですが、やはり自己認識としてそのような認識ができるようになるまでに、そうとう時間がかかるのです。如来になるとそのような認識がだんだんできてくるようになるということです。
『太陽の法』の一部にもそうしたことが書いてあります。「一万人としてわかれ出ても、それを一人として認識し統一する意識があるということでもあるのです。」このような統一意識、認識力が出れば、そうとう境地としては高いということです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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主の光を広げる伝道の原点は、「四正道」を簡単に伝えることです。これは大切な点です。
そして、エル・カンターレという根本仏である神の名を伝えることが今とても大切です。
経典『地獄の法』の第五章「救世主からのメッセージ」では、
「正しき心の探求」としての「現代の四正道」を実践することの大切さが説かれています。
主におかれましては、「信仰心を持って生きることを、大きな意味において『正しき心の探求』といいます。そして、その『正しき心の探求』の中身とは何であるかといえば、「愛・知・反省・発展」という「現代の四正道」に、今は集約されています」と説かれています。
そして、経典『「正しき心探求」の大切さ』では、
『(伝道において)では、何を伝えてほしいかというと、原点に返れば、「愛・知・反省・発展」の「四正道」です。まず、「四正道を、どれだけ簡単に伝えられるか」ということが原点になります』と説かれており、伝道において、「四正道」分かりやすく伝えることが大切である、と教えていただいています。
主は、「現代的四正道」を説いています。この「愛・知・反省・発展」の四つの考え方をまとめて、「正しき心の探求」と呼んでいます。正しき心の探求とは、「愛・知・反省・発展」の探求なのです。だから、伝道において四正道をしっかりお伝えすることがとても大事なことであることが分かります。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。
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最後に2023年に説かれました経典『真実を貫く』から未来への希望を確認致します。
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〇二〇五〇年ぐらいまでに決着はつく」と思っている
そうした設計図を引くにあたりまして、世界人口は八十億を超えたところですけれども、「西暦二〇五〇年までに―今は二〇二三年ですから、あと二十七年ぐらいです―もしかしたら四十億人ぐらいまで減る可能性もあり」ということまでいちおう考えた上で、今、世界の方向性を変えようとしております。
私が講演を始めたときには「世界五十億人」と言っていたので、三十億人も増えたわけです。松下幸之助さんの本とかを読んでいたら、「世界三十億人」と書いてあったから、彼の時はまだ三十億人でした。それからだと五十億人も増えたわけです。
この増えた人たちが、地上だけが全世界だと思って、地上の陣地取りと地上での利便性と唯物論的な繁栄だけを求めるようになったら、「転生輪廻をして魂主義用をするという神の計画と」「地球という星の持っているところの宇宙的な意味合い」としては、地球は魂の教育をする場として非常に貴重な場であるので、地球人だけの勝手にはさせないという力も働いてくると思っております。
ですから、「二〇五〇年ぐらいまでには、決着はつく」と思っております。
ただ、そのためにはもうちょっとだけ時間がかかりますので、私は、家内から尻を叩かれながら、「最低、九十歳まで現役で働いてください。できたら九十五歳まで働いてください」と言われています。九十三歳まだ働けば二〇五〇年ぐらいが来るのではないかと思うのですが、「そのあとは、存在しているだけでもいいから百歳まで頑張ってください」とか言われているのです。
もしかしたら九十代は車椅子説法とかになっている可能性があるのですが、立ってしゃべっても、座ってしゃべっても、大して変わりません。頭だけしっかりしていれば、いけます。
私が粘っていたほうがいいのではないかと思うので、できるだけ粘ります。・・・
幸福の科学としてはインディペンデント(独立した状態)でなければいけません。自分たちである程度生きていけるようにしておかないと、言いたいことが言えないので、できるだけ独立していたいと思っています。・・・
〇『地獄の法』を中心に、間違った世の中を正すべく戦い続ける
そういうことで、今年(二〇二三年)は『地獄の法』を中心にいきますが、ちょっとは世の中を変えないといけません。
地獄があるかについては、たぶん二十パーセントも支持がないでしょう。しかし、これは間違っているのです。あるものは厳然としてあるので、間違っているなら正すべきだと思います。
教科書にも書いていないし、学校の先生に訊いても多分反対するし、文部科学省にしてももう全然分かっていない状態なのです。「宗教がつくっている学校で、霊言集が出ているから、学問ではない」とか言っているのはみんな、これはもう本来なら”死刑”に当たるようなものでしょう。”死刑”にしなければいけないのでしょうけれども、現代だからできないのです。
許しがたい世の中であるので、やはり、あと三十年でも四十年でも”弾”を撃ち続けなければいけないと思っていますし、外国でも支部はできていますが、まだまだ弱いので、もっともっと強くしていく必要はあると思っています。
たとえ、新宗教を含めて、キリスト教、仏教、イスラム教、そのた、伝統宗教までが滅びようとも、幸福の科学はやはり、まだまだ戦い続けると―。そのつもりで、みなさまがたの強い応援をお願いしたいと思います。
【大川隆法『真実を貫く』第三章「地球の危機を乗り越えるために―『地獄の法』講義」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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