35 自分の肉体を全部自分のものだと思うな。神仏から頂いたものなのだ。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
おはようございます。
本日7月7日は主の御生誕日です。1956年7月7日午前7時ごろ、主は一切の衆生救済と地球を越えて銀河系を超えた宇宙の法を説くべく、徳島は川島の地にご生誕されました。
この日は、人類史上最大の奇跡として後世に語り継がれます。私たちは、2000年、3000年後には神話として残るであろう歴史的事実に立ち会っているのです。本日はこの奇跡の御生誕に主に最大の感謝と報恩を捧げるべく13時より伊勢支部・熊野拠点にて、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館より「御生誕祭」を衛星中継します。
7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/6(日)と7/7(月)は、両日とも13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
この聖なる日に、支部に相集い、主への感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきます。皆様万難を排してご参集ください。
『精舎霊域護持植福』など各種植福を本日承っています。
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「七」は勝利の日 「七」は目覚めの日 「七はあなたの生誕の日」
私たちは 主エル・カンターレ御降臨という
奇跡の時代に 仏弟子として 主と共に歩ませて
いただけますことを 心より感謝いたします
そして 主への報恩として
日本に 全世界に エル・カンターレ信仰を弘め
地球ユートピアを実現してまいります
私たちは これからも 仏弟子の使命である 伝道に邁進し
必ずや 「七の月」の「七の日」を
主の勝利の記念日とすることを お誓いいたします
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さて、ここからは、主の御教えを世界へと広げるために、教典『大川隆法
東京ドーム講演集』から第1章の「信仰の勝利」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、一九九一年七月十五日に、東京ドーム第一回大講演にて「エル・カンターレ宣言」をなされました。この聖なる日を魂のなかに刻印して、主とともに全人類救済の旅立ちの一里塚を私たち仏弟子は超えてきました。信仰の名の下に勝利以外の結果はないことを全世界に知らしめた主の救世の獅子吼です。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1800円】
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■信仰の勝利
6 仏国土成就の理想実現への願い
○信仰の名の下に勝利以外の結果はないと知れ
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
あなたがたは、わが言葉を鼓膜の振動のみとして受け止めてはならない。
それは限りなく悲しいことだ。
魂でもって、我が言魂を受け止めよ。
あなたがたは、我が言葉を受け止めよ。
あなたがたは、この地上を去った後、霊天上界において、
直接わが教えを聴くことは、もはやないであろう。
されば、この場において、
わが語りたるこの言葉を、魂に黄金の文字として刻印せよ。
刻み込むのだ。
一九九一年七月十五日というこの日を、魂のなかに刻印せよ。
この日を忘れてはならぬ。
これが、全人類救済の旅立ちの一里塚であるからだ。
われと共に起(た)ち上がり、わが白き手のもとに集い、
わが背に続いて、光の行軍を開始しようではないか。
世界は、我らが掌中(しょうちゅう)にある。
この全世界救済を実現せぬは、われらが怠惰以外の何ものでもない。
すべてのものは可能である。
信仰の名の下に勝利以外の結果はない―ということを知るがよい。
信仰は、あなたがたに最大の勝利を与えるであろう。
本日の、このドームでの、光の天使たちとの誓いを忘れるな。
光の天使たちと、今日、魂で契りを結んだることを忘れるな。
命ある限り、この真理を弘めん。
あなたがたもまた、このあとに続いてほしい。
永遠の仏陀、ここにあり。
また、その弟子、ここにあり。
共に頑張っていこうではないか。(完)
【大川隆法『大川隆法 東京ドーム講演集』第1章「信仰の勝利」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第七番目、最後の経文である『仏説・降魔経』についてです。
『正義の言葉「仏説・降魔経」』は、『仏説・正心法語』の最後を飾るお経であり、今までにない経文だと言われています。悪魔との対決についても、「幸福の科学」の基本教義として、明確に根本経典の中に入っています。それでは、引き続き経典『仏陀の証明』より主の御解説をご紹介いたします。
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●悪魔の軍隊 ②嫌悪
「嫌悪」(けんお)というのは、嫌い厭(いと)うことです。要するに、「与える愛」の反対です。他人(ひと)に対する意地悪、嫌がらせ、「嫌いだ」という排他的な感情です。他人に対する排他感情や嫌悪感情―これが悪魔の第二番目の軍隊だと言っています。
そのように、「与える愛」を排するのです。慈悲の心を排して、人と人とを孤立させ、嫌い合うようにし、憎しみ合わせる。それが第二の軍隊だと言っているわけです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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☆悪魔の十の軍隊☆
①欲望
②嫌悪
③飢渇
④妄執
⑤ものうさ・睡眠
⑥恐怖
⑦疑惑
⑧「みせかけ」と「強情」
⑨誤って得られた利得・名声・尊敬・名誉
⑩自己をほめたたえ、他人を軽蔑する
悪魔の十の軍隊の第二は「嫌悪」でした。「愛」はお互いを結びつける力ですが、「嫌悪」は人と人の結びつきを断ち切るものです。
悪魔の常とう手段で、調和している集団の中で、悩みや迷いがある人にささやき、集団から引き離して魔境に入れるものがあります。魔は私たちの心の隙間を上手についてきますので、ともに注意しましょう。
主からは、「愛」の反対は、「嫉妬」であると教えていただいていますが、よく考えれば、「嫉妬」とは、その相手を心のどこかで「嫌悪」しているところがあります。悪魔は常に私たちの心の隙を狙っています。だから、好き嫌いがはっきりしている人ほど、狙われやすいところです。
主は、造物主であるがゆえに、生きとし生けるものすべてを愛しています。だから、主におかれましては、好き嫌いという二元的な立場を超えて私たちを愛し、生かし、許して下さる存在です。私たちに嫌いという感情が残っているならば、それは、その対象のすべてを理解できていないことを意味します。人は知ること少なく、理解することがないときに相手を嫌いになってしまいます。愛は理解することであるとも教えていただいているからです。
自分の好き・嫌いについて、これを機会に少し考えてみましょう。「なぜ、それが好きなのか」そして反対に「なぜ、それが嫌いなのか」このテーマで考えを深めるだけでも、いちばん理解がおよんでいない自分に対する理解を深めることができるのではないでしょうか。
愛はすべてを結びつける力です。愛とは与えることです。見返りを求めたときに愛は死んでしまいます。
愛の反対は嫌悪であり、嫉妬であり、人から奪い、見返りを求める心です。それはすべてを退け、遠ざけて、孤立させる力です。悪魔はこの人間のネガティブな感情を焚きつけて、自らの活動エネルギーにしています。自分の心のなかにその排他的な心の動きがないかを常に点検してみましょう。
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心の指針 2『心から愛していると…』
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けんか別れして、
相手を愛していたことに、
初めて気づく人がいる。
離婚して、
妻のいない空虚さに、驚く夫がいる。
さんざん、ののしって、
ホッとした後、
夫の偉大さに気づく妻もいる。
子供を亡くしてから、
ほめてやらなかった自分を、
責め続ける親がいる。
みんな、よく聴きなさい。
失ってからでは遅すぎるのだ。
愛しているなら、
今すぐ、
愛しているといいなさい。
好きなら、
好きであるということを、
今すぐ、
行動で示しなさい。
永遠の後悔を残すなかれ。
生命あるうちに、
愛しているということを、
心から愛しているということを、
伝えなさい。
伝え切りなさい。
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心の指針 5『憎しみを捨て、愛をとれ』
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なぜ、人は、
憎しみの感情を持つのだろう。
なぜ、
人は、人を恨むのだろう。
なぜ、
腹の底から、
怒りがこみ上げてくるのだろう。
なぜ、
価値観が対立し、
争いが拡大するのだろう。
憎しみは、
相手を傷つける一本の毒矢。
そして、
自分自身の仏性をも汚す。
怒りは、
心中に毒素をつくり、
対立と不和の種を、
世間にばらまいていく。
もっと信じよう、
お互いの仏性を。
もっと許しあおう、
お互いの間違いを。
憎しみを捨て、
愛をとれ。
仏性、相等しきを喜べ。
世界を、あなたのために、
ひざまずかせるのではなく、
あなたが、
世界のために、
ひざまずいて、平和を祈れ。
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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第6章「世界宗教への道」
○仏教とキリストの比較
神と仏という論点に関しては、大きく言えば、キリスト教と仏教との違いと考えてもよいでしょう。
キリスト教とは、「目に見えぬ神が、その一人子であるイエス・キリストを地上に遣わしたのである。そして、その主なる神のことは、キリストを通し、彼の教えを通してのみ知ることができるのだ」という思想でしょう。
これに対して、仏教のほうにはキリスト教の神に当たるものがない、というように言われます。ですから仏教は、西洋の宗教学者からは、よく無神論だと批判されます。
しかし、そう断ずる前に、釈迦とキリストの悟り、あるいは目覚めの違いというものを、じっくりと考えてみなければならないでしょう。
イスラエルの地においては、旧約聖書の時代から、預言者が次々と出て、神の言葉を預かって人々を指導するという流れがあり、イエスもまたその流れのなかの一人でした。しかも、そのなかの最大なるものの一人であったといってよいでしょう。イエス以前で最大なる者は、もちろんモーゼでありましょう。ヤハウェの神から「十戒(じっかい)」を授かったモーゼです。同じく砂漠の地帯において、後代にはマホメットが出ておりますが、彼の場合には、ヤハウェがアッラーの名で啓示を送っています。
このような啓示のスタイルの宗教は、宗教としては非常に確立された、ある意味でスマートなものです。というのは、信仰とは本来完璧、完全を求めるものであるにもかかわらず、地上に降りた人間自体を神にしてしまいますと、人間としての属性そのもの、肉体的な束縛から来る不自由さ、あるいは不完全さというものはどうしても残りますから、その人間性のところにつまずくことがあるというわけです。
ところが、目に見えぬ神が、あの世、霊界にいて、その人が遣わした人を通じて人びとに教えを説いているということになれば、たとえそのなかに少々の問題やつまづき、あるいは生きている人間の指導者に間違いがあったとしても、神の無謬性(むびゅうせい)―神は決して間違えない。という無謬性に傷がつくことはないわけです。「神というのは完全無欠のものであり、それを伝える人間の個性の差によって、多少、変化はするけれども、神そのものに責任は生じない」ということになって、信仰を立てるにはまことに都合の良い形態になっていると思います。
一方、仏教のほうははどうでしょうか。
仏教の「仏」というのは、結局、「悟りを開きたる者」ということです。ですから、根本は人間ということになります。
「仏」という字は、もともとの古い字では、「佛」と書きます。「にんべん」に「弗」と書きます。弗という字は、「非ず」という意味です。ですから、「佛」というのは「人に非ず」という意味なのです。人に非ずだけれども、「にんべん」が付いている。要するに、人間ではあるけれども人間ならざるものになった人、これが「佛」です。(諸橋轍次〈一八八三~一九八二〉の説、中村元・三枝充悳共著『バウッダ・佛教』〔小学館〕による)
したがって、神と仏の違いとは、「神というのは、目に見えぬ存在として霊天上界にあって地上に出てこないものであるけれども、仏というのは、地上に出てきて、現に人間修行をしながら、悟りによって人間ならざるものになったものである」ということです。
これだけをとりますと、後者は、もちろん自力論が主体で、あの世の神をまったく認めなくなてもよいようにとれないこともありません。超人が出て、その超人の指導のもとに生きればよいということになって、あの世の神のことを言わなくてもよいように見えるかもしれません。
仏教も、そのように誤解されている面も数多くあります。ただ、厳密に仏典を読んでみますと、必ずしも仏教は無神論ではありません。
たとえば、インドには伝統的なインドの神様がたくさんいます。これらと仏陀の教えとは両立共存していたのです。これははっきりしております。
たとえば、小乗仏教の経典である『阿含経』にも、大乗仏教の経典である『八千頌般若経』にも、帝釈天と言われるインドラ(あるいはシャクラ、カウシカ)が何度も何度も出てきて、仏陀の説法を聞いてよろこんで帰ってゆく。そういう構図が何度も何度も出てまいります。
インドの仏教における帝釈天は、その歴史的位置づけを見るかぎり、イスラエルの宗教におけるエホバ、つまりヤハウェに相当すると思われます。なぜならインドラはインド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』における最大の神だからです。元来、雷霆(らいてい)神の性格が顕著で、ギリシャのゼウス神に匹敵するとも言われます。しかも、本来九次元存在のマイトレーヤー如来(釈迦弟子の弥勒(マイトレーヤー)とは別人)のことを指します。後世の仏教神話では、欲界の第二天である忉利天(とうりてん)の主とされますが、俗化した民間伝承であり、そのままストレートには採用することができません。
ですから、仏典の記述をキリスト教にあてはめてみると、イエスが法を説いているところへヤハウェが見に来て、その話を聞いて大変喜んで、「イエスよ、あなたは本当に悟りを開いた。とてもめでたい」というようなことを言って帰る。というかたちになると思います。仏典成立に際して後世の創作や特別な意図が多少加わっているとしても、事情はキリスト教の聖書も同じであり、両宗教の創唱者の立場の違いと考えてよいでしょう。
それ以外にも、普通は梵天と言われることが多いのですが、インド固有の神様方がたくさん出てきて、釈迦の説法を一緒に聞いている場面が何度となく出てきます。
要するに、仏教は、神を認めないわけではなく、「神よりも仏の法が立場が上である」という見解になっているわけです。
インドの神様は、その長が帝釈天ですが、それ以外にも天神ディヤウス、大地の女神プリティビー、火神アグニ、酒神ソーマ、太陽神スーリヤ、暁の女神ウシャス、風神パーユ、河川の女神サラスバティ―(弁財天)などの神々がいて、多神教になっています。
キリスト教のほうでこれに似たものがあるかと言えば、やはり天使たちがこれに当たりましょう。天使たちが数多くいて、ミカエルを筆頭とする七大天使から平天使までいろいろな格付けの天使がいますが、天使たちが数多く舞い降りてくるというかたちが、非常によく似ていると言えましょう。
こうしてみると、キリストと釈迦との霊的な位置づけ、霊格の問題になるのではないか、という論点が一つあるわけです。
要するに、地上に降りた釈迦の説法を、天上界にいる神と言われる霊存在が、聴きに来て、それで満足の意を表する、よろこびを得ることがあるということはどういうことかと言うと、地上に降りている釈迦という存在の本来の霊格が、悟りを開いた以後においては、実在界、霊界にいる神格を持ったものよりも上である、ということを意味しているわけです。
一方イエスの場合ですと、父と子という言葉があるように、明らかに自分よりも霊格ないし霊位の高い霊存在が、現に天上界にいる。しかも、それは本当の意味においての造物主ととらえるべきではなく、人格を持った神であるということが、旧約及び新約聖書を読むかぎり明らかなわけです。
なぜなら、あるときは怒って人間を罰したり、その信仰を試したり、契約したりする神だからです(アブラハムやヨブの話を参照)この、イスラエルにおける神は、明らかに人格を持っている。人格を持っている神が、イエスより高い霊格あるいは霊位を持った神として存在している、ということがわかるわけです。
こうしてみると、もし仏教とキリスト教という世界の二大宗教を厳密に比べてみるならば、西洋人にとってはなかなか承服しがたいことかもしれませんが、釈迦の霊格そのものが、イエスの霊格よりも若干高かったのではないかということが、ここで推定されるわけです。
【大川隆法『宗教の挑戦』第6章「世界宗教への道」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■御生誕祭の宗教的意義について
〇御生誕祭は、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生のご降臨への感謝と、報恩としての伝道の誓いを捧げる、幸福の科学における二大祭典の一つです。
主のご降誕に対し、心からの感謝を捧げ、主への信仰を深める日
――根本仏にして地球神エル・カンターレの御降臨は、慈悲であり奇跡そのものです――
〇御生誕祭は、主と魂の契りを結ぶ霊的な場です。そして、主への報恩として、弟子としての使命を果たす誓いを捧げる場でもあります。誓いを立てることで、信仰は本物となります。
〇主エル・カンターレ大川隆法総裁先生は、1956年7月7日朝7時頃にご生誕されました。「7」という数字は、天上界において、「勝利」と「完成」を意味します。ご生誕の「777」の数字には、悪魔を象徴する「666」にすべての面で凌駕する「勝利の宣言」が込められています。主は、この世の一切の悪なる勢力に勝利し、地球ユートピアを建設されるために、ご降臨されたのです。
〇主エル・カンターレのご本体の御降臨は、3億年前のアルファ様、1億5千万年前のエローヒム様に続き、地球の歴史上3度目に当たります。地球神であり、根本仏でもあられる主は、天上界では光そのものであり、本来、肉体を持たれてはならないご存在です。
・今世は、大川隆法総裁先生というお姿を通して、エル・カンターレのお姿をかいま見ることができる、歴史上ほんの一瞬の、稀な機会なのです。
〇本仏が下生される時代は、人類にとって危機の時代であり、同時に、新時代の幕開けとなる希望の時代です。主のご降臨そのものが、人類に対する最大のご慈悲なのです。
〇御生誕祭は、主がご降臨された奇跡の時代に、主と共に生まれ、主と共に救世活動ができることへの感謝を捧げ、エル・カンターレ信仰を深める大切な日なのです。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(7/7-1)188【主の御生誕日1956年7月7日】『正義の言葉「仏説・降魔経」について考える ⑤悪魔の軍隊 二 嫌悪―信仰の名の下に勝利以外の結果はないと知れ
