(6/15-1)166『解脱の言葉「仏説・八正道」』について考える ⑱正念―仏道修行に専念すること―人は支え合って生きている―心の法則を究めて生きる

『解脱の言葉「仏説・八正道」』

14 偽我とは何か。蝶(ちょう)に似た蛾(が)にも似て、皆に知られると「ガッカリ」されるあなたである。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

伊勢支部にて映画『ドラゴン・ハート』を14:00~映画上映会を開催いたします。
是非この機会に入会・三帰へと導いてまいりましょう。

7月7日は主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

7/6(日)~13(日)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/6(日)と7/7(月)は、両日とも13 
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、常に主と共にあるために、教典『大悟の法』から第5章の「常に仏陀と共に歩め」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。主の御生誕祭に向けて、さらに神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■常に仏陀と共に歩め
6 縁起の理法
○人は支え合って生きている

縁起の理法には空間的な面もあります。

人はお互いに支え合って生きています。そういう空間の中を生きているのです。

「人」という字は、二つの束ねた麦わらが支え合っている姿をかたどったものだともいわれていますが、この文字の形が示すとおり、人は相支(あいささ)えている存在です。夫婦でも、親子でも、友人でも、あるいは職場においても、支え合って生きています。これを「相依性(そうえせい)」といいます。【※関連用語「依他起性(えたきしょう)」この世のすべての現象が、原因と条件(因縁)によって生じるものであり、その現象は私たちが心で認識しているにすぎないと説くものです。つまり、外部に客観的な実体は存在せず、全ては心の中で生じたもの(縁起)として認識されるという考え方】

このように、「人はお互いに依存し合って生きている存在だ」ということを知らなくてはいけません。

それはちょうど、日本とアメリカの貿易が連鎖していることにも似ています。日本がアメリカに物を安く売れば、日本人にとって利益になるだけではなく、アメリカの人びとにとっても利益になります。そのように、連鎖し、お互いに関連し合って、世界が発展し、繁栄しているのです。

こうした商業行為における縁起がありますが、人間関係においても同じことが言えます。

人がこの世に生きるということは、この世の空間におけるお互いの関係論のなかを生きるということ、すなわち、「空間縁起」のなかを生きるということにほかならないのです。

そして、人が支え合って生きているということは、この世のなかに愛の原理が働いているということを意味しています。

人は、原因・結果の縦の連鎖のなか、時間の流れなかにおいて、責任を持って生きなければならない存在であると同時に、横の広がりである空間のなかにおいて、お互いに支え合って生きている存在でもあるのです。

これは、前述した、慈悲の行為としての伝道につながっていく面もあります。「お互いに支え合って、この時代を創り、社会をつくっている。だから、多くの人を救わなければいけないのだ。ということです。空間縁起から言っても、伝道は非常に大事な行為なのです。

それは、伝道する相手をよくするだけではなく、同時に自分が住んでいる世界をよくすることでもあり、自分自身をよくすることでもあります。そして、自分をよくすることは、ほかの人もよくしていき、それはまた、自分が住んでいる世界もよくしていきます。このように循環していくのです。さらに、それは未来をもよくしていきます。

要するに、空間縁起とは、「重重無尽の人生である※」ということなのです。
【※重重無尽=あらゆる物事が相互に無限の関係をもって互いに作用し合っていること。 
この関係を一と十の数で示し,一の中に十があり,十の中にもまた十が含まれるとする。 十十無尽ともいう。因陀羅網 
(因陀羅網、帝網、インドラの網とも言われる) 
は、仏教、特に華厳経の教えにおいて、世界が無限に繋がっていて、互いに影響し合っていることを象徴する言葉です。帝釈天 (インドラ) 
の宮殿にある網の目に宝珠が飾られており、その宝珠が互いに映し合い、無限に広がっていくことで、その無限の繋がりを表現しています。】

魚を獲る網は、縦と横のロープが結び合ってできています。その十文字(じゅうもんじ)になっている結び目のところが、いわば各人の個性の部分です。それぞれの名前を持っている、その個性の部分が、結び目のところに当たるわけです。

結び目は、一つひとつ別のものではありますが、お互いに縦横の十文字をつくり、一つの網になって初めて、「魚を獲る」という使命を果たすことができます。

そのように、人間は、共同生活をしながら大きな使命を果たしているのであり、自分一人だけ、結び目一つだけでは仕事ができないのです。

この縦横に全宇宙的に結びついているものを、「インドラの網」(帝釈網・たいしゃくもう)ともいいます。

各人は、大きな網の一部であって、独立して個人でもありながら、同時にすべてのものと結びついているのです。

そして、その網をつくっているもの自体は、大宇宙の真理であり、大宇宙の仏の心なのです。

人は、全体のなかの一部でもあり、一部でありながら全体でもあります。
【※フラクタル(fractal)とは、フランスの数学者ベノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念で、一部分を抜き出しても全体と似た形になる「自己相似性」を示すものをいう】
一人でありながら一人ではなく、大勢でありながら、また個人でもあります。それが真実の人生なのです。

7心の法則を究めて生きる

心の法則を中心に、「自由と平和」「智慧と慈悲」「縁起の理法」などについて述べてきましたが、実は、これはすべて仏陀の悟りなのです。仏陀の悟りを現代的に説いたわけです。

したがって、心の法則を究めて生きようとすること、心の法則を学び、それを実践して生きることが、すなわち、「仏陀と共に歩む」ということなのです。

仏陀も、その道をかつて歩み、そして、いまも歩んでいます。心の法則を究めているかぎり、仏弟子として、仏陀と共に歩んでいることになります。「常に仏陀と共に歩む」という姿勢は、常に己の心を見つめ、心を磨き、心の法則に気をつけながら生きていくということでもあるのです。

本章で述べたことが伝道のよいきっかけになることを祈ります。(完)

【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
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さらに、
第七は 『正念』なり
一切の 邪念を 排し
一筋に 仏の 道を 求むべし
仏道 修行に 専念せよ
心を 深く 集中させ念いを 必ず 実現せよ
仏の 悟りを 目指しては
片時も 仏陀の 教え 忘れるな

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The seven step is ‘right will’
Abandon all evil thoughts
And seek the way of Buddha
With all your heart
Devote yourself to this discipline
Concentrate deeply in your mind
To realize your wish
Aiming for the enlightenment of Buddha
Never forget these teachings
Even for a moment

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正念というのは、「仏道修行に専念すること」というのが、ポピュラーな考え方です。

そして、念いを集中させるということから派生するものとして、祈りによる自己実現もあるでしょうし、正しい自己実現的な思いもあるでしょう。

それから、正念の解釈として、「正しい記憶」、つまり教えをしっかりと心に刻んで記憶することが正念だ、と説く場合もあります。

さらには、正念には「仏を念(ねん)ずること」でもあります。
「念仏」というのは、現在では、「南無阿弥陀仏」という文句を称(とな)えることのようにも思われています。しかし、念仏という言葉のもともとの意味は、「仏を念う」ということであって、仏陀の姿を心にいつも念い描くことです。それがやがて、「南無阿弥陀仏」を称える「口称念仏」のほうに変わってきていますが、もともとは仏を念い浮かべることなのです。

ですから、間違った道に入りそうになったら、心に仏陀を思い浮かべ、仏陀のことを念ずれば、その悪から遠ざかることができるということです。

たとえば、目の前に、ダイヤモンドの指輪が転がっていたとします。「持ち帰ってしまおうか」と思ったとしても、仏陀の姿を思い浮かべることによって、そうした悪から遠ざかることができるわけです。

このように、時どき、仏の姿を念ずることによって、悪から遠ざかり、心を修行に集中させるということは大事なことです。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
この経典は、もともと会内経典でしたが、HSU開学を前に、一般書として書店でも頒布されている大変ありがたい経典です。お持ちでない方は是非拝受ください。【税抜き1500円】
主におかれましては、正念についてこのように教えていただいています。
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〇八正道の第七―「正念」
・正念のさまざまな内容
正念については、「正しい気配り」という言い方をする人もいれば、「正しい集中力」という人もいるし、「正しい記憶」と言う人もいます。このように、いろいろな言い方があります。

正念の内容として、「正しい記憶」と言われると、「どういうことだろう」と思うかもしれませんが、昔は、今と違って、テープレコーダーもなければビデオもなく、ノートもなかったので、弟子たちは仏陀の説法の内容を覚えなければいけなかったのです。

そのため、実を言うと、「正しく記憶する」ということは非常に大事なことだったのです。仏陀がどういう説法をしたかということを覚え、それを暗唱できなければいけなかったわけです。・・・

昔は、雑情報が入らなかったというか、ほかに勉強することがなかったという事情もあるのでしょうが、当時の弟子たちは仏陀の基本的な説法の内容を覚えたのです。・・・

みなさんは、私の説法を聴き、家に帰ってから、それを全部、再現することができるでしょうか。無理でしょう。釈迦弟子たちからは、「みなさん、頭が悪いですね。一時間ぐらいの説法なら、私たちは、それを全部、再現できますよ」と笑われることになります。

釈迦弟子たちは非常に頭がよく、聴いた説法を全部覚えて、そのとおりに再現できました。そして、四百年も五百年もたってから、それが経典になっているわけです。もちろん、経典には、あとで付加された部分もありますが、彼らは説法を丸ごと覚えて復唱することができたのです。

彼は、聴いた説法を忘れないために、禅定をしながら復唱していました。「こういう話であった」ということを、何回も、くり返し復唱して覚えたのです。

したがって、正念というのは、勉強でもあり、非常に大事なことでした。

いまでは、文明の利器が発達しているため、人々は記憶力が悪くなっています。情報が多くなったということもありますが、記憶力も悪くなっているのです。

正念は、もともとは、そういう「正しい記憶」ということでした。

ただ、一般的には、「正しい注意力」ということであり、「いろいろなことに注意し、気をつけて修行しなさい」ということなのです。

「いろいろなことに、きちんと気をつけなさい。身の回りのこと、他の人の修業している姿や言葉、あるいは、立ち振る舞い、作法などに気をつけなければいけない。道を歩くときには、生き物を踏みつぶさないように気をつけ、托鉢するときにも、いろいろ気をつけなければいけない」ということです。

そのように、正念を「正しい注意力」と言ってもよいと思います。そういう解釈もありますし、それも実際に行っていたということでしょう。

さらに、もう少し時代が下ると、正念が、念仏の意味、「正しく仏を念う」という意味に変わってくるようになります。これは、直接に仏陀に合うことができなくなった時代のものであることは明らかです。直接会うことができないので、仏のことを念って、瞑想に入るわけです。これが念仏のもともとのかたちです。

その後、しだいに、その念仏が、「南無阿弥陀仏」と言葉を称えるかたちに変わっていきますが、もとは、「仏のことを念う」ということが念仏であったのです。

このように、正念には、記憶、いろいろな気配りや注意力、念仏といった、さまざまな考え方があります。

〇四念処(しねんじょ)
それ以外に、正念の内容として、「四念処」といわれるものがあります。これは後世に整理されたものだと思います。

四念処とは、「四つの念ずる処」ということであり、「身・受・心・法」の四つを言います。

「身・しん」とは体のことであり、「体は不浄であり、穢れている」ということです。「ゆえに、このようなものに執着してはいけない」というわけです。体じゅうの穴という穴から、いろいろな粘液や汚いものがたくさん出ますし、垢もでます。「体というものは、きれいなものではない。体は不浄である」と見て、執着、欲望を断とうとするのです。

「受・じゅ」とは感受作用のことです。「受は苦である。感受作用によって感じるものは、みな苦痛である」ということです。

「心」とは心のことであり、「心は無常である」ということです。「心というものは、とどまっていることがなく、常に変化変転してやまないものである。心は、常なるものではなく、移り変わっていく、そういう無我の性質を持っているものなのだ」ということです。

「法」とは、「教え」という意味ではなく、「物体」という意味です。インドの言葉では、法のことを「ダルマ」というのですが、ダルマにはたくさんの意味があり、そのなかには物体という意味もあるのです。

これは、「この世の物事は、すべて無我である。我なるものはない。真なる実体は、実はないのだ。この世のものは無我なのだ。法は無我である」ということです。

すなわち、「建物や、さまざまな財物などに執着しても、そういうものは、本来、自性がない。自性があるものは、ずっと存在し続けるけれども、自性がないものは、やがて滅びていくものであり、執着しても、しかたがないのだ」ということです。

このように、「身・受・心・法」の四つを念ずる「四念処」というもがあります。「身は不浄である。受は苦である。心は無常である。法は無我である」と、否定的な内容が続いています。

これは結局、最初に述べたとおり、「この世が生きやすくてしょうがない。肉体に関することが楽しくてしょうがない」という考え方を否定しようとしているのです。

この四念処を正念に入れる場合もあります。

ただ、これは後世に成立した考えかたであり、念に関する問題を整理し、まとめて、正念に入れたものだと思います。

この四念処を行うと、それなりに執着が取れて、最後の「正定」に入りやすくなるので、そのように正念を捉えてもよいと思います。

【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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正念とは、仏の姿を念い描くこと。
この解説で「おもい」という言葉を「念い」と表現されていますが、「おもい」とは、私たちが心に描くビジョン(像)のことです。

私たちとは、いったい何者であるのかを考えるとき、私たちの「おもい」の集合体が私たち自身であるといえます。
例えば、赤色と聞いて、「いちご」を連想するなども「おもい」の一種です。この「おもい」は「思い」→「想い」→「念い」というように、おもいや考えの強さによって表現に違いがあります。「思い」が先ほどの赤色からイチゴを連想したように、周りの環境から刺激や影響を受けて働く心の作用です。

次に「想い」となると、考え方に持続性と物語性が出てきます。自分の未来を想像したり、他人の行く末を予想したりするなど、映画やドラマのように継続するビジョン、「思い」という静止画が連続写真となって動画になるような働きが「想い」です。

そして、「念い」のレベルまで行くと、心に描くビジョン(像)が継続化され、習慣化されたものになります。ここまでくると、「念い」が形ないものから形あるものへと具現化されて、思考が現実化するレベルになります。

ここで大切なポイントは、正念という強力な心の力は、正精進という、精進の力を仏の臨む方向に継続して展開する習慣化の力によって現実化するという点です。念いの力は、中立的で、よき念いも悪しき念いもともに実現します。正念において、正しさが必要なのは、念いが仏さまとともに自己発揮する点においては、それは強力な心の力となる、一方で、神仏から離れた念は、その強力な念によって実現したもの自体が、自分を滅ぼし、他を傷つける結果となってしまいますので、とても注意が必要となります。

だから、正しい心の使い方としての「正念」に到るまでに、「正見」「正思」「正語」「正業」「正業」「正精進」の六つの精進が必要になってくるのではないかと思います。日頃考えている私たちの念いが、神仏に祝福されるものであるかを常に反省いたしましょう。

また、本日の学びでは、正念とは「身・受・心・法」の四つを念ずる「四念処」であるとも教えていただきました。「身は不浄である。受は苦である。心は無常である。法は無我である」ことを念することも正念であると学びました。【これに関連する観法として「五停心観」があります】
・人間の本質は魂であり、肉体は不浄である【身】
・肉体感覚がもたらすものは「苦」であるとする【受】
・魂の中心にある心は無常である【心】
・すべての存在は無我である【法】
これも重要な修法なので、日々実習しましょう。

幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。それが、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つからなる仏へ道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。

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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第4章「霊界案内」
〇夢―睡眠中の霊界探訪

みなさんは、夜寝ているときに、よく夢を見るでしょう。夢には明らかに二種類あります。

一つは、この世の現実に即した夢です。すなわち、前の日に経験したことや体験したことが原因になって、空想的に繰り広げられる夢というのがあります。

もう一つ、おそらくこれとはまったく関係がないと思われる夢があるのです。
この二番目の夢の特徴は、空間移動を伴うことが非常に多いということです。夢のなかで空を飛んだことがある方は数多いはずです。いつの間にか羽が生えて空を飛んでいたり、手をバタバタさせながら空を飛んだりします。あるいは悪夢と言われるようなものになってくると、いろいろなものを追いかけながら、空を飛んだり地上を走ったりと、スペクタクルのように展開することもあります。

悪夢ですと、脂汗(あぶらあせ)をビッショリかいたりします。逆に、よい夢ですと、本当にさわやかで清々しく、夢のなかで伸び伸びと飛び回っていて、目が覚めると、「ああ、残念だったなあ」と思うことがあります。

この二番目の夢の面白いところは、夜中にいったん目が覚めて、「ああ、夢だったのか」と思って、しばらくしてまた眠り始めると、不思議なことに、もう一度その夢の続きを見ることがあるということです。そして先ほど会っていた人たちと同じような人と会います。また、恐ろしい夢ですと、途中で目が覚めてほっとしていたのに、またその続きを見てゆきます。

この二番目の夢のときは、いったいどういう状況になっているのでしょうか。

人間は、ちょうど繭(まゆ)のなかに入った蚕(かいこ)と同じようなものであって、肉体が繭に当たり、そのなかの蚕に当たるものが霊体と言われるものなのです。この霊体は、肉体が死んだときにのみあの世に還るわけではありません。みなさんが睡眠をとっていて夢を見ているとき、霊体は、往々にして肉体から離れています。

「肉体から離れたら、もうこの世には還ってこられず、死んだことになるのではないか」と思われる方もいることでしょう。しかし心配はいりません。霊体となって肉体から抜け出しているみなさんは、ちょうど肉体の後頭部から出ている銀色の細い糸によって肉体と繋(つな)がっています。これを霊子線と言います。この細い糸が切れずに何百メートルでも、何キロメートルでも伸びてゆくのです。これがついているかぎり死んでしまうことはありません。

そして不思議なことに、霊的な体験を積んでゆきますと、睡眠時間中に身体を抜け出してあの世に行ったときに、親類縁者、友人たちなど、同じく睡眠時間中に身体を抜け出してあの世に来ている人たちと、いろいろなところで会うことがあります。彼らがあなたのことを気にしていて、あなたも彼らを気にしていると、肉体から抜け出し、あの世で引き付けあうのです。そして、「あれ、まあ」というかたちで会うことになるのです。

このように、地上にいる人の魂と霊界で会うこともありますが、たいていの場合は、あの世で生活している人たち会います。そして、いろいろな話をしたり、一緒に行動したり、楽しい意見をしたりしているわけです。しかし、目が覚めた後は、そのことがよくわからないで、霊界であった人たちのことを、この世の人と間違え、そのように翻訳しなおして思い出したりすることもあります。しかし、気がついてみると、みなさんが地上で生活しているときには実際は知らない方が、そのなかに入っているということがよくあります。

ですから、霊界の感覚がわからないという方は、まず夢のなかの世界を思い出してください。すべての夢が当てはまるわけではありませんが、あまりにもありありとした夢があります。空間を移動する夢などは、その感じが実によくつかめます。低い高度から高い高度へ空を飛んだりするときの夢というのは、ほとんど霊界に言っている夢です。

しかも、時おりカラーの夢を見ることがあります。カラーの夢を見ることができる人は、十人に一人しかいないとも言われていますけれども、総天然色で見る夢の場合には、霊界に行っている可能性が極めて高いと言ってよいでしょう。

【大川隆法『宗教の挑戦』第4章「霊界案内」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■御生誕祭の宗教的意義について
〇御生誕祭は、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生のご降臨への感謝と、報恩としての伝道の誓いを捧げる、幸福の科学における二大祭典の一つです。

主のご降誕に対し、心からの感謝を捧げ、主への信仰を深める日
――根本仏にして地球神エル・カンターレの御降臨は、慈悲であり奇跡そのものです――

〇御生誕祭は、主と魂の契りを結ぶ霊的な場です。そして、主への報恩として、弟子としての使命を果たす誓いを捧げる場でもあります。誓いを立てることで、信仰は本物となります。

〇主エル・カンターレ大川隆法総裁先生は、1956年7月7日朝7時頃にご生誕されました。「7」という数字は、天上界において、「勝利」と「完成」を意味します。ご生誕の「777」の数字には、悪魔を象徴する「666」にすべての面で凌駕する「勝利の宣言」が込められています。主は、この世の一切の悪なる勢力に勝利し、地球ユートピアを建設されるために、ご降臨されたのです。

〇主エル・カンターレのご本体の御降臨は、3億年前のアルファ様、1億5千万年前のエローヒム様に続き、地球の歴史上3度目に当たります。地球神であり、根本仏でもあられる主は、天上界では光そのものであり、本来、肉体を持たれてはならないご存在です。
・今世は、大川隆法総裁先生というお姿を通して、エル・カンターレのお姿をかいま見ることができる、歴史上ほんの一瞬の、稀な機会なのです。

〇本仏が下生される時代は、人類にとって危機の時代であり、同時に、新時代の幕開けとなる希望の時代です。主のご降臨そのものが、人類に対する最大のご慈悲なのです。

〇御生誕祭は、主がご降臨された奇跡の時代に、主と共に生まれ、主と共に救世活動ができることへの感謝を捧げ、エル・カンターレ信仰を深める大切な日なのです。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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